入学準備(3)
 石の壁に囲まれた部屋から出ると、そこがイギリスだと誰が信じられるだろう。東京から京都、そしてロンドンへと至るまでの数々の不思議を体験していなければ、おそらく手塚は目の前の景色が現実であることを受けとめることは、とうていできなかった。
 石畳の通りが、曲がりくねって随分遠くまで続いている。その通りの両側には、不思議な看板をした店が立ち並ぶ。

 ――――ダイアゴン横丁。
 ロンドンの魔法界最大のショッピングモールである。
 手塚の目の前を行き交う人は、東京に居た頃では見た事のない“奇抜な”ファッションで、映画から飛び出して来たかのような“いかにも”魔法使いといった格好をしていた。王道の黒いローブに黒い三角帽を被っている者もいれば、派手な色のローブを纏っている者も居る。ふと、反対方向へ視線を遣れば、小さなサイズの箒を持って子供が駆けてゆく姿も見えたし、怪しげな薬や道具の売買をしている大人の姿も見える。
 何を注視すればいいのか、何に耳を傾ければいいのか。目にしたことのない光景に、自然と心は躍った。

 おそるおそる地に足を着け、立つ。湿度のないカラッとした気候は、日本ではない異国のそれだ。

「かの晴明公が遺しし日本最古の陰陽道の書物――――“占事略决”。この書を読み解き、魔法と融合し、編み出された術式が、京都・ロンドン間の移動を可能にしていてね」
 これを編み出したのは、土御門家の三代前の当主だとか。どのくらい凄い魔法かわからないが、これは魔法の中でもきっとかなり難易度の高い魔術だろう、と手塚は確信していた。

  「さあ、まずはローブを買いに行こう。そしてその次は杖だ。やはり魔法使いになるのだから、一番大切な杖を買わなくてはいけない」
「!」

 紫乃と手塚は揃って目を輝かせ、そして同時に顔を見合わせた。
 魔法使いには杖。テニス選手がラケットを持つのと同じく、王道でありながら必要不可欠といってもいいほどのアイテムだ。
 先導する宗一郎に、手塚と紫乃は懸命について行く。その道のりで、周りの店がたくさん誘惑してくるけれど、異国の地ではぐれるわけにはいかない、という気持ちから、脇目も振らずにただただ前を歩いた。


 初めて魔法界の店に足を踏み入れたのは、“Madam Malkin's Robes for all Occasions”──『マダム・マルキンの洋装店、普段着から式服まで』と書かれた、洋装店だ。
 ホグワーツの制服はこの店で調達できるようで、店内へと入るとすぐに、藤色のローブを着た愛想の良い魔女――彼女がマダム・マルキンだ――がテキパキと丈を測ってくれ、採寸を採ってくれた。体格はふくよかだが、きびきびと働く。

「あら、この年で珍しい。しっかり筋肉が付いているわね。杖腕もしなやかだわ」
「杖腕?」
「マグルで言うところの利き腕といったところかしらね」

 たった一人で店を切り盛りしているだけあって、マダム・マルキンは話上手であり、聞き上手だった。寡黙な手塚も、リラックスした状態で採寸してもらうことができたのである。
 あらゆる人間を見てきているからか、魔法族の子供よりも背が高く、発育の良い身体つきの手塚を見て、マダムはすぐに手塚がマグルの子供であり、何かスポーツをしていることを見抜いた。
 もちろん、テニスというスポーツは生粋の魔女であるマダム・マルキンは知らなかったようだが、「クィディッチと同じくらいにマグルの子供が夢中なスポーツだとはわかったわ」と理解を示してくれたようである。
 そうして、採寸が終われば、手塚のローブと制服はあっという間に仕立てられた。魔法とは、便利なものだな、と感心する。

「さあ、お次はお嬢さん。貴女よ。お名前は?」
 踏み台から降りた手塚と交代するように、紫乃が踏み台にあがる。にこやかなマダムの質問に、びくりとしながらも、紫乃は笑顔で一生懸命に答えた。
「ふ、ふじみや……藤宮、紫乃です」
 その瞬間、マダム・マルキンの表情が変わった。
「フジミヤ……? もしかして、貴女、マサムネの」
「パパを知ってるんですか!?」
 ぱあっと表情を輝かせた紫乃に、頭から長いローブを着せかけ、丈を合わせてピンで留めてやりながら、マダムは何度も何度も頷く。

