乙女の髪と子供の悪戯3
「ともあれ、原因がわかってよかったな」
「うん、悪いことじゃなくて、俺も安心したよ」
弦一郎と清純のその言葉に、紅梅は「へぇ、おおきに」と言って頷いた。
「そやけど、またなんか起きたら嫌やし、今からお部屋に戻って、結うてくるわ」
「そうだな……、そのほうがいいだろう」
弦一郎は頷いた。
四限めは授業がなく、その次は昼食なので、寮に戻るには良いタイミングだ。
「私もそう思うわ。それに、マルフォイがまた蛇女だなんだって言い始めてたらしいし」
「……あいつ、本当にそういうことばっかりだなあ」
ハンナが少し眉を顰めてもたらした情報に、清純もまた、呆れた風に言う。
当然の事ながら、あの一件から、ハッフルパフ全員から、ごく控えめに表現して、ドラコは全く良く思われていない。
「ほな、行ってくるよって」
「ついていかなくても大丈夫?」
「へぇ、そないかからんし。おおきに」
親切なハンナの気遣いににっこりして、紅梅はハッフルパフの寮の方へ向かっていった。
「……ぅん?」
階段を降ろうとして、はた、と、紅梅は足を止めた。
ホグワーツには数え切れないほどの階段があり、しかも、どれもこれもが一筋縄ではいかない。広い壮大な階段もあれば狭いガタガタの階段もあり、それだけならまだしも、曜日によって違うところへ繋がる階段や、真ん中辺りで毎回一段消えてしまうので、転ばないように気をつけなければいけない階段など。
更に階段だけでなく、扉もまた同様で、丁寧にお願いしないと開かない扉や、正確に一定の場所をくすぐらないと開かない扉、はたまた、扉のようでいて実は単なる扉の形の飾りだったり、といった具合で、安全性や利便性という概念に真っ向から喧嘩を売っているようなものばかりなのだ。
とにかく、ホグワーツでは、物という物が無機物という括りを無視して好き勝手に動いてしまうので、どこに何があるのか、何をどうすればどこに辿り着けるのかといったことを覚えるのが、非常に大変なのだ。
しかもその動きは東西南北に加えて上下の動きもあるためとても三次元的で、碁盤の目の形をした平面的な京都で暮らしている紅梅には、どうにも慣れない作りだった。
しかしいつもは無理をせず、誰か、ほとんどは弦一郎とともに行動し、道を教えてくれる絵画の人々がいる道を選んで歩いているので、問題はなかった。
そして今も、薬草学の教室は寮監のスプラウトの教室だけあってハッフルパフ寮からはかなり近いはずなので、一人で行ける、と思っていたのだ。
──しかし今、紅梅は、どこにも繋がっていない階段の上に取り残されていた。
「ひゃっ」
ゴォン、と音を立てて階段が動いたので、紅梅は慌てて手すりにしがみついた。
恐々と周りを見れば、吹き抜けの巨大な空間に多くの階段が浮いていて、数分、あるいは数十秒ごとに空中で向きを変え、どこかの廊下や、あるいは別の階段に繋がっているようだった。
紅梅と同じように授業のない生徒らが、離れつつある階段を、危なっかしくもジャンプして渡っているのが見える。
なぜこういうわけのわからない作りにするのだろう、と、紅梅は珍しく内心で悪態をついた。
本当に、今日は踏んだり蹴ったりだ。これも髪のせいだというのなら、早いところ、部屋に戻って髪を結ってしまおう、と紅梅は体勢を立て直す。その時──
「おやぁ? おやおやおやぁ?」
いきなり近くで声が聞こえたので、紅梅はびくりと肩を跳ねさせた。
ばっと振り返ると、空中に、オレンジ色の蝶ネクタイを着け、帽子をかぶった小男が浮いていた。
ゴーストにはもう慣れたし、マートルのように、親しくしている者もいるし、道を教えてもらったり、親切にもされているので、印象は決して悪くない。
しかし紅梅は、いま目の前に浮いている男には、どうにもいい気持ちを抱けなかった。帽子で陰っているせいだけではないどんよりと暗い目をしていて、大きい口の端がにやにやと意地悪そうに吊り上がっている。
周りに浮いた階段や廊下から、「ピーブズだ」と、忌々しそうな声がするのが聞こえた。
(──“Pet peeves”?)
