ホグワーツ魔法魔術学校硬式テニス部・一日体験入部5
《おーっと、三十人目のリタイアが出ましたね。マダム・ポンフリーの仕事がまた増えました。参加者の中にはまだゴールした者はいませんが、テニス部の面々は既に二周目を悠々と走っています──》
流れるような口調で饒舌に実況するのは、三年生のグリフィンドール生、リー・ジョーダンである。
アフリカ系のドレッドヘアの少年で、同級生のフレッド&ジョージの双子の親友でもある。双子のセットは特に有名だが、リーもまたホグワーツの寮対抗クィディッチ試合では実況解説を務める有名人でもあり、彼を含めたトリオで悪戯を企てることも多い。
《凄まじいですね。このスピードで走り続けていられるなんて、こんなにタフな人間は、なかなかいないのではないでしょうか。これは日本人だから? それともテニスプレーヤーだから? あるいは彼らだからなのでしょうか? どうなのでしょう、サカキ先生》
部員と参加者は外周を走っており、しかし見学者もとい観客たちはコートに置いてきぼりになってしまうため、採用されたのが、先端に通信機能付きのマイクを取り付けた箒に乗って参加者たちに並走する実況の彼と、魔法で映像を観客席に送る屋敷しもべ妖精たちを後ろに乗せた臨時マネージャーたちである。
そのため、観客席全員から見えるように用意された大きなスクリーンには、死屍累々といった様相で倒れこんだり座り込んだりしている多くの参加者を見ることができるし、リーの声は観客全員に聞こえ、その上、マイクで観客席とも通信が取れるのだ。
「──日本人だから、というより、マグル世界でスポーツマンであれば、この程度は特に特別なことでも何でもない。確かに、同じ年頃の他の少年らと比べれば、彼らは早いほうだとは思うが」
観客席にて、ダンブルドアの隣に腰掛けた太郎が、リーのマイクと通信機能のある同型のマイクを持って、淡々と答える。
その様子はごく平坦で、自慢げな様子も全くないので、彼に言うことが本当であるというのがよく分かる。
「マグルの世界には、走るということに特化した、陸上競技と呼ばれるジャンルのスポーツが各種ある。短い距離のダッシュ力を競う短距離走、また障害物を飛び越えながらのタイムを競うハードル走、また長距離走、特にマラソンなどがある」
「では今彼らがやっているのは、マラソン、ということになるのでしょうか?」
尋ねたのは、ダンブルドアを挟んで太郎の反対側に座っているマクゴナガルである。
教諭陣の前には通信機を兼ねたマイクがそれぞれひとつずつ設置されているので、その発言は全員にすぐわかるようになっている。
といっても、例えばスネイプ教諭などはむっつりと機嫌悪そうに腕を組んだまま、一度も発言していないが。
「そう言えなくもありませんが、オリンピック競技でもあるフルマラソンは42.195キロメートル──26マイル385ヤードを走るのが正式なので、今やっているのは、あくまでテニスの基礎練習としての長距離走でしかありませんな」
ざわ、と、観客席から、驚愕の反応が上がる。
だが太郎は、やはり淡々と続けた。
「ちなみに、フルマラソンよりも長い距離を走るものも、マグルの世界では各地でイベントとしてよく行われている。100キロメートル、およそ62マイル強を数時間かけて走りぬくウルトラマラソンの類や、もっと長いものでは、六日間の耐久レースや、アメリカ大陸横断というものもあるな」
《し、信じられない!》
絶叫に近いリーの声は、観客たちの総意だった。
「なぜそれほどまでに、“走る”という行為にこだわるのです?」
「こだわるというよりも、単にそれが効果的だからです。心肺機能の強化、筋力増強、そしてそれに伴う持久力の増加、つまりスタミナ、体力ですね。走るという行為はこれら全てを鍛えることの出来る効率的な行為であり、よって陸上競技にかぎらず、どんなスポーツであろうと、走るというのは基本の訓練メニューとなります」
そして基本であるがゆえに、どんなに上手くなろうと、走りこみをしなくなるという選手はいません、と太郎は続け、マクゴナガルは興味深そうに数度頷いた。
「また彼らのように肉体が成長期段階である場合、その効果はなお著しいものとなります」
「と、いうと?」
「これはマグルの世界でも、最近問題になっていることですが──」
