入学準備4
「ほっ、ほっ、ほんじつはおひがりゃもよくっ……」
「しーちゃん落ち着いて。ほら深呼吸や」
「うう……人がいっぱいいるよう……」
部長の挨拶、として空き箱で作った段に上がり、しょっぱなから盛大に噛んだ紫乃を、脇に控えた紅梅がのほほんと慰める。
なんでもっとちゃんとできないんだろう、と紫乃はすでに涙目になっているが、大勢の前に引き出されて注目され、内股になった膝をぶるぶるさせながら、さらに赤い顔をしている紫乃は、『マスコット部長』として、充分すぎる役割を果たしていた。
紅梅とのやりとりも全てマイク──拡声機能のある魔法界の道具であるが──が拾っており、更に台に上ってもまだ小さく、一生懸命挨拶をしようとしている紫乃の姿は、確かに参加者たちの心を和ませている。
すーはーと大きく深呼吸をしている紫乃に、「がんばれー」と、どこかから小さく声援が飛んだ。
「ひゃい! が、がんばりまふ!」
誰からともわからぬ声援に、紫乃はほとんど反射で叫び──しかもまた噛んでいる──、びんっ、と背筋を伸ばした。
紫乃はまだアワアワしながらも、気を取り直すようにぷるぷると首を振り、ローブのポケットから、よれよれになったメモを取り出して、数秒確認して、またポケットに仕舞う。そしてきりっとした顔を作ると、改めて大勢に向き直った。
そんな『マスコット部長』の様子を、参加者だけでなく、部員たちはもちろん、観客たちも、ほんわかとした表情で見守っている。
「ぶ、ぶちょ、ぶぶぶ部長のっ、ふ、ふふふふ藤宮っ、しっしっしっ、紫乃っ、ででっ」
──大丈夫か。
ついさっき作ったきりっとした表情は見る影もなく、大きな目をぐるぐると泳がせ、名前を名乗るだけで卒倒しそうになっている、小動物、もとい小さな少女を、大体が穏やかに、そして彼女に親しい者ほど、はらはらと見守る。
「きょ、今日は、テニス部の一日体験入部にご参加いただきっ、ありがとうございます!」
ぺこり、と、紫乃は腰を九十度折ってお辞儀をした。
「てっ、テニスはっ」
ぶるぶる震えながら、紫乃は声を張り上げ、言葉を絞り出す。
たくさんの視線に、思わず、パニックに陥りそうになる。しかしその中から毛色の違う視線を感じ、紫乃は思わずそちらを見た。
するとそこにいたのは、眼鏡の奥からまっすぐにこちらを見る国光だった。紫乃が目線をやると、こくり、と頷いてくれたので、紫乃はきゅっと口元を引き結び、震える足を踏ん張った。
「──テニスはっ、マ、マグルの、スポーツです。でも、とてもすごくて、楽しくて、奥が深くてっ、かっこいい、とってもとっても、すごい、スポーツです!」
紫乃は、国光が全身全霊をかけてラケットを振っているのを、いつも見てきた。
その姿を思い出し、拳を握って、紫乃は力説する。
「今日は、テニスのすごさを、みんなに知ってもらえたら、とってもうれしいです。部長としても、マネージャーとしても、そう思っています。どうか、よろしくおねがいしまいにゃう!」
ゴン!! と、勢い良く下げた頭をマイクにぶつけた紫乃は、尻尾を踏まれた小動物のような声を上げる。ぶつけた額を押さえる紫乃の目には、今にも零れそうな涙がたまっていた。
しかしそれを笑う者は誰もおらず、全員から、ワッという歓声と、盛大な拍手が沸き起こる。もちろんテニス部の面々も、「よくやった」「紫乃ちゃん頑張ったねー!」「なかなかいい挨拶じゃねーの」などと声を上げたり、うんうんと感極まったように頷きながら、力いっぱいの拍手をしていた。
「あ、ああああああああありがとうごじゃいま、ふふふふふ」
「しーちゃん、ようお気張りやしたなあ」
膝をがくがくさせた紫乃の手を取り、紅梅がにこにこと彼女を壇上から下ろす。
