乙女の髪と子供の悪戯6
「……これはどうするんだ?」

 国光が、バケツに入った“穢れ”を、嫌そうに持って言った。紅梅から剥がれたために純粋な穢れそのものになったそれは、ピーブズと鉢合わせた時に誰もが感じる、理由のない不快感をたっぷり放っている。
 物理的にも魔法的にも汚物そのものであるそれに、誰もがいやな顔をする。ここで浄化するのも何なので、ということで、紫乃がバケツに封印の符をべたべた貼り、精市が後で聖水を作る時に、まとめて浄化することになった。

 そろそろ昼休みが終わるものの、紅梅の髪はあらかた綺麗になっていた。
 まだ櫛で取りきれない細かいものが残ってはいるが、とりあえず紫乃が作った紙の元結でまとめておく。後で、貞治作の穢れ落としのシャンプーと、精市の作った聖水で洗えば完全に落ちるだろう、ということで、それまで紅梅はどうにか我慢することを了承した。

「そうよ、せっかくのきれいな髪だもの。切るなんてもってのほかよ」
「ええ、本当に。ねえ? ミスター・サナダ」
「はあ」

 ニコニコと言った、紅梅と同室の上級生女子二人にぼんやりした返事を返した弦一郎だったが、二人がそのニコニコ顔のまま弦一郎の両腕をそれぞれガッと掴んで引いたので、弦一郎は目を白黒させた。
 ハッフルパフの中でもなかなかの美人と名高い二人に挟まれた弦一郎に、清純が「いいなー! 真田君いいなああー!」と、本気で羨ましそうな声を上げて地団駄を踏む。

「“はあ”じゃないわよ。ピーブズからあの子を助けたのはものすごくよくやったことだけど、さっきからむっつり黙りこくって。なにか優しい言葉のひとつでもかけてあげなさいよ」
「確かにあの気持ちの悪い汚れは取れたけど、女の子にとって、好きでもない男に髪を触られるっていうのは、物凄くショックなことなのよ。同じ女の子でも、かなり仲のいい子じゃないと、髪はあまり触られたくないものなの」
「そ、うなのですか……」
 サラウンドのマシンガントークに、弦一郎はたじたじである。
 ちなみに、紅梅は頭の周りに疑問符を浮かべながらも、精市に引っ張られてテーブルを移動し、昼食のパイを勧められているので、弦一郎が何を言われているのかは聞こえていない。

「そうよ。ねえ? ミス・フジミヤ。あ、シノって呼んでもいいかしら?」
「あ、え、はい! え、えっと……」
 いきなり名指しされた紫乃はあたふたしたが、二人の女生徒はずっと紅梅の側にいて声をかけ続けていたし、面倒見のいい性格なのは明らかだったので、怖がることなく頷いた。
 彼女らの間には弦一郎がいるが、なんだか情けない顔をしているせいか、今はそれほど怖くない気がした。

「うん……、それは、あるかも。男の子に髪の毛引っ張られたりするの、すごくイヤだもん」

 日本の小学校にいたころ、こうしてトラウマになるレベルで男子生徒からちょっかいを掛けられ続けた紫乃は、かなり嫌そうな、悲しそうな顔で言った。隣にいた国光も、当時のことを思い出したのか、険しい顔でこくこくと頷く。
 言葉よりもその表情や国光の反応に非常に説得力があり、弦一郎は「そうなのか」と納得する。
 そして、ちらりと紅梅を見れば、ずいぶん引いたもののまだ端が腫れた目をした紅梅が、もそもそとパイを食べている。ずっと泣いていたさっきまでよりはずいぶん気丈に振舞っているが、まだ本調子ではないのは明らかだ。

「だから、声をかけてあげなさい」
「そう言われましても……、どういう」
 弦一郎が困り果てた顔で言うと、女生徒は、あっけらかんと言った。
「簡単よ。“お前のきれいな髪を切ったりしなくてよかった”とかなんとか言って、ギュってしてチュッぐらいしてあげればいいのよ」
「できるかァ!!」

 弦一郎は、赤くなって叫んだ。
 その反応に、女生徒二人は「あらやだ、日本人って本当にシャイね」「シャイねえ」と、こそこそ顔を寄せあっている。

「いや、日本人とか関係なくそれはレベル高いわ、先輩。俺らまだそんな歳ちゃうし」
 見かねた蔵ノ介が、つい口を出す。
 すると、二人はきょとんとした。美人なので、そんな表情も非常に可愛らしくて様になる。
「ああ、そうだったわね、まだ一年生だったわね、あなた達。あんまりそう見えないものだから、ついね」
「でも、一年生でもそのくらいは普通よねえ? むしろまだそんな歳だから、無邪気の範囲で収まっていいんじゃないかしら」
「お、おぅ……」

