乙女の髪と子供の悪戯1
 ホグワーツ入学日より、三日目。

 弦一郎ほどではないにしろ、いつもどおり早起きをした紅梅は、こちらに来てからの日課を終え、道具類を抱えて“外”に出た。

「はあ」

 ひと仕事終えた安堵で、重く息を吐く。
 驚くこと続きの魔法学校ならではの諸々、テニス部のマネージャー業よりも、この朝のひと仕事が何より重労働だ。せめて、この得体の知れないぬるぬるした汚れだらけの出入口は何とかならないものか、と、紅梅は今しがた自分が出てきた穴をじっとりと睨む。

 紅梅の今の姿は、浴衣の袖をたすきでまとめ、更にその上から割烹着を着け、頭には手ぬぐいのほっかむり。更に足元は、魚屋が履いているような、がぼがぼとしたゴム長靴という、芸妓の卵としてはなかなか“あんまり”な格好である。

 その重装備の上、大きなビニール袋を被って昇降しているので汚れてはいないが、面倒くさいこと極まりない。何より臭う。
 明日はデッキブラシを持ってきて、自分が通るところだけでも掃除をしよう、と紅梅は心に決めた。面倒な重労働が更に大仕事になるが、これから毎日同じ思いをするよりは、一日ひどい苦労をする方がましである。

「ご苦労なことねえ」

 頭上から響いた声に紅梅が振り向くと、やたら高く広い天井の空間に、レイブンクローの制服を着て、茶色っぽい黒髪をふたつに分けて耳の後ろで結った、厚ぼったい眼鏡をかけた少女が浮いていた。
 ──そう、浮いている。その上、半透明に透けてもいる。彼女はゴーストだった。

 この女子トイレが長らく使用不能なのは、彼女──『嘆きのマートル』のせいであるらしい。生前から泣き虫で若干癇癪持ちだった彼女は、ゴーストになっても、いやゴーストになったからこそなおその性質が強いようで、彼女が泣き喚くと、このトイレ中の水が反応するのだ。
 それは例えば便器から水が溢れ出したり、手洗い場の蛇口から滝のように水が噴出したりといったありさまで、床はいつも水浸しである。
 五十年近くトイレとしては機能していないので、汚いわけではないのだが。

「マー姉はん、おはようさんどす」

 紅梅は、にっこりして挨拶した。
 マートルは見た目も紅梅より年上であり、そして五十年前に亡くなったということならば当然相当先輩だということで、紅梅は「姉はん」と呼んでいる。
 “おちょぼ”の紅梅としては、目上の女性に対する一般的な呼称を用いたまでであるが、生前虐めにあっていたせいか自己卑下癖が強いマートルは、きちんと先輩して敬われたこと、また「姉」という響きにたいへん気を良くしたようで、紅梅に対して癇癪を起こしたことは、今のところ一度もない。
 今も、丁寧な挨拶に満足したのか、「ええ、おはよう」と、お姉さんぶった、少しすました表情で返している。

 そして、紅梅は、履き替えたゴム長靴や、汚れ防止のビニール袋などの道具を、トイレの個室の一番奥にある用具室に仕舞う。マートルがこの用具室に道具を使うことを提案してくれたため、紅梅は毎朝大道具を持ってひいこら言わずとも良くなった。
 その件についても、紅梅が心から深く感謝を示したので、マートルはとてもご満悦である。

「あら、あなた、リボンがほどけかけてるわよ」
「えっ」

 指摘されて紅梅が頭に手を遣った途端、マートルの言うとおりにほとんどほどけていたリボンが、するりと落ちた。
 紅梅は慌ててリボンを拾ったが、水浸しの床に落ちたリボンは、一瞬にしてびちゃびちゃになってしまっていた。ついていない、と紅梅はため息をつき、「あーあ」と、マートルが声を上げる。

 汚水というわけではないが床を流れている水なので、紅梅はリボンを一応手洗い場の蛇口からの水で軽く洗い、絞る。
 時間があれば部屋に戻って結い直すところだが、もう朝練に行かないと間に合わない。一度寮に戻って着物から制服に着替えなおす手間を省くため、制服と勉強道具は持ってきているのだが、逆に仇になった。さすがに、換えのリボンまで持ってきていない。

