黄玉の絆(4)
グリフィンドール組が授業に向かったのを見届けて、紅梅はハーマイオニーを探すべくホグワーツの校内をゆったりとした足取りながら、けれど迷わず歩いていた。
真田と千石も、先ほどの状況を見聞きした身としては他人事でいられず、協力を申し出たのだが「二人はテニスの練習しとおすやろ?」とやんわり訊ねられ、たじろいだ。午前中、目いっぱい勉学に励んだのでそろそろ全力で身体を動かしたくてウズウズしていたのだ。身体は正直である。
また、「そやし、ここは女同士だけの方がええと思うし」とも言われてしまうと、異性としてはそれ以上に強くは出られない。
置屋でたくさんの姉芸妓に囲まれて育った紅梅は、厳しいお稽古を終えた姉芸妓がひっそりと泣いている姿だって見たことがある。思うようにお稽古をこなせない歯がゆさ、情けなさを彼女たちは誰にも明かさずに一人で感情を吐き出すのだ。
人前で泣けないから、隠れて涙する姐たちをよく知っている。だからこそ、泣いているだろうハーマイオニーの元に三人で向かうのは憚られた。
しかも、女子だけならともかく異性である男子も一緒だと、ハーマイオニーの自尊心を傷つけてしまうかもしれない。
真田と千石の二人は、そういった女子の感情の機微を異性ゆえに理解しきれない。それはもちろん当然であり、仕方のないことであるので、やんわりと止めた紅梅に対して素直に従うことにした。
女子には女子にしかわからないことがあるだろう、と思ってのことだった。
さて、紅梅の足は真っすぐにある場所へ向かっていた。
ハーマイオニーが走って向かう先。感情のまま、思いつくままに駆けて辿り着くとすれば、まずはグリフィンドール寮へと向かうはず。しかし、そこで寮生の誰かと鉢合わせになってしまって泣き顔を見られたくないというプライドが、自室へと戻ることを躊躇わせるだろう、と考えた。
――――そうなると、答えは簡単だ。
「ああ、良ぅおした」
グリフィンドールから最も近い女子トイレの個室。
鍵を掛けて閉じこもってしまえば、誰にも見られず、一人になれる。
女子トイレ内に木霊する小さな嗚咽に、紅梅は眉尻を下げた。さて、どうしようか。考えて、コンコンとノックをする。
「……だ、れ?」
涙声で、鼻水をずずっと啜る音が聞こえた。
「もしかして、シノ? それともコウメ?」
「へえ。うちや」
いつも通りにやわらかい音に、ハーマイオニーの涙腺は再び緩んだ。
「しーちゃんも探しに行くて言うたはったんやけど、ハーちゃんの代わりに授業のノートをとる必要があるし授業や。けど、終わったらすぐ飛んで来はるえ。せえちゃんも、白石はんも、ポッターはんも……ウィーズリーはんも」
「そんなこと、ないわ……」
さんざん泣いたのに、まだ涙は出る。ぼたぼたと涙が制服のスカートに落ちて、染みになる様を眺めながら、ハーマイオニーはしゃくりあげた。
「ロンの、言う通りよ。私、お節介すぎて、みんな私のこと、うっとうしく思ってるに決まってるもの」
紅梅は、じっと黙ってドア越しに耳を傾けた。途切れ途切れながらも紡がれる言葉たちを、絶対に聞き逃すまいとでもいうように。
「私、自分でも、自分が、嫌になるわ。どうやったら人と、上手く、適度な距離を、取れるのか、わからないの……っ、それで小学校では、たくさん、失敗したわ。規則にうるさい、ガリ勉女って、言われたわ。だから、ホグワーツでは、うまくやろう、って……でも、全然、ダメ……」
大切な友達だから、友達が困っているなら、自分が知っている知識をすべて分け与えたいと思った。
友達が困っていなくても、これから友達が困らないようにあれこれと教えてあげたいと思った。自分が得意なことは勉強しかないから、勉強面で力になりたいと強く思ったのだ。
けれど、一生懸命すぎて、自分中心でしか物事を考えていなかったのだ、とロンのウンザリした表情で理解したのだった。結局、自己満足でしかなかったと痛感したのだ。
自己嫌悪から涙が止まらない。
そして、また人に嫌われるんだという悲しさと苦しさから、胸が押しつぶされそうだった。
「うち、ハーちゃんが好きえ」
「……っ、コウメ……?」
「ハーちゃんみたいに親切で、友達のためにいつも一生懸命になれる人、そうそういてはらへん」
物語を読みあげるような、ゆったりとした落ち着いた声。耳に優しい紅梅の声が、ハーマイオニーはとても好きだった。
その声が、好きだと言ってくれた。
嘘でも嬉しくて、たまらなくなる。
「こない友達思いのハーちゃんを悪ぅ言わはるお人は、見る目ぇがあらへんかったん」
