ホグワーツ魔法魔術学校硬式テニス部・一日体験入部1
「真田、聖水作るの手伝ってよ」

 それはホグワーツ入学後、最初の土曜日のこと。
 二年後、日本の私立中学に入学するため、太郎による、マグルの普通科目の授業がある日である。

 留学生でない一般生徒の参加も可能であるが、参加者はやはり、レイブンクローの生徒が目立つ。
 また、魔法界らしい授業ばかりであることに不安を覚えたマグル出身の生徒たちが、数学や理科科目などの授業を受けに来ており、なんだかホッとした表情をしていた。

 もちろんハーマイオニーはすべての日程に参加表明をしており、さすがのもので、ほとんどの問題を軽々解いていた。
 さらに、日本人留学生ら特有の『国語』──すなわち日本語の文法問題では、「ひらがなとカタカナと漢字の三種類? 常用の漢字だけで約二千字!? しかも読み方が変化するの!? 全部で約十万字ですって!? 敬語と謙譲語、文語と口語!? 複雑にも程があるわ!」と、世界でも難しい言語と有名な日本語に対し、辟易するどころか、非常にやる気が刺激されたようだった。

 ──閑話休題。

 そんな、なんだかもう懐かしい気さえする“普通”の授業の後、教室を出ようとした時、精市が言ったのが、冒頭の台詞だった。

「聖水……? あの、紅梅の髪を洗った水か」
「そうそう。あの時のは結構簡単にちゃちゃっと作ったやつだけど、ちょっと本格的にっていうか、全力のやつを作ってみようと思って」
「……何に使うのだ?」

 すぐに了承しないあたりが、弦一郎の、精市との付き合いの長さを表している。
 弦一郎の隣にいる紅梅が、きょとんと首を傾げていた。

「『闇の魔術に対する防衛術』の授業、どう思った?」

 そう言われた途端、弦一郎は、顔を顰めた。紅梅の顔色も、あまり芳しくない。
 先にグリフィンドール・ハッフルパフ組から話を聞いていたとはいえ、クィリナス・クィレル教諭による『闇の魔術に対する防衛術』の授業は、控えめに言って、最悪だった。

 相変わらず用意のいい紅梅が事前にローブや制服に防臭スプレーをかけてくれたのだが、あまりにニンニクの臭いが強烈過ぎて、ほとんど意味を成さなかった。
 おまけにクィレルの授業ときたら、詳細があやふや、かつ、自慢しているのか嘆いているのか愚痴っているのかわからないような武勇伝を語るばかりで、何の参考にもならない。
 授業という体裁すら成していない約二時間は非常に苦痛でイライラさせられるもので、ピンズ教諭のように、教科書をただ朗読している方がまだましだ、と、誰もが思っていた。

「あのニンニク、臭いだけで、吸血鬼を撃退するどころか、虫が寄ってくるだけだろ。だから教室を掃除して、強烈な結界や聖水を提供しようと思って。ニンニクぶら下げなくても、吸血鬼が寄ってこないって安心できる環境になれば、先生も今よりマシな授業をしてくれるかもしれないし」
「……なるほど。それはなかなかいい考えだな」
「そうだろう?」

 精市は、にっこり、と微笑んだ。

 弦一郎は、神も魔も退ける、少し珍しい魔力の持ち主だ。
 そしてその魔力は非常に『闇の魔術に対する防衛術』向きであり、それは蓮二、周助や景吾、紫乃も認めているところだ。
 きちんと習得できればかなりの得意科目に出来そうだというのに、肝心の教師と授業があの調子だいうことを、弦一郎は実は非常に残念に感じていたのだ。

 どうしても諦めきれなかったため、補習授業にて、きちんとした『闇の魔術に対する防衛術』が学べるよう、紅梅を通じて太郎にすでに相談済みである。
 しかし、単純にあの教室には本当にうんざりしていたし、強迫性障害か何かなのではないかと思うようなクィレルがちゃんとした授業をしてくれるのならば、太郎から別途補習授業を受ける時間の無駄もなくなるし、協力するのはやぶさかではない。

