ホグワーツ魔法魔術学校硬式テニス部・一日体験入部6
「アーン? ウィーズリーもリタイアか」

 そうこうしていると、後ろから、一度聞いたら忘れられない、そしてハリーが最近ちょっと聞き慣れてきた声がした。言わずもがな、景吾である。すぐ横に、国光もいる。

「なら、参加者のうちでドベはお前だぜ、ポッター」
「えっ」
「……あとの者たちは、全員リタイアだ」
 今見てきたからな、と、国光が続けた。
 やはり彼らも他の部員たちと同じく、疲れた素振りはほとんどない。

「……え、マルフォイは? ゴイルやクラッブも……」
「アーン? あいつらなら早々にリタイアしたみてえだぜ? 大げさにヒンヒン泣き喚いてたらしいが、ったく、本当に口だけだなあいつらは」

 呆れ果てたように、景吾は言った。
 ホグワーツには体育の授業がないし、魔法族は普通あまり走らないというのは聞いていたので、体力がないのは仕方がないにしても、疲れただのなぜこんなことをだのうるさく喚いてリタイアするドラコたちの姿が易易と想像出来るだけに、ハリーもまた呆れた顔をした。

「おや、ポッターが最後尾か」

 次いで、蓮二が追い付いてくる。少し後ろに、貞治もいた。蓮二は相変わらず涼し気な感じだし、貞治の眼鏡も、相変わらず意味不明に光っている。

「フフフ、なら今回の『乾汁』は、まずポッターに飲んでもらうことになるのかな」

 ぜひ感想を聞かせてくれ、と言ってニヤァと笑った貞治に、ハリーはぞわっと背筋を凍らせた。
 ──そうだ、ロンのことばかり気にしてすっかり忘れていたが、最下位から二十人の中に入ってしまったら、あのドロドロした──ダンブルドア曰く、ゲロ味のビーンズよりひどい味の『汁』を飲まなくてはならないのだ。

 一気に青ざめたハリーを見て、貞治は、なおいっそうニヤニヤしている。
 他の部員達が、気の毒そうな目でハリーを見ながら、「頑張ってね」と非情に言って、ハリーを追い越していく。貞治も、ニヤニヤしたまま走って行ってしまった。不気味この上ない。

「お前はまだまだ……大丈夫そうだな。ウィーズリーに合わせて走ってたのか?」
「うん」

 尋ねてきた景吾に、ゆるゆると走りつつ、ハリーは頷いた。

「なら、もっと早く走れるな?」

 言われ、ハリーはつい顔を上げた。
 同い年のはずだが、痩せっぽちでちびのハリーより背丈の高い景吾のアイスブルーの目が、まっすぐに見下ろしていた。
 この目を前にすると、なんだか不思議と嘘がつけない。こくり、とハリーは頷いた。

「ハン、上等だ。──マルガレーテ!」

 景吾が呼ぶと、わん、と、凛々しい鳴き声がした。
 すると、黄金の滝のようなブロンドを靡かせて、幻想的なまでに美しい大きな犬が、人間とは比べるべくもなく無駄のない、優雅な走りで近寄ってくる。
 先ほど集合した時も、マネージャーだというマルガレーテを見て感嘆したものだが、走る姿があんまり見事なので、ハリーはほうっとため息をついた。

「面倒見てやれ。頼むぞ」

 それだけ言って、景吾はマルガレーテの小さい頭を撫でると、さっさと走って行ってしまった。

「──ラビット。ペース・メーカー」
「えっ?」
「特に、マラソンで、理想的なペースで走れるよう、選手を導く走者のこと、だ」

 走りながら、途切れ途切れに、国光は言った。

「走者は、ペース・メーカーに合わせて走ることで、心理的にも、肉体的にも、無理なく、走ることが、できる。──マルガレーテは、狩猟犬だ。走るために、生まれてきた犬。彼女について走れば、少なくとも、最後まで、走れるだろう」

 それだけ言うと、国光はちらりとだけハリーを見てから、なんだかきっちりした几帳面なリズムを刻んで、先に行ってしまう。

 ハリーはぽかんとしてしまったが、クゥン、と小さく鳴いたマルガレーテの声に、はっとして彼女を見る。すると、目を細めて景吾の後ろ姿を見送っていたマルガレーテは、やがて目を細め、フン、と鼻を鳴らした。
 ふさふさとブロンドを揺らして走り始めたマルガレーテが、「しょうがないわね、ついてきなさい」と言っているかどうかはわからなかったが、そのきらきらした輝きにただ素直に引っ張られるようにして、ハリーは彼女の後を追い、今までよりも早いスピードで走りだした。



《うぅ〜ん、クィディッチ・チームとマグル出身組以外のメンバーは、全員リタイアとマネージャーから連絡が入りました! しかし無理もありません、この距離を走るなんて未だに信じられな──、あっ、あれは──?》

 カメラ寄って寄って! というリーの声に従い、スクリーンに映し出される映像が切り替わる。
 そしてそこに現れたのは、マルガレーテと横並びに走り、ディーンたちの集団に追いつこうとしているハリーの姿だった。

《ハリー・ポッター! ハリー・ポッターです! 彼もまたマグルの家庭で育ったと聞いてはおりますが、彼こそ生粋の魔法族でもあります。それなのに、いやはや! おおお、追い越す!? 追い越してしまうか!? ──追い越した!

