乙女の髪と子供の悪戯6
精市を先頭にして校舎に戻ると、グリフィンドールのテーブルの端に、嫌そうな顔で座っている、ハリーとロンがいた。フルーツと紅茶がそれぞれの手元にあるが、お世辞にも、デザートを楽しんでいる様子ではない。
「やあ、二人共。景気の悪い顔だね」
「悪くもなるよ、ユキムラ。あの馬鹿の声を聞き続けてればね」
そう言って、ロンがちらりと背面の方向に目線を遣った。
すると、スリザリンのテーブルに、わざわざ椅子の上に行儀悪く膝立ちになって、自分の髪を持って広げ、滑稽な表情を作り、何かを表現しようとしているドラコがいた。
精市の目が、すっと細まる。
「ふぅん、なるほどね」
「ユキムラ、何をする気? その気持ちの悪いバケツはなんだい」
精市が手に持った薄汚れたバケツを見て、ハリーは、食欲が完全に失せた顔をした。
「なんてことはないさ、ポッター。俺は今からちょっとヘマをするかもしれないけど、わざとじゃないんだ。本当にわざとじゃないんだよ。単なるうっかりさ」
「はあ?」
「ああっと、うっかり手がすべったー!!」
いきなりそう叫んだかと思いきや、精市は、持っていたバケツを思い切りぶん投げた。
手が滑った、と言っているが、棒読みだし、何より、メジャーリーグばりのすばらしい投擲フォームがなされていたのだが。
見ていた全員があっけにとられ、呆然と、弧を描いて素晴らしく遠く飛んで行くバケツの行く末を見守った。
──ガコォン!
そしてバケツは空中で逆さまになったかと思うと、椅子に立っていたドラコの頭にジャストミートした。
バケツの中に入っていた“穢れ”は、バケツをかぶった状態になったドラコにすべてかかり、パニックになったドラコが、「ぎゃあああ!」と叫び声を上げる。
一方、そのさまを見て、グリフィンドールのテーブルで、赤毛の二人が「ぎゃはははは!」と、手を叩いて爆笑しているが。
「あー、うっかりやってしまったー。しまったなー。……ぶふっ」
棒読みの上に、最後で完全に噴き出しているので白々しいにも程があるが、そう言いながら、精市はにこにこと笑顔で、スリザリンのテーブルに近づいた。
まだ状況がいまいち理解できないながらも、日本人組とハリーとロン、ハーマイオニーが、慌ててその後を追う。
「やあマルフォイ。不幸な事故だね。ご愁傷様」
「はぁ!?」
ドラコはバケツを頭から外したところだったが、直撃した痛みがあるのか、涙目で、怒りで顔が真っ赤になっている。
「あれ……? また“穢れ”が見えんようなっとるで」
蔵之介が、怪訝な顔で言った。
確かに、バケツの中身をすべてひっかぶったはずなのに、ドラコには、あの気持ちの悪いねとねとしたものは見当たらない。
「あ……、マルフォイくんも、どっちかっていうと“陰”寄りだから、侵食し始めちゃってる……。うわ、うわ、すごいベッタリ……」
紫乃が、若干顔色を悪くして言った。他の者には見えないが、どうやら、かなりえげつないことになっているらしい。紫乃はあわあわしながら、「ひい、口に……」とか、引き攣った声を上げている。
「うわー……マルフォイ、うわー」
「な、何だ!」
口に手を当て、退いたような姿勢でゆっくりと首を振る精市を、ドラコは頭の周りに疑問符を浮かべながらもキッと睨む。
「マルフォイ、えーんがちょ!」
高らかにそう言い、ピースサインの人差し指に中指を引っ掛けた奇妙なハンドサインを両手でビシッと示した精市に、留学生組の何人かが噴出した。
無論、「えんがちょ」は日本語なので、当のマルフォイ含め、他の全員が、訳がわからない、という顔をしているが。
「やーい、マルフォイにピーブズ菌がくっついたぞー。うわー、きったなー、マルフォイえんがちょー」
「ピ、ピーブズ菌!? ……エンガチョって何だ!?」
「うわー、寄るなよ、マルフォイ菌がうつる」
「マルフォイ菌って何だよ! 今ピーブズ菌って言ったじゃないか!」
意味不明の誹りを受け、ドラコは半ばパニックである。
「うーん、小学校低学年の頃は、クラスでよく見た光景だが……」
「あー……。子供っぽいな。確かにこれは最高に子供やわ……」
貞治と蔵ノ介が、乾いた笑みを浮かべながら言った。
「くそっ! くそっ! 何だよ菌って! でまかせ言うな! くそ!」
わけがわからないながら、汚物扱いを受けていることは理解したらしいドラコは憤慨し、精市に手を伸ばす。
しかし精市は、それを軽々と避けた。
「バーリア!」
「バリアって何だよ!? ずるいぞ!」
胸の前で腕を交差して言った精市に、ドラコがヒステリックな声を上げる。
「うわー幸村、バリアって言って、本当に結界張ってるよ」
何気にすごい高度なやつなんだけど、と、周助が感心した声で言った。
「菌は“穢れ”で、バリアは“結界”か。精市にかかれば、子供の悪乗りもシャレにならんな」
蓮二が言う。
「ああ……、懐かしいな。あれをやられると、凄まじく腹が立つんだが……」
