悪戯の行方、授業の成果7
「──意外だったな」
危なげなく上昇しながら、弦一郎が言った。
無論、言葉を向けた相手は、箒を操っている国光である。
都合上、弦一郎は国光と背と背をつけるように、逆向きに跨っているので、お互いに、顔は見えない。自転車の二人乗りで、荷台に後ろ向きに乗る形だ。
「お前のことだから、藤宮を心配して、乾についていくかと思ったが」
国光が、幼馴染の少女に対してやや過保護気味なことは、弦一郎も察している。
入学前に出会った時の幼気さや、泣き虫な性格、それに説明しづらいが誰もが感じる、庇護欲を煽る小動物的な雰囲気から、それもしかたのないことだとも思っている。
それにヒトも獣も、総じて動物の幼体というものは、成体に対して庇護欲を煽って身を守る機能が備わっていると、甥の佐助が生まれた時、兄からも聞いていたので──、とはいっても、紫乃は弦一郎と同い年のはずだが、どうしてもそういう風に思ってしまうし、きっとそれは、弦一郎だけではないだろう。
「……それも、考えなくはなかったが」
国光は、ぼそりと答えた。
「だがもし、俺がお前たちを放って、紫乃のところに駆けつけたとしたら」
「したら?」
「紫乃は、……ひどく怒る」
「怒る?」
「ああ」
国光は、深く、この上なく確信している様子で頷いた。
もし自分がそのように行動したら、彼女はきっとどうしてそんなことをしたのかと怒るし、もしかしたら、考えたくもないが、落胆されるかもしれないし、もっとひどければ軽蔑されるかもしれない。──と思うと、国光はぞっと身震いすらする。
そんな風に、世にも恐ろしい、といった感じの国光だが、弦一郎としては、あの小動物じみた少女が怒るところなど全く想像もつかず、不思議そうに首を傾げた。
紫乃が怒ると聞いても、小さな子猫がフーッと毛を逆立てたり、ハムスターがキーッと前歯をむき出しにしたりするイメージが精々だ。
しかも、弦一郎の想像の中のハムスターはなぜか両手でひまわりの種を持っていて、迫力のないこと甚だしい。
「紫乃たちがいるのは、『闇の魔術に対する防衛術』の教室だから、他よりは安全だろうしな」
「それもそうだ」
弦一郎は、頷いた。
あの教室は、ちょうど昨日徹底的に掃除をして、聖水で清めて、結界を張った。あそこにいれば、トロールは入ってこれないだろう。でなくても、精市や景吾がいる。
国光にとって、紫乃が危ない目に合うかもしれないということは確かにとても恐ろしいことだが、今はそういう保険があるし、ならばその心配よりも、紫乃の信頼や期待を裏切ってしまう恐ろしさのほうが大きかった。──だから国光は、今ここにいる。
「それに、そういうことならお前も同じだろう」
「何がだ?」
背を向けあったままなので顔は見れないが、弦一郎は、少しだけ振り向いて首を傾げた。
「柳や千石が付いているとはいえ、囮は危険な役目だ。それに、彼女はピーブズの件で相当嫌な思いをしたはずだ」
そして今回のトロールも、生理的嫌悪感を覚えるには十分な存在である上、巨大で、人を食べる、冗談抜きで恐ろしい生き物だ。それら四体から猛烈と狙われているという状況で、あえて囮になるというのは、並大抵のことではないだろう、と国光は言った。
「だがお前は、やめろとは言わなかった」
「紅梅は大丈夫だ」
弦一郎は、はっきりと言った。
「あの化け物が紅梅に辿り着く前に、必ず俺が殺す。ピーブズの時のようにはさせん。必ずだ──二度はない」
国光は、弦一郎の強い言葉に、少しだけ怯んだ。
それは絶対に成し遂げるという意志の強さと、化け物相手とはいえ、「殺す」という言葉を躊躇いなくはっきりと口にしたこと、両方に対してだ。
テニスをする上でも国光はつくづく感じていたことだが、弦一郎は、好戦的であるという一点において、他の者の追随を許さない。
