乙女の髪と子供の悪戯4
「──その辺りにしておきなさい」

 よく通る、なめらかな低い声。
 ボン、と音を立てて弦一郎の後ろに現れた太郎は、木刀を振りかぶった彼の手を押さえ、静かにそう言った。

「“それ”の始末は私がつけよう。それより、他にやることがあるだろう」
 そう言って、太郎はうずくまってしゃくりあげている紅梅を、そっと支えて立ち上がらせた。ぐちゃぐちゃになった髪の間からぽろりと零れた涙の雫を見て、弦一郎がはっとする。
 がらん、と、木刀が床に落ちた。

紅梅

 いつもにこにこと穏やかで、滅多なことでは泣かない紅梅がしくしく泣きはじめたので、弦一郎はおおいに狼狽えた。
 しかしそのぶん、先ほどまでの怒れる雷神のような雰囲気はなく、ギャラリーたちがほっと息をつく。
紅梅
 ぐちゃぐちゃになった髪がどうにも痛ましく、弦一郎は名前を呼んで、そっと紅梅の頭に手を乗せた。長い髪をどう扱っていいのかわからず、しかしとりあえずひっくり返って頭上に乗っている毛先を静かに払って、軽く整える。
 ピーブズに触られている時は泣き叫んでいた紅梅だが、弦一郎の手は嫌がらず、黙って髪を整えられていた。

紅梅、どこか痛いところはないか?」
「ない……」
「そうか」
「きもちわるい……」
「……うむ」
「もうや。切るぅ」
「……は?」
「髪、切る……」
「なな、何を言っとるんだ、お前は!」

 弦一郎は思わず大声を上げたが、紅梅はしくしく泣くばかりだ。
「大丈夫だ、何もなってない!」と弦一郎は必死に言ったが、紅梅はふるふると首を振り、「切る」と言って、また泣いた。
 見ていられなかったのか、周りにいた女生徒たちが学年や寮を問わず寄ってきて、「大丈夫よ」「ひどいめにあったわねえ」「かわいそうに」と、肩や背中を擦ったり、乱れた髪を丁寧に直したりして慰め始める。しかし紅梅は泣き止まなかった。

「──何をしている」
「ひっ」

 そぅっと逃げ出そうとしていたピーブズに、太郎の凍りついた声が投げかけられた。
 あまりに冷えきったその声に、ピーブズだけでなく、周りの生徒達の背筋も凍り、一斉にピーブズに目線が集中する。

 構わずピーブズはそのまま逃げようとしたが、太郎はすかさず杖を振りかぶり、素早く複雑な呪文を唱えると、ピーブズに向かって振り下ろした。

 すると、バキン! と音がして、巨大な氷の中にピーブズが閉じ込められ、廊下にごろんと転がった。
 見たこともない魔法を一瞬にして行使し、触れることすら出来なかったビープスを悲鳴さえようようあげさせずに凍らせた太郎に、歓声と拍手が巻き起こる。
 そして、廊下に転がった巨大な氷を、生徒たちがおそるおそる覗き込んだ。元々半透明だけあって氷の中にいても若干見えにくいが、近くで見れば、ぼろぼろの中年男が、無様に逃げ出そうとした格好のまま硬直しているのがわかる。

「ずっとこのままにしとこうぜ」

 と誰かが言い、ここにいる全員がそれに頷いた。
 少なくとも、ピーブズに関わっていい思いをした者はホグワーツには一人もいないので、当然といえば当然だが。



 その後、他の教師やダンブルドアまでが駆けつけ、泣いている紅梅と凍りついたピーブズを見て、目を丸くした。

 しかしピーブズがやったことはたくさんの生徒たちがしっかりと目撃しており、しかも「ピーブズが、身体を触らせろとしつこく言って、ミス・ウエスギを追いかけまわした挙句、行き止まりに追い詰めて髪をめちゃくちゃにした」という事情を誰もが肯定したため、情状酌量の余地が一片たりともないとして、とりあえず、ピーブズはそのまま凍りつかせておくことになった。

 弦一郎がやったことについても、まずポルターガイストを物理的に殴ってボコボコにしたという特殊事例にどう対処してよいか誰もわからず、そして主に女生徒たちが、ピーブズのやった痴漢行為に対しては非常に妥当であると強く主張し、男子生徒達も何一つ同情しなかった。
 それに、いつもピーブズを管理しているといっても過言ではない、スリザリン寮憑きのゴーストである血みどろ男爵がやって来て、泣いている紅梅に対して非常に痛ましい顔をし、「申し訳ない。私が奴をしっかり見ていれば」と深く謝罪し、ほとんど首無しニックことニコラス・ド・ミムジー・ポーピントン卿が、「やはり奴は救いようがないということでしたか」と憤慨した。

 つまりは誰一人としてピーブズを擁護する者がいなかったため、弦一郎のやったことは決して褒められたことではないが、お咎め無し、ということになった。
 唯一、ダンブルドアが「ううむ」と唸って氷漬けのポルターガイストをちらりと見たのだが、

