悪戯の行方、授業の成果5
 一方、その頃。
 ハッフルパフとレイブンクローの一コマめと二コマめは、何もなかった。

 時間割は毎週いつも同じではなく、ひと月ごとに貼り出されるし、変更よくもある。だが、最初の授業が抜けているというのは、比較的珍しい。セドリック曰く、「どこかの授業で不都合が起こると、時々ある」とのことだった。

 週初めの最初になにもないというのは、普通の生徒や、特に宿題をやっていない生徒にとっては嬉しく、しかし生真面目な弦一郎や国光にとっては、肩透かしを食らったようで、居心地が悪い。
 しかしないものは仕方がないので、弦一郎と国光が未だ苦手な『変身術』についての訓練をすることにした。

 弦一郎は指を絆創膏だらけにした甲斐があり、無事にマッチを縫い針に変身させることが出来たが、次こそは躓きたくないという気持ちを強くしている。
 国光も同様で、こちらは想像力を鍛えるために、この間から、紫乃が勧める画集や図鑑を眺めたりしていた。
 清純は元々まち針に変えることはできていたので、習得はスムーズだった。問題だったのが予想外にも紅梅で、どうしても京訛りが抜けず、相当ゆっくり、ひとつずつしっかり発音しないと、ラテン語呪文で成功させることが出来ない。
 日本語──というか京ことばでの発動ならばもうすっかり大丈夫なので、逆に言えば、発音の問題だけだということでもあるのだが。

 先週は雨が続いていたが、今日はからりと晴れ渡り、地面も乾いている。
 弦一郎が朝稽古をする中庭が芝生で気持ちが良さそうなので、六人は、芝生の上、木陰にシートを広げて座り、予習をすることにした。
 だが一コマめに授業がないのは一年生のハッフルパフとレイブンクローのみ、しかも魔法使いは基本的にインドアな傾向があり、秋真っ盛りの気候は少し肌寒いため、他に人影はない。よって、六人だけで美しい緑の中庭を貸切状態という、なかなか贅沢なロケーションである。

「弦一郎、お前は想像力は十分あるが、偏っている。得意分野ならいいが、そうでない場合はとたんに駄目だ」
「うむ、自覚はある」

 蓮二の指摘に、弦一郎は殊勝な態度で頷いた。

「そして頭で考えるのではなく、体で、体験で覚えるほうが、お前は断然向いているようだ。手塚は逆のようだが」
 すぐ隣では、画集を眺める国光に、貞治が細々と解説して、理解を深める手伝いをしている。清純は逆隣で、また違うことを言っているようだ。
 貞治の解説はどうしても理詰め一辺倒なので、他のもっと柔らかい部分を、彼が担当しているのだろう。

「そこでおと話して考えたのだが──、弦一郎、落語は好きか」
「落語? いや、改めて見たことはないな」
 弦一郎は時代劇を愛好しているが、落語や講談などは、まともに見たことがない。
 かなり小さい頃に祖父とともにテレビで見て、その時あまり面白さがわからなかったので、以来なんとなく興味を持たないままだ。

「そうか。では、お
「へぇ。弦ちゃん、見ててな?」

 紅梅はきちんと正座をすると、彼女の杖である舞扇を取り出し、閉じたまま指で支えるようにして持つと、要のほうを、少し尖らせた唇に近づける。そして一瞬のあと、口元から扇を離して、ふー……と、やや上方向に息を吐いた。

「……煙草か?」
「惜しい。煙管や」

 そう言うと、紅梅の持っていた扇が、ボン、と煙管に変化する。
 煙草やったらもっと小そおすよって、持ち方がちゃうくなるやろ? と紅梅は言って、煙管を指に挟んだり、摘んだりして持ってみた。言うとおり、煙管は煙草よりもずいぶん大きいので、かなり無理がある。