おそらく心臓がこれ以上ないほどばくばくしているのだろう、胸を押さえてよろめいている紫乃は、冗談抜きで過呼吸一歩手前である。
パニックになりそうなのを堪えて懸命にきりっとした顔をしようとしていた紫乃と同じように、心配でたまらないのをいつものポーカーフェイスに押し込めていた国光に紫乃を預けた紅梅は、にこにこ顔のまま、紫乃に代わって壇上に上がった。
紫乃とはまた違う、いかにも日本的な容姿の少女が上がってくると、ざわめいていた者達が、不思議にシンと静まり返る。
拍手や歓声がおさまったのを確認し、紅梅はにこりと微笑みを浮かべた。
「へぇ、おおきに。……副部長の、上杉紅梅どす。ほなこれからの予定、練習メニューを言いますよって、よぅ聞いて確認しとくれやす」
おっとりのんびり、独特の抑揚で発される言葉に、皆がそれぞれ頷いている。
「まずは準備運動も兼ねて、ラジオ体操と、柔軟。次に、走り込みどすな。そのあと、筋力トレーニング。ここまでがウォーミングアップで、あとはラケット持ってもろて、基本のルールを勉強しながら実際にコートでボール打ってもらう予定どすぅ」
何か聞きたいことありますやろか? と問いかけた紅梅は、誰からも手が上がらないことを確認すると、うん、と頷き、にっこりした。
「ほな、行ってよし、どす」
──もちろん、あのポーズ付きである。
後ろのほうで、太郎が満足気に頷いていた。
ただの柔軟、準備運動といえど、ラジオ体操すら存在しない魔法族の文化の中で暮らす参加者たちは、概ね非常に体が固い。
前屈は90度以上身体が曲がる者のほうが少ないし、開脚に至ってはそれ以下である。またマグル、日本の文化を知ってもらう意図も兼ねて行ったラジオ体操でも、第一が終わった時点ではあはあと息を切らせる者が出てきていた。
このぶんだと、走り込みで足をつる奴が続出するな、とすぐに判断した部員たちは、痛い痛いと喚く参加者たちに、念入りな準備運動を課した。
また、せっかくなのでということで、マネージャーたちも参加している。
跡部様といっしょに体操、ということであれば全員一気に食いついたし、紅梅が「体調も良ぉなるし、身体がキレイになるんよ。痩せるし」と言えば、是非とも、という勢いだった。
そして十五分ほどかけて、ようやく準備運動が終わる。
だがラジオ体操などは音楽もあるし、見ようによってはダンスにも見えるため、観客たちもそれなりに退屈しなかったようだ。
「──整列!!」
準備運動で既にだれている参加者たちに、弦一郎の号令が飛ぶ。
マイクなしでも全員の耳に届く、軍隊教官もかくやというほどのその声に、少し疲れを見せていた面々も思わず背筋を伸ばし、自分の手のひらに書かれた番号通りに四列に並ぶ。
整列と言われたらこのように、と事前に言われていたからこその行動であるが、集団行動の経験がない彼らの動きは非常にもたもたとしていて、出来た列もなんだかぐちゃっとしていた。
──無論、その隣で別に整列しているテニス部の面々は、まるで定規で間隔を測ったような整列を行っているが。
列が整ったのを確認した紅梅が、皆の前に空き箱を置き、その上に立つ。
「ほな、外周行ってもらいますぅ。ぐるっと一周、お気張りやす」
紅梅はいつもにこにこしていて、言葉も柔らかい。だからその雰囲気に似合わないことを彼女が発言すると、その内容を把握するのがワンテンポ遅れる、という事象が起こる場合がある。
そして今こそ、その事象が起きた瞬間だった。ごく軽く、穏やかな調子で発された紅梅の言葉を理解するのに、参加者たちは数秒の時間を要した。
「え、えっと……、城の周りを一周ってことかな?」
「あ、そういうことか。なら、まあ」
ぽかんとしていた参加者がそう言ってホッとした顔をし、その情報が広まりかける。しかし紅梅はにこにこ顔のまま、「えぇと」と切り出した。