 何気に計算高い発言をする美人二人に、蔵ノ介の目が泳ぐ。清純などは、「勉強になるなー!」と、授業の時以上に真剣な表情で聞き入っているが。
 ちなみに、実のところ、チュッはなくてもギュッぐらいはしたことのある国光は、ややきまり悪げに目を逸らして黙りこくっている。

「失礼」

 その時、よく通る、低くなめらかな声が響く。
 いつの間にか談話室の入り口に立っていたのは、太郎だった。

「お、大丈夫か?」
「へぇ、みんなが色々してくれはったん」
「そうか、それは良かった」

 太郎は、目を細めて微笑んだ。
 壇上に立っている時はほとんど微笑むことなく、先ほどの騒ぎでは絶対零度のオーラを放っていたこともあり、そのさまはひどく優しげに感じられる。
 ほう、と、上級生の女生徒たちがため息をついた。

「お前ほど美しい髪は、なかなかないからな」

 そう言って、太郎は、紅梅を軽々と抱き上げ、腕の上に乗せた。
 女所帯で暮らしていることもあり、“抱っこ”の経験があまりない紅梅は、びっくりして目を丸くしているが、嫌がってはいない。

「大変な目にあったな。あの不届き者は、私が責任をもって処断し、二度とお前の前には現れさせないから、安心しなさい」
「へぇ、たろセンセ、おおきに」
 紅梅がにこっと微笑むと、太郎も微笑み返した。

「ちょうど、お前の髪に似合う髪飾りでも贈りたいと思っていたところだ。切ると言っていると聞いて心配していたのだが、そうなっていなくて本当に良かった」
「えっと、」
「お前が髪を切ってしまったら、贈り物が無駄になる。そのためにも、切らないでいてくれるかね?」
「……うん」

 紅梅は少し顔を赤くして、こくりと小さく頷いた。
 すると、「そうか、良かった」と言って、太郎は紅梅の頭を撫でた。

「……いい? あれが見本よ」
「無理です」

 うっとりと言った上級生に、弦一郎は真顔で答えた。

「先輩、あれは無理や。ちゅーか、誰にも無理や」
「うん、あれはさすがにレベルが違いすぎるっていうか……」
 蔵ノ介と清純も、真顔である。

「……榊監督は、小さい時から上杉と付き合いがあるのだろう? あれは、その、父親のような反応なのではないか」
 国光が言った。
 もっと小さい時の紫乃が泣いたりした時、実年齢よりずいぶん若く見える彼女の祖父は、ちょうどあのように紫乃を抱き上げて、言葉をかけていた。
 ──まあ、あんな、気の利いた、というか、隙の無さすぎる台詞はさすがになかったが。

「あんなオトンがおるかい」

 しかしその意見は、蔵ノ介がばっさりと切り捨てた。

「えー、でも、恋人にする感じとしては過保護が過ぎるんじゃない?」
「そんなことないわよ。女の子としては理想よ」
 清純の意見に、女生徒たちが反論する。
 うーん、と、蔵ノ介が唸った。

「彼氏と、オトン、保護者の間ってとこかいな」
「何の話をしているんだ?」

 いつの間にか側に立っていた蓮二が、不思議そうな顔で首を傾げた。
 手に紅茶のポットを持っているところからして、飲み物を用意しに席を立っていたようだ。

「あー……、いや、さっきの監督の対応についてな……?」
「ふむ、なるほど」
 蓮二は頷き、一度ちらりと太郎と紅梅の方を見た。
 太郎は丁寧に紅梅をソファに下ろし、もう一度頭を撫でている。

「……ああいうのは、光源氏というんだ」

 その言葉に、日本男子たちは、全員納得した。
 やはり自分には絶対にムリだ、という確信とともに。






「午後ミーティングをはじめます!」

 朝と同じように、きりっとした顔で、マスコット部長・紫乃が言った。
 精市がにこにこ顔でぱちぱちと拍手を始めたので、それに吊られ、全員がなぜか拍手をする。「えっ、えっと、ありがとうございます……」と言って照れる紫乃に、皆がなんとなく癒やされた。その中には、紅梅もいる。

