入学準備(6)
 宗一郎に手を引かれ、手塚と紫乃はダイアゴン横丁を一通り見て回り、珍しいお菓子や文房具などを購入した。お土産である。イギリスと言えば紅茶だが、他にも色々と買った。
 特に、手塚の母・彩菜はファンタジーに目が無いので、彼女のために文字を書くときらきらと星が散り、蝶が舞うボールペンや、舐めているとイチゴ・パイナップル・オレンジなど30種類もの味に変化するキャンディーと、それからジャムも購入した。
 その文房具店には、羽が生えたペンもあり、その羽が綿菓子で出来ていて食べられる仕様のものもあったが、文房具は勉強の道具だ、という認識が強い手塚の興味を惹かなかった。紫乃は購入したそうな顔をしていたが、羽ペンに一瞥すらくれない手塚を見て、キリっとした顔で購入しない決意をした。そんな彼女は、その代わりとでもいうのか髪飾りにもなるキャンディを購入していた。

 お土産の購入は思っていたよりも楽しく、色んな店を回れば、あっという間に時間が過ぎて行った。
 母へのお土産が大半だが、祖父には魔法のチェスを、父には、癒し効果のある香りの花を咲かせる魔法植物を購入した。
 祖父である国一は囲碁や将棋が大好きな人間であるので、英国版のボードゲームもきっと気に入るだろう、という予想の元だ。しかも魔法界のチェスはマグルのものと違って、プレイヤーの指示に合わせて駒が移動する。駒と駒が対峙する場面では、まさに一騎打ちとなり、文字通り駒を獲る。また、駒の一つ一つにも意思が存在するようで、くだらない指示には従わない。
 戦争を生き抜いた祖父であれば、司令官としての力量が問われる魔法界のチェスを気に入ってくれるだろう。
 手塚の予測は数時間後に的中し、国一は戦時中さながらの感覚を呼び覚まし、この魔法のチェスにどっぷり“ハマる”ことになる。
 父・国晴への土産は、このところ激務続きだという身を案じてのことだ。見た目は普通の綺麗な花なので、職場のデスクに置いても怪しまれることはないだろう。店主の話によると、この植物はマグルの世界に持ち込んでも罪には問われないらしいので、安心して手塚は購入した。

「たくさんの荷物になっちゃったね」
「そうだな」

 ほくほくした様子で言った紫乃に、頷く。
 さっそく購入したばかりのキャンディのヘアピンをサイドに留めているようだ。ヘアピンは1時間ごとに花やリボンなどの形になるらしい。食べられる上に形状も変わるとは、魔法とはすごいな、と手塚は思った。
 嬉しそうな紫乃の両手には、オルゴールもある。
 そのオルゴールは、紫乃がずっと貯めていた御年玉で購入していたもので、子供の買い物としては結構な値段だった。魔法のオルゴールは地上で蓋を開けると、ただの箱でしかないのだが、お風呂の中で蓋を開けると、美しい人魚が歌を歌い、優雅なダンスを披露してくれる代物だ。
 実際、誇らしげに語った店主が、水中で蓋を開けてくれたが、手塚の目から見ても美しく、実にすばらしいオルゴールだった。水中でさえ開けなければ、インテリアとして飾っても美しい箱なので、慎重な性分にもかかわらず、一目惚れしてしまった紫乃は即決して購入してしまったのだった。

「いやはや、今日ばかりは買い物に時間のかかる女性の気持ちが理解できるね」

 こちらもまた大荷物の宗一郎。紫乃と良く似たほくほく顔でそう言って、荷物の山をしげしげと眺めた。
 やはり手塚と紫乃とは違って、大人ゆえのお土産が多い。
 「魔法界は蜂蜜酒が美味しくてね。息子が買ってくるのをいつも楽しみにしているくらい大好きなんだ」そうで、蜂蜜酒とワイン、それに煙管や葉巻、燻製されたハムやチーズ等、挙げればきりのないほど、どっさり購入したようだ。間違いなく、帰国すれば国一と晩酌するに違いない。

「あれ、お祖父ちゃんいつの間に薬草まで?」
「文房具店の隣に薬草店があったからね。ほら、お祖母ちゃんがこの薬草のお風呂が好きだったろう? 日本じゃ手に入らないからね」

