黄玉の絆(1)
 ――――ああ、これは夢だな、と紫乃は一発で見抜いた。
 白い花吹雪が、雪のように吹きすさぶ中、石段をゆっくり踏みしめて歩いた。
 3月とはいえ、京都の初春は冷える。風の強い日だった。この光景を覚えている。これは夢ではなく、記憶だとわかった。

 阪急烏丸駅より地下鉄線に乗り換え、今出川駅よりバスで5分ほど。祖父が語るには京福電車の方がアクセスしやすいそうだが、魔法省日本支部京都本部から近かったのが阪急線なので、使い慣れている交通手段でここまで来たのだと説明する声を耳に、きょろきょろと周囲を観察した。
 北野天満宮――――京都では、親しみを込めて「北の天神さま」と呼ばれる此処は、菅原道真公をおまつりした神社の総本山である。

 これは3歳頃の記憶だろうか。親戚の高校生のお兄ちゃんが大学受験をすることになったから、学問の神様で有名な天神様のお参りと、お守りを買おうと祖父に言われ、喜んで祖父に付いてきたことを覚えている。
 鳥居をくぐり、梅の花が咲き誇る庭園に足を踏み入れた時、その人は現れた。

「今年も来てくれたのか」

 その人は、真っ白な官服で、真面目そうな人だった。祖父に見せられた絵巻物に、ちょうどこの男の人のような服を着ていた平安京のお役人が居たので、この人はお役人なのだろう。みっちゃんが大人になったら、あんな雰囲気かなと紫乃は思った。

「はい」
「そなたら一族は律儀だな……私は恨んでもいないし、怒ってもいないというのに」
「いいえ。あの出来事は、我らの罪です」

 紫乃の視線に気づいたのか、彼は視線を紫乃へ移した。「この子は?」そう問われ、祖父・宗一郎が紹介する。

「孫です。ほら、紫乃ちゃん。ご挨拶だよ」
「あい! 紫乃です!」
「ほう、名前を言えるのか。偉いな」

 言いながら、紫乃の目線に合うようにしゃがみこんで、その人は頭をよしよしと撫でてくれた。
 「そこの牛の頭を撫でると、頭が良くなると言い伝えられている。ならば私に頭を撫でられたら、きっとそなたは賢くなるぞ?」と、微笑んで。紫乃は、この人はとても優しい人だなと思った。

「今年も、見事に梅が咲きましたなあ」
「……綺麗だろう。梅の花が私は好きだ。そして同時に切なくなる」
「……公」
「ああ、申し訳なさそうな顔をするな。私は責めているのではない。ただ、あれを、一人にしてしまった」

 俯いたその人の顔を、紫乃からは見えた。「しろいおにーさん、どうしたの?」問えば、可笑しそうにその人は笑って、「私は白いお兄さんか」と笑いながら「どうして白いお兄さんだ?」と聞かれた。

「うめのね、おはながね、にあうから」
「そうか、そうか。紫乃。私は、梅の花がたいそう好きなのだ。紫乃はなんのお花が好きだ?」
紫乃はね、もものおはな!」
「桃か。さすがは次代の藤宮家を担う逸材だな」

 殊更に優しく微笑んで、白いお兄さんは紫乃を抱き上げた。
 「宗一郎。私はしばし紫乃と話したい」言われた宗一郎は、驚いたが、すぐに「はい」と頷き、紫乃を男に任せることにした。
 抱っこされた紫乃は、きゃっきゃとはしゃいで男の腕で天を仰いだ。降るような白い花びらと戯れるように。

紫乃。そなたに友はいるか?」
「みっちゃん!」
「そうか。大好きか?」
「すきー!」
「そうか、そうか。それは良きことだ」

 にこにこした白いお兄さんは、何度も何度も紫乃の頭を撫でてくれた。紫乃を抱いたまま庭園内をゆっくりと歩き、梅の花々を眺めては、梅の花の品種を教えてくれた。紫乃の目からはどれも同じ花に思えたが、「そなたに名があるように、梅にも名があるのだぞ」と教えられ、とても感動した。

「――――東風こち吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
「おうた?」
「左様。私の歌だ。意味はわかるか?」
「……ううん、わかんない」
「そなたには少し難しかったな。意味はな、“春の東風が吹くようになったら、花を咲かせて香りを届けておくれ、梅の花よ。 私がいなくても、春を忘れないでいておくれ”」
「おにーしゃん、いるよ?」
「ふふ、そうだな。だが、そうではないのだ」

 微笑んだその人は、立ち止まった。「おにいしゃん?」俯いた横顔に、泣きそうになりながら紫乃はぺちぺちとその人の頬に触れる。
 温度はない。その時に、初めて紫乃は、「この人はゆーれーさんだ」と気づいたのだ。触れられるのに温度がなければ、その人は幽霊さんだよ、と教えてくれたのは祖父だ。

「春を忘れないで欲しかったのだ、私は」
「……うん」
「願ったのに。私が居なくなっても、春を忘れないでおくれと」
「……おにーしゃ、」
「なぜ、そなたが泣く? どうしたのだ、紫乃

 あまりにもその人の声が寂しそうだったから、紫乃はボロボロと泣いた。
 それに気付いて、慌ててその人は紫乃を地面に下ろし、しゃがんであやしてくれた。

「わか、ない……っ……ふぇっ……!」
「ああ、泣くでない、泣くでない。よしよし、紫乃。茶菓子でも食べるか? 梅の菓子が私は一等好きでな」
「おにーしゃ、かわいそう……っ!」

