悪戯の行方、授業の成果6
「──まずいな」
自分たちだけが迷わず追いかけられたこと、そしてその原因を貞治らと同じく察した蓮二は、なるべく障害物のないところを走りながら言った。
「完全にお梅が狙われている」
「何だと!?」
弦一郎が怒鳴った。蓮二は相変わらず冷静だが、目は開いていて、トロールの動きをしっかりと観察している。
「俺達だけなら撹乱もできるが……、お梅はあまり脚が早くない。このまま逃げていても追いつかれる」
そのとおり、紅梅は脚が早くないので、弦一郎がその腕を引いて走らせている。背負って走ることもできるが、弦一郎も、その状態でずっとというのはさすがに無理だ。
「どこかに隠れても駄目か!?」
「ホグワーツ城の壁くらいなら、あの棍棒で一発だ。そうでなくても、粉砕した欠片に当たれば、少なくとも怪我は免れない」
そのため、障害物のない、つまりトロールが腕を振り回しても何も壊すものがない中庭にとどまったのは正解であった。
だがその巨体はやはり侮れず、不自然に長い腕を伸ばされれば、すぐにアドバンテージはなくなってしまう。
見難い唸り声とともに、ぬぅ、と、紅梅に向かって、大きな手が伸びてきた。
「触るな!!」
──ズガァン!
弦一郎が、バチバチと魔力が帯電する十手で、巨大な手を思い切り払うと、トロールは痛みに絶叫した。その隙をついて、三人は更に走って距離を稼ぐ。
「待っ、て……」
引きずられるようにして、そして全速力で走っているがゆえに、紅梅が息を切らしながら言い、扇子を両手で持つ。
そして先程までしていたように、扇を少しだけ開く。要のところを上にし、細い三角形のような形になったそれを、掴むように持った感じは、先ほどの仕草当ての時にやった、船の櫓に似ていた。
そして、ボン、と音が立ったと同時に、紅梅の手に握られていたのは、
「箒……!」
なるほど、と、蓮二が笑みを浮かべる。
紅梅が変化させたのは、先週授業で乗った魔法使いらしいものではなく、日本でよく玄関先を履く竹箒だったが、箒であることには違いない。
走りながら、紅梅はなんとかそれを両手で持った。
「──お上がりやす」
そう命じると、紅梅の杖、もとい扇、今は竹箒は、その忠誠心を表した。
つまり命令通りに空中に上がったわけだが──
「ひ、きゃあああああああああ」
ろくに体勢も整えられないまま上昇した箒に、紅梅は叫び声を上げながら、必死にしがみついた。
弦一郎と蓮二は、唖然としてそれを見上げた。
そしてトロールもまた上空に舞い上がっていった紅梅を見上げ、ぶんぶんと棍棒を振り回して叩き落とそうとする。──が、紅梅はちょっとしたビルくらいのところまで浮き上がっていて、まったく届いていない。
それ自体は、大変結構なことだ。
だが授業の時の非常に優雅な様子と違い、ほとんど箒にしがみつくような格好の紅梅は、非常に危なっかしい。しかもその高さは、落ちれば確実に命の危険がある、とんでもない高さである。
全員がはらはらと見守る中、紅梅は見た目に似合わない筋力で──、もしかしたら火事場の馬鹿力かもしれないが、ほとんど懸垂に近いようなやり方で、しっかり箒にしがみついた。
しかし、かなりの高さに箒一本で浮いているというのは、かなりの恐怖感だ。
元々高いところはあまり得意ではない紅梅は、なおさらである。
それでも、自分を捕まえようと無駄に腕を振ったり、その巨体でドシンドシンと垂直跳びをしているトロールを見て、紅梅は授業でしたように、ゆっくり身体を傾けた。
高度は変わらないが、傾いた方向に、すぅーっと滑るように移動する紅梅を、またトロールたちが追う。追い始めると、紅梅が今度は逆に動く。繰り返し。
そうやって、いっぱいいっぱいだろうにそれでもトロールを中庭から出さないようにしている紅梅に、弦一郎たちは一旦息をつく。
あのまま高度さえ下げなければ、紅梅は大丈夫だろう。
「……ひとまず危機は脱したか」
国光が、油断しないながらも言う。
すっかり紅梅にしか興味のないトロールは、蓮二と貞治たちが合流しても、全く見向きもしていない。
「いや、トロールは、こいつらだけではないだろう。城の中からも悲鳴が聞こえる」
蓮二が、険しい顔で言った。