「落語やと、こないするんよ」

 と、紅梅は言った。
 噺家が高座で使う道具は、扇子と手拭の二つだけと決められている。楽屋の符牒では、扇子を『かぜ』、手拭を『まんだら』と呼び、そしてその二つの道具だけで、様々なことを表現するのだ。

 扇子の場合は、閉じたままの状態で、煙管、箸、金槌、刀、 短刀、釣り竿、天秤棒、提灯など。少し開いて、徳利、包丁、剃刀、竿から船の櫓、算盤。そして開いた状態で、大きな杯や笊、団扇、さらに少しずつ開くことで、巻紙を読む仕草なども表現できる。
 手ぬぐいも、手紙、紙入れ、巾着、煙草入れ、焼き芋、塵紙など。たった二つの道具で、噺家は無限に近い表現をこなす。

「日舞は台詞がおへんよって、振付で全部表現するん。どういう場面なんかとか、心理表現とか、情緒の演出とか。落語は噺がメインやから、仕草だけでわからすんもそないあらへんし、踊りやのうてパントマイムいうか、動きがあからさまやけどな」
「ほう」
「だがそれだけに、いい練習になる」
 蓮二が言った。

「今からおが色々するので、想像して、何をしているのか当ててみろ」
「む」
「最初は、おに舞ってもらって、感想文や考察文でも書くのがいいかと思ったのだが……、弦一郎、それはまだ少し敷居が高いだろう?」
「……うむ」

 弦一郎は、きまり悪そうに肯定し、俯いた。
 実のところ、弦一郎は、紅梅の舞も、上手いのか下手なのかということさえ、未だによくわからない。最年少で名取になれそうというわかりやすい実績で、ああ上手かったのか、と思うくらいである。
 あの人間国宝・上杉紅椿の舞台でさえ、「なんだかよくわからんが、凄いということだけはわかる」という有り様だ。
 紅椿の舞台のチケットを必死で取るファンにしてみれば、猫に小判、豚に真珠だと、歯を食いしばって地団駄を踏むに違いない。

「しかし先ほどおが言ったとおり、落語の表現は直接的で、殆どパントマイムのようなものだ。元々が学の少ない民衆に向けた大衆演芸なので、非常にわかりやすい。まずこれを入門にしてみて、動きから実物を想像することに慣れたら、日舞の心理表現なども学んでみてはどうだろう」
「うむ……なるほど」

 非常に納得の行く訓練方法に、弦一郎は何度か深く頷き、「全力を尽くす。ありがとう」と言った。

「そない肩肘張らんでええんよ。──ほな、これは?」
 紅梅は煙管を扇に戻すと、左手で何かを持つようにし、少し身を屈め、扇を鉛筆のように持って、上下にゆったり動かした。

「箸。うどん……? 蕎麦?」
「ははは、そこまではわからんな」
 首をひねる弦一郎に、蓮二が笑う。
「しかしそうやって想像するのが練習になる。その調子でやるといい」
「うちも、お舞習い始めの時にこういうの、やりおしたえ。ゲームや思て、力抜いて。力んだらまた発想が凝り固まってまうよってな」
「むう、わかった」

 弦一郎は頷いた。
 そして、紅梅が扇と手ぬぐいを使って次々にしてみせる仕草を眺め、首をひねりながら、ああでもない、こうでもないとやり始めたのだった。



 弦一郎と国光の訓練を全員で手伝っているような形であるが、皆にとっても、得るものがないわけではない。
 データさえ取れれば良く、そしてその一のデータから十も百も知ることが出来るデータマン二人は言わずもがな、清純は弦一郎と国光の訓練にそれぞれ半々ずつ付き合うことによって得るものがあったし、紅梅も、こちらに来てから少なくなりがちな稽古の一環になった。