 ディーンたちの集団の横を、マルガレーテと一緒に追い越したハリーに、リーの実況が興奮を増し、観客たちから歓声と拍手が巻き起こる。

 まるでダービーでも見ているようですね、と、フリットウィックがにこにこしながら言った。
 ちなみに、イギリスの競馬は十二世紀頃を発祥として歴史が古く、競馬場は主に貴族たちが出入りし、一般庶民が入場するにしてもそれなりの身なりと資産が無ければ相手にしないという紳士淑女の社交場であり、日本のそれとは随分毛色が違うものだ。
 そして、現在も年間の観客動員数は六百万人という、ギャンブルであると同時に非常に由緒正しい、人気のスポーツである。フリットウィックの密かな趣味でもあった。

《ポッターに並走しているきれいな犬は、ミスター・アトベのペット──マルガレーテ嬢ですね。あの飼い主にふさわしい美女です、ハイ》

 畏まったようなリーの実況に、マルガレーテは上空を箒で飛ぶ彼をちらっと見て、フンと鼻を鳴らした。

 そんな彼女に遅れないように、ハリーは走る。
 ロンに合わせて走っていた時より、そのスピードはずいぶん早い。だがハリーはぐんぐん流れていく景色や、視界の端できらきらと靡くマルガレーテのきれいなブロンド、思い切り地面を蹴る感触に夢中になっていた。

(ぼく、こんなに走れたのか)

 犬は、脚が速い生き物。
 もちろんマルガレーテはハリーに合わせてゆっくりめに走ってくれているのだろうが、それでも、走ることに特化している動物と一緒に走るという経験、そしてそれに遅れずついていけている自分に、ハリーはどきどきした。

 今までハリーが走ったことがあるのは、体育の授業の時や、使いっ走りを言いつけられた時、自分を痛めつけようとするダドリーたちから逃げるためなどといった時ばかりで、自分で走ろうと思って走ったことはない。

 ──だが今、ハリーは、走っている。
 ──走りたいから、走っているのだ。

(いや、あの『汁』を飲みたくないっていうのもあるけど!)

 ネビルやドラコたちのようにリタイアすれば、『汁』は飲まなくてもいいのだ。だが、ハリーはそうしない。どころか、ディーンたちを追い越して、より速く、もっと速くと走っている。
 ペースが上がってきたマルガレーテになおも並走し続けると、オリバー・ウッドの背中が見えた。少し振り返り、ぎょっとしたような顔をされたのがなんだかとても楽しくて、ハリーは思わず笑みを浮かべる。

《ポッター、なんとっ、ついにオリバー・ウッドに追いつこうとしています! 距離をゆくごとに皆が遅くなるのが普通だと思っていましたが、ポッターは後半から追い上げてきましたね! 体力を温存していたということでしょうか──いやはや、……おお! ついにウッドに追いついた!》

 おおおおお、と、観客席から歓声が上がる。

 そして、初めて並走者が現れたことに、オリバーは目を丸くし、次いで、にっと嬉しそうな笑みを浮かべた。

「──凄いな、ポッター!」

 自分より随分大柄な、しかもクィディッチ・チームのキャプテンたる彼にそう言われ、ハリーはびっくりした。

 ──凄いだなんて、初めて言われた!

 理不尽に馬鹿にされたり、わけもわからず怯えた目を向けられたり、──最近は、可哀想がられたり、珍しがられたり。
 そういうことはされてきたが、こんな、満面の笑みですごいと言われたのは初めてで、ハリーは自分の顔にじわじわと熱が昇るのを感じた。そして、走っているせいだけではない、どきどきと鳴る心臓の鼓動も感じる。

(──なら、もっと、速く!)