文化の発展に伴い、外で単純な遊びをするよりも室内でゲームなどをする子供のほうが増えた結果、運動不足により、体力不足だけでなく、骨や筋肉が虚弱な子供が増えている、と太郎は言った。
「人間、いや生物の肉体というものは、“鍛える”ということができるようになっています。そして子供の頃に多く運動し、肉体を鍛えていれば、成長期が終わっても頑強な肉体を維持しやすい。これは医学的にどうこうというよりは、マグルの世界では単なる常識ですね」
それはわからなくはないので、質問しているマクゴナガルをはじめ、大勢が素直に頷いた。
「また医学といえば、魔法界の医術は素晴らしく、魔法薬ひとつですぐさま大怪我が治るというのは珍しくない。無論、例外もありますが──、魔法界の人々が、クィディッチ選手などを除き、身体を鍛えることにあまり関心がないのは、この素晴らしい魔法医学というのも理由のひとつだと私は考えています」
「興味深い話じゃ。ぜひ聞かせて欲しい」
ダンブルドアが、ずいと身を乗り出した。
最高権力者が興味を示したことから、太郎に更に注目が集まる。太郎は続けた。
「つまり、マグルは一度怪我をしたらなかなか治せない、もしくは治すのに非常に時間がかかるため、元から怪我をしにくい頑強な肉体を作り、また危険を回避できる運動能力を予め鍛えておく、という考えが昔から存在するのです」
「なるほど」
「そして今、マグルの世界でも医療技術が大きく発展したこともあって、魔法界と同じような現象が起きています。社会問題、とまで言われているくらいに。やはりマグルの世界においては、魔法界ほど劇的な治療方法は未だ確立されていないため、体を鍛えることは今も変わらず非常に有効な手段なのですが──残念なことです」
「ふむ」
「なお、運動不足が子供たちに与える具体的な影響は、体力低下や骨粗鬆症などを含む各種身体機能の虚弱化などだけでなく、肥満、高血圧症、糖尿病、高脂血症、動脈硬化症などの小児生活習慣病──」
ぎくり、としたのは、一人二人ではなかった。特に、“肥満”の部分で。
実際、魔法使いは極端に痩せているか、太っている、良く言ってもぽっちゃりした体型の者が非常に多いのだ。
「また、集中力の低下や、すぐイライラしたり癇癪を起こしたり──いわゆるキレやすいなどの自己抑制能力の低下、友達と一緒になって遊ぶことをしないがゆえの社会的能力の未発達など、精神的な成長も阻害するという、確かな記録が多く確認されています」
「なんと。……だが、わかるような気もするのう」
「またこういった歴史や文化、美意識が根底にあるため、肉体美は人間的魅力や評価に繋がる所が多くあります。痩せすぎていると頼りないと見られたり、太りすぎていると、自己管理ができない怠け者とみられる、などですな」
「まあ、その傾向は魔法界でも多少あるが……、そちらのほうがより厳しそうじゃのう。しかしそういうことなら、そのような評価も生まれるであろうなあ」
非常に納得したように何度も頷いてから、ダンブルドアは三つ目のレモンキャンディーを口に放り込んだ。あの緑色のドロドロした『汁』を飲んでからというもの、彼は一瞬足りともキャンディーを口の中から無くしたことはない。
「──マダム・ポンフリー。この中で子供たちの怪我や病気を一番診てきているのは貴女だと思うが、サカキ先生の意見についてどう思うかね」
《非常に興味深い上に、納得できる部分ばかりですね》
マイクで拡声された厳しい声が、観客席に響いた。
ぱっとスクリーンの画面が切り替わり、ホグワーツ魔法魔術学校の校医、マダム・ポンフリーの姿が大写しになる。その背景には、うーんうーんと唸り声を上げ、出張救護室と銘打った、地面に敷いたシーツの上に寝かされている、走りこみをリタイアした参加者たちが写っている。
《怪我をしにくい丈夫な体と運動神経を養う、非常によろしい。スポーツ選手ほど頑強な肉体を誰もが作り上げろというのは難しいでしょうが、適度な運動によって健康的な状態を維持するというのは、非常に望ましいことです。私も全面的に支持します》
具体的には、先ほどやっていたラジオ体操などとてもいいと思いますね、と、マダム・ポンフリーは強い口調で言った。
「おお、それは良いのう。音楽があって楽しいし、儂もあれは気に入った」
《私もそう思っております。──そう、それと、先ほどサカキ先生が仰っておられた、要するに“どうせすぐ治せるのだから”というような考え方。本当に、あれが一番いけません》