それは、『イライラさせるもの』『不愉快にするもの』という意味の英慣用句である。
本名なのか通称なのかはわからないが、そんなふうに呼ばれているところからして、少なくともホグワーツの生徒らの間ではあまり良い存在なわけではないようだ、と、紅梅は警戒を強める。
「かーわいい一年生ちゃんだ! お困りかい」
「……道に迷たんどす」
「そうかいそうかい、そりゃあかわいそうに」
小男──ピーブズは紅梅を覗きこむようにしながら、周りをうろうろと浮遊した。どうにも居心地が悪く、紅梅は眉をひそめて体を強ばらせる。
「なんだか毛色の違う子だねえ。どうしてかねえ」
「……さあ」
「ふん、ふん、ふん」
ピーブズが鼻を鳴らし、紅梅のにおいをかぐような仕草をしたので、紅梅はぞぞっと寒気を覚えた。ゴーストとすれ違うといつも寒気がするが、もちろん、これはそういう寒気ではない。
ひどい嫌悪感に、紅梅は抱えた教科書の束を抱きしめた。
「──髪だ! その髪! 物凄くいいにおいがする」
何やら興奮したような様子で言うピーブズに、紅梅はぎくりとした。
「何だね、その髪? 不思議だなあ、いいなあ」
ピーブズが手を伸ばしてきたので、紅梅は慌てて身を引き、自分の髪を片手で押さえた。
──髪を手入れせずほうっておくと、絡まります。つまり、もしかしたら、いらぬものを引っ掛けて、絡めてしまうかもしれない、ということを例えているわけですね
スプラウトの言葉を思い出す。
どうやら紅梅の髪は、“いらぬもの”を引っ掛けて絡めてしまったようだ。
「なんだい、ケチ。触らせてくれたっていいじゃないか」
ピーブズは口を尖らせて、不愉快そうに言った。
しかし、本当に不愉快なのは紅梅の方である。
髪に魔力が篭っているとか何とかを抜きにしても、知らない者に、しかもこんな不気味な中年男に髪を触らせるなど、冗談ではない。
紅梅はじっと警戒しながら、階段が動いて、どこかに繋がるのを待った。
「ちょっとでいいからさあ、触らせろよう。そうしたら、道を教えてやってもいいぞ?」
紅梅は、ふるふると首を振った。
しかしその頑なな態度に、ピーブズの表情が歪む。
「けち! けち! 何だよ、頼んでるのに!」
そして、甲高い声で喚き散らしながら、紅梅の周囲を威嚇するように飛び回る。見た目は中年男なのに、幼児のような癇癪を起こすのが気色が悪く、紅梅は一歩後ずさった。
ゴォン、と音がして、階段が揺れる。ゆっくりと回転していた階段が、廊下に繋がったのだ。途端、紅梅は身を翻し、一目散に駆け出した。
「あっ、待てぇ!!」
もうハッフルパフ寮に行くという目的も忘れ、紅梅は必死に逃げた。
だが、普段からはしたなく走るなと強く言いつけられているせいで、紅梅はあまり走るのが速くない。その点、ピーブズもさほど速くはないが、ゴーストであるため、疲れて遅くなるということはないし、障害物は全く意味を成さない。
「触らせろ! 触らせろ!」
手を伸ばしながら追いかけてくるピーブズから、紅梅は必死に逃げた。
髪が靡かないように、片手で束にして押さえる。もう片方では教科書を持っているせいもあり、余計に速く走れず、もどかしい思いをした。
しかし、ちょうど吹き抜けの壁際の廊下を走っているので、その追いかけっこは、たくさんの生徒の目に留まる。
「ねえ、ちょっと、何あれ……」
「触らせろって、うわぁ」
「痴漢?」
「ピーブズが?」
「女の子が追いかけられてるって」
「触らせろって騒いでる」
「最低!」
主に女生徒が憤慨し、その騒ぎは、あっという間に学校中に広まった。
助けようとする者もいるのだが、ピーブズはポルターガイストで、人や物をすり抜ける。生徒の魔法もそれほど効くわけでもなく、ほとんど為す術なく、結局紅梅が逃げ続けるしかないのだった。
「──紅梅が?」
そしてその騒ぎは紅梅と別れて図書室に行こうとしていた弦一郎らの耳にも届き、途端、弦一郎は一目散に走りだした。
「ちょっ真田君、──速ァ!」
清純に教科書を押し付け、周囲にいた生徒たちのローブがめくれ上がるほどの速さで駆け抜けていった弦一郎に清純が叫び、ハンナはぽかんと口をあけっぱなしにしている。