景吾も近いところがあるが、彼は強い戦意を持ちながらも、もう一方で、大局を見据えるがゆえの行動を取ることも多い。あれが、彼が持つ、王の中の王の血なのだろう。
だが弦一郎は、これと決めたら、もう他のものは見ないし、そのことを躊躇わない。景吾とはまた別のベクトルで、有言実行を極めているのだ。
そして弦一郎が他と違うのは、それを苦ともなんとも思っていないところだ。思ったとしても、しかたがないことだ、で終わらせる。切り捨てることに躊躇いがない。
しかもそれは、もしかすると、紅梅もその対象に入る。そうならないのは、彼女が上手く立ちまわっているからにすぎない。
弦一郎はハッフルパフに振り分けられ、努力を努力と思わぬ、という部分は確かに当てはまっているようだが、彼のそれは、実際もっと苛烈だ。
弦一郎は努力しているというより、戦っている。試合では当然相手と戦うが、練習の時は他の者を常に敵とみなしてトップを狙うし、一人の時は、自分と戦っている。──しかも、血みどろになるまで──いや、血みどろになっても。
残酷なまでの迷いのなさと、理由があってもなくても限界まで戦い続ける闘争心は恐ろしく、すべてを舐め尽くして飲み込む炎や、天から光の速さで落ちる稲妻のようだ。うかうかしていると、あっという間に焼きつくされてしまう。
いや、もっと端的にはっきり言えば、喧嘩上等の戦馬鹿。
あるいは戦闘マニア、バトルジャンキー、バーサーカー。
景吾や──そして精市の目的は勝利であり、弦一郎もそれは同じだが、実のところ、戦うというその過程自体も、彼の目的のひとつなのだ。『戦わずして勝つ』ということには不完全燃焼の顔をし、勝ちさえすればいいというわけではない。
頑張ったからいいじゃないか、という言葉が禁句であるように、勝ったからいいじゃないか、というのも、彼にとって良いものではないのだ。
そしてそんな弦一郎にいつも寄り添う紅梅は、雲や霧のようだとも感じる。
分厚く広い雲の中なら、稲光は落ちて地面を焼くことなく、雲の中を泳いで終わる。乾いていればあっという間にすべてを焼きつくす炎も、霧が立ち込める中なら、燃え広がらず、緩やかな煙を上げるだけだ。
彼女がいることで、弦一郎の強さと戦意は、無闇矢鱈に戦うことではなく、しかるべき勝利へと向けられるようになる。
雷が雷のままで、炎が炎のままで、他の何かと共存できるようになる。
弦一郎は、そんな紅梅を何よりも信用しているし、信頼している。
だがそれだけに、そんな存在を害された時の弦一郎の怒りが限界を超えることは、想像に難くない。
ピーブズの一件はまさにそれで、無言のままにピーブズを殴り続けたその様は、もう、“激怒した人”という範疇でさえなかった。人が本当に怒った時、人ではなく、単なる殺意の塊になるのだと、国光はあの時感じた。
太郎が止めていなければ、弦一郎はあのままピーブズを殺していただろうし、それを全く後悔しないだろう。ピーブズが人ではなくてポルターガイストである、ということは、関係なく。
「……そうか」
「そうだ。それに、……紅梅は強い。肝が据わっている。心配ない」
「紫乃もそうだ」
国光は、短く、しかしはっきりと言った。
対抗するようにも聞こえるその声色に、弦一郎がきょとんとする。
「紫乃も、──強い。グリフィンドールにふさわしいものを持っている」
「そうだな。まあ、幸村や跡部もついているから、心配ないだろう」
「ああ。でも、そうでなくてもだ」
やはりどこか対抗するような様子の国光に、弦一郎は笑った。親ばかのようなものだろう、と微笑ましく思ったのだ。
──弦一郎は、どうしても、紫乃を小さい子供のように感じているところがあるので。
そうこうしているうちに、雲が漂うような高度まで上がると、弦一郎が「もうこの辺でいい」と言ったので、国光は授業で習ったとおりに箒を操り、ぴたりと停止した。