可哀相やなあ、と声が笑っている。
「うちはすごぉく大好きえ」
はっきりと言い切られて、ハーマイオニーは扉を開けた。
ドアの前に立っている紅梅は、あの少し伏目がちの垂れ目は緩やかに曲線を描いて笑ってくれている。その表情に嫌悪など、何一つない。眉毛を下げて、小さめの唇に柔らかい微笑を刻み、ハーマイオニーを温かく出迎えてくれた。
待っていてくれたのが紅梅でなく、別の誰かだったら、「そんなのウソよ」と突っぱねたかもしれない。けれど、紅梅だったから、ハーマイオニーはすんなりと受け入れることが出来た。母親の腕に誘われるような包容力は、けっしてハーマイオニーを傷つけるものではないことを本能が知っていたのかもしれない。
くしゃ、と顔を歪めるハーマイオニーに、「ああ、そないに泣かんで」と、鈴の音を転がすような声が案じてくれる。
しゃらり、と音がしそうな黒髪が揺れるのが、視界の端に映る。
差し出されたハンカチを受け取ると、ふわりと白梅の香りがして、優しい気持ちになれそうだと思えた。紅梅の前では意地を張らなくてもいいと、思えた。だから素直になれる。
「コウメ、ありがとう……っ、わ、私も、コウメが、好きよ」
「みんな、好き」、言って、ワッと泣いた。
そんなハーマイオニーの傍に、何も言わずにそっと紅梅は寄り添ったのだった。
「……瞼、腫れてないかしら?」
ひとしきり泣いて落ち着いた頃、洗面所の前の鏡でハーマイオニーは溜息した。
思いっきり泣いたので、瞼が痛い。聞かずとも目元が真っ赤なのはわかっていたし、鏡でも確認済みだが、質問せずにはいられなかった。
「へえ。そやけど、氷で冷やしたら大丈夫や」
なりふり構わず泣いていたので、ぐしゃぐしゃに乱れた彼女の髪を、紅梅が丁寧に梳いた。くせの強い白人特有の金髪なので、あらかた梳いたら髪ゴムで結うことにした。
紅梅の私物の髪留は、どれも日本のもので美しいことを良く知っているハーマイオニーの心は弾む。女の子は誰でもおしゃれが好きだ。綺麗にしてもらって嬉しく思わないはずがない。
「まだ部活とちゃうし、テニス部の部室に氷があるよって、冷やしたらどうやろか?」
「えっ、でも私、テニス部員じゃないわ……」
勝手に部室に入ったら迷惑じゃないか、と遠慮を見せるハーマイオニーに、にこりと紅梅は微笑む。
「体験入部のときに手伝ぅてくれたハーちゃんに迷惑や思うお人はいてはらへん」
今は誰にも会わずに気持ちを落ち着けたいだろう、とハーマイオニーを思っての申し出だった。紅梅の考えを知らないハーマイオニーだったが、グリフィンドール寮に戻るよりも、静かな場所に居たいと思っていたので、紅梅の申し出はとても魅力的だった。
いつまでも女子トイレに居る訳にもいかない。
にこにこと何も言わずに待っていてくれる紅梅に、甘えることにした。
「……少しだけ、お邪魔してもいいかしら?」
「へえ」
鏡越しに、そうっと紅梅の姿を盗み見る。
その返事はもちろん断りではなかったので、ホッと胸を撫で下ろし、顔を洗う。
「……あら?」
ひんやりとした水で顔の火照りを冷まし、そろそろいいだろうと蛇口を捻り、水を止めて。そうして、顔を上げる。
ぽたぽたと水の滴る自身の顔を鏡で見て、ハーマイオニーは首を傾げた。
「どないしたん?」
「私、こんなところにホクロがあったかしら?」
じっと鏡を見つめるハーマイオニーを不思議に思い、紅梅が問うと、「此処」と言って右目の下を人差し指で示しながら振り返ったハーマイオニーに、きょとんとする。
「見当たらへんけど……」
「え? 見間違いかしら? でも、確かに――――」
瞬間、二人の視界は反転する。
「――――捕まえた」
心臓を掴むような、声が囁き一つ。
二人の姿は、忽然と消えた。
――――同時刻。
紅梅の説得に従って、マクゴナガルの授業を受けているグリフィンドールの面々は、なかなか授業に集中することができなかった。
特に、ロンと紫乃は何度も教室の時計を見上げた。見上げる度に、あまり時間が進んでいなかったので、しゅんと肩を落とす。授業に集中しなければ、と何度も気持ちを切り替えようとするのだが、うまくいかない。
ハーマイオニーのために授業をしっかり聞いておかなくてはならないのだが、どうしても彼女のことが気になってしまうのだ。
ハア、と何度目かわからない溜息を、ロンが吐き出したのをハリーが見ていた――――その時だった。
「……ひっ」
