悪戯の行方、授業の成果3
「なっ……なっ……」
教室に入るなり、クィレルは目玉が零れそうなほど目を見開き、いつも以上に挙動不審になった。
そのリアクションに、生徒たちが喜び、くすくすと笑う。
しかし一人、むしろいつもは常に微笑んでいるのに、全く笑っていない生徒がいた。──周助である。彼はクィレルが教室に入った途端にピクリと反応し、すうっと目を眇めると、目立たないように、静かに杖を振った。
すると、開けっ放しだった教室の扉がバタンと閉まる。
(──捕らえた)
今から何がどうなるのかはわからないが、とりあえず、入ってきたものが、ここから逃げられることはなくなった。
周助は緊張感を解かないながらも、ゆったりと椅子に座り直し、事の成り行きを見守った。
「これは一体、どういう……!」
クィレルはそこまで言って、何かはっとしたような顔をすると、一度俯いた。
「こ、こここここれは、どど、どういうこと、ですかな!?」
そして次に発されたのは、いつもの、甲高いどもり声。
だがその様子に、今度は、後ろの方に座っている景吾の表情が冷たくなった。アイスブルーの瞳が、キンと光る。
「先生、おはようございます! どうですか、この教室!」
眩しいほどの満面の笑みで精市が言うと、何人かが、ぶっと吹き出した。
「ミ、ミスター・ユ、ユキムラ! これは……」
「前も言いましたけど、あのニンニク、吸血鬼避けにはまったく、全然! 効果がありませんよ!」
クィレルの言葉尻に被せるようにして、精市は、威勢よく言った。
「しかもほとんど腐っていて、いよいよ意味が無いです。不衛生で臭いだけ! 申し訳ありませんけど、あんなものがひしめく中にいたら、俺たち病気になってしまいます」
生徒たちが、うんうんと頷いている。
「それで昨日、徹底的に掃除をしたんです。しかも、かなり強力な結界を張って聖水を仕込みましたので、吸血鬼なんか、絶対に入ってこれません! ついでに徹底的に消臭して、ポプリも置いたんです。いい香りがするでしょう?」
「か、かか、勝手なことを!」
クィレルは金切り声で言ったが、精市は笑顔のままだ。
「子供のすること、とご不安ですか? 大丈夫です、榊先生やマクゴナガル先生、フリットウィック先生にも見ていただきましたが、かなり強力な結界だと太鼓判を押していただきました」
「そ、そう、そういうことでは、あああありません!」
喋り続ける精市と目を合わせぬようにして、クィレルは一歩、二歩と下がった。
「ふ、ふゆ、不愉快だ! きょ、今日の授業は、取りやめっ、……ぐ!?」
クィレルは扉のノブを掴み、外に出ようとした。
しかし扉はガタガタと音を立てるだけで、まったく、びくとも開かない。
「どうして……?」
紫乃が、怪訝な顔をし始める。
彼女と周助が張った結界は、“魔封じ”だ。邪気のこもった悪いものがこの教室に入ったら、弱体化させ、この教室から決して出さないようにするためのもの。
いわゆるねずみ捕りの仕組みの結界だが、邪気がなければ、何事も無く出入りができる。──しかし今、クィレルは、明らかに結界に閉じ込められていた。
「そう言わず、授業をしてください、先生。一度授業をしてみれば、きっとこの教室の快適さがわかるはずです」
「なっ、なにっ……」
「きちんと授業さえしてくれればいいんです」
精市は、まっすぐに言う。
精霊たちを従わせるその声には、何の力かはわからない、しかし誰も逆らえない何かがあった。
どうやっても開かない扉に折れたのか、精市の勢いに圧されたのか、クィレルは背を丸め、うろうろと目を泳がせながら、いつも授業をする教卓まで歩いた。
しかし、教室がすっかり綺麗になっているので、彼が歩く度に、その体に染み付いた強烈なにんにくの臭いが漂ってきて、前の方に座った生徒たちが、顔を顰める。その中には、ハリーやロン、ハーマイオニーもいた。
「で、ででででは、きょ、教科書を」
「先生」
「な、ななな、なんだね」
クィレルは、だらだらと冷や汗をかいている。眉間には深い皺が寄り、どう見てもいらいらしているのがわかる有り様だった。
しかしそれとは全く逆に、きらきらしい笑顔で、精市は言った。
「先生も、かなりニンニクの臭いがしますね? そのターバンですか?」
「ほ、ほほ、放っておきたまえ」
「そういうわけにはいきません。その臭いのせいで、俺達は授業に集中できない」
「だだ、黙りなさい! じゅ、授業を始めます!」
クィレルは今までで一番いらいらした声を上げ、どすん、と椅子に座った──その時だった。
──すっぽおおおん!!