「勘違いがあるとあきまへんよって念のため言うときますけど、お城の周りやのぉて、お庭とかクィディッチ場も入れた、学校ぜーんぶの敷地の周りを一周どすえ?」
ばっさり、と参加者たちの希望を打ち砕いた紅梅の発言に、またもワンテンポ遅れて理解した参加者たちが、ざわざわとし始める。
「ば、馬鹿なことを言うな! 何マイルあると思っているんだ!?」
ヒステリックな声を上げたのは、ドラコである。
しかし今回ばかりは、皆同じように思っているようだ。ネビルは青い顔でこくこくと頷いているし、そうでなくとも、「え、本当に?」「本気で?」などとわざめいていた。
ただし、マグルのプライマリースクールで体育の授業も経験している面々や、「走りこみとか普通だろ」と言っているサッカー経験者のディーン、よくわからないが走るのはスポーツの基本だろう、と思っているハリーなどはその限りではない。
ちなみに、彼らは今の時点ではけろりとしていて、むしろいい感じに身体が温まっている。
「えぇと、確か五キロぐらいやったはず……、あ、3.2マイルくらいやて」
ノートに大きく“3.2mi”と書いて示してくれている貞治と、「だいたい東京ディズニーリゾートより小さいくらいの敷地だからな」と言っている蓮二に小さく頭を下げ、紅梅がにこやかに言う。
しかしドラコは「そういう問題じゃない!」と更に喚き、次いでじっとりと紅梅と、部員たちを睨みつけた。
前屈で腰が90度きっかり以上うんともすんとも曲がらなかった彼は、まだ少し息が上がっている。
「……お前たち、もしかして、体験入部と言いながら、僕たちに理不尽なことをしようとしているんじゃないだろうな?」
「まさか」
紅梅はにこにこ顔を崩さないまま、ふるふると首を振った。
黒髪が揺れ、その度に、甘酸っぱいような花の香が漂うので、ドラコは睨みを緩めないようにするのに多少苦労した。
「今日は体験やし、むしろ全体的にいつもより軽めのメニューにしとりますえ? いつもはみぃんな、三周走っとおすし」
「さっ、……三周だと!? バ、バカを言うな! そんなこと、できるわけがないだろう!」
目を白黒させているドラコに、紅梅は「そないなこと言われても、走っとおすし」と、こてんと首を傾げる。
──魔法族には、“走る”という習慣自体、基本ない。
生活の上で多少の小走りをすることくらいはあるが、急ぎの移動は、箒を使うのが普通だ。マラソンを含む陸上競技系のスポーツはひとつも存在せず、最もハードなスポーツ、という位置づけのクィディッチも、言わずもがな常に箒に乗っているので、走るという行為は皆無である。
さらに、マグルの世界では常識も常識である、体力づくりなどのために走るという考えもない。
だから、ただ走るという行為を数キロ、数マイルも行うという事自体彼らにとってはありえないことであり、しかも紅梅が提示したその距離は、想像することすらよく出来ないような数字だった。
「では、こうしよう」
わめき続けるドラコと、だんだんとそれに同調してきた空気を断ち切るように、蓮二が一歩前に出た。
「お前たち参加者は、今言ったとおり、一周走ってもらう。だが俺達はいつもどおり三周──、いや、リタイアを除く全員が走り終わるまで走り続ける。それでどうだ?」
「なっ……」
文句のつけようがない申し出に、ドラコはぐうの音も出ない。
どころか、他の魔法族たちは、「えっ、何言ってるんだ?」「そんなこと出来るのか?」などと、いっそ心配そうな声を上げているくらいだ。
「問題ないよな、皆?」
だが蓮二はけろりとして言い、後ろを振り返る。
そして同じようにけろりとした様子で、「無論だ」「構わないよ」「まあいいだろ」「ええんちゃう?」「ふむ、良いデータが取れそうだ」などと言い、異論のない様子である。