ぞわり、と全身が粟立つ感覚。小さな悲鳴と共に、思わず立ち上がった紫乃。ハリーを始めとしたグリフィンドール生たち、更にはスリザリン生を含めた教室中の生徒の視線が紫乃へと向けられ、またしても悲鳴。
「ミス・フジミヤ、どうしたのです?」
「す、すみません!」
真っ赤な顔で頭を下げ、着席した途端に、紫乃の顔色は真っ青になった。席が近いハリーには、紫乃の顔色の悪さがすぐにわかった。
隣の席の幸村は当たり前だが的確に見抜いている。
「どうしたの、紫乃ちゃん」
「う、うん……」
恐ろしく、けれどとても美しく暗い声が、紫乃を捕えた。全身から冷や汗がドッと吹き出し、心臓が五月蠅い。なにか良からぬものを感じ取ったけれど、それをどう伝えていいのか紫乃にはわからない。
ただ、
(ハーちゃんと梅ちゃんの二人に、何もなければいいんだけど……)
授業を受ける前から二人のことが心配だった。
この胸騒ぎが、二人と無関係なものであればいい、と願えば願うほど、不安に駆られてゆく。
もう、紫乃は耐えられなかった。
「――――ですから、この魔法は質量変化のみならず、」
「マクゴナガル先生!」
「……どうしました? ミス・フジミヤ」
ガタッと立ち上がり、小さく叫んで挙手した紫乃に、幸村や白石だけでなく、一緒に授業を受けていた跡部と不二も驚いた。いや、彼らだけでなく、教室中の誰もが驚いた。マクゴナガルでさえも。
立ち上がったのが二度目だったことも大きかった。「一体今日はどうしたのですか?」と眉を顰めている。
マクゴナガルから見た藤宮紫乃という生徒は、とても大人しく人見知りしがちな少女だが、とても真面目で心優しい生徒だと知っている。そんな大人しい生徒に、一体何があったというのか。
問いかける視線を受けとめ、紫乃は元気よく答えた。
「先生! 私、これからお腹が痛くなりそうな気がして来たので部屋に戻ります!!」
「へッ!?」と素っ頓狂な声がちらほら聞こえた。
――――お腹が痛いからではなく、お腹が痛くなりそうな気がしてきた!?
ポカンとする何人もの生徒とは反対に、ブッと幸村が噴き出す。
「ミ、ミス・フジミヤ?」
これにはさすがのマクゴナガルも動揺を隠しきれず、混乱しきった声だった。それがますます可笑しくて、幸村は両手で口許を抑える。
「あっ、え、えっと! 先生、ごめんなさい! でも、そんな気がするんです!」
「お待ちなさい、ミス・フジミヤ!」
言いながら、慌ただしくも机の上の筆記具すべてを両手に抱えると、弾丸のように飛び出した。
あまりにも俊敏だったので、いつもぷるぷるして幸村か白石にこそっと隠れている姿しか知らないグリフィンドール生らは目をまん丸とさせていた。
一方、マクゴナガルとしては信じられない気持ちである。あの真面目で、いつも一生懸命に羊皮紙にペンを走らせている少女が、どう考えても授業放棄としか思えない行動に出たのだ。呆気にとられるのも無理はない。
唖然としているマクゴナガルを見て、ふぅと溜息した幸村は、隣の白石を見た。
白石も、突拍子もない紫乃の行動に驚いて幸村を見つめる。
二人して、苦笑して――――立ち上がった。
「マクゴナガル先生! すみませんが、洩れそうなので授業抜けます!」
「俺も! もうウンコ垂れそうで我慢の限界なんですわ!」
「なっ、なんてことを……! ミスター・ユキムラ!! ミスター・シライシ!!」
あまりにもあまりな内容にマクゴナガルは絶句である。特に白石に至っては、彼女にとってあるまじき発言だ。紳士として言ってはいけない単語である。
あっけらかんとした口調と爽やかな笑顔だったので聞き間違いかと思いたかった。
紫乃と同じように、止める間もなく飛び出した二人に、マクゴナガルはふるふると震え、容赦なく三人を減点する。
一連の出来事を、間近で目撃していたハリーとロンは、呆気にとられたまま見つめ合った。
そうしてしばらく考えて、ややあってから、結論を下した。
「先生! ごめんなさい!!」
「ポッター!? ウィーズリーまで!?」
厳しく叱責するマクゴナガルの言葉を振り切って、二人もまた教室を飛び出した。
ハーマイオニーのためにちゃんと授業を受けるように、紅梅に諭され渋々受け入れたものの、やっぱりどうしても紫乃はハーマイオニーのことが気になってしまった。
紅梅のことを信用していないわけではない。むしろ、自分よりもきっと上手にハーマイオニーのことを慰めることは出来るだろう。初めての魔法界で、迷子になってしまって泣いてしまった時、優しく優しく紅梅は慰めてくれた。