「……今日は、髪下ろして行きおすわ」
「まあ、しかたないわね」
 マートルが頷く。
「でも、なるべく早く結ったほうがいいと思うわ」
「やっぱり、結うてへんと、だらしなく見えますやろか」
「え? いえ、そんなことはないけど」
 むしろ、ホグワーツでは、ロングヘアの女子は、下ろしたままのスタイルのほうが多い。
 毎朝自分で結うのはなかなか気合のいることであるし、結っていてもポニーテールや、マートルのようなふたつ括りとか、おさげくらいが精々である。紅梅のように、ハーフアップにしてリボンまでつけているような子は少数派だ。

「……まあいいわ。とにかく早めにきちんとなさいな」
「へぇ」

 紅梅は首を傾げたが、髪は常にきちんと結えと常に口を酸っぱくして言われていることであったし、何より“おねえさん”の言うことは問答無用で聞き入れることを叩きこまれているため、素直に頷く。
 その反応に満足したマートルは、「ほら、そろそろ行かないと遅刻するんじゃないの」と、お姉さんらしく紅梅を追い立てた。

「ああ、それと」

 女子トイレを出ていこうとする紅梅に、マートルが忠告めいた声で言う。

「あなた、黄色いリボンのほうがいいわよ!」

 昨日してたやつね! とマートルは言い、トイレの個室に引っ込んでいった。






「ミ、ミーティングをはじめます!」

 朝練終了後、肩書・部長のマネージャーである紫乃が宣言した。
 円卓には、紅梅を含め、部員全員が座って、見るからに緊張しているマスコット部長の働きを見守っている。
「えっと、まず……、副部長さん、榊先生からの特別な連絡事項は、ありますか!」
「テニス部のことについては、特におへんえ」
 副部長兼マネージャー、紅梅が、落ち着いた口調で答える。
 太郎と個人的に親しいこともあり、彼からの指示や連絡事項を伝え、また皆で決めたことを太郎に伝えるのは、自然と紅梅の仕事になっていた。

「そやけど、『特別講義』の発表の順番を決めるんに、一回みんなの得意分野の話を、うちらの間で情報交換しといたほうがええんとちゃうか、とは言われとおす」
「あ、それいいね」
 そう言ったのは精市だが、皆も、それぞれ同意を示して頷いている。
「そうだな、順番を決める目安がつけやすくなるし、他の人の得意分野やテーマを知っておけば、お互いに助け合えることも出来て、効率も上がるだろう」
 蓮二が、微笑みを浮かべて頷いた。

「確か、週末の金曜日は一年生全員、午後丸々授業がなかったはずだが、博士?」
「うん、そのとおりだよ教授。じゃあ、もしみんなの都合が良ければ、今週金曜日の午後はそのことについての情報交換に充てたいと思うが、どうかな」
「構わねえぜ」
「うん、特に予定はないから、大丈夫」
「異議なしー」

 全員が頷いた。
 あっさり日程が決まり、紫乃もほっとして、「では、明後日の午後は、特別講義についての話し合いをします」と宣言する。紅梅が立ち上がって、壁に貼ってあるカレンダーに、予定を書き込んだ。

「えっと、では、……他になにか気になること、話し合いたいことはありますか」
「はい!」
 あらかじめ紙に書いてまとめておいた進行を読み上げる紫乃に、ビシ、と、千石がまっすぐに手を上げた。
「はい、キヨちゃん、どうぞ」
「ありがとうございます部長!」
 満面の笑みながらもわざとらしい応答に皆が苦笑するが、その後に続くのは、なかなか真剣な議題だった。

「あのさ、来週から、体験入部の受け入れが始まるじゃん? それで、どのくらい人数が来てるかなーって、榊監督のところで希望者リストを見せてもらったんだけど」
「ジブンの目当ては、女子の人数やろ?」
 蔵ノ介が、苦笑しつつ言う。
「うんまあそのとおりだけどね! ……で、女の子の希望者はかなりいたんだけど、……えーと、ほとんどスリザリンで、つまり、アトベサマ目当てっぽいっていうか……」
「ふん」
 景吾が、眉を顰めて口をへの字にし、腕を組んで顎を上げた。
 自分目当てであるということ自体はいいが、テニスに純粋に惹かれたわけではないということに、さすがの王様も、若干複雑な気持ちであるらしい。

「ま、それはいいんだけどね。やってみたら純粋にハマるかもしれないし。……でも、問題は、そのスリザリンの女の子以外の希望者が、ほとんどいなかったってところだよ……」
「えっ、そうなの?」
 紫乃がびっくりして言うと、清純も眉尻を下げて、「そうなの」と頷いた。