紫乃ちゃんと不二は結界作りを引き受けてくれたし、乾と白石は、強力な消臭剤と、魔除けの効果があって、いい匂いのする芳香剤を作ってくれてるよ。跡部は材料全般の調達を任されてくれてるし。こっちは蓮二と手塚が全部管理してくれてるから、俺はメインの聖水担当なんだけどね?」
「ふむ。それはわかったが、俺は何をすればいいのだ?」
「難しいことじゃない。ただ杖でグルグルかき回してくれれば」
「……それだけか?」

 まだ何の魔法薬も作成したことのない弦一郎は、聖水と聞いて何か特別に難しいことをするのかと思っていたので、あまりに簡単な内容に、拍子抜けした。

「基本的には、俺が作っちゃうから。……で、この間から、お前がかなりの魔除け体質だってことがわかっただろ」
「うむ」
「だからそうやってお前の魔力を練り込むだけでも、かなり効果があるんだよ。あ、ちゃんも、良かったら協力してくれると嬉しいな」
 紅梅にも声をかけると、紅梅は、もちろん、と頷いた。

「へぇ、うちに出来ることがあるんやったら……」
「ありがとう」

 快く了承してくれた二人に、精市は、満面の笑みを浮かべた。



「今日は嵐の後で、何もかも清められてるからね。聖水を作るには絶好の日だよ」

 と言って精市が二人を連れてきたのは、ホグワーツ城のすぐ近くにある、大きな湖の畔だった。湖とはいっても実のところ泉でもあり、底から水が湧いているらしい。
 だが精市が言ったとおり前日は嵐だったので、水は濁り、周囲の木々の枝葉がそこら中に散らばっていて、あまり綺麗な様子ではない。
 精市は、透明なクリスタルの大きな器──何も知らずに見れば、高級そうな花瓶にも見えるものを抱えている。

「一番きれいな水を持ってきて。この器いっぱい」

 いきなり精市がそう言ったので、二人は驚いた。──つまりはこの泥沼状態の湖から清水を汲んで来い、と無理難題にも程が有ることを命じられたのかと思ったのだが、さすがにそれは違っていた。
 精市がそう言った途端、水辺から何かきらきらしたものが舞い上がり、湖の周辺を漂ったり、水に潜ったりし始める。

「……せぇちゃん、あれ、なに?」
「ん? 精霊」

 ──そんな、さらりと言われても。

 二人は同じことを思ったが、精市はなにもかも当然というような様子で、にこにこしたままだ。
 そして精霊であるらしい煌きが、湖とクリスタルの器を行ったり来たりする度に、器の中に、少しずつ水が溜まっていく。その水は、泥はもちろん、見るからに何の不純物も混ざっていない、とても美しいものだった。

 使役する術すらこの世に存在しない、自然界の理の一部と考えられている精霊を、当然のように使うその姿は、幸村精市、彼が正真正銘の神の子であることを、はっきりと証明していた。

 しばらくして器がいっぱいになると、精市は水をじっと見て、「うん、大丈夫。ありがとう」と頷く。
 精霊は彼の周りを激しく飛びまわり、それぞれが強く輝くと、また湖に戻っていった。三人には、精霊たちとやらが何を言っているのかまるでわからないが、なんとなく、とても喜んでいたような気がした。

「まあ、これだけでも聖水ではあるんだけど。さらに浄化するね」

 精市は器をそっと下ろし、器に両手を添えた。
 そして何かぶつぶつと、呪文らしきものを呟く。
「──清まれ」
 最後に彼がそう言うと、水の中央から、しゅう、と、水蒸気のようなものが上がって消えた。残った水は、先程よりもさらに澄んで、キンと眼球の奥を突くような透明度を放っている。

「よし、いい出来。じゃあ真田、はい」
「ただかき回せばいいのか?」
「んー、抱えたほうが魔力がよく浸透するから、左手で持って」
「うむ」
「かき回すのはゆっくりね。渦にならないぐらいのスピードで、時計回りに」
「わかった」

 しっかり頷いて、弦一郎は器を左腕全体で抱えるようにして持つと、十手、もとい杖を水の中に差し込み、ゆっくりと回し始めた。

「うん、その調子。そのまま休まず、二時間頼むね」
「にっ、二時間!?」
 ぎょっとして、弦一郎が顔を上げる。紅梅も、目を見開いていた。
 しかし、それも無理もない。クリスタルの器は重く、並々水が入っているので、ゆうに五キロ以上はある。しかも、水に流れを与えない程度の動きは、ゆっくりであるだけに地味につらい。