マダム・ポンフリーの声が、ぐっと低くなった。
《どうせ治るのだから、と無茶をして、平気で大怪我こしらえて私のところにやってくる生徒たちを、私はもう数えるのもばかばかしいくらい相手にしてきました。それこそスポーツ選手でもない、ひ弱な身体で無茶をすれば、治せないことも多いというのに──》
気丈な女医の眉間に、深い皺が寄る。
《あんまり怪我をなめている時は、治療で苦しい思いをすれば学ぶかと思い、なるべく痛い目を見る治療法を選んで思い知らせることも辞しておりませんが、それでもまあ、馬鹿は死なねば治らないというあれでしょうか》
マダム・ポンフリーの治療の容赦の無さは誰もが知っているが、その理由がいま初めてはっきりと明かされ、生徒たちはぐっと息を詰まらせた。
《──ただの愚痴になってしまいましたね。申し訳ありません、皆さん。要するに、魔法使いの多くは運動不足のひ弱な身体であるという自覚はもちろん、いくら鍛えようと自分の体を過信するのはいけません。が、健康的という最低ラインを維持することによって、少なくとも軽度の怪我や風邪などを予防するというのは、とても素晴らしいことだと思います。それに》
ひとつ呼吸して、マダム・ポンフリーは少し茶目っ気のある声で言った。
《健康的な身体を維持すれば、肌や髪もきれいになりますし、目は輝きを増し、太りにくくなります》
その時、特に女子生徒、いや、女性教諭らも含め、皆の眼の色が変わった。
《その証拠に、日本人留学生らは皆肌が綺麗で血色もいいですし、髪もちっとも荒れていません。痩せすぎても太りすぎてもいませんし、男子生徒は皆、平均より背も高いですしね。あの様子なら、将来はサカキ先生のような、スマートかつ逞しい、理想的な姿になるでしょう》
賞賛を受け取った太郎は、優雅に肩を竦めた。組んだその脚は長く、すっと伸ばした背筋はまっすぐで、ちょうどよく厚い胸が男性的である。もう四十歳に手が届こうとしている太郎だが、肌や髪もつやつやとしている。
その姿に、多くの女性達が、ほぅ、とため息をついた。
「そうですね。魔法界ではダイエットというと食事制限が一般的で、愚かしいことに魔法薬を使う者もいて、それによって体調を崩すことも多いですが──、実際は、よく食べてよく動くことが最も健康的で、美しい肉体を作ります。皆さん、彼らのようになりたかったら、ハードなことをしろとは言いませんが、適度な運動は必要ですよ」
太郎のそのすさまじい説得力のある言葉に、多くの生徒が、せめてラジオ体操は参加しよう、と心に決めたのだった。
《……えーと、難しくて耳の痛いお話は終わったでしょうか? 終わった? 了解です。あ、マダム・ポンフリーによると、リタイアした奴らは運動不足によるこむら返りや捻挫、体力切ればっかりだそうです。休めば治るってさ》
むしろ明日からまた走って体力をつけろってお達しなんだけど……、とリーは肩を竦めた。
《さて、気を取り直してまず参加者。生き残っているメンバーを紹介しよう! まず先頭を走っているのはホグワーツでも体力馬鹿──いやいやタフガイとして有名なグリフィンドールのクィディッチ・マン、オリバー・ウッド! 留学生たちには全く追いつけていないけど、参加者の中ではぶっちぎりトップ!》
実況とともに、魔法族としてはがっしりした体型のオリバー・ウッドが走る姿が、スクリーンに映し出される。
だれずによく走っているが、表情は辛そうだ。グリフィンドール代表チームのキーパー及びキャプテンであり、クィディッチ選手の実力見せてくれる、と息巻いていた彼なので、半ば意地と根性で走っている部分も大きいだろう。
《後続は、だいたいクィディッチ選手の面々ですね。特にキャプテンやビーター、次いでチェイサーたちが走り続けております、さすがというところでしょう。また他に走っているのは、一年生! えーと、名簿を失礼。やはりマグル出身者が多いですね。先ほどのサカキ先生の解説通り、マグルはタフ、ということでしょうか》
ひと塊になって走っているのは、リーの言う通り、クィディッチ・チームからの招待枠の面々である。非常に辛そうな顔をしてはいるが、オリバーと同じく、意地でもリタイアしないという気概がスクリーン越しでもよくわかる。セドリックもその一人だ。
フレッド&ジョージの双子が走っている所が写ると、カメラに気づいた二人は、疲労の浮かぶ表情をぐいっと切り替えて、いつものおどけた笑顔を作って手を振ってみせた。