確かにホグワーツ城の中から、叫び声や、大勢が走る音が聞こえるし、全速力で走っている生徒が、窓からもちらりと見えた。つまり、城の中にも、また別のトロールがいる可能性は高い。
何が世界で一番安全な場所か、と全員が悪態をついたその時、トロールの様子が変わった。
「……何だ?」
弦一郎が、怪訝な顔をした。
ひたすらドシンドシンと跳んだり、腕を振り回したりと、猿より低い知能を露わにしていたトロールたちであるが、さすがに届かないことをようやく理解したのか、紅梅を叩き落とそうとするのをやめた。
しかし今度は、何やらブーブーと、今までの唸り声とは違う声を出し始めたのだ。
「トロールの言語だ」
「話すのか!?」
貞治が言った言葉に、国光が驚愕する。
あれほど知能が低いのに、独自の言語を操るというちぐはぐさ。つくづく魔法界というものは常識が通用しない、と国光は目眩すら覚えそうだった。
「しっかりした言語ではないし、開明もされていないがね。猿やイルカよりは程度の低いものだと考えられているよ。せいぜい仲間を呼ぶ程度のことしかできないはず──」
「……仲間を、呼ぶ?」
──全員の嫌な予感は、的中した。
ドシンドシンという地響きのような足音、そしてブーブーと呼応する声を上げて、またあの通路から、トロールが一匹。
そしてさらに、校舎の大きな窓を棍棒で突き破って一匹と、元いたのと合わせて合計四匹のトロールが中庭に集まった光景に、弦一郎たちは唖然とした。
まるで怪獣映画そのものの有り様、しかも、窓から出てきたトロールがそのまま壁をよじ登り始め、他のトロールもそれを真似して、壁を登って上空の紅梅に近づこうとし始める。
特に、ホグワーツ城の特徴である尖塔にしがみついて雄叫びを上げるその様は、古いアメリカ映画の、ゴリラの化け物にそっくりだった。
紅梅は箒にしがみつきながら、どのトロールからも届かない中間地点に行こうとする──が、ホグワーツの三次元構造に四苦八苦するような紅梅は、こういった、空中での間隔把握が得意ではない。
傍から見ていても危なっかしい動きで、おっかなびっくり、空中をうろうろしている。もっと高度を上げればいいのかもしれないが、それはそれで恐ろしいのだろう。
「──紅梅!」
「弦一郎、乗れ!」
紅梅と同じように杖を箒に変身させ、跨った蓮二の後ろに、弦一郎も素早く跨る。そして二人乗りであるにもかかわらず、蓮二は、紅梅よりは危なっかしくなく飛び上がった。
「紅梅!」
「弦ちゃん……」
ピーブズの時のように泣いているかと思えば、紅梅は困り切った顔はしていたものの、泣いてはいなかった。
その様子に弦一郎は少しだけホッとして、箒を維持してくれている蓮二に問う。
「どうすればいい、蓮二」
「そうだな、教諭たちが来るのをこのまま待ってもいいが──」
授業中で生徒があちこちの教室に散らばっているこの状態では、教師にとって、トロールを退治するより、生徒を引率して避難する方が優先事項のはずだ。
そしてホグワーツは通路が不必要なまでに複雑で、避難経路など、あってないようなものである。生徒が全員避難し切るのには、少なくとも十数分、もしかしたらもっと時間がかかることだろう、と蓮二は言った。
「お梅、あとどのくらいこのままでいられる?」
「そない長ぅないと思うわ……。うち、飛行術得意やないし」
今もこうしてるだけで精一杯や、と紅梅は申し訳無さそうに言った。
「そうか……」
蓮二が少し考え始めたその時、また下から、箒に乗った貞治、そして清純、その後ろに乗った国光が上がってきた。
しかしさすがに、上空で話し合いができるほど、皆箒に慣れていない。しかもその箒も、杖を変身させたもので、何かの拍子に元に戻ってしまうこともある。そして杖を箒にした状態だと、飛んでいるとすなわち魔法が使えないということでもある。
ひとまずは降りよう、と蓮二が提案し、六人は、トロールから一番遠い屋根の上に着陸した。トロールたちはずっと目で追ってきているので、長くいれば捕まってしまうが、少し作戦を立てるだけなら問題ない。
そして、昨日の一件以来、“教授”に続いて“参謀”の肩書も得ている蓮二は、口元に手を当て、何やら考え始めた。その頭脳が物凄い回転をしていることを知っている面々は、それを邪魔せず、ただ見守る。