だから、紅梅がハーマイオニーの傍に居てくれるなら何も心配はいらないけれど、どうしても紫乃はハーマイオニーの傍に居たかった。
だって、ハーマイオニーは、紫乃にとって大事な「友達」になったからだ。
祖父母以外の他人と、寝食を共にする共同生活は初めてだ。手塚家でのお泊まり会とはわけが違うし、相手は女の子だ。女の子のお友達がいない紫乃は、ホグワーツでの寮生活を無事に送ることができるか不安でいっぱいだった。
でも、ルームメイトはハーマイオニーだった。
ハーマイオニーは、紫乃にとってお姉さんのような存在の友達になった。夕食の後に課題に取りかかろうとすれば、どの科目から優先するべきか教えてくれたし、参考になりそうな本はリストにしてくれるか、貸してくれる。満腹から紫乃がウトウトし始めれば、一生懸命に起こしてくれてお風呂や歯磨きをするように急かしてくれる。
「もう、紫乃ったら。そのまま寝ちゃうと風邪を引いてしまうわ」
腰に手を当てて、ぷりぷり怒りながら肩を揺するハーマイオニーの声は、怒りつつも、どこまでも紫乃を考えてくれている。
「しょうがないわね、紫乃。起きて」
眠た目を擦りながら身体を起こせば、溜息を洩らしながらも苦笑を零すハーマイオニーの姿。
しょうがない、と口にするハーマイオニーが、紫乃は大好きだった。呆れたような素振りながら、手塚と同じようにハーマイオニーは絶対に紫乃を見捨てたりしない、そういう愛情の深さを感じる事が出来たからだ。
ハーマイオニーが、グリフィンドールで初めて出来た女の子のお友達で良かった。心からそう思えるまで、一日もかからなかった。
だから、ハーマイオニーが自分と一緒に生活していて鬱陶しくないかと質問してきたときは、酷く驚いたし、理由を聞いてさらに絶句したものだ。
ハーマイオニーの世話焼きな性分を良く思わない人が居ただなんて。理解は出来ないけれど、そういう人もいるのかと驚きつつも、やっぱり紫乃には理解できないと思った。良く思わないなら関わらなければいいのに。どうしてわざわざハーマイオニーを傷つけるようなことを言うのだろう、と。
正直な思いを話せば、ハーマイオニーには「そっか」とだけ言っていた。付け加えるように、紫乃は「私は、ハーちゃんがルームメイトで、ホグワーツで梅ちゃんの次に出来た女の子のお友達で、良かったと思ってるよ」と続けた。
その時の、顔をくしゃくしゃにさせて、泣きだす一歩手前で微笑んだハーマイオニーの笑顔が、紫乃は忘れられないでいる。
(だって、私は……!)
小学校の頃、一人で泣いていた時。手塚が庇ってくれる時以外は、一人ぼっちだった。さっきまで会話をしていたはずのクラスメイトの女の子たちは、紫乃がいじめられて泣いていたら他人のふりをしていた。
いじめられることも辛かったけれど、関係ないふりをして無関心で居られることも辛かった。
「同じ目線で、相手の立場に立って……」
入学前に、祖父は言った。
――――彼ら彼女らがどんな生い立ち、どんな家柄、どんな身分の子供であろうと、平等でありなさい。対等でありなさい。同じ目線で、相手の立場に立って考えなさい。
祖父の言葉を、本当の意味で理解した瞬間だった。
もしも私がハーちゃんなら、友達に傍に居て欲しい。すとんと胸に落ちた途端、信じられない力が全身を巡り、常の紫乃では考えられないような力が漲った。マクゴナガル先生の授業を抜け出すなんて、やってはいけない行動まで仕出かしてしまった。
ぷるぷると頭を振るう。後で、キチンと先生には謝りに行こう、と決めて。
(それになにより、)
今朝の、湖の女神の言葉が気にかかる。
突然の紫乃の訪問を咎める事もなく、むしろ「来ると思っていましたよ」と厳しい面持ちで待っていてくれた美神は、その麗しい表情を翳らせた。
『何かの気配を感じます。闇の帝王とは違う、けれど凄絶な禍々しい狂気』
薄い氷の色にも似た瞳が、紫乃へ訴えかけた。ホグワーツの子供たちに、何か危険が及ぶのではないかという女神の不安が肌に伝わり、紫乃は押し黙った。
夢で聞こえたあの声。憎悪と怨念が渦巻くその叫びは、亡者の嘆き以上の恐怖を与える。
『何かを“視た”か、あるいは“聞き”ましたか』
神の目に、誤魔化しは利かない。
『――――がんぜない子ども。人の子よ。かの天命を負いしそなたらが集い、あらゆる星はすでに動きました』
重々しく告げる声を、受け止めた。
『かの闇に染まりし者と弱き者らの運命はすでに変えられた。なぜなら星が変わったからです』
『星が、変わった……?』