しかし清純もすぐ、騒ぎになっているほうへ走りだした。
ピーブズが触らせろ触らせろと始終叫んでいること、紅梅も考えているのか、なるべく人の目のあるところを目指して走っていること、また生徒たちが騒いでいることもあり、その有り様は割とすぐに目にすることが出来た。
「くっ……!」
しかし、ゴォン、と動く階段に、弦一郎は、ぎしりと歯を食いしばる。
紅梅とピーブズが走っているのが、人混みや廊下の角からちらちらと見えるのに、複雑な道と始終動く階段のせいで、どう行っていいのかわからない。
「──弦一郎! 右の階段だ!」
吹き抜けの上からの声は、蓮二だった。
レイブンクロー一年生は魔法史の授業の二限目であったのだが、あまりの騒ぎに、皆教室を出て、窓から身を乗り出してきていた。
普通ならありえないが、何しろあのピンズ教授なので、どうとでもなるのだろう。
そして弦一郎は迷いなく、蓮二の指示通り、右の階段を全速力で駆け上る。
「貞治!」
「ああ、蓮二。今日の階段のルートは──」
横にいた貞治が最短ルートを素早く計算し、蓮二がそれを指示する。弦一郎はその指示に従い、廊下を走り、階段を昇り、降り、時に手すりを飛び越え、少し離れた階段に飛び移ったりもして、紅梅とピーブズに近づくべく追いかける。
普通に歩いていても迷うし疲れる可動階段を、物凄いスピードで休みなく走り抜ける弦一郎に、ギャラリーたちから、呑気な声援が飛ぶ。
「ワオ。スター取ったマリオみたい」
弦一郎から押し付けられた教科書を持ち、遅れて駆けつけた清純が、目を丸くして呟いた。
そして弦一郎が辿り着いたのは、大きな両開きの扉。
向こうに見える階段を駆け上れば、先ほど紅梅が駆け込んでいった廊下に入ることが出来る。──が、しかし、何とこの扉ノブがなく、弦一郎が体当りしても、びくともしない。
きょろ、と弦一郎が目線を遣ると、少し離れたところに、『OPEN』と書かれたボタンがあった。もちろん、すぐさま押しに行こうとする。
「弦一郎! それは押しっぱなしでないと開かない!」
「く……」
蓮二の制止の声が飛び、弦一郎は顔を顰めた。
「貞治、新しいルートを」と蓮二が隣を振り返るが、貞治はにやりと笑い、逆行して光る眼鏡を指で押し上げた。
「その必要はないよ、蓮二。──手塚!」
貞治が声をかけた方向には、少し離れた、ゆっくりと動く階段の上、ラケットに変えた杖と、テニスボールを構えた国光が立っていた。
ぶわ、と風が吹き、国光のローブと髪が舞い上がる。
「真田! 走れ!」
国光がボールを高くトスしながら言った瞬間、弦一郎が、扉に向かって走りだす。
──ガコォン!
国光が放ったサーブは、なかなかの距離、しかも動く階段の上からだったというのに、ボールと同じくらいの大きさのボタンに見事ぶち当たったばかりか、上手いこと挟まって、ボタンを押しっぱなしにした。
オーッ、と大歓声が沸き起こる中、ゴォン! と音を立てて扉が開く。そして弦一郎は、扉の向こうの階段を、一目散に駆け上がった。
「捕まえた!」
きゃあ、と、紅梅だけでなく、周囲の女生徒たちの悲鳴が上がる。
とうとう行き止まりに紅梅を追い詰めたピーブズが、紅梅の髪を掴んだのだ。
「おおおぉぉぉぉ!! すごい! 触れる! 触れるぞ!」
ピーブズはひどく興奮して、掴んだ紅梅の髪を、至近距離でまじまじと見て、くんくんとにおいを嗅いでいる。
「いやぁ! 触らんとって! あっち行って!!」
「おおおお、触れる! いいにおい! すごい、触れる!」
紅梅は髪を押さえて叫び、壁沿いに逃げようとしているが、逆に過度に追い詰められるばかりの上、興奮しきったピーブズはまるで聞いていない。何がおもしろいのか、紅梅の髪を、まるで水遊びでもするようにばさばさと払って舞い上がらせた。
その様に女生徒たちが叫び、「先生を呼べ!」と誰かの声がする。ピーブズに向かって物を投げつける者もいたが、やはりすり抜けてしまい、まったく効果がない。
調子に乗ったピーブズは、紅梅の髪を乱暴に掴んだり、かき回したり、引っ張ったりして、げらげらと笑っている。
「いやあー!!」
とうとう紅梅が大声で叫び、その場に蹲る。
「早く、先生を!」と誰かが叫んだ。
──ドォン!