 紅梅紫乃が作った符の元結で髪を縛り、マネージャー業に徹していた。黙々と働いているうちにいくらか調子が戻ったのか、溌剌とまでは行かずとも、もう普通の様子である。

「まず、嬉しいお知らせがあります! 今日、体験入部の申し込みが、たくさんありました! しかも、ほとんど男の子です!」
 紫乃の言葉に、おお、と、歓声が上がる。

「ふむ。今日の騒ぎが原因だな、博士」
「そのようだ、教授」
 ぱらり、とノートをめくり、貞治が頷いた。
「手塚が扉のボタンに見事サーブを命中させたのを見て、興味を持ってくれたようだ。真田が可動階段を走り抜ける様も、かなり皆の目を引いたしな」
「なんかねー。SASUKEのノリだったよね」
 清純が、苦笑して言った。

「そっか。今日観客が多かったのも、試合観戦の反応がやけに良かったのも、そのせいだったんだね」
 周助が、納得した風に頷きながら言った。
 朝話し合った通り、今日はウォームアップ以外はすべて試合を行ったのだが、観客はいつものスリザリン女子の数倍の人数の生徒たちであふれていた。特に、グリフィンドールの男子生徒が多かったような気がする。

 周助は蔵ノ介と試合を行ったが、蔵ノ介の基本に忠実で無駄のないプレイはテニスを知らない魔法族の者達にはわかりやすくてうってつけだったし、それに対し、カウンター技が得意な周助という組み合わせだったので、非常に見栄えのする試合だった。
 また、弦一郎と景吾の試合では、今日、階段による三次元コースを縦横無尽に危なげなく走り抜けた弦一郎の身体能力に憧れを抱いたらしい男子生徒の声援と、景吾のファンの女生徒らの声援が、盛大にぶつかり合っていた。

 そうして盛り上がったせいでルールに対する質問などが相次いだため、急遽、国光と蓮二の試合を組み、データマンの貞治、説明が上手く人当たりのいい精市、清純が解説にあたった。
 国光と蓮二の組み合わせにしたのは、二人が、指示通りの精密なショットを打てるからである。よって試合というのとは少し違ったが、皆興味津々で彼らのテニスに見入っていた。
 また、おまけのパフォーマンスとして、昼間にボールを見事ボタンに命中させた国光が、今度はコートの各所に置いた缶に次々にボールを当ててみせると、「凄い! 本当に魔法を使ってないの!?」と、驚愕の声が相次いだ。

「何かと魔法の力にばかり注目しがちな魔法界であるので、純粋な身体能力の高さが目新しく、魅力的に映ったようだ。紅梅さんが大変な目にあった故のことなので不謹慎ではあるが、はからずも効果的なパフォーマンスというか、宣伝になったようだな」
「へぇ、悪いことばっかりやのうて、よろしおした」

 報告する貞治はどこか申し訳無さそうだったが、紅梅本人が穏やかに微笑んでそう言ったので、皆ほっとした。

「ま、早々と問題が解決して、何よりだ。いざとなったらなにかド派手なことでもやろうかと思ってたが、この分だと、その必要はねえな」
 景吾がそう言って頷いたので、何をやるつもりだったんだろう、と全員がぼんやり思った。彼が“ド派手”というからには、本当にド派手なことをやるつもりだったんだろうが。

 そして、他に連絡事項がないことを確認し、今日の部活は終了した。



 ──夕飯の後。

 紅梅の髪にまだ少しくっついている“穢れ”を落とすための品ができたというので、皆、ハッフルパフ寮の近くの中庭に集合した。

「いきなり自分に使うのも不安かもしれないから、見本を見せるね」
 そう言って、精市が、薄汚れたバケツを前に出してくる。中に入っているのは、紅梅の髪にくっついていた、ピーブズの“穢れ”である。
 精市はそのバケツの中にテニスボールを一つ入れると、ゴミ拾いの時などに使う、金属製の長いトングを使ってかき回し、“穢れ”まみれになったボールを取り出した。皆が、うっ、と嫌そうな顔をする。

「はい、ここで登場。あらゆる穢れを剥がして落としやすくする、穢れ落としの乾汁シャンプー!」

 眼鏡をきらりと光らせて言った貞治が、トングに挟んだボールに、小さな容器に入った、とろみのある液体を垂らす。
 そして肘まである大きめのゴム手袋をはめると、別に用意した盥に張った水の中で、ゴシゴシと洗う。最初は泡があまり立たなかったが、「ダブル洗浄がオススメ」と言って、一度水でゆすいでから、もう一度液体を垂らして洗う。すると、今度は、きれいな虹色の泡がたちはじめた。