『そしてまた、別の星が動くでしょう。これは、天の理。星の宿命。その一手はシノ、すでにそなたの手の中に』
『……まさか、』
いらえに声はなかった。しかし、その瞳が「是」と告げる。
『その夢は、繋がっていますよ』
――――手のひらを、見つめる。
一手とは、なんだろう。考えて、そしてまたあの声が蘇る。凍りついた手のひらで、心臓を握りつぶすような――――ぞっとする声。
まさか、と考えそうになった可能性との繋がりを切って捨てた。紅梅やハーマイオニーはきっと無事だと祈りを込めた。
「紫乃ちゃん!」
背後からの大声に、紫乃は大袈裟なほどに肩を揺らした。次いで、振り返って目をパチパチとさせる。
「! ゆき、ちゃん……白石くん……」
どうして? と言いたげな表情に、追いかけてきた幸村と白石はニッと笑いかける。
「俺らかて気になってしゃーなかったし。グレンジャーさんとは友達のつもりでおるし」
「梅ちゃんを信用してないわけじゃないんだけどね。後味悪くてしょうがなくって」
男らしくガシガシと後頭部をかきながら、複雑な表情で言った幸村に、苦笑を交えながら白石も頷いた。
二人を前に、じわりと紫乃の涙が滲む。
――――此処には、紫乃が欲しかった過去があった。
辛い思いをしているとき、一人ぼっちで泣いているときに、駆けつけてくれる友達が――――欲しかった。欲しくて、たまらなかった。
ぐいっとローブの袖で涙を拭った紫乃は、キリッとした表情で顔を上げる。行こう、と促すように二人のローブを引っ張った紫乃を、幸村がニコリと笑って制する。
「それに彼らも」
「えっ?」
聞こえてきた足音に、これ以上ないくらいに紫乃は大きく目を見開いた。
「僕たちも、一緒に行っていいかな?」
息を切らしながら、そう言ったのはハリーだった。
三人の後を追ったハリーとロンは、回転する階段の手前の踊り場の辺りで彼らと合流することが出来た。驚いている紫乃を前に、ハリーはロンの背中を叩いて促す。
ばつの悪そうな表情のロンだったが、何拍かの後に切り出した。「あいつが、ハーマイオニーがいなきゃ、授業を受けてる気がしないから」とぶっきらぼうだったが、その裏にはハーマイオニーを心配する色が見え隠れしていた。
授業中、ロンが迷子になればスっと教科書のページを指で指し示してくれるか、こっそりと杖で教えてくれるのがハーマイオニーだ。
けれど、今日はハーマイオニーが居なかったので、マクゴナガルの難しい説明を聞いている最中、どこのページを目で追えばいいのかわからなくなった。あいつがいればなあ、と思った瞬間、どれだけ自分勝手なことを思ったかということに、ようやくロンは気づいたのだ。
都合のいい時だけは耳を傾けて、そうでないときは鬱陶しがるなんて。自分が友達にされたら間違いなく気分を害する。
自覚して、反省した時に、紫乃が立ち上がった。そしてハリーが目線をくれたから、ロンも行動に移すことができたのだ。
「あいつは、僕になんか来て欲しくないだろうけどさ……友達でもなんでもない、って言った僕なんて」
きまりが悪そうに言ったロンに、紫乃はううん、と首を横に振る。
「そんなこと、ないよ。謝ってもらって、仲直りしようって言われて、嬉しくないはずがないよ。きっとハーちゃんは喜ぶ。だって、私なら嬉しいから」
捨てられていた子犬が優しくされて喜ぶような、そんな見ている側の胸がきゅんと締めるような笑顔を見せられ、ぐずぐずしていたロンも何も言わずにコクリと頷いた。
それを見守っていた面々は、温かい眼差しで見つめている。
「授業が終わるまでに見つけよう。できたら、梅ちゃんにも口裏合わせてもらうことにして……」
でないと、授業サボったことがバレたら真田が五月蠅いから、と幸村は嫌そうに言った。
「いくら真田クンかて事情話したらわかってくれると思うけどなぁ」と白石はボヤいたが、幸村はむっつりしている。あの頭の固いアイツが果たして納得するかな、くらいには思っているかもしれない。
実のところ、義理と人情には厚い真田なので人を思いやっての行動であれば、苦言こそ呈しても非難はしない。それを恐らくはわかってはいるものの、素直に幸村は受けとめられないのかもしれない。
腐れ縁とはそういうものなのか、白石は不思議がったが、親友のようで好敵手でもある“腐れ縁”の間柄の二人にしか分かりあえない何かがあるのだろう、となんとなく思った。
――――しかし、である。
「授業が終わるまでに」を期限に、始まったハーマイオニー捜索は、最初から難航を極めた。