その時、雷でも落ちたかのような轟音が、全員の耳をつんざいた。
「ぐぇっ……」
ピーブズが、潰れた蛙のような声を上げた。
彼が手にしていた紅梅の髪が、はらりと落ちる。
突然の轟音、そしてシンと静かになった周囲に、紅梅はぎゅっと閉じていた目を開け、おそるおそる顔を上げた。
──そこにいたのは、壁にべちゃりと張り付いたピーブズ。そして、ピーブズを蹴り飛ばしたままの姿勢で立っている、無表情の弦一郎だった。
全速力で走ってきた弦一郎は、紅梅の髪をぐちゃぐちゃにしているピーブズと、そのピーブズに追い詰められてうずくまっている紅梅を見るなり人混みから飛び出し、電光石火の飛び蹴りをピーブズに見舞ったのだ。
「……おい、なんでゴーストを蹴れるんだ……?」
誰かが呆然と言い、皆がざわざわと顔を見合わせる。
ピーブズは厳密にはゴーストではなくポルターガイストで、つまり元は生きた人間である幽霊とは違い、初めからこの状態で発生したため、どちらかといえば妖怪に近い。しかし半透明で、ゴーストのように何もかもをすり抜けるのは同じである。
だからこそ皆紅梅を助けることが出来ずに手をこまねいていたのだが、弦一郎は確かにピーブズを思い切り蹴り飛ばし、すり抜けるはずの壁に叩きつけてダメージを食らわせたのだ。
「ひぃっ、何するんだ、ぶぇっ!?」
壁から剥がれて振り返ったピーブズは、再度黙る羽目になった。なぜなら弦一郎が、ピーブズの顔面に、裏拳の平手を思い切りぶちかましたからである。
バチィン! と、まるで高電圧の放電のような音の平手は強烈で、ピーブズは横っ飛びに吹っ飛び、今度は別の壁に叩きつけられた。
「ひ、ひぃ……」
ずるりと壁からずり落ちたピーブズに、弦一郎は大股で近寄ると、ふざけたオレンジ色の蝶ネクタイを着けた胸ぐらを掴んで、自分のほうを向かせる。
誰にも触れられないのをいいことに、今まで長年好き放題やってきていたピーブズは、魔法でもなんでもない、直接思い切りぶん殴られるという初めての体験に混乱し、今もどうしてか自分の胸ぐらを掴んでいる少年を、信じられないものを見るように見た。
弦一郎は無表情で、一言も発さない。
だがつい二日前のドラコたちに対する怒号を知っている生徒たちにすればそれが逆に不気味で、また、弦一郎の身体から噴き出るような、黒い煙のような魔力もまた、有無を言わさぬ凄みがあった。
そして弦一郎はやはり無言無表情のまま、いつの間にか手にしていた十手を振りかぶると、帽子をかぶったピーブズの頭を、全力でぶん殴った。
──バッチィン!
「ぎゃあ!」
ピーブズが、悲鳴を上げる。
最初の蹴りや裏拳と同じように、殴打音というよりは、雷が落ちたような音がする。
実際、十手でピーブズを殴った瞬間、白とも金とも言えぬ雷光が見えたような気がしたのは一人二人ではなかったし、それが事実であることは、すぐに知れた。
なぜなら、すぐさまもう一度十手を振りかぶった弦一郎は明らかに黒いオーラを纏っており、その中から、バリバリと雷鳴のような光と音が、確かにしたからだ。
それはさながら、暗雲から雷を轟かせる雷神のような有り様だった。
──ビシャン!
「ひっ!」
──バチン!
「い、痛い! もう……」
──ドォン!!
「ぎゃーッ!」
弦一郎がピーブズを殴る度、雷が落ちる。
ひいひいと泣いているピーブズの顔は腫れ上がり、帽子は焦げ、蝶ネクタイがちぎれ、着ている服はところどころ裂け始めている。
悪いのは完全にピーブズだが、あまりに容赦の無いその有り様に、ギャラリーはごくりとつばを飲み込み、一歩どころでなく“ひいて”いた。
「ひぃ、やめて、やめ、痛い、もう……」
「死ね」
弦一郎が、初めて言葉を発した。
しかしその端的かつ微塵の迷いもない声に、ピーブズがガタガタと震える。
「助けて!」
「潰す」
泣き叫ぶピーブズに、弦一郎はまた十手を振りかぶった。
しかし今度は、高く振りかぶった十手が、黒檀の木刀に変化する。真剣さながらに黒光りするそれに、ピーブズが絶望したかのような顔をした。
「──殺す」
弦一郎はピーブズに突き立てるべく木刀を持ち替え、低く宣告した。