 うわああん! と声を上げて泣いた紫乃に、その人は微笑みを消し、くしゃりと顔を歪めた。息を呑んだ声が聞こえた。そして、震える声がする。

「…………友が、居たのだ。わがままで、自分勝手な男だった。だが、友であった」
「……う゛、ん」
「なのに、私は傍に居てやれなくなってしまった。遠くに行かなければ、ならなかったから」
「ど、っして……?」
「……どうしてだろうな。難しい大人の事情、というやつだ」
 鼻をズルズルさせていたので、懐紙で紫乃の鼻をかんでくれた。
 丁寧に拭ってやりながら、男は続ける。
「そうして私は、男を置き去りにしてしまった。一人ぼっちにさせてしまったのだ」

 こんなに優しい人が、こんなに悲しそうにしている。たまらなくなって、更にわんわんと紫乃は泣いた。
 どうしてこんなに優しい人が悲しまなくてはいけないのだろう。悲しくて悲しくて、紫乃はもうどうしたらいいかわからなかった。
 泣き続ける紫乃を、その人は「うん、うん」と言いながら、とうとう涙を流した。

紫乃……私の願いを聞いておくれ。もしも私の友を見つけたら、春を届けて欲しいのだ」

 ボロボロ、ボロボロ。泣きながら、紫乃を抱いて。
 胸にたまったすべてを吐きだすかのように、彼は訴えた。

「冬のような男だ。冷たく、誰にも心開かぬ。全てを凍らせ閉ざすような男だ。だから、春を……春を届けてやってはくれまいか」

 こくんと、何度も何度も紫乃は頷いた。

「私は、これから先も、ずっと、ずっと此処に居る。此処で、待っていると……伝えておくれ……!」

 お兄さんが叫んだ瞬間、耳を劈くような雷撃と共に、場面が切り替わった。
 暗い暗い、底なし沼に沈んだような場所で、巨大な美しい獣が咆哮する。

 ――――殺してやる! 殺してやるぞ、貴様ら全員! 未来永劫忘れはせぬ!! 殺してくれる陰陽師!!

 心臓を鷲掴みにするような怨嗟と憎悪の叫び。
 血の涙を流した獣に、紫乃の意識は覚醒した。

 がばっと掛け布団を捲り、勢い良く上体を起こした。飛び起きたと言ってもいい。五月蠅いぐらいに鳴り響く心臓と荒い呼吸が、夜のしじまに嫌に響く。
 あれは、一体。
 当たり前だが、夢から覚めた場所は見知った部屋。向かいにはベッドでぐっすりと眠っているハーマイオニーの姿がある。此処は、ホグワーツのグリフィンドール寮の女子部屋だ。

「……夢を干渉されるなんて」

 寝起きの掠れた紫乃の声が、落ちる。
 まだ夜明け前の薄暗い時間帯。糸が張り詰めたような冷たい空気は、イギリス独特のものだった。まだ秋だが朝晩が冷え込む上に、石造りのホグワーツ城は、とても寒いのである。
 冷や汗が急激に冷え、ぶるりと身体を震わせる。このままでは確実に風邪を引いてしまう。

「着替えないと」

 そう独りごち、ベッドのスプリングの軋みを気にしながら、ゆっくりと慎重に降りた。
 タオルでざっと身体を拭き、Tシャツに着替える。その頃になれば、完全に目は冴え、覚醒してしまった。そろりと再びベッドへ戻ったが、きっと眠れやしないだろう。
 部屋の中央にどっしり構えている柱時計は、ちょうど短針が4を指している。真田君が朝の鍛錬のために起きる時間だな、と思った。

「…………あれは、なんだったんだろう」

 ぞっとする声だった。魂を奪うようなその声は、殺してやるという声は間違いなく紫乃に向けられた激昂だった。

「考え、なきゃ」

 陰陽師の視る夢には、意味がある。
 それは紫乃が、祖父から、そして一族から何度も言い聞かせられてきた。力ある術者が見る夢は、単なる「夢」では終わらない。その夢が暗示なのか、何かの象徴なのか、それとも実現する未来なのか。いずれであるかを突き止めなくてはならない。
 過去の記憶に覆いかぶさるように干渉してきた妖。何か、ある。

 果たして敵なのか。敵だとするなら――――。背筋を走る震えは、まぎれもない恐怖だった。初めて出来た「友だち」を失いたくないと、決意を胸に宿す。
 着替えたTシャツをもう一度脱ぎ、ホグワーツの制服へと着替えた。姿見で頭からつま先までさっと確認した後、ローブを羽織って部屋を飛び出した。

 行き先は、ホグワーツの湖。
 いつもより早すぎるせいか、絵画の住人達はみな就寝しており、唯一起きていたのはカドガン卿くらいだった。何度も剣を振りかざして紫乃に気付かなかったので、きっと鍛錬でもしていたのだろう。
 通り慣れた道を縦横無尽に走り抜け、いつも通り急に視界が開けた。庭を出るとそこからは一直線だ。
 霧が立ち込める周囲を突っ切って、紫乃は叫んだ。

「女神さま!!」

 その瞬間、ざあっと風が吹いて霧を攫ってゆく。
 現れた美神は、険しい表情でこくりと頷いた。

「来ると思っていましたよ、シノ

 ――――そして神は、あることを紫乃に告げるのだった。