わかってはいたことであるが、ホグワーツはまるで迷宮のようにあらゆる通路と移動階段によって複雑極まりない。圧倒的に部屋数も多く、トイレや教師たちの私室などを合わせたら把握しきれない。その関係で、ホグワーツの教師でさえ知らない部屋があると専らの噂である。
「こんなことなら、隠し通路に精通しているフレッドとジョージに話を聞いておくんだった」と全員が落ち込んだ。二人の弟であるロンなんて落ちこみようが一番ひどい。
うだうだと悩んでも仕方がないので、授業以外の部屋を片っ端から突撃することにしたが――――早々に挫折しそうである。
作戦を切り替えて、手分けして探すことにしたが、それでも部屋数がありすぎるのだ。
女子トイレは紫乃が、それ以外の部屋は男子陣が分担したものの、階段を駆ける彼らを珍しく思った絵画たちがひっきりなしに話しかけてくるし、階段はどのタイミングで動くか予測ができない。柳や乾が居れば、移動階段の規則性を教えてくれるだろうと何度思ったことか。
絵画たちに話しかけられるたびに、イライラして不機嫌になりつつあったロンを見かけた白石が機転を利かせ、ハーマイオニーの捜索を手伝ってくれるようにお願いした。
野次馬根性から話しかけてきた絵画たちではあるが、彼ら彼女らは揃ってホグワーツの生徒らを愛している者たちなので、授業中にウロウロしている生徒が居れば彼らはしっかりと見守っている。おかげで、彼らはハーマイオニーのことをしっかり覚えており、彼女の目撃証言は想像していた以上に得ることができた――――が。
「証言と、結果が合わない……?」
戸惑うようなハリーの声に、重苦しい沈黙が落ちる。
そう、合わないのだ。
「グラッドウィン男爵夫人は、ハーちゃんが図書室付近から走っていくのを見たって言ってて、レイヴンズバーグ卿は、3階の階段を上る姿を目撃してる。カドカン卿は、5階の階段で擦れ違ったって言っていて……」
「え、藤宮さん、絵画の人らの名前、全部知ってんの?」
「へ? う、うん」
ポカンとした表情で言った白石に、きょとんと紫乃は首を傾げた。別に普通のことじゃない?と言いかねない紫乃に、「君、絵画の名前ぜんぶ覚えてるの!?」とロンが驚いて叫んだ。
叫んでは居ないものの、ハリーもロンの叫びには概ね同意である。
「だって、毎日挨拶してたら覚えない?」
「挨拶してるの!? 絵画に!?」
「絵画だけど、人間と変わらないよ?」
ごくごく自然に紫乃が言うので、「そういうものなのか」と納得しそうになる。
ひとまず、絵画がヒトであるかそうでないかは置いておくにしても、数えきれないほどの数の絵画すべてを把握している紫乃の記憶力に、幸村は純粋に驚いていた。白石は「海外の名前って覚えにくいさかい、俺には真似できへんなぁ」と感心しているようだった。
「私の場合は、ちょっと職業病みたいなところがあるから」と誇らしそうな紫乃の頭を撫でながら、幸村が仕切り直す。
「目撃証言を総合すると、どう考えても彼女がグリフィンドール寮付近のどこかの部屋に隠れた……って考える方が自然なんだよね」
「そうだね。太った婦人もハーマイオニーを見てないって言ってるから……」
腕組みして首を捻る幸村に、ハリーは膝を抱えて座った。ちら、と婦人を見上げると肖像画の中の彼女は、「ええ、間違いないわ」と頷く。
走り回って疲れてしまったので、全員グリフィンドール入口付近で座り込んでの作戦会議である。
「寮にもおらんねんもんな?」
「うん、私とハーちゃんの部屋も確認したけど居なかったよ。ちゃんとトイレもお風呂も見たけど……」
シュン、と項垂れた紫乃の頭を、白石は撫でた。
「おかしな話やな……どういうことなんや……」
「外に出たって可能性は? 例えば、禁じられた森とか……」
「ロン。ハーマイオニーの性格を考えてみなよ。泣いてたって、頭の片隅に規則って言葉がよぎってると思うよ」
「……たしかに」
とはいえ、あれだけ規則には絶対遵守のハーマイオニーも、自分の感情を押さえ込むことはできず、授業に出るほどの余裕はなかった。それが意味することに気づいて、ロンは口を閉ざす。
ロンを落ち込ませるための発言ではなかったが、意図せずにそうなってしまったことに、ハリーはちょっとだけ反省した。
「……それより、ちょっと気になったんだけど」
真剣さを帯びた声で幸村が言った。
「梅ちゃんにも会えないって、どういうこと?」
――――その言葉に、全員の顔色が変わった。
