黄玉の絆(2)
9月19日、木曜日。ホグワーツで過ごす三回目の木曜日の朝。朝練を終えてからのホグワーツでの授業は、これまでとは全く変わった時間割が用意されていた。
月曜日にクィレルの正体が露見し、ヴォルデモートの手先だと判明してからまだ数日しか経っていないが、ダンブルドアを始めとするホグワーツの教諭陣が魔法省や保護者の対応に追われていることや、未だ恐怖に怯える生徒のために引き続きケアを行うためなど、休講する科目が続出しているためだった。いわゆる、暫定的処置といったところか。
特に、来週まで魔法薬学は休講という事実は生徒たちを大いに喜ばせた。クィレルに対して強い疑いを持っていたセブルス・スネイプは、今後の裁判のために証人としての出廷が予定されており、その対応のせいだ。
今更だが、「スネイプがクィレルに冷たかったのは、闇の魔術に対する防衛術のポストを狙っていたからじゃなかったんだ」と、ホグワーツに衝撃が走ったのは言うまでもない。そのくらい、スネイプの闇の魔術に対する防衛術への熱意は凄まじく、いっそ執念すら感じられるほどだったからである。
彼がその授業の担当教諭に着任出来るならば、クィレルを葬り去る魔法薬くらい精製していたとしても生徒の誰もが納得しただろう。
それはさておき。
クィレルのアズカバン行きはほぼ確定に近いだろうが、ヴォルデモートに降った当時の彼の心身の状態が果たして正常であったかが、今後の裁判の争点となりえる。世界旅行中にヴォルデモートに出会い、洗脳されたからか、自ら心酔したゆえなのか、そのあたりが不明なのだ。
もしも洗脳や服従の呪文により従ったのだとしたら、心神喪失あるいは心神耗弱状態においての犯行は、魔法界であってもマグルと同様で罪には問われない。なにせ、闇の時代においては“許されざる呪文”の一つである服従の呪文によって翻弄される魔法使いが大勢居たからである。
また、彼自身、闇の魔術によって心身に異常を来している中で、聖水を大量に浴びたことと、ハリーに触れられたことによって重症を負っているので、現在は聖マンゴ魔法疾患傷害病院の集中治療室で治療を受けている。怪我の治療の一点のみを重視するならば、アズカバンよりも医療刑務所という形での収容も考えられうる。
そんな状態であるので、当然だが闇の魔術に対する防衛術の新教授はまだ決まっていない。「頼むからスネイプだけはやめてくれ」とは、スリザリン寮生を除くホグワーツ生らの総意である。
ダンブルドアが来週までには新しい教師を連れてくるという噂が出回っているが、真偽は定かではない。
だいたい、あの授業の担当教師は着任して1年も保たないので“呪われた学科”として専ら有名だ。そんないわくつきの教科を担当する物好きが、スネイプ以外にいるのか果たして疑問である。
大広間ではたくさんの生徒が少し興奮気味に様々なことを話していた。丸二日の休み明けということもあるが、一番の理由は昨日の大量加点だろう。
ヴォルデモートの正体を暴くどころか、その捕縛に一役買ったのは日本人留学生たちであるし、トロールを昏倒させたのもまた彼らによる。ダンブルドアを始めとする教諭たちの取り計らいにより、彼らに特別加点がなされ、一夜明けてもなお興奮冷めやらぬ様子だった。
ハリーは自分が入学してきた頃を思い出す。引っ切り無しに知らない人間から声を掛けられ、わけもわからないのに熱の篭った視線を集めて戸惑いしか感じなかった。
あれからまだたったの三週間だが、彼らと同じように大量加点されたが、全校生徒の注目は専ら留学生たちだ。ハリーもヴォルデモートにとどめを刺した――実際にはクィレルの体からヴォルデモートを追いだしたにすぎないが――ことで、さすが英雄と声を掛けられたけれど、留学生の彼らの活躍の方が目立つ。
視線が分散されたお陰で、改めてハリーは彼らに感謝した。日本人の彼らがいなければ、こうはいかなかっただろう。
「それにしても、スネイプみたいに証人として裁判に行かなくても大丈夫なの?」
朝食時に、誰かがハリーに聞いた。それについてハリーが何かを言う前に、幸村が「未成年だしね。ほんとラッキーだったよ」と、満面の笑顔で言った。
「未成年だから、『ちょっと悪戯のつもりでやったことなのにあんな怖いことになるなんてぇ〜〜知ってたら悪戯なんてしませんでしたぁ〜〜ウエェ〜〜ン』って涙目でぷるぷる震えてやれば、チョロイもんだったよ」