全員が、呆気に取られて、目も口も真ん丸にした。
──なぜなら、クィレルがかぶっている、紫色の巨大なターバンが、勢い良く真上にすっぽ抜けたからである。
思わず上を見た生徒たちは、天井から伸びた透明な糸が、一本釣りの要領で、クィレルのターバンを釣り上げたことを理解した。
ぎちぎちに巻かれていたターバンはニンニクの欠片をまき散らしながら、その丸い形のまま空中を舞っている。
あまりに臭うのでターバンにもニンニクを詰め込んでいるに違いない、というのが真実だったことに笑うところなのかもしれないが、あまりに予想外な状況に、皆ついていけていない。
──そしてそれは、クィレル本人も同じだった。
「えっ……? あああああああああ!?」
たっぷり三秒ほど呆けたクィレルは、教室の天井付近でびよんびよんと跳ねているターバンを見て、やっと自分の状況を理解した。
ものすごい声で叫び、頭に手を遣ろうとする。しかし──
「ターバンマン! 新しい頭よ!」
精市が奇妙な裏声で言ったその台詞に、蔵ノ介が盛大に噴いた。
そして精市は何か薬か飴玉のようなものを口に放り込むと、足元の目立たないところにあったあったレバーを、思い切り踏みつける。
すると教室の一番後ろの棚の影から、“ガコォン!”と大きな音がしたかと思うと、放物線を描いて、何かが飛んだ。
──かぽん!
「ぐふぅっ……!!」
そして目の前に出来上がった光景に、クラス全員が、一斉に噴出した。
なぜなら、後ろから飛んできたものが、ターバンの外れたクィレルの頭に、じつに綺麗に、そしてじつにまぬけな音を立てて“はまった”からである。
「ひぃ、やば、やば、やばい、しぬ、死ぬ……!」
グリフィンドールもスリザリンも、一人残らず腹を抱え、真っ赤な顔をして、涙を流して大爆笑している。
「なっ、なに……」
ひきつけを起こす勢いで笑い転げている生徒たちに、クィレルは目を白黒させる。
おそるおそる、頭に手を遣る。するとまた、どっと笑いの渦が起きた。
──クィレルの頭に綺麗にはまっているのは、日本ではウケ狙いのパーティーグッズとしては鉄板である、いわゆるハゲヅラであった。
しかも、周囲にわずかに毛が残り、頭頂に一本だけ太い毛が波打って生えているという、由緒正しきナミヘイ・スタイルのものである。
「ぶほぉっ、す、すごい、ジャストミート、ぶふっ、……さ、さすがラッキー千石印のフェリックス・フェリシス、ふぐっ」
この状況をつくりだした張本人である精市も、この上なく腹筋を鍛えながら、目の前の光景を見た。
日本が誇る伝統お茶の間アニメに登場する雷親父のスタイルになったクィレルは、ただただ呆然としている。
──初めてこの教室に来た時から、精市は、ここが気に入らなくてしょうがなかった。
腐ったニンニクの強烈な匂いも耐え難かったし、クィレルの胡散臭さや授業のお粗末さ、何もかもが気に入らなかった。
だからそれをどうこうしてやるということはすぐに心に決めていたものの、何をどうするかはすぐ思いつかず──、しかしここ数日の出来事から得た様々なことと、悪戯仕掛け人の双子に出会ったことから、今回の大掛かりな計画を立てたのだった。
まず最初に蓮二に相談すると、彼は「面白いデータが取れそうだ」と言って、貞治にも声をかけ、見事なシナリオをどんどん組み立ててくれた。
蓮二の、こういう、涼しい顔をしてノリと付き合いの良いところが、精市はとても好きだ。
教室をすっかり掃除したあと、国光らは教師陣とともに、ニンニクを埋めに出て行った。つまり、監督者がいなくなり、その代理として、「先輩だから」という理由で、ウィーズリーの双子が残ったわけだ。
この悪戯仕掛け人を監督責任者として残すなど迂闊にも程があるが、立派なボランティア活動にまじめに参加していたということから、教師たちもそのあたりは完全に彼らを信用しきってしまっていた。