「……そうだよ……梅ちゃん、ハーちゃんのこと探してくれるって……」
「せやのに一回も遭遇せぇへんてどうゆうことやねん……どう考えてもおかしいやろ」
「キヨちゃんも、真田君とも会えないのも変だよ」
梅ちゃんが居るなら真田君が居るはず、という認識の紫乃の申し出に、確かにと白石も頷いた。
「もしかして全員でテニス部の部室に居るんじゃないのかな?」
ウエスギがハーマイオニーをテニス部部室に連れて行ったとか、と言い差したハリーの言葉を、幸村はきっぱりと違うと断言した。
「いや、それはない。泣いている女の子を男子が居る部室に連れて行こうなんて、あの梅ちゃんならしないはずだよ」
もてなしの精神を叩きこまれている彼女のことだ。泣いている女の子を人目に晒すようなことはしないはずであるし、男の子だって泣いている女の子に出来る事なんてほとんどないのだから、真田が困惑することを紅梅が想像できないわけがない。
「体験入部のときだって、女の子たちのことは梅ちゃんが先頭に立ってくれたじゃないか」
「そう考えたら、真田クンは上杉さんとは別行動って考えた方が自然っちゅーことやな?」
「勘だけどね」
やはりハッキリ言い切った幸村。だが、誰も幸村の言葉を疑わないのは、彼の勘があながち間違いでもないと思えるからだ。
古の神の血を引く一族である幸村。神の子たる彼の勘は、千石には及ばないとしても、的外れではないに違いなかった。
「けど、部室に行くのは賛成。真田も千石も居るだろうから」
その幸村の一言で、部室行きが決定した。
そして、すぐに部室へと移動した面々を、真田は烈火の如く怒り狂うようなことはせず、呆れたような視線と溜息でもって全員を出迎えた。
こうなることを予想していた、とでも言わんばかりの反応に、幸村以外が目を丸くさせた。授業をサボる件について、渋面を浮かべた真田を見ているからである。
そんな風に思われているとは知らない真田であるが、彼としても、紅梅に「ここは女同士だけの方がええと思うし」と言われ、テニスの練習をしてくるように促されたものの、頭の片隅では気になってはいたのだ。正直なところ、練習に打ち込めたかと言われれば微妙なところである。
自分でさえそのような体たらくなのだから、同じ寮生であり、普段からハーマイオニーと親しい彼らが長時間の授業を辛抱できるなど、真田にはとうてい思えなかった。もちろん、非難しているわけではない。
ひとまず、真田から説教の一つくらい覚悟していた紫乃は、あからさまに胸を撫で下ろしたし、ハーマイオニーにキツイことを言った張本人のロンは紫乃以上に安心したようだった。吠えメールよりもおっかない真田の怒鳴り声は怖かったのである。
しかし、呆れた表情の真田ではあったが、紅梅とハーマイオニーに全く遭遇しないことを伝えた途端、急に表情が変わった。怪訝そうなそれは、意味がわからないと言いたげだ。
「言葉通りだ、真田。梅ちゃんから聞いてない?」
「お前の想像した通り、紅梅は自分に任せろと言ってグレンジャーの所へ向かった。どこに行ったかはわからんが、紅梅のことだ。グレンジャーの傍には居る」
それは絶対の自信と共にもたらされた情報だ。女の機微を、花柳界で育った紅梅は熟知しているし、それについて真田がよくよく知っているからである。
真田の断言に、幸村が「だよね、俺もそう思った」と同意する。二人の意見が一致したことに、二人とも憎まれ口は叩かないでいた。
――――由々しき事態であることが、確定したからである。
「こんなことなら、不二を引っ張ってくればよかったな……」
不二は黒魔術のエキスパートだ。黒魔術を返す、つまり世間一般では呪い返しという技に特化した一族である不二は、とりわけ魔力探知の能力にも秀でている。術者が黒魔術を発動させる際に、その術者を特定しなくてはならないためだ。
魔法力において、風と相性の良い彼は、風の精の力を借りる。クリスタルは魔力を通しやすいので、クリスタル製のペンデュラムを使用して、魔力探知を行うのだ。
「さすがに事情もなんも知らん人間は引っ張って来れんで、幸村クン」
「不二なら事後承諾でも許してくれるよ」
だが、すでに授業を抜けてきてしまった。今更、変身術の授業へ飛び込む勇気は、さすがの幸村にもない。
ご立腹なマクゴナガル先生に立ち向かうのは、完全にキレている真田を相手にするくらいに骨が折れる、と幸村は思っている。
「不二くんには敵わないかもだけどさ、一応、俺の得意分野も占いだから、やれることはやってみようか」
「千石、何処に行っていた」