 眩しいほどに色鮮やかな緑色の薬草は、手塚が初めて目にする薬草だった。センブリやドクダミとはまた違うのだろう。
 「お祖父ちゃんの薬湯はね、疲れた時にとっても効くんだよ」と、誇らしそうな様子で紫乃が言った。疲労回復には素晴らしく良く効くらしく、「作ったら分けてあげるよ」とあっさり言った宗一郎が言うので、好意に甘えることにした。


 買い物が終われば、後は日本に帰るだけなのだが、余った分のお金を銀行に預けることになったので、宗一郎の引率の元、手塚と紫乃はグリンゴッツ魔法銀行までやって来た。少し前の出来事を教訓に、もちろん手は繋いだまま。ルートとしては、手塚が紫乃を捜すために逆走した道をなぞる形となった。
 魔法界唯一の銀行は、それはそれは豪奢な建物で、年代を感じさせる真っ白な造りであった。魔法界の店はどれもこれも年季が入っているようだ。
 ひときわ高くそびえる真っ白な建物は、磨き上げられたブロンズ製の観音扉の両脇に、警備員のような何かが立っている。深紅と金色の制服を着て突っ立っているのは、明らかに人間ではない何かである。

「ゴブリンだよ」
「……ゴブリン?」

 教えてくれた紫乃に、「生まれて初めて見た」と、手塚は呟いた。もう驚くまい。
 初めて見た小鬼は、手塚よりも随分と小柄で、浅黒い賢そうな顔つきに、先の尖った顎ひげで、手足がとても長い。

 白い階段を上がれば、階段にへたり込んでいる人々の姿があった。
 ――――そういえば、真田が「銀行のトロッコで酷い目に遭った」そうだが、あれはどういうことなのか。

「ああ、そういえば忘れていた。国光君名義の個人口座も作っていなかった」

 思い出したように、アッと言ったのは宗一郎だった。
 支払いはすべて宗一郎か紫乃が行っていたので手塚は知らなかったのだが、魔法界は通貨の単位そのものが違うらしい。てっきり、イギリスなのでポンドだと思っていた手塚は、通貨まで異なるのかと驚いた。

「換金でどうにかなるものではないのでしょうか?」
「もちろん可能だが、いちいち換金していては手間だからね。それよりも口座を開設してしまった方が早い。鍵さえ持っていれば、いつでも個人の金庫を開けてくれるから便利だよ」

 魔法界は紙幣が存在せず、すべて貨幣で成り立つ。使用される硬貨は三種類で、金貨のガリオンと銀貨のシックル、銅貨のクヌートだ。1ガリオンは17シックルであり、493クヌートである。マグル界の通貨に換算すると、イギリスでは約5ポンド12ペンスとなる。また、1シックルは29クヌートであり、約30ペンスである。
 ――――これは、いちいちマグル通貨と魔法界の通貨の換算は骨が折れる。日本・イギリス間のレート計算など尚更だ。

「ですが、身分証のようなものを何も持っていません」

 そもそもイギリスに来る予定も、ましてや魔法界へと足へ踏み入れることになると思っていなかったのだ。旅行鞄すら用意せず、その身一つでやって来た手塚である。当たり前であるが、身分を証明するものなど何一つ持って来ていない。

 だが、それを見越したうえで宗一郎は微笑みを寄越した。

「もちろん。安心してもいい。魔法族の身分証は大半がその杖だ。他にも身分証明の方法はあるが、杖を登録しておけば何とかなることが多い。クレジットカードというものは魔法界にはないが、手っ取り早い本人確認が杖になるそうだよ」
「そんなに緩くても大丈夫なのですか……」
 例えば、銀行強盗とか、振り込め詐欺とか。
 前者はともかく、マグル世界のような電子機械が一切存在しない魔法界ではそのような犯罪タイプは存在しえない。マグル世界と魔法界が違うことを、うっかり忘れていた手塚の疑問は、純粋なそれだった。
 もちろん、宗一郎は邪険にしたりせずに、うんうんと頷いて応じる。

「魔法界にはATMは存在しない。窓口対応というか……対応するのは、ゴブリンだよ」
「……ゴブリンが、ですか」
 あの両脇の小鬼か。手塚よりも遥かに小柄な彼らが対応するのか。警備員的役割をするだけではないらしい。
 手塚は確実に、魔法界に対して順応しようと努力していた。