「他の善良なゴーストと違い、性犯罪者まがいの悪霊を校内に放置しておく必要性が?」

 と、太郎が冷えきった声で言ったので、ダンブルドアも、それ以上何も言わなかった。
 太郎は弦一郎を止めた張本人であるし、始終声を荒げたりすることこそなかったが、容赦というものはまったくなかった。
 彼は留学生たちを取りまとめる責任者で、つまりこちらにいる間の保護者である。太郎には彼らが安全に学校生活を遅れるように配慮する責任があり、そういう立場としては、ピーブズを許す理由はない。
 それに、太郎と紅梅の付き合いは、弦一郎より古い。小学校に上がったばかりの、重い振り袖を持て余してぽてぽて歩いている頃から紅梅を知っている太郎としては、留学生たちの保護責任者という立場以上に、娘に狼藉を働かれた父親のような気持ちなのだ。

「わざわざ苦しめるつもりはありませんが、適切に処理していただきたい」

 処理、と、あえて無機物を扱うような、事務的な言葉を使った太郎に、全員が頼もしさと恐ろしさを感じた。
 しかし、太郎は生徒を守る教師としてのありかたを妥協する気など、さらさらない。それに、娘に性的悪戯をしでかした中年男を許す父親など、この世界には存在しないのである。






 ──そして、四限目終了後。

「……こんな短期間に、真田のアレが出るとはね」

 まあ今回ばっかりはしょうがないとも思うけど、と、精市は淡々と言った。
 事件が起こった時、グリフィンドールとスリザリンの一年生は厳しいマクゴナガルによる変身術の授業を受けていた最中だったため、教室を出ることが出来ず、騒動を直接見てはいない。
 弦一郎が起こす雷鳴の轟のような音は十分聞こえたが、その時は、雨がひどくなって雷が落ちたのかと皆普通に思っていた。
 だが、教室を出たところにいたレイブンクロー組、国光、蓮二、貞治から十分話を聞くことが出来たので、何が起きていたのか、もうすっかり詳しく把握していた。

「真田は基本的に怒りっぽいし、マルフォイにしたみたいにすぐ怒鳴り散らすけど、それより怒ると、無表情で無言になるんだ。ボキャブラリーは“死ね”と“潰す”と“殺す”だけで、あとはもう、瞬きすらせずひたすら相手をぶちのめす」

 なにそれこわい、と、聞いている全員が思った。

「怒鳴り散らすレベルのキレ方はまあ珍しくないんだけど、今回みたいなやつは滅多にないよ。俺でさえ、あのキレ方は二、三回しかさせたことないのに」
「幸村君、何したん?」

 蔵ノ介は、思わず真顔で突っ込んだ。
 あんな戦闘神のような弦一郎と、二、三回もやりあったなど。
 そう蔵ノ介らが言うと、精市は「そうだよねえ。俺、鼻の骨折られたんだよ、信じらんない」と、聞かれたこととはややずれたことをのたまった。
「鼻の骨って……」
「あ、まあやり返したけどね。あいつは頭四針縫ったし」
 ふふ、と優雅に微笑む精市に、全員どん引きである。弦一郎から既に同じ話を聞いている面々、蓮二は「ふむ、弦一郎の話と相違ないな」と頷き、貞治と国光は再度のどん引きだった。

「──あ、やっほー。そっちは授業終わり?」
「あ、キヨちゃん」

 ひょいと現れた清純に、精市の語る修羅の世界の話に半泣きになり、腰を抜かしそうになっていた紫乃が振り向く。
 清純は、学年、性別を問わないハッフルパフの生徒らと連れ立って、大広間に向かおうとしているところのようだった。その中には、セドリックもいる。

「あの、ちゃんは……?」
「んー、ハッフルパフの談話室にいるよ。真田君もね。ハッフルパフの上級生のお姉さんたちが何人かついててくれてるんだけど……」
 やっぱりショックだったみたいで、大広間に来れそうにないから、彼女らのお昼ごはんを持って行こうと思って、と清純は言った。
 彼と一緒にいるハッフルパフの生らも、紅梅紅梅についている女生徒らの食事を運ぶ要員であるらしい。見れば、食事を運ぶためか、談話室においてある金色の大きなトレイを皆それぞれ手にしている。
 屋敷しもべ妖精に頼むこともできるのに、わざわざ自分たちで仲間のために食事を調達しに来たという彼らの、聞きしに勝るハッフルパフらしい温厚な親切さに、紫乃だけでなく、日本人の生徒らがほっとした気持ちになった。

「あっ、あの、私もハッフルパフの談話室に行かせてください! えっと、グリフィンドールだけど……」

 話を聞いてから、ずっと紅梅のことを心配している紫乃は、いつになくはっきりと言った。しかも、名前も知らない、男子生徒も混じった上級生たちに対して、である。
 あの紫乃がそうまでしたということに、国光を中心に皆が驚いたが、紫乃の表情は真剣だった。そしてお願いされたセドリックらも驚いたものの、顔を見合わせると、穏やかに微笑んだ。