厳しい表情で問うた真田に、千石はへらりと笑って謝罪する。
ハーマイオニーと紅梅が見つからない、という幸村の開口一番の言葉に、なぜか突然飛び出した千石。ようやく戻って来た彼は、締まりのない笑顔を消し去り、真剣な面持ちでタロットカードと水晶玉を見せた。
「これを取りに行ってたんだよ」
テニスの試合に臨む時のような横顔を前に、真田は「そうだったか、すまんな」と非礼を詫びた。
「いいって、いいってー。俺こそわたわたしててごめん。出来るかどうかはわかんないけど」
「私も手伝うよ、キヨちゃん」
「あ、そっか。陰陽術にもあるよね、そういうの」
「うん……失せ物探しは、陰陽師の得意分野だから」
人探しが失せ物探しに当たるかは別としても、だ。
二人の術者としての能力を疑わない面々は、頷き合う。逆に、千石の術者としての能力を知らないハリーとロンは戸惑うばかりである。
「ねえ、二人とも何をしようっていうんだい?」と訝るロンに、白石は掻い摘んで説明してやった。
「フジミヤの凄さは見たことあるけど……」
ハリーは紫乃がピーブスを黙らせたことや、箒から落ちたネビルを助けたときのことを思い出した。どれもこれも魔法と同じくらい術で、そしてとても不思議なものだった。
大人しくて泣き虫な少女だけれど、紫乃の実力を度々目撃しているので、漠然とした信頼はある。
けれど、千石については術者としてのあれこれよりも、彼の人柄やテニスの実力しかハリーは知らないので、キヨにそんなことが出来るのか、と若干の疑いがある。
(でも、方法はこれしかないんだ……それに、彼らなら)
日本人留学生である彼らに、ハリーは何度も励まされてきたし、助けられたことだってある。積み重ねられた信頼は、確かにあった。そんな彼らが、千石を信頼している。なら、答えは一つだ。
きゅっと唇を噛みしめ、ハリーは千石を見た。
オレンジ色に似た茶色の髪に、綺麗な瞳をした人当たりのいい少年。ホグワーツへの列車で初めて出会った時から明るい彼の人となりを感じていたが、ハッフルパフでもムードメーカー的な存在のようだ。朝食や夕食時に輪の中心で盛り上がっている姿をよく見かける。
女の子が大好きで、でも男の子に厳しいわけではなく、誰とでもすぐに仲良くなれる心優しい少年――――そんな千石を、ハリーは知っている。
ハリーの視線を受けとめた千石は、ニッと口の端を持ち上げた。
その瞬間、ハリーは千石清純という一人の人間を信頼することができた。
「ええと、キヨ。……僕には何もできないから、その、助けて下さい。お願いします」
日本人でもないのに、きっちりと頭を下げてお願いしたハリーに、千石は目をまん丸にさせた。
隣のロンは、親友が頭を下げたことに驚いていたが、ハリーのせいでこんなことになったわけではないのに、彼が頭を下げていることに気付いた瞬間、ハリーにならっておずおずと頭を下げた。
ハーマイオニーに何かがあったらどうしよう、という気持ちが、少しずつ膨らんできたのもある。
何度目かの瞬きを繰り返した後、嬉しそうな笑みを浮かべた千石は、ドンと胸を叩いて「まっかせといてー!」と軽く言った。
「上手くいくかはわかんないけど、まあ俺ってラッキーが取り柄だからなんとかなるって!」
バチーンと音がしそうなほど、華麗なウィンクを寄越され何故だかハリーはホッとしたのだった。
ハリーの様子を見届けた千石は、「友達から信頼されたらオトコ清純がんばるっきゃないっしょ!」と意気込み、腕まくりをしてみせた。
ぱんぱん!、と頬を叩いて気合を入れた彼は、制服のスカートを両手で握りしめる紫乃と向き合う。
「じゃあ、紫乃ちゃん。もし俺の占いでうまくいかなかったら、紫乃ちゃんにも頼んでいい?」
「うん、そのつもりだよ。でも、私、キヨちゃんならできるって思ってる」
にこ、と微笑んだその表情は、どこまでも千石を信頼する言葉で。
女の子大好きを公言する千石が、これにときめかないはずがなく。
「あちゃ〜……そんな風に言われちゃったらキヨがんばるしかないじゃん!」
「……どうでもいいからさっさとやれよ」
両手で両頬を押さえ、「きゃー」と盛り上がっていた千石に、幸村が冷えた声で言う。
ハリーの隣のロンは、「ホントにキヨで大丈夫なの?」と小声で聞いた。大丈夫だと思いたいところだが、大丈夫だよ、とはハリーは言えなかった。
「そんじゃ、意識を集中させるねー」
軽い調子だが、次の瞬間には真剣な表情で水晶玉と向き合った彼に、全員が千石を信じることにしたのだった。