悪戯の行方、授業の成果8
ぺんぺん、と蓮二が弾いた三味線の音に、紅梅は背筋を伸ばし、膝を曲げる。和服の袖のついたローブを整え、裾の位置を調整した。
「高いところは平気だったか、お梅」
「へぇへぇ、そらもう、えろぅ苦手!」
紅梅は厄祓いをするかのように威勢よく言い、苦笑した。
京都には高い建物がないし、紅梅は遊園地の観覧車ですら乗ったことはない。さきほど箒で飛んだ時も、すっかり参ってしまった。
「そやし、見んかったらよろしおすのや」
──見んでも舞えるし。
と、紅梅は一瞬だけ自分の足元を見て、どれだけ足場があるのかだけを把握すると、真っ直ぐ前を向いた。
ぱらり、と、舞扇が開かれる。
演目は、上方舞のひとつ、地唄『からくり的』にした。コミカルな動きが多いが、そのぶん舞手の力量も試される、“作物”と呼ばれるジャンルに属した舞だ。
からくり的、とは、弓矢や吹き矢などで矢が的に当たると、様々な種類の人形が現れる仕掛けになった見世物の玩具のことで、祭りの時などに、香具師が運んできていたという。
この演目では、舞手は、いわゆる「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい」という呼び込みを経て、からくりから現れる様々な人形、馬上の武者、道成寺の清姫、廓を抜けた遊女と頬被りの男などを、多種多様に、次々に舞い分けていく。
「──面白や 人の行来の景色にて 世はみな花の盛りとも」
紅梅が、歌いながら舞う。
舞手が歌いながら舞うことは普通ないが、あいにく、さすがの蓮二も、地唄の稽古までは受けていない。
それに、生粋の京魔女である紅梅が歌うそれは、魔力の篭った呪文となって、風に乗って流れていく。
「的の違わぬ星兜 魁(さきがけ)したる武者一騎 仰々しくも出たばかり」
はるか上空には、トロールを殲滅するべく構える、弦一郎がいる。
彼がしくじることはない。そう言った。──二度はない、と。
だから紅梅は何の心配もせず、ただ舞う。
「そりゃ動かぬわ引けやとて かの念力に現れし 例の鐘巻き道成寺」
紅梅は、足元を見ない。トロールも見ない。誰も見ない。もはや空も見ていない。
己の舞だけに、唄だけに、──魅了の魔法にのみ集中する。紅梅が舞うたびに、神も魔も惹き寄せる魔力が広がって、トロールが興奮して雄叫びを上げる。塔が、びりびりと震える。
だがしかし、紅梅は微塵も動揺することなく、目眩がするような高い塔の上で、ただ軽やかに、客寄せの舞を舞い続ける。
「祈らぬもののふわふわと なんぼうおかしい物語 それは娘気これはまた 曲輪をぬけた頬冠り」
蓮二が三味線を爪弾きながら、目を開けて、薄っすらと微笑んだ。
「鬼さん、こちら! ──ってね!」
あえて明るい声を出しながら、清純はトロールを誂うように飛ぶ。
箒の先端に括りつけた紅梅のリボンの効果は覿面で、近くを飛ぶたびに、一目散に紅梅を目指しているはずのトロールの意識が、思い切り逸れるのだ。
ぶぉん、と振られた大きな棍棒をすいすい避けて、蓮二から“弱点”と聞いている頭付近を飛ぶ。トロールの吐き出した息の臭さに、おえ、と清純は一度嘔吐いたが、幸い、箒で飛ぶことで、空気はすぐに流れてゆく。
授業で飛んだだけだが、元々、運動神経は申し分ない。器用な清純は飛ぶうちにさらにコツを掴み、壁面を滑るように跳んだり、宙返りをしたりして、紅梅のリボンのにおいを撒き散らし、トロールをまんまと撹乱してゆく。
一歩進ませては二歩下がらせ、二歩進ませては一歩下がらせてという感じで、清純は、蓮二の期待をはるかに上回り、非常に上手くトロールを誘導していた。
「──おやまの跡の色男 立ち止まりては危なもの」
「うわっ、とぉ!」
トロールの棍棒が箒の穂先に当たりそうになり、清純は慌てて避けた。
「聞き惚れてる場合じゃないんだけど」
と、苦笑する。
紅梅の“魅了の魔法”は、話に違わない効果のようだ。その歌声が耳に入り、ひらひらと舞う扇の先が目に入ると、思わず意識を奪われてしまう。
「時間があったら、じっくり見たいなあ」
そしてトロールにもその効果は覿面のようで、一旦動きを止め、じっとそれに見入っている個体もいる。
「そろそろ十分、……と」
少し距離を取り、清純は、頂上で舞う紅梅を目指して塔を登る、醜悪なトロールを眺めた。