「……ひと通りやったか? では、弦一郎と手塚の訓練内容を交代してみるか」

 蓮二が提案し、二人が頷く。

「うむ。……それにしても、本来なら次の『闇の魔術に対する防衛術』についての予習をするはずのところなのだがな」

 いや、苦手な『変身術』の訓練はしっかりするべきものではあるのだが……と、弦一郎はぶつくさ言った。

『闇の魔術に対する防衛術』とは、本来、攻撃的な呪文や魔法生物に対する知識、そしてそれらから身を守るための呪文を訓練する科目である。
 基本的にかなりの体育会系、武闘派の弦一郎は、『飛行術』とはまた別の興味と期待を、この科目におおいに抱いていた。なのに、あのクィレルの授業ときたら──、というわけである。
 図書室に言った時、弦一郎が『闇の魔術に対する防衛術』の教科書や関係書籍を、不満気に、そしてうずうずするような顔でよく読んでいるのを、紅梅も知っている。
 絶対に向いていると周りからも言われ、そして自身が教科書に目を通した時も真っ先にその内容に惹かれ、密かに学ぶのを楽しみにしていたというのに、そのポテンシャルを試すことも出来ない今の現状に、弦一郎は不満があるのだ。
 太郎に頼み込み、今は彼から特別補修で基本の内容を習ってはいるが、やはりきちんとした授業を受けたい、というのが本音なのだろう。

「確かに。しかし、今日からは教室が綺麗な分、最悪自習は出来る。足りなければ、榊監督に頼んでみるのもいいだろう。昨日の様子なら、頼めば本格的なカリキュラムを組んでくれるはずだ」

 蓮二のその言葉に、他の全員も頷いた。
 弦一郎ほど特別な思い入れはなくても、いち科目が丸々無駄な時間と化している現状は、彼らにとっても、全く望ましくないことだからだ。

「……む? 何か、地響きが聞こえなかったか?」

 と、その時、弦一郎が、怪訝な表情で顔を上げた。
 他の者も同様で、きょろきょろとあたりを見回している。だが相変わらず中庭に人影はなく、他に異常なところも見当たらない。

 ──その時、枝をさわさわと揺らす風が吹いた。

「……なんや、くさい」

 下がり気味の眉を顰めた紅梅が、和服と同じ形のローブの袖で、口鼻を抑える。
 そうして真っ先に気づいたのは紅梅だったが、他の五人も、すぐその、風に乗って流れてきた不快な臭いを感じることが出来た。
 なにしろ、汚れた靴下と、掃除をしたことがない公衆トイレの臭いを混ぜたような、ひどい臭いなのである。僅かなものであっても不快な類の臭いだし、昨日さんざん腐ったニンニクと戦った身としては、“悪臭”というものに、それそのもの以上のアレルギー反応のようなものがあった。

「ホグワーツ城のほうが騒がしいな」

 怪訝な表情で、蓮二が言った。
 重厚な石造りの建築様式は殆ど音を通さないが、それでも確かに、たくさんの叫び声のようなものが聞こえる。
 異常事態が起こっている、ということだけは確かだと認識した六人は、警戒態勢を取り、それぞれの杖に手を添えた。

「ホグワーツ城に入ったほうがいいか?」と貞治が言ったが、何が起こっているのかわからない現状、むやみに動きまわるより、見晴らしが良く、四方に避難経路があるここにいるほうが良い、と弦一郎が断言したので、皆それに従う。
 何しろ、あれほどの武闘派で、同心・与力の家系、警察官の祖父、自衛官の両親を持つ弦一郎の言うことである。これ以上ない説得力があった。

 悪臭が、どんどん強くなってくる。
 たまらず全員が鼻を押さえ始めたその時、中庭と校舎を繋ぐ大きな通路から、低い、ブァーブァーというような──、大きな生き物の、唸り声のようなものが聞こえた。しかも、次いで、巨大なものを引きずるような音。