「協力してくれるって言っただろ。お前がやらないと意味ないんだから、交代したらだめだからな。じゃあ俺、他のみんなの様子見てくるから、よろしく。二時間後にまた来るね」

 そう言って、精市はさっさと身を翻して、ホグワーツ城に帰って行ってしまう。
 二人は、呆然として立ち尽くした。



 ──そして、二時間後。

「や、調子どう?」
「聖水作ってるって? どんな感じ?」

 精市が清純を伴って、湖のほとりに戻ってきた。
 清純はフェリックス・フェリシスを作る参考になればと、聖水作りを見学に来たらしい。

 弦一郎と紅梅は二時間前そのままの場所にいたが、さすがに立ったままというのは辛かったため、椅子を運んできてそれぞれ腰掛けている。
 見た目は湖の畔で身を寄せ合っているカップルだが、弦一郎は眉間に深い皺を寄せ、何も入っていない水の器をぐるぐるかき回しているという、一見奇行にしか見えないことをしているし、椅子を並べた紅梅は、彼の二の腕を、一生懸命揉んでいる。

「ああ、二時間まであと三分ほどだが……」
「ほんとに二時間休みなくやってくれたのか。ありがとう」
「ちょっと待て」

 やはり腕が辛いのだろう、弦一郎の険しい表情が、もっと険しくなった。
「“ほんとに”とはどういう事だ。休んでも良かったということか!?」
「いや、休んでもいいけど、休めば休んだだけまた手間と時間が掛かるし、出来は甘くなる。まあ二時間ぐらい、真田の頑丈さなら大丈夫かなーと思って、しんどくても一番いいものが出来る方法を頼んだんだけど?」
「くっ……」
 そう言われれば、弦一郎は何も言い返せなかった。
 それに、納得行かない顔をしながらも、そしてそう言われながらもやはり手を止めていないところからして、弦一郎は根っから律儀なのだ。

「というわけで、もう止めていいよ」
「……はぁ」
「おくたぶれはんどした、弦ちゃん」
「真田君、おつかれ!」
 杖を水から抜いて仕舞い、腕をぐいぐい回している弦一郎を、紅梅と清純が労る。

「うわ、期待以上だな、これ」

 クリスタルの器を覗きこんだ精市は、目を見開いてそう言ったあと、にんまりした。
 目に痛いほど澄んでいた水は、ビシッ、バチッ、と音を立てて、小さく放電している。
 嵐によって浄化された土地から、精霊が汲んできた清水を神の子である精市が浄化し、そして特異なレベルの魔除け体質である弦一郎の魔力が、二時間にわたってじっくり休みなく練りこまれた結果であった。

「んー……、でもこれ、練りすぎ」
「はァ!?」

 今度こそ、弦一郎のこめかみに青筋が浮いた。

「いや、お前の魔力って、魔除け効果抜群だけど、他のものも一緒くたに避けちゃうだろ? 精霊すら寄り付かなくなってるもんこれ」
 いやあまさかこれほどとは、とのほほんと言う精市に、弦一郎の髪が、ざわりと浮いたような気さえした。
 見ている清純は、こういう感じで今まで喧嘩を繰り返してきたんだろうか、とぼんやり思った。だいたい正解である。

「あ、そうだ。ちゃん、髪の毛ちょうだい。二、三本でいいから」
「へぇ?」
 紅梅が、首を傾げる。
「陰陽道的に言うと、真田の魔力がぶっちぎり“陽”で、ちゃんが対極な感じで“陰”だってのは言っただろ? そして、陰陽は本来混ざり合うようにできてる。だから君ら正反対のくせにそんなにべったり相性良い──いやまあそれはどうでもいいや」
 精市は一度小さく首を振ると、紅梅に言った。