ペロっと可愛らしく舌を見せて笑って言った幸村。漫画なら「てへぺろ!」と表現されるような仕草である。
魔法省役人の前でぶりっ子よりもぶりぶりの演技を披露した幸村を、間近で見ていたハリーとロンは、いま思い出しても軽く引いている。
神の子供のような美しい幸村の、良い子ちゃんそのものの演技を前に、どの役人も子供たちからの証人尋問は免除、と即決した。公務員といえど、彼らも人間である。
幸村だけではなく、幸村の演技とは違い本気で涙目でぷるぷる震える紫乃を前にした役人なんて、一緒になって泣きそうだった。紫乃と同じ年頃の娘が居る闇祓いだったらしい。
「とにかく、証言なんて面倒なことをせずに済んでよかったよ。ポッターも危なかったね」
言われてハリーは思い出す。
子供たちに証言を求めなかった魔法省だったが、あの英雄ハリー・ポッターがヴォルデモートと対峙した、という一点についてはやけに食い下がった。ハリーがヴォルデモートを再び打ち倒したという確たる証言が欲しかったのだろう。
思い出すだけで額の傷がズキリとする。そもそも、親の仇を思い出すなんて苦痛でしかない。
そんなハリーに助け船を出したのは、跡部と榊の二人だった。両家とも魔法省に絶大な影響力を持つ名家中の名家である。
「心身ともに辛い思いをしている子供を更に傷つけるおつもりですかな? 彼がトラウマにでもなったら魔法省はどう責任をとるお考えで?」
冷えきった温度の声であくまでも事務的に問う榊を前に、役人がたじろいだのは言うまでもなく。
さらに跡部が追い打ちを掛けた。
「魔法大臣にお伝え願いたい。貴方の座る椅子は、今期限りで処分されるよう祖父に願い出ます、と」
冷たい美貌が、凄絶な笑みを湛えた。見る者が見ればゾッとするような微笑みを前に、役人は大至急フクロウを飛ばしたところ、一時間もしない内に返事が寄越された。答えは決まっている。「ハリー・ポッターも他の子どもらと同様に免除とする」というものだった。
「サカキ先生とアトベが居なかったら、今頃こんな風にゆっくりは出来てなかったよ」
ハリーは、心底助かったというように安堵の笑顔を浮かべた。
「そうは言っても、時間なんてあっという間なんだから! もう9月も終わるのよ! 一ヶ月分の復習をしなくちゃ!!」
ドン、と大量の参考本をテーブルに乗せたハーマイオニーに、あからさまにロンは嫌そうな顔をした。
此処はホグワーツの図書室の一室。図書室内であっても、ミーティングなどで話し合いができるような学習室のスペースが設けられているのである。
休講の時間を利用しない手はないと意気込んだハーマイオニーが、スペースの使用申請をしてくれたので、当初はハーマイオニーと紫乃の二人での勉強会にせっかくだからと幸村・白石が便乗したのだった。ハリーとロンは、ハーマイオニーに無理やり連れて来られたようなものだ。
そして、偶然にも休講の時間が被ったハッフルパフの面々と遭遇した、というわけだ。
千石はもちろん喜んで「俺も一緒に勉強したい!」と全力で挙手をしたし、紅梅は紫乃とハーマイオニーに誘われて嫌なはずがない。問題は真田だった。
紫乃が居るので真田は遠慮しようとしたが、にっこりと微笑んだまま紅梅に手を掴まれて逃げ出せなかったので、渋々ながら参加させてもらうことになった。
「こういう時にしーちゃんと会話しといたら慣れるんとちがう?」
ご最もな意見であるので、反論すらできない。ついこの間、紫乃の変身事件で紫乃とは気まずい仲なのだが、紅梅の笑顔を上手くかわすことはできなかったのである。
一方、それは紫乃も同じで、真田が一緒だからといって逃げ出すのは真田に対して失礼だと思うし、なにより紅梅とハーマイオニーら女子二人と一緒に勉強したい気持ちもある。
天秤は簡単に傾き、真田くんを怖がらないようになろう、と気合を入れたのであった。
「ハーマイオニーの奴、試験の日程を明日だと勘違いしてるんじゃないか?」
ウンザリしたような顔で、嫌そうに言ったのはロンだ。魔法史のレポートが半分も終わらないせいか機嫌が悪い。
学年末試験はまだまだ先の話なのに、今の内から年間スケジュールを組んでいるハーマイオニーの姿が、彼にとっては信じられないようだ。
ハリーは、ハーマイオニーの鬼のような勉強ぶりは予想できていたのでロンほど嫌な気持ちにはならないが、本当に試験が迫った時、ハーマイオニーは生きて試験を受けられるのだろうかと思った。そのくらい、鬼気迫っている。