「彼らは恐ろしく無愛想だが……恐ろしく仕事が出来る。なにより、本人確認において彼らを騙すのは至難の業だ。この銀行から何かを盗むのは、狂気の沙汰だと言われるほどに、それほど強固な守りだ……安全にこしたことはないが、どうにかならんものかと悩むところだよ」
 初めて、宗一郎が嫌そうな顔をした。
 ――――そして、半時間後。手塚はその意味を、身を持って体験する。


 結論から言うと、宗一郎の言葉の通りに、ゴブリンは手塚がこれまで見た誰よりも無愛想だった。金融関係の人間の窓口対応とはとても思えないほどに。
 しかし、恐ろしいスピードで仕事を捌く姿を見れば、印象は変わる。あっという間に手塚のための口座と金庫を手配してくれたので、どのくらいかかるのかと覚悟していた手塚には、拍子抜けするほどにあっという間だった。
 そして、真田の言っていた「銀行のトロッコ」の意味も、それはもう十分すぎるほどに理解した。
 いかに魔法界に、これまでの常識の一切が通用しないと言っても、まさか銀行でトロッコに乗るなんて誰が想像できるというだろう。冗談でもなんでもなく、本当にトロッコに乗ったのである。
 このトロッコが、遊園地にあるようなものだったら良かったとどんなに思ったことか。指定の番号の金庫に辿り着くまでに、何度曲がったかわからないほどだ。曲がりくねった路線を、信じられないスピードでトロッコが疾走したので、小鬼以外の全員の三半規管がおかしくなった。

 フィギュアスケートのように三半規管が鍛えられているわけでもない一般人にとって、あのトロッコは拷問である。あんなトロッコに乗るくらいに曲がりくねった場所で、どのくらい深いかわからないほどの地下に金庫があれば、盗みを働こうと思う馬鹿はいないだろう。
 口許を押さえながら、完全にグロッキー状態になりながら、そんなことをぼんやりと思った。

「みっちゃん大丈夫?」

 泣き虫だが、遊園地の絶叫マシーンは大好きな紫乃が、心配そうに訊ねた。ケロッとした様子の紫乃は、かなり三半規管が丈夫らしい。
 某ネズミの王国に紫乃と行った時も、何回も何回も紫乃は絶叫マシーンに乗りたがったので、付き合った手塚が暫くダウンし、「ごめんね、みっちゃん……!!」と紫乃が泣いた。去年の話だったか。

「お祖父ちゃん、気分悪くなってお手洗いに行っちゃった。みっちゃんは平気?」
「……なんとか」
 泰然としている姿しか見せなかった宗一郎でも、やはり年だということだ。というか、ご老体にあのトロッコは激しすぎる。心臓に病気でも抱えたら、それこそポックリ逝ってしまうだろう。

「吐き気とかない? このままでも大丈夫?」
「じっとしていれば、なんとかなるだろう。すまない」

 気分は悪いが、吐き気はない。10分ほど安静にしていれば、問題はなさそうだ。

「ううん。あ、ハンカチ濡らしてくるね! 冷やしたら違うと思うし!」
「いや、いい。また迷子になったら――――」

 最後まで手塚が言うより早く、紫乃は銀行内へと走って行った。すぐに追いかけたいところだが、頭がフラついているので、手塚は身動きが取れない。何より、お土産の荷物を放ったらかしにも出来ない。
 銀行内なら仕事の出来る小鬼がいるのだから、迷子になっても捜すことはできるか、と思考を切り替え、何も考えないでいることにした。ぐるぐるする視界の今、何も考えたくなかったからだ。

「ふぅ……」

 深呼吸を、一つ。
 息を大きく吸い、大きく吐き出す。一連の動作を何度か繰り返せば、心なしか気分は良くなってきた気がする。
 まだ入学もしていないホグワーツ。入学前からこの有様では先が思いやられるな、と思った。

「油断せずに、行こう」
「ギャッ」

 聞こえた声に、手塚はびくりとした。
 咄嗟に閉じていた眼を見開き、声の主を確認する。すると、手塚が座り込む銀行の階段より下の、大通りの道に“それ”は居た。

「……鷲、か? いや鷹か?」

 釣りや登山といったアウトドアが趣味の手塚だが、あいにく鳥には詳しくなかった。川魚であれば、もしかすると判別はつくかもしれないが。
 大雑把な分類としては、猛禽類の仲間で比較的大型が鷲とし、中・小型が鷹とするが、明確な区別はこれといってなく、慣習に従って呼び分けているに過ぎない。
 ピョンピョンと跳ねて、次いでバサッと羽を広げて飛んできた鷲は、手塚の足元で再び啼いた。