当たり前だが遮るものは何もなく、船が錨を沈めるような方法もないのに、風にも流されずに完全に空中で静止するというのは、なかなか難しい。
しかし国光は、あまり自覚がないが、“鷹の目”とも呼ばれる三次元空間把握能力に優れていた。
車両や船舶の運転免許の試験で検査が行なわれることもある、遠近感や立体感を正しく把握する深視力も似たカテゴリの能力だが、“鷹の目”はもっと三次元的で、つまり空中での物の位置を正確に目測・体感・感覚で把握する能力である。
文字通り、他の鳥と空中戦をする鷹に備わっている能力でもあり、具体的には飛行機のパイロット──特にドッグ・ファイトと呼ばれる空中戦をする戦闘機パイロットなどには必須とされる。
訓練でも鍛えられるが、基本的には生まれ持っての才能がものを言う。絶対音感などのスキルと似たようなものだ。
国光は静止視力こそ低く眼鏡をかけているが、この空間把握能力に優れ、なおかつ動体視力が良いために、テニスではボールの位置をコンマ単位で把握できる。
そんな国光にとって、自分自身を空中の一箇所にとどめておくことなど、造作も無いことだった。
まるで大きな建造物の天辺にいるかのようにぴたりと動かない箒に満足した弦一郎は、杖、もとい十手を取り出し、腕を伸ばして前に構えた。
「四匹とも何とか出来る、と言っていたが……、どうするんだ?」
「……俺は、『闇の魔術に対する防衛術』を楽しみにしていた」
弦一郎は、重々しく言った。
「元々格闘技をやっているし、両親は自衛官で祖父は警察官だ。こういうことにはことさら興味があるし、得意分野でもある。──実際、俺の魔力は非常に防衛術向きだと言われたしな」
「そのようだな」
国光は、頷いた。
「だから入学する前、一番教科書を読み耽ったのは、『防衛術』の教科書だった。クィレル教諭が“ああ”で、まともな授業が望めないとわかってからは、図書館で色々読んでいる。実践はしていないが、朝稽古の瞑想のあと、イメージトレーニングもしている」
その情熱を変身術に向ければ、もっとスムーズに課題が進んだのではないだろうか──、と国光は少し思ったが、興味のある分野に没頭してしまう性分は国光も持っているし、その力が発揮できない状況に追い込まれてしまう辛さもよくわかるので、黙って頷いた。
「やればやるほどわかる。俺の“力”の使い道は、これなのだと。自惚れではない。単なる事実だ」
「だから──、出来る、と?」
「そうだ。出来ないはずがない」
変身術の時とは真逆の、出来ることを疑ってもいない強い言葉。
言霊、そのとおりに、弦一郎の声には、意志のある霊が宿っていた。
「集中する」
「わかった」
国光は、黙った。
そして、彼らの“下”──箒で屋根の上を飛んでいるので、本来“下”というのもおかしいのだが──では、蓮二と紅梅、そして清純が、いよいよ所定の位置に着こうとしていた。
蓮二が示したのは、ホグワーツで一番高い尖塔。『天文学』の授業の際に使う、天文塔だ。
きゅうっと絞ったような円錐形の尖った屋根の縁には、人が一人、余裕を持って腰掛けられるくらいの縁飾りがある。蓮二はそこに着陸し、紅梅を下ろした。
あまりの高さに、清純が「ひえー」と声を上げるが、その呑気な声に、紅梅は逆に落ち着くことが出来、清純ににっこりと笑いかけた。
獲物がちょろちょろ逃げることにもうすっかり怒っているトロールは、屋根を壊したり壁を割ったりしながら、どんどんこちらに近づいてきているようだ。あの巨体の上、長い手を使って猿のように移動することもあるので、移動速度はなかなか速いのである。
しかも、こうして一番高いところから見下ろせば、トロールはいつの間にかもう一体増えて、五体になっていた。
「では、やるか、お梅」