「五匹。──真田くんのことだから、一匹増えても大丈夫かもしれないけど」
念のためやっとくかな、と清純はつぶやいて、先程から観察して、一番鈍そうな個体に近づいた。
「さあ来い、ウスノロ!」
紅梅のローブを括った箒が頭の周囲を回り始めると、そのトロールの動きは、完全に紅梅から逸れる。
頭の悪いトロールは、さっと通れば気が逸れるだけでも、一定時間留まると、完全にターゲットを変えてしまう。
清純はそれを利用し、塔をよじ登るのを遅らせたいだけの時はひゅんひゅんと辺りを飛び回って撹乱していたが、一匹に狙いを絞り、完全に自分が標的になるまで、頭の周囲を飛んだ。
紅梅のリボンをひらひらさせながら頭の周りを飛ぶ清純に、トロールは簡単に、そして完全に激昂した。
激しい雄叫びを上げながら、棍棒をぶんぶん振り回し、清純を叩き落とそうとする。
「見つけられたる泡雪の 浮名も消えて元の水 流れ汲む身にあらねども 変わる勤めの大鳥毛」
紅梅の唄と、蓮二の三味線の音が聞こえる。
その音でリズムを取りながら、清純は、これ以上ないタイミングで、トロールが振り上げた腕の間を、一気加速でまっすぐに抜けた。
──ボグッ!
「ラッキー!」
思い通りの結果に、清純は片手でガッツポーズを取って、空中を旋回する。
頭すれすれを通った清純を叩き落とそうとしたトロールの棍棒は、嫌な音を立てて、自身の頭を思い切りぶん殴る結果になった。
ぐるん、と白目を剥いたトロールは、そのまま後ろに倒れ、下にある屋根の上に落ちた。轟音とともに吹き上がる瓦礫の粉塵を吸わぬよう、清純は自分のローブの袖を口に当てて、様子をうかがう。
「……馬鹿だとは思ってたけど、本当に馬鹿なんだなあ、トロールって」
瓦礫の中でピクリとも動かないトロールに、清純は呆れた声を上げた。
そして他のトロールを見るが、脇目もふらずに塔を登っている。仲間意識のない奴らだなあ、と、清純は、ノックアウトされているトロールから離れ、再び上昇した。
「台傘立て傘 挟みばこ みな一様に振り出す 列を乱さぬ張り肱の 堅いは実にも作り付け……」
こんなに離れていて、しかも上空にいるというのに、紅梅の唄は、不思議に響いてくる。
日本唯一の公式魔女というのは伊達ではないな、と国光は感心しつつ、しかし魅了の効果のあるその唄に意識を奪われ、高度を下げたりしないよう、油断せずに緊張を保っていた。
そしてそれは弦一郎も同じのようで、背中越しに、どんどん高まる魔力を感じる。
瞑想に近いことをしている、というのは、国光にもなんとなくわかった。こちらに来てからというもの、普通より多いと言われている魔力を制御することにばかり意識を働かせている面々だが、弦一郎は今、ありったけの魔力を練り上げることに集中している。
国光は知らないことだが、先日、精市の作った聖水にひたすら自分の魔力を詰め込み、練り込む作業をしたことが、はからずも練習になってもいた。
下を見ると、清純が非常にうまい具合に立ち回り、トロールの動きを誘導している。見事なものだな、と、国光は素直に感心した。
しかし、トロールは一進一退を繰り返しているとはいえ、随分上の方まで登ってきている。
「真田、そろそろ……」
「ああ」
低い、そして、ぐらぐらと煮え立つような声だった。
この声は、聞いたことがある。──弦一郎と、試合をした時に。
「準備は出来た。大事ない」
国光は、ぎょっとした。
なぜなら、視界の端に、濡れたようにきらめく白刃が姿を表したからだ。
数瞬の後、弦一郎が伸ばした腕、そして手に握られたそれが、彼の杖が変化したものであることを理解する。
弦一郎は、既に真剣での居合道の鍛錬も、毎日行っている。ホグワーツに来てからは真田家にいた時ほどのことは出来ていないが、それでも、真剣での素振りや、刀の手入れは欠かしていない。
いつもは、「物騒なものに杖を変化させないように」という決まりを守り、変化させても木刀。しかし毎日真剣と触れ合っている弦一郎にとって、集中さえすれば、杖を日本刀に変化させることも、それほど難しいことではなかった。
さすがに、匠の生み出した本物の刀と比べれば劣るのかもしれないが、真剣には違いない。
そして何より、今弦一郎の手に握られている刀は、ピーブズを殴打した時の十手と同じように、──いや、それよりはるかに強い様子で、バチバチと雷のようなものを纏っていた。