「これがクリスマスの時期ならともかく、何も今からこんなにしなくたっていいだろ」
うへぇ、と本当に声にしたロンの目の前には分厚い本が積まれている。
「これなら新聞や雑誌の方がマシさ。同じ活字だけど、まだ写真が動くもの」と言いながら、その顔には読みたくないという心情がありありとわかる。
「焦って詰め込み過ぎてもよくないよ。直前に忘れるに決まってる」
「知識を詰め込むことに良くないことなんてないわ! それにね、ロン。あなた自分の羊皮紙だけでレポートを書けると思う?」
魔法史のピンズ先生の授業はどうしても眠くなってしまうので、羊皮紙はまともな記述がほとんどなく、ミミズの這ったような文字だらけで使い物にならなかったせいだ。その所為で、一向にレポートが進まず苛々が増してゆく。
「どうせ僕のこれはまさに芸術的さ。全然レポートなんて進まないよ!」
「よろしければ、参考になりそうな資料があるけれど、教えてあげましょうか?」
そんな状態であるのに、つんとすました猫のような仕草で鼻を鳴らすハーマイオニーに、余計にロンが癇癪を起こすのだ。
どんなことを言えばお互いがお互いにとって良くないかを分かっているのに、どうしてこう憎まれ口をぶつけ合うのだろう、とハリーは溜息した。
反対に、日本人留学生たちは勤勉だけどピリピリしていないなあ、と観察していて気付く。
「魔法史の課題が、先週の授業のまとめと、もう一つあったじゃん?」
「魔法族の中から歴史上で有名な誰かを一人選んでまとめるってやつ?」
「それそれー。みんなは誰にするの?」
羽ペンをくるくる回しながら、千石が聞いた。
「俺はイエス・キリストにしようかと思ってるよ。やっぱりメジャーどころだし、他人事とは思えないし」
なんたって同じ「神の子」だしね、とちょっとどや顔だ。あからさまに渋面で溜息する真田など、眼中にないようだ。
「けどブッダでも悩んでる。やっぱり、一番資料があって、調べやすいとなると俺たちなら日本の偉人じゃない?」
うーん、と腕組みして考えながら幸村が言うと、「やっぱりそうだよねえ」と千石がうんうん頷く。
「え、そうか? 俺はマンドレイクを安全に栽培する方法を見つけたオッサンにしようと思てんねんけど」
きょとん、とした表情の白石に、幸村も千石も「うわぁ」と軽く引いた表情だった。
その二人の表情に、「マンドレイクて奥が深いねんで!」と白石が熱く語り始める。しまった、と思った頃には遅かった。
「歴史の話に絡めやすいねんで、マンドレイクて。カルタゴの軍勢が放棄して撤退した街にマンドレイク入りのワインを残してって、それを知らんで街に入ってきた敵軍が戦勝祝いにこのワイン飲んで、毒の効能で寝てる敵軍を皆殺しにして勝利を収めたとか! ユダヤ教聖典=キリスト教旧約聖書に、受胎効果がある植物として出て来るとか! 他にも――――」
「俺が悪かった白石。思う存分レポートにその思いの丈をぶちまけてくれるかな、お願いだから。きっとピンズ先生も喜ぶと思うよ、お前の愛で」
熱きマンドレイクへの愛に、幸村が敗北した瞬間だった。これが関西ソウルって奴なのか、と誤った認識を抱く千石とは別に、「傍若無人を地でいく幸村を負かすとは……!」と、真田は白石に対して間違った方向の尊敬の念を抱いていた。
「紫乃ちゃんは?」
収集がつかないので、さらっと流して千石は紫乃にも質問する。
「私はやっぱり晴明さま!」
「あー、そっか。紫乃ちゃんはそうだよね。なんだっけ、ご先祖様と関係が深いんだっけ?」
にこにこしたまま、こくこくと頷く紫乃の手は、早いペースでレポートを書き進めている。得意分野というわけではないが、自分が良く知る知識をまとめるだけなので、簡単であり楽しい課題のようだ。
「うん。ご先祖様が晴明さまのお弟子さんにしてもらったんだって。だから、晴明さまについての資料はいっぱいあったから、昔話みたいによく聞かされたの」
だから、あとちょっとで書き終わるよ、と笑顔だ。
「梅ちゃんは?」
「へえ。うちはお祖母はんにしたえ」
魔法カードにもなっているくらいなのだから、そこそこは有名だろうと踏んでの判断だった。確かに有名ではあったし、人間国宝ともなれば歴史において名を残している人物とも言える。
しかし、かの魔女の存在について触れている資料は散見されこそすれ、触れる程度であったのでレポートの題材としては扱いにくいはずであるが――――その点については、紅梅自身の魅惑の魔法と『舞妓』という存在がどのようなものかについて触れながら述べたので、それなりの物が仕上がった、と紅梅は満足している。