「構わないよ。君たち日本人留学生の悪い評判は聞かないし、何より、ゲンイチローたちの友達だからね。良かったら、皆来るかい?」
「あ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます」
「ぜひお願いします」

 寛容なハッフルパフ生らに、留学生組全員、日本人らしく深々と頭を下げた。
 頭を下げるという行為にあまり慣れのないセドリックらは、「そ、そこまでしなくても!」と慌てたが、談話室に他寮の生徒を招くという行為は、あまり為されることではない。
 紫乃たち留学生組が今のところ非常に品行方正だということもあるが、寛容なハッフルパフでなくては、さすがにこうはいかなかったかもしれない。

「うん、紫乃ちゃんが来てくれれば、ちゃんも安心すると思うよ」

 早く持って行ってあげよう、と早足で大広間に向かいながら、清純が言った。
「真田君も頑張ってるんだけど……」
「……ちゃん、まだ泣いてるの?」
 あの、のほほんおっとりとしつつも何気に強靭で、弦一郎の怒鳴り声も平然と受け流し、滅多なことでは泣かないだろう紅梅が泣いていると聞き、紫乃だけでなく、全員が心配していた。
 精市だけが、それを聞いて、「真田はほんとそういう時に役に立たないよね」と、辛辣なことを言っているが。

「うん、まあ、それもあるんだけど……」

 たどり着いたテーブルで、スコーンやパイ、フルーツなどをトレイの上に置きながら、清純は、困ったように言った。

「……ちゃん、髪の毛切るって言って、聞かなくってさあ……」

 はああ、とため息をついて言った清純に、紫乃は目を丸くした。






 一応ルールだからということで、入り口の開け方は見せないように配慮され、紫乃たちグリフィンドール組と、一緒だったレイブンクロー組は、昼食を持ってハッフルパフ寮にやって来た。
 穴熊の巣のような、どこもかしこも丸みのある作り。暖かで、まったりとした雰囲気に、蔵ノ介が「落ち着く感じやなあ」と感想を言い、皆が同意した。

「お昼ごはん持ってきたよー」

 清純が、明るくも穏やかに気を使った声色で、談話室の扉を開ける。
 すると、ふかふかの大きなフソファに座った紅梅が、学年を問わない女生徒らに囲まれて、すんすんと鼻を鳴らして泣いていた。
 テーブルを挟んだ向かいには、むっつりと険しい顔をした弦一郎が、腕を組んで重々しく座っている。

ちゃん」

 真っ先に紫乃が駆け寄り、側にしゃがみこんで、紅梅の揃えた膝に手を置いた。

「髪を切るって言って、聞かないの」
「洗ったら綺麗になるわよって言っても、だめで……」
「気持ちはわかるんだけど」

 女生徒たちが、口々に状況を説明してくれる。
 同じ一年生で、事件が起こる前から髪のことを聞いていたハンナが、「ホグワーツなら大丈夫だと思ってたけど、ピーブズのことを忘れてたのよね」と、忌々しそうに言った。

「切る……」

 顔を両手で覆い、しゃくりあげながら、紅梅は、暗い声で言った。

コウメ、気持ちはわかるけど」
「そんなにきれいな髪を切ってしまうなんて、ありえないわよ」
 紅梅の両脇に座り、その肩を抱きながら言う二人の美人は、同じ部屋だという上級生だ。「もう忘れなさい」と彼女らがぴしゃりと言うが、紅梅は聞かず、ふるふると強情に首を横に振った。

「きもちわるい……べたべたする……」
「さっきからそう言うけど、なんにもついてないわよ? 気のせいよ」
「あの」

 やりとりを見ていた紫乃が、口を出した。

ちゃん、大丈夫。それ、取れるから。ね?」

 紫乃がそう言うと、紅梅がぴくりと反応した。
 そして、おそるおそる、顔を覆った両手を離し、紫乃を見る。泣き腫らした痛々しい目が、指の間から現れた。

「……ほんま……?」
「うん。きもちわるいよね? 大丈夫だよ、ちょっと待ってね」

 紫乃は自分のローブを探ると、細長い紙と筆ペンを出し、さらさらと何か書きつける。そしてその紙を片手で持ち、もう片方の手で複雑な形を作ってから、なにかぶつぶつと呟いた。
「とりあえずのものだけど……」
 そう言って、紫乃はその細長い紙を、紅梅の前髪に、ぺたりと貼り付けた。

「うわ!」
「きゃあ! な、何これ!」

 側にいた上級生二人だけでなく、周囲の誰もが、ざっと退いた。
 糊がついているわけでもなさそうなのに、不思議とくっついたままの紙がぶるりと震えたと思ったら、紅梅の髪に、紫色とも緑色とも黄色ともつかぬ、まるで長い年月放っておいた生ごみに生えた黴のようなものが、一斉に現れたからだ。
 しかもそれは半透明で、見るからにねとねとしている。

「……紫乃、何だ? それは……」
「ピーブズの魔力だよ。“穢れ”ともいうけど」
 国光の質問に、紫乃は端的に答えた。