 こんな人ごみに、鷲とは。いや、もう何も驚くまい。ここは魔法界なのだ。あの大量の入学許可証を運んできたフクロウは、魔法界では手紙を運ぶ手段としてメジャーというくらいなのだから、鷲が一羽いるくらい、なんてこともないのだろう。
 そう考えつつも、しかし何故こんな所に、と疑問が浮かぶ。

「……誰かに飼われていたのか」
「ギャッ」
「違うのか?」
「ギャギャッ」
「そうか、違うのか」

 不思議なことだが、目の前の鷲の言葉が手塚には分かった。これも魔法なのだろうか。
 猛禽類は危険だとよく聞くが、これまた不思議なことに「コイツは大丈夫だ」と思えたので、そっと人差し指を差し出した。すると、鷲は甘噛みするようにガジガジと手塚の指を噛む。

「ただいま、みっちゃん! って、うわっ、鳥!?」
「ああ、おかえり」
「ワシ? タカ?」

 戻って来た紫乃が、手塚と同じ疑問を口にする。
 思うことは同じか、と手塚は苦笑した。

「……わからない。だが、とても利口な奴だ」
「うん。なんか、みっちゃんに懐いてる?」
「…………そう、見えるのか?」
「うん」
「そうか」

 「そうだ」とでも応えるように「ギャッ」と啼いた。本当に言語を理解しているらしい。
 驚きに目を瞠る手塚に、紫乃が「魔法界のペットショップから逃げてきちゃったのかな」と言った。手塚の推察通り、マグル世界で飼われていたわけではないことがわかった。
 その証拠に、その鷲の足には英字で書かれたタグが、紐でくくりつけられている。

「……逃げ出して来たんだな」

 すると、初めて鷲が「フン」とでも言うように、そっぽを向いた。
 鷲は、社会のルールを重んじる一方、束縛されることを極端に嫌う性格だ。かなり強情であるので、扱いには注意が必要となる。
 そのことを知らない手塚であったが、ペットショップから逃げ出すくらいなのだから、鳥籠が嫌なのだろう、と考えた。

「狭い檻は窮屈だったか……それとも、鎖が嫌だったのか」

 呟くような一言だったが、猛禽類特有の鋭い金色の瞳が、ぱあっと輝いたような気がした。鳥に表情があるとするならば、「分かってくれるのか!!」とでも言うような。これぞまさしく、荒ぶる鷹――――ではない、鷲のポーズだ。
 一層、バサバサと羽音を響かせ、興奮し始めた鷲に、手塚も紫乃も機嫌を損ねたのかと焦る。
 だが、どうやら違うようで、ギャーギャーと騒がしく啼くだけだ。怒っている様子だったが、二人に攻撃してこない様子を見るに、別のことに激怒しているようだった。

「……ペットショップが嫌だったんだね」
「……そのようだな」

 そんな二人の言葉に、「その通りだ!!」と言うように、羽を広げていた。
 そしてそんな鷲は――――。


「ああ、やっと見つけ――――って、ギャアアアア! やめてぇえええええ!!」

 ――――迎えに来たペットショップの店主に反逆したのであった。



「いや、もう、ホント! ホントに! こいつを引き取ってくれる人が現れるなんて夢のようです!」
「いえ……それよりも、本当に代金を支払わなくてもいいんですか?」
「気にしないでください!! もうね、貰ってくれるってだけで本当にありがたいですから、本当に! ああ、お客様! あなたこそ私の神様!! 救世主!!!」
「………………そう、ですか」

 銀行前で鷲の爪の餌食になりかけていた店主は、辛くも手塚の助けによって難を逃れた。顔中が傷だらけだが、その気になれば鷲の握力は人間の頭蓋を砕くと言われるほどなので、比較するまでもない。引っ掻き傷なんて大した傷には入らないのである。
 何故か手塚の言葉には従って、攻撃を止めた鷲を見たペットショップの店主は、目を血走らせて土下座せんばかりの勢いで泣いて懇願した。「引き取ってもらえませんかね!?」と。完全に情緒不安定としか言いようがない。