なるほどー、と感心したような千石の声に、同じく紫乃も頷く。そんな大したもんやあらへんよ、と笑った紅梅に、「後で読ませてほしいな」と紫乃はお願いした。
「じゃ、じゃあ、その……さ、真田くん………、は?」
「俺、か?」
いきなり名指しで質問された真田は、びっくりして目を丸くした。質問したのが紅梅であったら、こんな反応などしない。声を掛けたのが、なんと紫乃なのだ。
これには全員が驚いたのか、誰もが真田と同じように目をまん丸にさせている。
「う、うん。レポート、誰にしたのかな、って……えっと、あの、聞いて欲しくなかったら、い、いいから」
「い、いや! そのようなことは、ないぞ」
やはり真田に呼びかけるときには緊張してしまったようだが、それでも真田に話しかけようとしているだけ、格段の進歩である。
おおー、と白石と幸村、千石は小さく拍手した。真田の隣に座る紅梅は、それはもう満面の笑顔で真田を見つめている。
怯えられこそすれ話しかけられたことはなかったし、これほど紅梅に喜ばれて真田も嫌な気はしない。ゴホン、とわざと咳払いし、神妙な面持ちで答えた。
「俺は、公孫勝(こうそんしょう)にするつもりだ」
静かに答えた真田に全員の顔が、ポカンとした。
「それ誰?」と、怪訝そうな表情で聞いたのは、一向に進まないレポートから現実逃避中のロンだった。
「中国四大奇書のひとつ『水滸伝』に登場する道士じゃなかったかしら」
答えたのは、凄まじいスピードで参考書のページを捲っていたハーマイオニーだった。辞書と同じくらいに分厚い書物を平気で読みこむ彼女に、ロンは口をぽっかりとさせている。
日本人でも知らないことを知っている彼女から、日頃からの勤勉さを伺い知り、真田はハーマイオニーの知識の広さと深さに感嘆した。
「水滸伝」は、明の時代に成立した書物であり、庶民の文学として民衆に浸透したものである。今日においても「水滸伝」や「西遊記」といえば今日において色々なメディアでさまざまにアレンジされているので、現代日本人にとっても身近なファンタジー小説になっている。
「その通りだ。水滸伝は日本に居た頃に読んだことがあった。こちらに来て、道士が魔法界ではどういう存在なのか気になって本を探してみたんだが、かなり詳しく載っていたのでな」
レポートの題材にさせてもらった、と締めくくる。
公孫勝は天候制御の術に長けていたが、梁泊山―――中国山東省の西部にある梁山の麓に実在する沼沢―――において修行中の道士であり、その道術で度々梁泊山の危機を救う好漢である。
数ある登場人物を抱える水滸伝において、公孫勝の存在が目立ったのは、彼の術にある。黒雲の中から鎧を纏った兵士を大量に呼び出し、その軍勢を操る術を修行し、これを会得したことで高名な妖術使いである高廉との戦に勝利するのである。
道術について詳しく知りたいというわけではなかったが、なんとなく気になって調べてみれば、バトルマニア気質の真田には、ぴったりの題材だったというわけだ。
「うーん……なんかみんなの話を聞いてると、得意分野っていうか、自分が好きな題材から歴史上の人物を選んだ方が良さそうな気がしてきたなぁ」
「そらそうやで。嫌いな奴、調べても楽しないやん。ただでさえしんどいレポートをさらにしんどうしてもしょうがないで」
「それは確かに」
苦笑して言った白石に、千石も苦笑した。
「そうなったら俺は占いかなー……いっそノストラダムスとかにでもするかなー」
「キヨはんがこれや、と思うものを選んだらええんどす」
「占いでも色んな方法があるから、きっとすぐにいい題材が見つかるよ」
「そうよ、キヨ。数占いに風水、夢占い、たくさんあるんだもの」
紅梅、紫乃、ハーマイオニーといった女子組に励まされ、でれっとした顔で殊更嬉しそうに千石は頷く。「だよねー!」と元気よく返事する様子を見て、これならすぐに書けるだろうな、と誰もが思った。
「ロンも、自分が好きな分野で考えてみたらどうかな?」
「……そうなるとクィディッチかチェスかな。でもその前に、ハリー。僕はあの憂鬱な授業の断片的な記憶を繋げる作業が先なんだ。すごく残念だけど」
もう一つの「先週の授業の内容をまとめる」というレポート課題でしばらく悪戦苦闘する羽目になるロンに、ハリーはその肩を叩いて親友を励ましたのだった。