「……真田君、やられたことあるんだ?」
「小さい頃にな……」
遠い目をしている弦一郎の肩を、清純がポンと叩いた。
「ふ、ふふん、菌なんてでたらめだろう! 僕をからかおうと思ってるみたいだが、そうはいかないぞ!」
ドラコは一旦気を取り直し、どや顔をして、椅子の上にふんぞり返った。「そんな子供っぽい手に乗るか!」と言っているが、先程までノリノリに乗せられていたことは、相変わらず棚上げするらしい。
「でたらめなもんか。紫乃ちゃん、符」
「えっ」
「符、ちょうだい」
「あっ、うん」
にこにこ顔の精市の圧力に、紫乃は素早く符を作り、手渡した。
そして精市は、「何だよ!」と喚くドラコの広い額に、紫乃の作った符をぺたりと貼り付ける。
「っなに、……ぎゃあああああ!!」
「きゃ──!」
「うわあ、何だこれ!」
ドラコだけでなく、周囲の者全員が叫び、ざっと退いた。
しかし、それも無理もない。あのカビともヘドロともつかぬドロドロネバネバした“穢れ”が、ドラコの頭や顔、肩にまで、べったりと満遍なくくっついていたからだ。
紅梅の状態も相当ひどいと思ったが、ドラコの今の状態と比べれば、些細なものだったようにすら思える。
「ひい、何だ、なんだこれ!?」
「取ってほしい?」
精市はそう言って、妙に可愛らしく首を傾げた。
「取ってくれ! 早く!」
ドラコはもはや半泣きである。最初はいい気味だと思っていた者も、だんだん可哀想になってきたほど哀れな姿だった。
「取ってくれってさ、真田」
「う……」
弦一郎は、凄まじく嫌そうな顔をした。
自身の稀有な素養により、影響を受けることはないとわかっているものの、進んで汚物に触りたいとは思わない。
弦一郎はぶつぶつ文句を言ったが、紅梅に聖水を作ってくれた恩もあるし、と、嫌そうながらも、素直に前に出た。
そして、「取ってくれ!」とわめき続けるドラコに近づくと、右手を思い切り振りかぶる。
──バッチィン!
雷が落ちた、と、見ていた者は思った。
裏拳を食らったドラコは、軽く吹っ飛び、床に倒れる。
顔付近の“穢れ”が剥がれ、近くの床にべちゃりと落ちていた。
「梅ちゃん、聖水」
「あ、へぇ」
終始ぽかーんとしていた紅梅が我に返り、近くにあった水のピッチャーに、聖水をひとたらしして、さっと精市に渡した。
「がっ、がぼぼぼぼ、ぐぼっ」
倒れたドラコの顔に、どじゃー、と水をぶっかけた精市に、全員が「うわあ」としか言えない顔をする。
弦一郎の裏拳で軽い脳震盪を起こして倒れたところに水をぶっかけられたドラコは、完全にノックアウトされていた。
しかし、“穢れ”は完全に浄化され、辺りは清らかな湖畔の水面のような輝きを放っている。
「今度は何の騒ぎですか!」
よく通る声を上げながら、マクゴナガルが、つかつかと歩いてやって来た。
弦一郎がびくりと肩を跳ねさせるが、精市はにこにこしたまま、堂々としたものだ。
「せんせー、マルフォイくんがバケツひっくりかえしましたー」
やけに可愛らしい調子で言った精市に、スリザリン生たちは絶句し、留学生組やハリーたちはあっけにとられた顔をし、双子は必死に笑いを堪えていた。ドラコは完全に気絶している。
マクゴナガルは怪訝な顔で生徒たちを見回したが、水浸しでひっくり返っているドラコの近くに、不快な気配をさせたバケツが転がっているのを見て、眉をひそめる。
「これは……昼の、ピーブズの?」
「はい。ちゃんと浄化しようと思って運んでいたのですが、ミスター・マルフォイがぼくの友人の悪口を言っていたので、注意しようと思ったら、うっかりバケツがひっくり返りました。マルフォイが暴れたので、中身が散らばりました。汚かったので、ここで浄化しました」
──嘘でもないあたりがおそろしい。
と、皆思った。
妙に作文調で説明した精市は、目をきらきらさせて、いい子そのものの表情である。
マクゴナガルは戸惑いつつも、散らばっている聖水の様子を見て、「……いい出来の聖水ですね」とだけ言った。彼女も混乱しているのかもしれない。
そして結局その場は有耶無耶になり、皆そのまま、それぞれの寮の部屋に帰った。
その後、悪戯仕掛け人と名高いジョージ&フレッド・ウィーズリーら双子が精市を「神よ!」と呼ぶようになったり、翌朝目を覚ましたドラコの、昨晩の記憶や、紅梅を蛇女呼ばわりしていたことなどが、曖昧になっていたりした。
それが、弦一郎の雷撃の如き裏拳のせいなのか、聖水で何かが浄化されたせいなのか、それとも単なる天運なのかは、誰にも分からないが。
相変わらず時間通りに朝練にやって来た紅梅は、きっちりと隙なく髪を結っていた。
使っている髪飾りは、弦一郎が杖選びの時に黄色く変えてしまったリボン。弦一郎の魔力が篭っているので、魔除けの効果があるということがわかったそうだ。
綺麗に洗って浄化したその髪は、今まで以上に艷やかで、きらきらと輝いて見えた。