「落ちたら水でゆすいで……」
「仕上げに聖水ね。洗面器一杯に、大さじ一ぐらいの割合でオッケー」
 水の上に“穢れ”と泡とボールが一緒くたに浮いた盥に、精市が、クリスタルの瓶に入った水を垂らす。
 すると、シュワァッ、と、炭酸水の泡が弾けるような音がして、水の中の“穢れ”が一瞬にして掻き消える。それどころか、きらきらと水が輝いていた。もちろん、ボールも綺麗になっている。
 おおおー、と、全員から歓声と拍手が上がる。なんか深夜の通販番組のノリだね、と清純が呟いた。

「ここまですればずいぶん薄くなってるけど、一応、洗うのに使った水にも垂らして、それから廃棄すれば完璧に浄化できるよ。お風呂にもちょっと垂らして浸かるといいんじゃないかな」
 はい、と、精市が、紅梅に銀色のポットを手渡す。
「シャンプーは洗浄効果だけだけど、トリートメントは、一定時間“穢れ”がつきにくくなる効果があるよ。よければ、使用した感想を貰えると有難いな」
「フローラルな香りを調合したから、ちゃんと女の子向けやで!」
「せぇちゃん、乾はん、白石はん、ほんまに、えろぅおおきに……!」
 紅梅は、とても大事そうに容器を受け取って、深々と頭を下げて礼を言った。

「あっ、コウメ、ここにいたのね」

 そう言って、校舎の方から駆けてきたのは、ハーマイオニーだった。
「ハーちゃん? どないしたん?」
「いえ、嫌な話なんだけど、ちょっと……」

 不快そうな顔をして話し始めるハーマイオニー曰く、「マルフォイが、あなたのことを蛇女だなんだって吹聴して回ってるのよ」とのことらしい。

「私は詳しく知らないから伝えるのもどうかと思ったんだけど、あなたの耳にいきなり入ってショックを受けたら、と思って……」
「またあの馬鹿は、いらねえことしかしねえな」
 チッ、と舌打ちをして、景吾が吐き捨てた。
 ちなみに、呪文学の授業の後、紅梅に対してひそひそやっているスリザリン生たちに、あれはそういうものではないと景吾と周助が毅然とした態度で告げたため、その場はそれで終わっていたのだが、ドラコはまったくそれを解していなかったようだ。
「子供っぽいことするねえ、本当」
 呆れ果てたような口調で、周助も言った。

「ほぉか……。あんまり気にせんようにするわ。おおきに、ハーちゃん」
 穏やかに言った紅梅に、ううん、とハーマイオニーが首を振る。
「それにしても、マルフォイのやつ。この間はコウメに擦り寄ろうとしたくせに」
「いやー、だからじゃない?」
 精市が、あっけらかんと言った。
 ハーマイオニーと紅梅が、きょとんとした表情で彼を見る。

「あいつ、あの時、明らかにちゃんのこと気にしてただろ。気になってた女の子にああまでキッパリ、しかも真田がくっついてるし、挙句にこてんぱんにやり返されたもんで、逆恨みっていうか」
「あー、気になる女の子をイジメるあれかー」
 清純がうんうんと頷いて言う。そして、「ダメだねえ。気になる女の子にこそ優しくしないと」と、重々しく言った。

「そういう……ことなのかしら」
「そうでしかないだろ」
 顎に手を当てて首をひねるハーマイオニーに、精市は断言する。そして精市にそう言われると、ハーマイオニーは、なんだかすっかりそうとしか思えなくなった。
「でもそうだとしたら、ずいぶん子供っぽいことするわね。マグルの学校に通ってた頃にもいたわ、そういう子。気になるかわいい女の子の髪を引っ張ったり、囲んで囃し立てていじめたりするのよ。ばかばかしい。余計嫌われるってわからないのかしら」
 その発言に、国光が他人ごとではない様子でこくこくと頷いてから、隣にいる紫乃をちらりと見た。

「そうだね。でも、目には目を、歯には歯を、だよ」
「どういうことだ、精市?」
 蓮二が言うと、精市は、にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべて、言った。

「子供っぽい嫌がらせする奴には、子供っぽい天罰を食らわせてやるのさ」