 所変わって、ペットショップ。
 ヒキガエルやネズミ、猫などのフクロウを除く魔法生物専門のペットショップに連れてこられた二人。鷲が手塚の言うことしか聞かなかったので、なんとか言い聞かせて籠に押し込み、泣きつく店主に連れられ、やって来た。
 さて、やって来たはいいのだが、鷲の懐き具合を目の当たりした店主が「引き取って欲しい」と土下座に子供二人は狼狽える。

 しかし、店主の話を聞けば、その理由も頷けた。
 とある貴族が己のステータスのために鷲を飼ったはいいが、気性の荒さゆえに扱いきれず、厄介払いとばかりにペットショップに置いて行ったのだと言う。それからというもの、この気難しい鷲に随分と気を揉んだそうだ。
 こんなに賢いのに何が不満だったのか、と手塚は思った。
 今も、試しに籠から出してやれば、手塚の肩を止まり木にはせずに、店内の窓枠に止まった。最初から肩は絶対にいけない、とわかっているかのような振る舞いである。店主が余りにも怯えるので、申し訳ないが鳥籠に戻ってもらうことになったが、素直に従ってくれた。

「素晴らしい鷲だと思いますが」
「……特別、懐いているように思いますよ」
 物凄く、苦々しい表情だった。これ以上は何も言うまい。
「それにしても、飼えもしないペットを飼うなんて……酷いね、みっちゃん」
「まったくだ。責任感というものがないのだろう」
「全くです……!! お陰で私が……! どれほど……! どれほど!!」

 両手で顔を覆っておいおい泣き始める店主に、同情を禁じ得なかったのか、紫乃がそっとハンカチを差し出した。あの鋭い爪によるえげつない攻撃を目の当たりにしている手前、「うわあ痛そう」と、紫乃の顔は引き攣っている。
 ノイローゼ一歩手前のこの店主、よほどこの鷲の扱いに苦労したのだろう。
 引き取ってくれなければ自殺する、とでも言い出しかねないほどの気迫にも似た「何か」を感じ取った手塚は、かなりドン引きしながら、最終的にコクコクと頷いたのである。
 追い詰められた人間には、まず共感することから。否定は絶対にしてはいけない。警官として、飛び降り自殺を図ろうとする容疑者の説得に応じた経験のある祖父が、教えてくれたことを活かせて良かった。

「しかし、どうすべきか……」

 自殺しそうな人が居たので、引き取りました――――そう言ったら、家族はペットを飼うことを許してくれるだろうか。今更ながらに手塚は心配する。家族の誰の許可も得ずに、引き取ることに同意してしまったからである。
 だが、手塚の左手の鳥籠で、大人しくしている鷲ことオジロワシを見て、なんとか説得してみよう、とも思う。店主の話では、「このオジロワシがこんなに人に懐いているのを見たのは初めてです!!」だそうなので。

「……フクロウの代わり、で納得してもらえるだろうか」
「た、鷹文もあるくらいだから、だ、大丈夫じゃない、かな……? すごくスリムな、フクロウという、ことで…………だ、ダメかな?」
「………………がんばって、みる」

 「ものすごく頑張りました」感であふれる紫乃のいらえに、手塚はたっぷりと間を要した。
 子供二人をそっちのけで、滂沱の涙を流し、「これで自由……! そう、私は自由に……!」と歓喜にむせび泣いている大人が一人。
 ――――とりあえず、異常な空間であることには間違いなかった。


 そうして、鳥籠や餌などといった飼育に必要な何もかもをすべてタダで受け取り、グリンゴッツ銀行前へ。トイレに篭った宗一郎に、何の事情も説明していなかったので、急ぎ足で戻って来た。
 オジロワシは、鳥籠で大人しくしてくれているようで、「揺れるぞ」と手塚が伝えても、ひと啼きするのみだった。

「おかえり、二人とも」

 若干、蒼褪めた顔ながらも、普段通りの穏やかな表情で宗一郎は待っていてくれていた。
 勝手にいなくなった非礼を詫びれば、何もかも分っているのか「いいんだよ」という、さらっとした返事である。次いで、手塚の手の鳥籠を見て、「綺麗な鷲だね」とも。