「まあ要するに、真田の魔力が何でもかんでも跳ね除けてる今の状態を、ちゃんの魔力で相殺して、いいとこだけ残すってこと。あれだよ、獣臭い肉に薬味まぶして臭みを取るみたいな感じだよ」
「他に言い方はないのか!」
 弦一郎が怒鳴るが、もちろん、精市は「えー、すごい的確な例えだと思うんだけど」と、蛙の面に小便もいいところである。
 清純は、いつ怪獣大決戦が始まってしまうかとひやひやした。怪獣を鎮める役目の美人がいるので、まだ何とか安心だが。

「えっと……。聖水って陰陽術的なものなの?」
 空気が険悪な方に行かないようにという配慮もあり、清純が尋ねる。
「ん? いや、これといってどこのものっていうのはないよ。作り方もそれぞれだしね」
「そうなんだ?」
「うん。まあ俺はこうして、とにかく悪いものを寄せ付けない、浄化するってことを念頭に置いて、何でもかんでも混ぜて、最終的に調整しておしまいって感じかな。テキトーで大丈夫だよ」

 ──そんなことで大丈夫なのだろうか。
 と、正直三人は思ったが、「聖水を作るのが得意」な精市が言うことであるし、何よりその聖水がピーブズの“穢れ”を綺麗さっぱり浄化したのを自分の目で見ているので、素直に口を噤んだ。

「それで、そうでなくても、乙女の髪ってものは、聖なる捧げ物としては王道で、超効果的なんだよ。ちゃんぐらい魔力籠もりまくってる髪なら文句なしだし、こないだの一件でがっつり浄化したから、ちょうどいい」
「へぇ、そういう事どしたら」

 紅梅は頷き、ローブの内側から、掌に乗るくらいのソーイングセットを取り出す。
 そしてその中から小さな握り鋏を取り出すと、サイドの長い髪を三本取り、前髪と同じくらいの長さのところでぷつりと切った。

「これでええ?」
「うん、ありがとう。じゃあ蓋に巻いて、結んでくれる? せっかく切ってもらったのに、男が触るとあんまり良くないから、お願い」
「へぇ」

 言われた通り、紅梅はクリスタルの蓋の取っ手に、自分の髪をくるくると巻きつけると、端を固結びにして、蓋を閉めた。
 すると、時々水中に走っていた放電のような音が、だんだんと、しかし明らかに少なくなっていく。

「お、成功! じゃあこれで一晩くらい寝かせて、魔力が全部均等に混ざったら──、あ、真田の魔力の臭みが取れたら、ひとまずオッケー」
「言い直す必要はなかっただろう、今のは!」
「まあまあまあまあ真田君落ち着いて! 幸村君も、いちいちそういうこと言わない!」
 清純が、慌てて割って入る。
 明王像の如き憤怒相と化した弦一郎と、「フフ」と無駄に優雅に、きらきらしく微笑む精市の間で、清純はどっと疲労を感じた。

「じゃ、これから一週間、よろしくね」
「……………………は?」

 重たい容器をどっしりと手渡された弦一郎は、ぽかん、と口を開けた。精市はにこにこしている。

ちゃんの時みたいに、汚れがついてすぐだったら、一日で作った聖水で十分だけどね。でもあれだけ汚い教室を浄化するんだったら、毎日少しずつ練って、しっかり熟成させたやつじゃないと」

 うんうん、と頷いている精市を前に、両手で聖水の容器を持たされた弦一郎は、呆然としている。

「最初の手順はこの通りすごくうまく行ったから、あとは日の当たらない、涼しめの清潔な場所に保管しつつ、朝晩二回、底の方から三十分ぐらいずつ丁寧にかき混ぜて、今みたいに蓋をしてまた静かに置く、っていうのを一週間やれば完成」
「…………なんや、糠床みたいやなあ」
 ぼそり、と紅梅が言った。
 確かに、手順としては、ぬか漬けの作り方ととてもよく似ている。



 とんだ面倒事を押し付けられてしまったものの、一度引き受けたからには、と弦一郎はそれを律儀に自分のベッドの脇に置き、毎日朝晩、これをかき混ぜることになった。
 余談だが、半地下にあり、ひんやりした石床のハッフルパフ寮の部屋は、ぬか漬けならぬ聖水を作るには、なかなか適している。

 そして憂さを晴らすように夕食までテニスをして、ホグワーツで最初に過ごす土曜日は終わったのだった。
一日体験入部1//終