「女の子が沢山なのはいいけど、さすがにこれはどうなのかなーって」
「なるほど……。確かに、それはちょっとね」
 そう言った精市だけでなく、全員が、困ったような顔をした。
「日本では、圧倒的に男子に人気のスポーツなんだけどなあ……」と、貞治がメガネの位置を直しながら言う。

「体験入部は来週からだから、まだ時間はあるけど。でもその間に、ちょっとアピールっぽいことした方がいいんじゃないかな、と思ったんだけど、どう?」
「良いのではないか。確かに、俺達もまだここに来たばかりで、試合よりも基礎練習ばかりしていたので、見ている方としてもあまり面白くはなかっただろう」
 弦一郎が言うと、確かに、と皆頷く。

「じゃあ、とりあえず今日の午後の部活は、試合中心にする?」
「そうだな、見学者自体はそこそこ多い。それで様子を見て、あまり掴みが良くないようであれば、また何か考えるということで」
「異議なし」
 全員が頷く。それに、本人たちもそろそろ試合がしたいと思っていたところだったので、ちょうどいいタイミングでもあった。
 話がまとまったことを確認して、「ほな、たろセンセに言うときますえ」と、紅梅が微笑んで、連絡事項として部誌に書き込む。
 ホグワーツには校内ふくろう便という便利なものがあるので、こうして部誌を書き終えると、ふくろうに託し、太郎に届けることになっている。そして太郎がチェックしたあと、また、ふくろうがそれを部室に届けてくれるのだ。

「他にはありませんか? ……えっと、なければ、今日の朝練は終わりです。おつかれさまでした!」

 紫乃の宣言に、おつかれさまでしたー、と、体育会系の元気な挨拶が響く。
 男子ばかりの運動部の部長という、想像だにしないポジションを振られて戸惑いまくった紫乃であったが、順調に仕事を終えることが出来、やりきった感でいっぱいであった。
 ふう、と、満足気などや顔で大きなホワイトボードを転がし片付けている紫乃を、部員たちがどこか和やかな目で見ているのだが、当の本人はそれに気づいていない。

 マスコット部長は確実にその地位を確立し、立派に仕事をこなしていた。



「……あの、ちゃん」
 皆が着替え終わり、朝食のための移動の際、紫乃紅梅に話しかけてきた。

「あの、今日、髪の毛どうしたの?」
 いつもは上のほう結んでるよね、と、紫乃は、さらさらと流したままの紅梅の髪を見ながら言った。

「ああ、朝、結んどったリボンが解けて、水の上に落ちてもうてなぁ。一応洗って窓んとこに干しとったんやけど、このお天気やから、乾かんかって」

 イギリスは、湿度が高く、雨の多い国だ。特に秋、冬にかけては特にその傾向が強く、中世時代に病気が流行りやすかった原因のひとつでもある。そして九月はじめ、秋に入り始めた本日の天気は、生憎の雨である。
 テニスコートは面が少ない強みで、ドームともテントともいえる防水の天幕が張ってあるため、嵐でも来ない限りは、練習に支障はないのだが。

「ゴムも切れてもうてなぁ。なんや、今日は踏んだり蹴ったりやわ」
「そっか。あんまり気にしないで」
「へぇ、おおきに」

 その言葉が嘘でないことを証明するかのように、紅梅はにっこりした。
 実際、それほど気にしてはいない。むしろ、いつも「ちゃんと髪を結え」と口を酸っぱくして言われているだけに、なにもせず下ろしたスタイル自体は、新鮮にも感じていた。

 だが紫乃は、そんな紅梅をなぜかじっと見て、ぼそりと言った。
「……ちゃん、下ろしてると、感じ違うね?」
「そぉ?」
 紅梅は、不思議そうに首を傾げる。常にきちんと結ってはいるとはいえ、ハーフアップのスタイルなので、それほど印象が違うとも思えなかったからだ。

「あー、それ、俺も思った!」

 紅梅が髪を下ろしていることに、今日真っ先に気づいた清純が言った。
「練習してる時も、つい見ちゃってさ」
「シャンプーのCMみたいな髪だもんね」
 周助が、同意して言う。

「へぇ、……おおきに」

 褒められているのは嬉しいが、若干複雑な気持ちで、紅梅は礼を言った。
 なぜなら、部員たちもそうだが、練習中、特に観客席の見学者たちからの視線を常に感じていたからだ。
 作業をしているのに長い髪を結っていないのが感じが悪いのだろうか、と最初は気にしたが、どうもそういうわけではないらしい。紅梅が髪を掻き上げたり、払ったりする度に、どうも視線を感じる。