 六人がぴりぴりと神経を尖らせていると、その通路から、巨大なものが、ヌーッと姿を表した。

「トロールだな」
「目測で、四メートル一五センチといったところか。完全に成体だな。体格からして、岩山に住む野生と思われるが──、なぜこんなところに?」

 驚愕のあまり声も出ない面々に、冷静なデータマン二人が言う。

 二人の言ったとおり、それはトロールだった。
 ちょっとした家くらいある、ずんぐりした巨体。墓石のような、鈍い灰色の肌。全身を覆う岩石のようにゴツゴツとした筋肉は、全体的には人間に近い姿形なのに、明らかに人間のものではない。
 大きな身体で二足歩行を可能にするため、極端に短い脚は巨木のように太く、コブだらけの平たい足が付いている。体毛のない頭は異様に小さく、しかし腕が異常に長い。猿と同じように、あれでバランスを取って素早く移動できるのだろう。
 いかにも知能の低そうな姿だが、手には巨大な棍棒を持っていて、地面を引きずっている。ブォーブォーとトロールが声を上げるたびに、ひどい悪臭が広がった。

 唖然としていると、知性の欠片もない小さな目がこちらを見た上、後ろからもう一体のトロールがヌーッと出てきたので、六人はさすがに後ずさった。
 そして、二体のトロールはくんくんと鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐような仕草をすると、ブォーともウォーとも聞こえる吠え声を上げて、二体揃って、どしんどしんと近づいてきた。

「──逃げるぞ!」
「ふた手に別れろ!」

 弦一郎が叫び、蓮二が指示を出すと同時に、貞治と国光と清純、蓮二と弦一郎と紅梅の二手に別れ、それぞれ逆方向に駆け出す。
「貞治、そちらを頼む!」
「了解した、蓮二!」
 走りながら、データマン二人が叫び合う。
 何かといつも一緒にいる二人だが、こういう時はふた手に分かれてお互いの動きを読み合ったほうが何かと都合がいいのだということを、彼らはちゃんと心得ていた。

 トロールは知能が低いことが最大の特徴で、ホグワーツの試験の成績評価でも、最低評価として“T”、「トロール並」が使われているくらいである。
 だから獲物が二手に別れただけで混乱し、しかも巨体ゆえの歩幅があるだけで走ること自体はそこまで速くないので、時間を稼ぎながら障害物のないところを選んで逃げれば、捕まらないようにするのはさほど難しくない──というのが、データマンらの当然の読みだった。

 しかし二体のトロールは、迷う素振りなく、一目散に、蓮二と弦一郎、紅梅の方を追いかけてきた。

「ちょちょちょ、そういうのはラッキーじゃないよ!?」

 追いかけられなかった組の清純が、慌てて言う。
 データ通りにいかなかったトロールの動きに、貞治も思わず足を止めた。しかし、彼らが呆然と立ち止まっているというのに、トロールはこちらを見向きもせず、完全に蓮二たちだけを追いかけている。

「……また、上杉狙いか?」
「ピーブズの時と同じか……あり得るな」

 顔を顰めて言った国光の言葉に、貞治もまた、険しい表情で言った。
 ピーブズは見目こそゴーストに似ているが、ポルターガイスト。つまり、妖怪や魔法生物に近いカテゴリにいる。ピーブズは殆ど本能的な感覚で紅梅の魔力に惹かれたが、トロールもそうであるらしい。

 魔法生物には、Ministry of Magic──魔法省が定めた、危険度、あるいは希少度のランクがあり、Xの多さで表される。無論、多ければ多いほど危険な害獣、もしくは希少なものとして見なされる。

 トロールはその巨体と怪力、そして暴力的で、知能が低いがゆえに行動が予測不可能であることから、M.O.M.分類危険度は“XXXX”──絶対ではないが、人を殺す、食べる可能性の高い、危険な魔法生物とみなされている。

 ピーブズは髪を引っ掻き回す程度で済んだが、トロールは人を食べる。
 その上、神や魔を惹き寄せる“魅了”の魔法の魔力の持ち主の紅梅は、彼らにとって、ひどく美味しそうなものに見えるに違いなかった。