そして悪戯に絶対にいい顔をしないだろう国光、弦一郎らがいなくなり、更に周助と紫乃が結界を張りに場所を離れた結果、残ったのは“参謀”の蓮二、“マッドサイエンティスト”の貞治、“ラッキー”千石、そして“神の子”精市と、“悪戯仕掛け人”、フレッド&ジョージである。
──弦一郎がいたら、「嫌な予感しかしない」、そう断言するだろうメンバー。
聖水を設置する、という名目も、嘘ではない。
ただ、教卓の椅子に座った途端にターバンを引き上げたり、古代の攻城兵器よろしく梃子の原理で後ろからものを飛ばす仕掛けを貞治が設計・設置することや、形状の話をした途端にノリノリで双子が作ってくれたハゲヅラをその仕掛けで飛ばすこと、さらには清純が作った試作品のフェリックス・フェリシスを飲んでからそれを使うことで、百パーセントクィレルの頭にそれをかぶせる計画を、ただ話さなかっただけだ。
清純は「自分だけ何もしないのは申し訳ないし」ということで、これを精市に提供した。
一番最初に作ったものであるだけに効果はとても小さく、直前に飲めば“ゴミ箱にゴミを投げれば必ず入る”というだけのものなのだが、今回やることに対しても、その効果は覿面だった。
準備段階でも、十回テストをして、なんと十回とも大成功したのだ。
ドラコの頭にバケツを投げて見事かぶせただけあって、精市はそういう技術に無駄に優れ、さらに清純曰く「異様なほど運気が強い」らしいが、それでも、初めて作ってこれならば、二年後には、彼の曾祖父のものに近いものを作るのも、夢ではないのではないだろうか。
「だ、大成功! ふぐっ」
ひいひい笑いながら、精市は、わざわざ用意した『大成功!』と書かれた札を持って、自分の机の前に立った。
教科書に隠すようにしてあるのは、部活でフォームをチェックしたりするときに使う、ビデオカメラだ。
これだけ大掛かりなことをやるのに、現場を見られないなんて! という双子のため、そしてデータマン二人のために、精市はクィレルが入ってくる前から、最前列で撮影を始めていたのだった。
彼らにはさんざん付き合ってもらったし、精市としてもどうなったか直に見せたかったので、ばっちりのものが撮れて非常に満足である。
「せ、先生、ぶふぉ、す、すみません。もう取ってもいいですよ」
ふぐぅ、とまだ笑いを抑えきれぬまま、精市は言った。
蔵ノ介は机に突っ伏してびくんびくんと痙攣しているし、顔を真っ赤にした紫乃は膝部分のローブを力いっぱい握りしめ、ぶるぶる震えている。何かを警戒していた周助も口を押さえて震えているし、景吾もまた、歯を食いしばって俯いていた。
更にハリーは笑いすぎて眼鏡が盛大にずれているし、ロンはひぃひぃ言いながら涙を流しているし、ハーマイオニーは自分の膝を抱え、喉からぐぶぐぶと変な音をさせている。
どてん、と何か音がしたと思ったら、ドラコが椅子から転げ落ちて、まだ笑っていた。
「えっ……、あ……?」
クィレルは呆然としながら、しかしきょろりと目線を動かす。
そして、近くのガラス棚に映った自分の姿を確認して、また呆然とした。そのリアクションに、また生徒たちの腹筋が容赦なく刺激される。
「先生? すみません。取ってもいいですよ、それ」
「は……? 取、いや、……いや!」
はっと意識を取り戻したような顔をして、クィレルは背筋を伸ばす。しかしそれによって頭の一本毛がぴろんと揺れ、誰かが膝から崩れ落ちた。
「いや……! いや、結構!」
「ブフォアッ、……い、いや先生結構って、え? き、気に入ったんですか!?」
「そ、そうだ! とても気に入った!」
裏返った声で言ったクィレルに、精市もがくっと膝が折れそうになったが、他の者はもっとひどかった。
「もうやめて、しぬ、死んじゃう……」と、女子生徒のすすり泣きのような声が聞こえる。彼女のウェストは、今日からきっと引き締まるに違いない。
その向こうでは、ネビルが笑いすぎて噎せており、本当に死にそうになっていた。
「た、たた、楽しい悪戯ですね! し、しかし、授業になりませんので、や、やはり今日は……!」