「チ……、雲が」
弦一郎が舌打ちしたとおり、凪いでいた空気が動き、雲を運んできていた。
流れる雲がまばらに塔の姿を隠し、視界を遮る。
「──さてその次は 鬼の手の ぬっと出したは見る人の 傘掴むかと思はるる」
雲の切れ目から、紅梅が扇から傘に変化させたその先端を掴もうと、雄叫びを上げながら、思い切り腕を伸ばしているのが見えた。
もう、タイミングとしてはぎりぎりだろう。
それを見た国光は、先程まで弦一郎がしていたのを真似て、魔力を高めた。
杖がなくては魔法は使えないが、現象を起こすことは出来る。今までは勝手に起こるそれらに振り回されてきたが、逆にコントロールすることは出来るはずだし、そして今まさに、それを成し遂げるべき時だ。
国光の魔力が渦を巻き、飛行術の最初の授業でそうなったように、風を起こす。
あの時は勝手に起きた現象だが、今は違う。国光が、自分の意志で、力を使っているのだ。
そして目の前に広がるのは、台風の目のように、ぽっかり円形に除けられた雲。
「それを笑いの手拍子に 切狂言は下がり蜘蛛 占良し日良しの道しるべ よい事ばかりえ……」
急に一箇所晴れた空に、蓮二が気付いた。
三味線を素早く箒に変化させ、紅梅を乗せて飛ぶ。トロールを警戒していた清純も、すぐにそれに続いて、塔から離れた。
準備が万端に整い、弦一郎がにやりと笑みを浮かべる。
「──礼を言う」
「構わない。……やれ」
「うむ」
ブオオオオオオ、と醜い雄叫びを上げて紅梅たちを目で追うトロールが動かぬうちに、弦一郎は息を大きく吸い込み、迷いなく、バチバチと雷を纏い、煌めく白刃を振り下ろした。
「──“Stupefy”!!」
──ズガァアアアン!!
ピーブズの時よりもはるかに大きな、雷鳴の轟音。
弦一郎が振り下ろした刀は、その刀身から、巨大な稲妻を放った。
そして空中で四本に別れると、四体のトロールすべての頭に直撃する。
塔にしがみついていたトロールたちは、叫び声を上げる間もなく、ここから見てもわかるほどの煙だか湯気だかを上げて、殺虫剤をかけられた虫けらのように、ボロボロと下に落ちていった。
「フハハハハハ!」
宣言通りに四匹のトロールを無効化した弦一郎は、そんな笑い声を上げた。
国光は、見なくてもわかった。ものすごいどや顔をしているに違いない。
「“Stupefy”、……確か、麻痺呪文だったはずだが」
まさに雷に打たれたかのように煙を上げているトロールを呆然と見遣りながら、国光は言った。
真面目な国光は、入学前に教科書は一旦すべて目を通しているし、闇の魔術に対する防衛術に関しても、例外ではない。
教科書によれば、いま弦一郎が使った“Stupefy”という呪文は、対象を麻痺させて行動不能に陥らせる、防衛術としてはよく多用される呪文である。
国光の記憶が確かなら、効果的ではあるが、割と一般的な呪文、と記載してあった。
少なくとも、こんな落雷──、天災を起こすような呪文ではなかったはずだ。
「うむ、麻痺呪文だ。相手を問答無用で戦闘不能にする、実に手っ取り早くて効果的な呪文だな」
弦一郎は、けろりと言った。
この男、もしかして、“麻痺”を“心臓麻痺”とでも捉えているのではなかろうか、と国光は思った。
麻痺、というのは、脳・神経や筋肉が働かなくなって、運動機能や精神作用・知覚機能が失われることという意味もあるので、間違いではないのだが。
呪文は魔法の発動キーであり、その言葉の意味をよく理解していれば、魔力をより効果的に射出できる。だが逆手に取れば、その理解が教科書が意図した通りのものでなくとも、呪文は発動するのである。
つまり、弦一郎が発した麻痺呪文は、喧嘩上等、戦馬鹿スピリッツ溢れる彼の、無駄に迷いのない意志により、本来よりもとんでもない効果の呪文になっているようだった。
「無事に事が終わって何よりだ。戻ろう」
「……ああ」
防衛術に関する自分の腕を発揮できたせいか、弦一郎は機嫌がいい。
国光は本来の麻痺呪文についての話をしようかとも思ったが、こんなに機嫌のいい弦一郎にそれを言うのはなんだか憚られたし、──国光としては珍しく、なんだかものすごく面倒くさい気分になったので、黙って一度箒を旋回させ、昇ってきた時よりも、ゆっくりと下に降りた。