 清純や周助の言うとおり、ただ美しい髪だと思われているのなら紅梅も素直に嬉しいが、どうも、それだけではないような気がしたのだ。──根拠も何もなく、単にそう感じただけなので、口に出すことはなかったが。

ちゃんの髪、ほんとさらさらで、まっすぐだよねえ。俺なんか、雨の日はぐっちゃぐちゃだから、羨ましいよ」
 苦笑して言う精市の髪は、いつも天然の緩やかなウェーブを描いているが、今日は本人の言うとおり、いつもよりうねりがきつく、印象が違う。湿気があるとこうなるんだよねえ、と、精市は憂鬱そうに言った。
 ちなみに、紅梅の場合は、湿気があると余計にコシが強くなり、まるで熱鏝でも当てたようにまっすぐになり、艶やかさが増す。
 今も、いつもの少女らしい柔らかさが薄い代わりに、まるで人形の髪のような、根元から毛先まで均一な、そして見事な艶がかかっている。

「日本人でも、ここまでまっすぐな黒髪はそう無いだろうね。コーカソイドにはまずない髪質だから、こちらでは特に珍しがられるだろうな」
 貞治が相変わらず理屈っぽい補足をすれば、皆が概ね同意した。

「……それやったら、蓮ちゃんもそやないの?」
 いまいち納得がいかず、紅梅は言った。
 蓮二は、男の子には珍しいおかっぱ頭だ。涼し気な面立ちと、何より、今絶賛されている紅梅と同じくまっすぐにつややかな髪質で、非常に似合っている。
 自分の髪が注目を浴びるのならば、蓮二もそうであるはずだ、と紅梅は思っていた。

「確かに、珍しがられはするが。だが俺はおほど長くないしな」
「長さの問題やろか……?」
 毎日手間をかけて手入れをしている髪を褒められるのは素直に嬉しいが、納得行かず、紅梅は首をひねる。

 そして大広間に着き、それぞれの寮のテーブルに別れようとした時、くい、と、紫乃紅梅のローブの袖を引いた。

ちゃん、あの、あのね。……できれば、髪、結った方がいい、かも」
「……やっぱり、似合わんやろか?」
「えっ! ううん、そうじゃないよ! そうじゃないけど……」
 紫乃は、慌てて首を横に振った。
「そうじゃなくてね! 似合ってるよ!」
「ああ、堪忍なぁ。おおきに」

 必死に言う紫乃に、紅梅は微笑んでみせた。
 いつもどおりのおっとりした微笑みに安心したのか、紫乃もまた微笑み返す。しかしやはり、紅梅をまじまじと見てから、「うーん」と小さく唸った。

「……ホグワーツには、いい“ヒト”しかいないみたいだし、大丈夫だと思うんだけど……」
「へぇ?」
 どういう意味だろうか、と紅梅がきょとんとするが、その時、朝食の時間を知らせるベルが鳴り響いた。さらに、「紫乃ちゃーん」、と、グリフィンドールのテーブルの方から、精市が呼ぶ声もする。

「あっ、はぁい! あ、えっと、ちゃん、気にしないで! あ、でも、できれば結ったほうがいいと思う! 多分気にしなくてもいいと思うけど!」

 どっちや、と紅梅は思わずお隣さんの大阪ノリの突っ込みを入れかけたが、紫乃はてててと走って行ってしまった。
 そして、ハッフルパフから、「紅梅!」と、よく通る弦一郎の声がしたので、紅梅もまた紫乃の後姿を目で追うのをやめ、自寮のテーブルへと向かっていった。



「……弦ちゃん、今日、うち、なんかおかしい?」
 並んで朝食を食べている弦一郎に、紅梅はぼそりと尋ねた。
 こうして食事をしていても、やはりちらちらと視線を感じる。
 不躾にじろじろ見られる、というわけではないのだが、むしろそれだけにはっきりとせず、気になってしょうがない。

「……髪のことか?」
 口の中のものをきちんと飲み込んでから、弦一郎は言った。
「いつもとそう変わらんと思うが」
「……そやんね?」
 清純あたりに言わせれば朴念仁にも程があるコメントだが、やはり自分がおかしい訳ではない、と、紅梅はむしろほっとした。

「だが、まあ……」
 弦一郎は片手にパンを持ったまま、紅梅をまじまじと見る。

「……少し、落ち着かん感じはするだろうか」

 空き時間になったら速攻で寮に戻ろう、と、紅梅は決意した。
乙女の髪と子供の悪戯1//終