そう言って、クィレルは椅子から立ち上がり、またドアを開けようとする。
しかしやはり、ドアはびくともしない。
そして、クィレルが乱暴にドアをガタガタやりながら、「くそっ、くそっ……」と悪態をついているのが、皆の笑い声の隙間からわずかに聞こえ、精市は笑いを一旦収めた。
「……はあ。やっぱり、何かいるみたい」
精市はそう言って、机から離れ、窓際に近づいた。
一旦冷静になって注意深く観察すると、フローラルなポプリの香りでも隠し切れない、そしてニンニクの臭いでもない、何かが腐ったような、饐えたような──、なまぐさい死臭のような臭いがすることに気付く。
そして精市の様子が変わったことで、蔵ノ介、紫乃、またクィレルが入ってきた時から警戒を始めていた周助、景吾も、笑いをおさめて、クィレルを注視する。
──といっても、ただでさえ箸が転がっても可笑しい年頃なのに、あの姿のクィレルを見て笑わないでいるのは、なかなか骨の折れることであったが。
「先生。──失礼ですが、とても臭いますね」
「なっ、なな、なにを、」
「ニンニク以外のものも身につけていらっしゃるようだ」
精市はそう言い、また清純のフェリックス・フェリシスをひとつ口に放り込むと、窓際、束ねたカーテンの影に紛れるようにしてぶら下がっていた紐を、ぐいっと引いた。
──どばっしゃあああん!
精市が紐を引いた途端、ドアの上、つまりクィレルの頭上にあったバケツがひっくり返り、中身が思いっきり迸った。
「ぎ、あああああああああああああああああ!!」
クィレルが、物凄い叫び声を上げて床に倒れ込んだので、生徒たちの笑い声が、一斉に止む。
そのまま床をのたうち回るクィレルは、全身から白い煙を上げ、じゅうじゅうと音をさせている。濃硫酸をぶっかけたような、何かが熔ける音。
「ワオ、これはひどいね」
そう言った精市だけでなく、日本人留学生たちは完全に顔を顰めており、他の生徒達は、笑うのをやめて、また起きたわけのわからない事態に、ぽかんとしていた。
──バケツの中に入っていたのは、ただの水ではない。
精霊に汲ませ、精市が浄化し、弦一郎の魔除けの魔力をこれでもかと練り込み、紅梅の魔力で安定させた、そして実験では凍ったピーブズを容赦なく融かした、あの聖水である。
掃除の時に聖水は水で薄めながら色々なことに使ったが、あのバケツは余ったものをすべて使ったので、かなり原液に近い濃さのものになっている。
「……ええ、これでもまだ完全に浄化されてない……? どれだけ厄介なのくっつけてるんですか、先生」
「ゆきちゃん……」
紫乃が、精市のローブの端をくいっと引っ張る。
「うん、紫乃ちゃん。一応色々用意しといて。──みんなもね」
優しく紫乃に笑いかけた精市は、そう言って、蔵ノ介や周助、景吾に目配せした。すると三人とも小さく頷き、杖を構える。
「先生。“それ”、何ですか」
「なっ、な、なにも、」
「──もうよい」
大人の、男の声がした。
クィレルの声ではない。だが、クィレルから聞こえた声だった。
お世辞にも、元気そうな感じの声ではない。落ち着いていて、何かいろんなことを考えていて、しかしどこかが狂っていて、何を考えているのかわからない。まるで、病床の老人が低くぼそぼそと喋るような、そんな声だ。
誰もが、その声にぞっとする。
特に、最前列に座り、たまたまクィレルに近いところにいたハリーは、その声を聞いた途端に背筋に氷を突っ込まれたような気がしたし、額の傷跡がひどく傷んだ。
痛む傷を押さえながら、ハリーは、精市を見た。
机の前に立っている精市は、いつの間にか綺麗な杖を手に持ち、クィレルを見ている。
しかしその表情はきょとんとしていて、なんだか可愛らしくさえあった。
「──うわあ。ヅラがしゃべった」
その言葉に、ハリーはついまた笑いそうになる。
傷がこんなに痛いのに、笑えることが、なんだか妙に嬉しかった。