 そんなハリーの高揚を察したように、マルガレーテがまたペースを上げる。
 ハリーはそれにかじりつくようにして、更に強く地面を蹴った。もっと速く、もっと気持ちよく走りたい、と思えば、横にいるマルガレーテの真似をすればいい。走るために生まれてきた狩猟犬の身体はサラブレッドにも引けを取らず、その走り方をどうにか真似れば、ただがむしゃらに走るよりも綺麗に、無駄なく、鋭く走れる気がした。

「お、お、お! 負けないぞ!」

 オリバーが挑戦的な笑みを浮かべ、姿勢を正して、ハリーを追いかける。
 負けず嫌いな彼なので、挑戦相手が現れて、やる気が出たのだろう。

《すごいすごい、ウッドとポッターがペースを上げたぞ! この分なら、一位と二位は彼らになるでしょう。ではあの緑の、おどろおどろしい、最悪の物体を飲み干すのは、後続集団の誰になるのか!?》

 リーがそう言った途端、団子になって走っているディーンたちの顔色が変わった。

《あ、もしかして連絡が伝わっていない? 伝わっていないようです、失礼しました。えー、参加者は全部で二百名でしたが、現在、リタイアは百五十──いえ百六十名を越し、フレッド&ジョージ・ウィーズリーらを含むトップ後続組が、そのまま最後尾となっております。さあ根性見せて走れ! クィディッチ・マンの意地を見せろ!》

 でないと緑の汁がお前らを襲うぜ! とノリノリのリーに、後続組の誰かから、「ふざけんなー」「無責任に言いやがってー」などとヤジが飛んだ。

《怒鳴る元気があるなら走る! 走れ、走るんだ! ──おおっと、ここで三周目に突入しているテニス部員たちがまた戻ってきたぞっ!? 彼らは一体どんな体力をしているんだ!! サナダなんかまだ何か怒鳴ってるぞ! もう彼ならトロールくらい投げ飛ばせるような気がします!》

 リーの実況に、「あっはっはっはっはっ!!」という、精市の馬鹿笑いが響いた。次いで、弦一郎の「幸村ァアアアアアア貴ッ様ァアアアアアアアア!!」という怒鳴り声が、マイクを向けてもいないのに拾われてくる。

「──走るぞ」

 ぼそり、と低く呟いたのは、セドリックだった。
 団子になって走っている集団の中でも前の方にいる彼は、傍から見ても、あらためて息を整え、数十ヤード先を走るハリーたちのフォームをじっと睨み、体勢を整えているのがわかった。

「もう、彼らは、三周目だ。俺達は、まだ、一周目。最初から、勝負になっては、いないけど、──それでも、彼らが三周走る間に、一周できなかったっていうのは、」

 ──クィディッチ・マンの沽券に関わる。

 そう言って、好戦的ににやりと笑ってみせたセドリックに、面々は目を丸くした。
 普段、穏やかであると同時に寡黙な方であるため、セドリックがこうして誰かの前に立って何かを提案するのは、とても珍しい。
 だがその提案に、異議を唱える者は誰もいなかった。むしろ、やってやろうじゃないか、という気概が膨れ上がるのを、誰もが感じた。
 普段寮ごとに対立し、クィディッチ・チームに所属するが故に特にその傾向が強い彼らが今、同じ目標を定めたのである。スリザリン代表チームのチェイサー兼キャプテン、マーカス・フリントですら例外ではない。

 人知れず、これはホグワーツでも珍しい──、いや、もしかしたら初めてのことかもしれなかった。

「──そうね。それに、ウッドとポッターに追いつけないのも、悔しいわ」

 そう言ったのは、少ない女性参加者の、アンジェリーナ・ジョンソンである。
 しかし女性といえどグリフィンドール代表チームのチェイサーであり、背も高く、黒人特有の恵まれた身体能力の持ち主でもある。

「そのとおりだ」
「よし。じゃあ、テニス部の奴らに追いつかれず、ウッドたちに追いつくのが目標だ」
「了解」
「それと、だ。……この中の二十人が、あの『汁』の犠牲になるわけだが……」

 誰かがぼそりと言うと、全員が、冗談抜きで、決死の表情になった。

「……俺は、全力で、走るぞ!」
「俺もだ!」
「あんな『汁』、飲んでたまるか!」
「死ぬ気で走るのよ!」


 ウオオオオオ、と、今までとは段違いの気力を見せてダッシュを始めた後続組に、彼らを追い越そうとしていたテニス部員たちが驚く。

「ふっふっふっ。『汁』の効果はやっぱり凄いね」

 非常に満足気に笑いながら、貞治が眼鏡を光らせた。他の面々は、乾いた笑みを浮かべてノーコメントであるが。

「何をぼんやりしている! 我々は三周以上走ってやる、と宣言したのだぞ!? 追い越さねば沽券に関わる! 走れ!!」
「──ふむ、これはなかなか予想外」

 怒鳴り声を上げる弦一郎に、蓮二がすぅっと目を開けて呟く。
 彼らが完走するであろうことはわかっていたが、こんな展開になるとは、“データ”の範囲外であった。また、ハリーが先頭になるということも。

「そうだね。じゃあ一丁本気出しますか」
「フフ、いいね」

 肩にかけたまま走っても不思議に落ちないジャージに精市が袖を通し、周助が髪を掻きあげ、微笑みを湛えた目元を鋭くする。

「油断せずに、──行こう」

 黙々と走っていた国光が言ったと同時に、テニス部員たち全員がスパートをかけはじめた。
一日体験入部1/6//終