「ふむ、……貞治」
「うん?」
「原因の方を頼めるか。ここはどうにかする」
「了解」
「一人で大丈夫か」
「たぶんこの四匹で全部だろうし、そうでなくても一、二匹だろう、さすがに。それならどうにかするさ」
貞治は、けろりと言った。
「どうにか……、できるのか?」
「できるとも」
国光が眉を寄せて言うと、貞治はにんまりして、自分の長いローブを広げ、内側を見せた。
するとそこには、たくさんのポケットがついていて─、そしてその全てに、小瓶やら、試験管やら、アンプルらしきもの、果ては大きめの注射器までもが、びっしりと入っていた。
その光景に、国光も、そして他の者も、もうそれ以上何か言うのはやめた。
本人が出来るというのだから、出来るのだろう。何をどうするのかは想像もつかないが、多分こう、何か汁的なもので。
「まあ、幸村たちと合流すれば、どうにでもなるさ。じゃあ後はよろしく、教授」
「了解した。任せたぞ、博士」
いつもの軽口を叩き、貞治は箒に跨ると、まるで自転車にでも乗ったような呑気さで飛び、トロールが出てきた割れ窓から、ホグワーツ城に入っていった。
「トロールが湧いて出た原因は、貞治に任せた。これ以上トロールが湧いて出たら厄介だからな」
「ああ……、そういうことで行かせたのか」
納得して、国光が頷いた。
「そういうことだ。──で、作戦だが。まずトロールはお梅に夢中で、それ以外が殆ど目に入っていない」
「嫌なモテ期だねえ、梅ちゃん」
「ほんまに……」
苦笑して言った清純に、紅梅はげんなりした。ピーブズの時といい、ほんとうに嬉しくない。
「簡単な策だ。あいつらはひたすらお梅を狙って追いかけてくる。が、見ての通り、奴らは馬鹿力で機動力もそこそこだが、頭が悪い。だからお梅を餌にしつつこうして飛んで逃げ続けていれば、そのうち教諭たちが来るだろう」
「ま、それが無難だよね」
清純が言った。しかし彼は、片目をつぶって、でも、と続ける。
「柳くんにしては、なんか投げっぱなしな作戦じゃない?」
その言葉と同時に、皆が一斉に蓮二を見た。同じことを思っていたのだろう。
だが蓮二は動じず、どころか、いつもどおりの涼やかな微笑さえ浮かべている。
「……あれらが、上杉を捕まえられないことに逆上し、今以上に暴れたりする危険は?」
「十分ある。時間の問題だ」
国光の質問に、蓮二はあっさりと言った。
皆が怪訝な顔をする中、蓮二はきゅっと弦一郎を見る。
「それでだ、弦一郎」
「何だ」
「おまえ、……あの四匹、すべて戦闘不能に出来るか?」
蓮二が言ったそれに、皆さすがにぎょっとした。──弦一郎以外は。
「ふむ」
弦一郎は目を細め、壁に張り付いてブォーブォーと醜悪に喚いているトロールたちを見た。先程よりも声が大きく、牙をむき出しにしているところからして、どうも獲物がちょろちょろと動くので、苛ついて怒っているらしい。
「……出来る」
「準備時間はどのくらい必要だ?」
「そうだな……、十分欲しい」
「了解した。他に必要なのは?」
「一番高いところにおびき寄せてくれ。だから、なるべく上空に行きたい」
「手塚、弦一郎を後ろに乗せて飛べるか?」
「問題ない」
国光が頷く。
そして杖を取り出すと、ボン、と音を立てて、杖を完璧に箒に変化させた。
国光は変身術も杖を変化させるのも苦手だが、実物をよく知ってさえいれば、造作も無いことだ。先週の授業でと補習で箒はさんざん扱ったので、変化させるのには問題ない。
先程清純の後ろに乗っていたのは、全員が杖を使えなくなるのを防ぎ、警戒を担当していただけである。
国光が、箒に跨る。その後ろに、弦一郎が乗った。
「紅梅」
飛ぶ前に、弦一郎が呼んだ。紅梅が顔を上げる。
「──二度はない。安心しろ」
紅梅はそれを聞いてきょとんとし、次いで、にっこりと微笑んだ。
「へぇ。……ほな、お気張りやす」
「お前も」
相変わらず、二人にしかわからない会話だ。
やれやれ、といったような顔の清純が肩を竦めて蓮二に目配せすると、蓮二もまた、似たような表情で首を傾げてみせた。
「では、蓮二。準備ができたら合図をする」
「わかった」
「飛ぶぞ。──油断せずに行こう」
そう言って国光は屋根を蹴り、二人乗りの箒は、上空に上がっていった。