「名前は付けたのかい?」
「いえ、まだですが」
「そうかい。では帰宅したら考えておあげ。名前はこの世で最も短いしゅだからね」
 かの大陰陽師・安倍晴明は「眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」と遺している。名前によってその人を縛るのだ。それゆえに、平安時代では女は男に本当の名を教えず、真名を告げるときは夫婦となるときのみだった。名を告げることは、男の所有物となることと同じことだからである。
 果たして、縛られることを嫌うこの鷲が、受け入れるのだろうか。
 ちら、と視線を寄越したが、パチパチと瞬きするのみで、不快そうな様子はないようだ。

 「お名前が決まったら教えてね」と言う紫乃に頷き、帰国したら漢字辞典を引こうと手塚は決めた。
 数時間後、このオジロワシに「ハヤテ号」と名付けた手塚に、彼の父親が度肝を抜かすことになる。



「さて、これから日本へと戻るけれど、僕たちはすでに路を創った」
「えっ、お祖父ちゃん、路って?」
 手塚の思ったことを紫乃が代弁してくれた。ゆったりと微笑み、教え子に諭すように宗一郎は続ける。
「行きは東京・京都・イギリスという方法だったが、京都という中継地点を通り海外への路を、すでに踏みしめている。記憶した、と言った方がいいのかな。京都を経由しイギリスに至ったという経験を経たわけだ」
「うん」
「去年、国光君と紫乃ちゃんは沖縄旅行に行ったね」
 言われて、頷く。三泊三日の旅行だった。
「二人とも、東京から京都を飛び越えて沖縄への路は、すでに持っている。けれど、イギリスの大地を踏んだという経験はないだろう? 未踏の地へは、この術では行けないんだ」
 最も、魔法による瞬間移動は場所を知らなくても、場所を特定できれば瞬時に移動することが出来る。だが、移動魔法はかなり難易度の高い魔力であり、失敗すると身体がぐちゃぐちゃになり、最悪“ばらけ”てしまう。
 その点、場所さえ知っていれば陰陽術と魔法を練り合わせたこの移動法は、比較的難易度は低い。

「――――つまり、行きの経験によって、帰りは京都を経由しなくても、直接東京へ帰れるということですか?」
「その通り」
 すっかり気分が良くなったのか、血色の良くなった笑顔が見えた。

「さあ、おいで。この手をとって」
 言われるがまま、宗一郎の手を二人は握る。そして、円をつくるように三人で手を繋いで輪をつくった。身体の中心から温かな何かが満ちてゆく感覚が巡り、その瞬間は訪れた。

「“七夜を覇す、六つ星に、五条の光が差し込まん”」

 詠唱は巡り、輪をなし、大円に満ちる。

「“四の神が祈りし朝、三毒を克ち、やがて双玉にて、一つに還る――――”」

 次の瞬間、僅かな砂塵が立ちこめると同時に、二人の子供と一人の大人の姿は消え去り、ダイアゴン横丁はいつもと変わらない夕刻の時を迎えたのだった。




 目を開ければ、藤宮家の座敷だった。あの床の間の掛け軸もある。さっきまでダイアゴン横丁で、イギリスで、外に居たのに、今は日本の藤宮家に居る。あまりにも現実味がなさすぎたので、白昼夢と言われても納得できてしまうのだが、身体に残る疲労と荷物が現実であると証明してくれている。

「あら、お帰りなさい国光。紫乃ちゃんも」
「お帰りなさい。どうでした? 楽しかったかしら?」

 母親と紫乃の祖母に声を掛けられ、ようやくぼんやりとしていた意識はしっかりと覚醒した。視線を移せば、「おお、帰ったのか!」「おかえり二人とも」と、祖父と父も入室した。いつの間にか、紫乃の家へ来ていて、三人の帰国を待っていてくれたようだ。
 「ただいま戻りました」と告げ、居住まいを正した。

「今日は紫乃ちゃんの大好きなちらし寿司ですよ」
「お祖母ちゃん、ほんと!?」
「ええ、ええ。国光ちゃんもお夕飯は一緒よ。お夕飯までゆっくりしていなさいな」
「うん!」
 そう言いながら、みたらし団子を持ってきた千代に、きゃっきゃとはしゃいで紫乃は洗面所へと向かった。遅れて、手塚も後を追いかけようとすると。

「さあ、国光。お土産話をお母さんに聞かせて頂戴」

 それはもうきらっきらの笑顔で、これでもかとばかりに目を輝かせた母。母には劣るが、興味津津とばかりの祖父・父といった面々を前に、これは長くなりそうだ、と手塚は悟ったのだった。