「……ほな、そういうことで。あと……」
参加者たちはまだ戸惑っているが、紅梅はそう仕切りなおし、更に、臨時マネージャーの一人が持ってきてくれたコップを掲げた。
透明なコップには、なんだかでろりとした、深緑のゲル状の物体がなみなみと注がれている。
「あんまり遅ぅ走ってもろても先のメニューがこなせんよって、景気付けに、べべた、……最下位から二十人に入ってもうたら、これ飲んでもらいますえ」
ざわ、と、これまでで最大のざわめきが広がった。
何だあれ、すごい色なんだけど……、と囁き合う参加者と見学者たちを尻目に、紅梅からコップを受け取ったハーマイオニーが小走りに走り、それを観客席のダンブルドアのところまで持っていく。
ダンブルドアはそれを受け取り、一度匂いを嗅いで顔をしかめる。
そしてそのまま、ぐいっと中の液体を煽った。その勇気に、オオオ、と全員が感嘆の歓声を上げる。テニス部員たちとて、これは例外ではなかった。
「い、いかがですか、ダンブルドア校長先生」
おそるおそる、やや青い顔で、ハーマイオニーが尋ねる。
デモンストレーションのために、貞治の作ったこの通称『乾汁』をダンブルドアに飲んでもらうのは事前に話がついていたことであったが、臨時マネージャーとして、貞治のレシピでこの汁を作った身としては、あんな材料のものをこの偉大な魔法使いに本当に飲ませるのかと、戦々恐々であった。
「うーん、百味ビーンズのゲロ味が世の中で一番まずいと思っておったが、勘違いであったようじゃ」
「それはつまり」
「ものすごくまずい。今にも気絶しそうじゃ」
と言いつつもダンブルドアの口調ははっきりしているが、豊かな髭でも隠せないほどその表情は歪んでおり、マクゴナガルでさえ初めて見る表情だった。
さらに、オエー、とお茶目に出した舌は真緑に染まっていて、周囲の人々が、ウッと顔をしかめる。
「校長せんせ、おおきに。……ほな、そういうことどすぅ。だらだら走っとおしたら、あの汁飲んでもらいますよってな」
「ふざけるなよ! なんでそんなことしなきゃならないんだ!」
ドラコが、喉が破れそうなほどヒステリックな声で叫ぶ。
だがこれにも誰も反論はなく、ネビルなど、首がもげそうなほどガクガクと頷いているし、ハリーやディーンの顔色も悪い。
「へぇ、そやけど体に悪いもんは入っとおへんし、むしろ飲んだあとは体の調子も良ぉなる、……て聞いとおすえ」
「信じられるか!」
「いつもの走り込みでも、真ん中からべべたのお人は飲んではりますえ?」
「──お前たちは一体何をしてるんだ!? 馬鹿じゃないのか!?」
このドラコの反論にも、誰も異議を唱えなかった。──当の部員たちでさえ、である。これほどまでに、ドラコの意見が全面的に肯定された日があっただろうか。
そして、毎日あの『汁』をいかに飲まないかで戦い続けている面々は、「本当に、なんで飲んでるんだろうね……」とつぶやきつつ、どこか遠い目で、それぞれあさっての方向を見つめている。
「へぇへぇ、とにかく時間も押しとぉし、さっさとしましょ。係のお人は、それぞれ自分の持ち場に行っとくれやす。ほな、たろセンセ、よろしゅうー」
「うむ」
パンパンと手を叩きながら紅梅が声をかけると、太郎がスッと進み出て、敷地入り口の脇に立った。
「位置について」
大声ではないのに不思議によく通る声で太郎が言うと、部員たちは慣れた様子で、そして参加者たちは慌てた様子で身構える。
それを見届けた太郎は、杖を真上に向かって掲げた。つやつやに磨かれた杖が、晴天の陽の光を反射して、美しく輝いている。
「用意、……行ってよし!」
太郎の杖の先から、ポン、と爆発するような音が鳴り響く。
途端、魔法魔術学校に通う魔法使いの卵たちは、己の肉体のみを使い、一斉にただ走りだした。