そう言って、蓮二は紅梅から少し離れたところに胡座をかくと、箒を横向きに懐に抱いた。小学校で、掃除の時間に、やんちゃな男の子が箒をギターに見立てて遊ぶときのような仕草だ。
蓮二にはまるで似合わないその悪ふざけのような姿に、清純はきょとんとした。──が、ボン、と音を立てて箒が三味線に変わると、その姿はとても“しっくり”くるものになる。
ぺんぺん、と蓮二は弦を弾きながら、音を調節した。
「……柳君、三味線弾けるの?」
「姉の趣味に付き合ってな。お梅ほどではないが、まあさわり程度なら」
さわり程度、などと言っているが、そうじゃないんだろうなあ、と、清純は思った。
変身術はイメージがとても重要で、豊かな想像力とともに、対象物をよく知っている必要がある。楽器などという繊細で複雑なものに変えるのならば、それなり以上に慣れていないと、とても無理だろう。
そして何より、蓮二が三味線を構える姿は、問答無用で、とてもさまになっていた。
ブォオオオ、という雄叫びが聞こえ、下を見ると、怒り狂ったトロールが既に三匹、塔をよじ登ろうとしている。
「千石、お前は──」
「柳君」
清純は、蓮二の言葉を遮った。
蓮二と紅梅が清純は相変わらず笑顔を浮かべながら、しかしまっすぐに二人を見ている。
「梅ちゃん、その髪のリボン貸して?」
「へぇ?」
清純のその言葉に紅梅は面食らい、つい蓮二を見る。
「どういうつもりだ? 千石」
「梅ちゃんの髪にすごく魔力が篭ってるのは、ピーブズの一件でわかった。そして、その髪を結ってるリボンがその魔力を抑えてるものだっていうのも」
「ふむ」
「そういうものなら、梅ちゃん本人ほどじゃないだろうけど、魔力がたくさん染み込んでるはずだ。撹乱に使うのには十分だろ?」
「撹乱……」
紅梅が小さく復唱すると、清純は頷いた。
「ただおびき寄せるだけじゃすぐ追いつかれるし、せっかく登ったここから逃げてあっちこっちに移動すると、真田君もやりにくいでしょ。俺が梅ちゃんのリボンを持ってトロールの周りを飛べば、トロールは頭悪いから混乱して、天辺にたどり着くのが遅くなる」
「確かにそうだ。そして効果的でもある。だが……」
蓮二は、すうっと開眼した。そして、まっすぐに清純を見る。
「だが、一番危険な役目だ」
実のところ、蓮二もその役目を考えてはいた。
清純は基本的にかなり器用で、前の授業ですっかり箒を乗りこなせるようになった。
とはいえ、今言ったとおり危険であるし、箒に乗れるといっても、あくまで授業レベルでの話だ。例えばクィディッチ選手になれるほどの、アクロバティックな飛行を会得したわけではない。
しかも今の状況だと、杖を箒に変化させて飛ばなければいけないために、飛んでしまえば魔法を使うのは難しい。
「まあそうだろうねえ。でも、ま、俺もカッコイイとこ見せたいし?」
彼一流の軽いノリ。しかしその緑の目の輝きは、どこか挑戦的だ。
「ほう、出来るのか?」
「出来ないなら、言わないよ。カッコつけるなら、確実にカッコつけられるようにするさ。俺、こう見えても結構堅実な方だよ。知ってるだろ?」
「そうか、そうだったな」
そう言って、蓮二はふっと笑った。目元は、もういつもどおりに伏せられている。
「では任せる。──お梅、リボンを千石に」
他の者達と交わしたのと同じ、端的なやりとり。
「……へぇ」
男はんて皆こうやろか、それともこん人らやからやろか──と、紅梅は心配と呆れと、そしてほんの少しの奇妙な羨ましさを感じながら、言われたとおりにリボンを髪から解き、清純に手渡す。同時に彼女の髪から、ふわ、と、梅の香りとともに、甘く感じられるような魔力が漂った。
予想通り、そんな魔力がしっかり染み込んだリボンを受け取った清純は、そのリボンを、箒の先にしっかりと巻きつけた。
「キヨはん、くれぐれも気ぃつけてな?」
「千石、頼んだ」
「おまかせあれ!」
それだけ言って、清純は箒に乗って、塔の縁を蹴った。