そしてそれに混ざって、ディーン・トーマスなど、マグル出身かつスポーツ経験のある面々がいる。ディーンは久々に思い切り運動できるのが嬉しいのか、それなりに疲れた顔もしているものの、それ以上に楽しそうである。
「……ロン、だいじょう、ぶっ?」
ディーンたちの塊に少し遅れた所で走っていたハリーは、すっかりよたよたとしているロンに、息を切らせながら声をかけた。
しかしロンは無言で、そばかすだらけの顔はいっそ白い。真っ赤な髪のせいで、余計に紙のような色に見えた。口からは、ひゅうひゅうと隙間風じみた息が漏れている。
「無理、しないほうが、いいよ」
返事をせず、どたどたとした足取りで、しかしリタイアの言葉も言わないロンに、ハリーは心配そうに言う。しかし、やはりロンから返事はなかった。
ちなみに、ネビルは1キロも走っていない所で横腹が痛いだのもう走れないだの泣き言を言い、おまけに足をもつれさせて転び、急に動くのをやめたせいでこむら返りを起こし、とっくにリタイアしている。
ハリーはプライマリースクールで体育の授業を受けていたし、ダドリーたちに追い回されて半日走り続けたりした経験が何度もあるせいか、自分が予想していた以上に走れていた。
こうしてきちんと走ったのは初めてだったので、自分はこんなに走れるのか、とびっくりしてもいる。──だが、悪い気分ではなかった。
走りながら喋れるくらいなので、実はもっとペースを上げて走れるのだが、初めて出来た同い年の友人であるロンがどうしても心配で、ハリーは彼の横を、ゆっくりめに走っていた。
ロンもまた、ハリーが自分に合わせてゆっくり走ってくれていることはわかっている。ハリーに申し訳ないし、何より自分が情けないので何とかもう少し早く走りたいのだが、どうしても足がしっかり動かないし、呼吸もよくよく整えられない。
冗談抜きでゾンビのようになっている友人に、どうしたものか──、と、ハリーは困った顔をする。
そしてその時、後ろから、ダダダダダダダ、と、まるで馬でも走ってくるような音と、わずかな振動、そして移動しながら発される声が、凄いスピードで近づいてきた。
「ぬ、る、い、わああああああああああ!!」
「エッ、クスタッ、シィイイイイイイイ!!」
効果音をつけるなら、ばびゅん、とでもいおうか。
いつだったか、ダーズリー家の前を、大音量の音楽を流した派手な車が通過していった時と同じ現象──ドップラー効果を起こしながら、猛スピードで、弦一郎と蔵ノ介が横を走り抜けていった。そのスピードのせいか、通り抜けた時、わずかに風も感じた。
確か、彼らはもう二周目を走っているところのはずだ。あの調子なら、すぐ三周目になるだろう。
しかも、彼らはあのスピードで走りながら、大声で何やら言い合っている。そのあまりの体力にハリーが唖然としていると、どさり、と、斜め後ろで何かが倒れる音がした。
「──ロン!」
まるで、至近距離を通り抜けた車の風圧で転ぶような感じで倒れたロンに、ハリーは慌てて足を止めた。うつぶせに倒れたロンは、ぜーぜーひゅーひゅーと呼吸をしながら、しかし初めて顔を上げ、ハリーを見た。
「ハリー……、僕のことはいいから、先に行け……」
「なんかよくわからないけど縁起が悪いよロン! しっかりして!」
「足痛い……」
「えっ、もしかして、怪我した?」
「たぶん……、イタタタタタ」
捻挫かも、と呟くロンの表情からして、嘘ではなさそうだ。
それに、ロンと友だちになってまだ日は浅いが、彼がここまで頑張ったのに今更仮病を使ってリタイアするような性格でないことを、ハリーはよく知っている。
「あららー、大丈夫?」
「捻挫か、こむら返りかな?」
「屋敷しもべ妖精を呼ぼう」
穏やかな声が降ってきたので、ハリーはそちらを振り向いた。
すると、足踏みのように軽い足取りでスピードを落としつつ、清純と精市、そして周助が、倒れたロンを見遣っていた。三人共、汗もかいているし息も上がっているが、手慣れた様子だし、表情はけろりと涼しげである。
周助が手を上げると、どこからともなく屋敷しもべ妖精がやってきて、手際よくロンを担架に乗せた。そのまま甲高い声で「救護室行き!」と宣言し、えっさほいさと走ってゆく。
──もしかしたら、魔法使いより、屋敷しもべ妖精のほうが体力があるんじゃないかなあ、と、担架に乗せたロンを二人で運んでさっさと走る姿を見て、ハリーはぼんやり思った。