「ええ、ええ。知っているわ。貴女のお父さんも、ここで採寸して、そしてホグワーツへ行ったのだから」

 交通事故で亡くなった紫乃の両親。当然だが、紫乃の両親の顔など手塚は見たことが無かった。だが、親のいない紫乃の寂しさを、傍に居る手塚は誰よりも知っている。
 喜びを噛みしめるように、父親の話にじっと耳を傾ける紫乃を、ただただ見守っていた。

「あの子の父親もね、あんな風に目をキラキラとさせて、ホグワーツの入学に胸を躍らせていたんだよ」

 紫乃の採寸を眺める手塚の隣で、宗一郎がまるで独り言でも洩らすかのように、ぽつりとこぼした。
 ――――その声が、あまりにも深く、あまりにも切なかったから、手塚は沈黙する以外に、どうすることもできなかったのだ。



 あっという間に仕上がった新品の制服は、フクロウ便の宅配サービスによって、届けてくれるのだそうだ。マグルの電化製品や、交通手段がなくても魔法族が困らない理由の一端を垣間見、やはり魔法は凄いな、と感嘆する。

 そんな時、魔法界についてあれこれ考える手塚の服を引っ張る者がいた。――――紫乃だ。

「みっちゃん、どう? 似合うかな?」
 照れたようにはにかんで、「どう? どう?」と聞いてくる紫乃の格好は、先ほどとは違う。薄桃色のワンピース姿は、黒いローブを着たことによって、見事に魔法使いになっている。
 つい先ほど、マダム・マルキンが紫乃の父親からクリーニングを頼まれて預かっていたローブ――返せずじまいだったらしい――を、紫乃の丈に合わせて仕立て直してくれたものだった。「貴女のお父様に渡せなかったものだから」と言われ、ローブを受け取る時、紫乃は滲んだ涙を一生懸命に拭っていた。

「……ああ、似合っている」
「ちゃんと魔法族に見えるかな?」
「見えるぞ」

 ――――というか、紫乃はもともと魔法族なのだから、見えるもなにもないんじゃないだろうか。
 そう思ったが、今にも鼻歌を歌いそうな紫乃を見て、まあいいかと手塚は薄らと笑った。

 マダム・マルキンの洋装店の次は、いよいよ魔法の杖を購入する。
 高鳴る胸を押さえながら、迷わずに歩く宗一郎の後を子供二人が続く。やがて、宗一郎の足がピタリと止まり、ある店の前に辿り着いた。
 みすぼらしい店だった。埃っぽいショーウィンドウには、色褪せた紫色のクッションに、杖が一本だけ置かれている。
 そして店の古い扉には、はがれかかった金色の文字で、オリバンダーの店――――紀元前三八二年創業高級メーカー、と書いてある。紀元前ってどういうことだ、という疑問は、考えても無駄だろう。魔法界に来てから、理屈で考えても無意味であることを手塚はよくよく理解した。

 中へと入れば、どこか遠くでチリン、とベルが鳴る。店内は、天井近くまで積み重ねられた何千という細長の箱の山を前に、紫乃は目を白黒させた。紫乃ほどではないが、手塚もわずかに驚く。これほどの箱の数を考えれば、天井はかなり高いようだ。外観からは、とても想像がつかない。
 埃と、深みのある静謐さは、外とは全く違う世界であった。

「いらっしゃいませ」

 柔らかな声がした。いつからいたのだろうか、目の前には老人が居た。気配も何もなく、突然に現れた老人に、手塚は驚き、紫乃はぴゃっと手塚の背に隠れた。店の薄暗い明りで、老人のぎょろっとした目が輝いたので、少し不気味に見える。

 くつくつと笑う声が聞こえたので、振り返れば宗一郎が声を押し殺して爆笑していた。
 違う意味でドキドキとした心臓を押さえながら、目の前の老人――――オリバンダーに目礼した。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」
 挨拶がぎこちないものとなってしまったのは、許して欲しいところである。
「異国のお客さんは、何年ぶりだったか。ああ、そうじゃった、そうじゃった。マサムネ・フジミヤ。彼以来じゃった。もしや、日本の方かね?」

 こちらの世界に来てから、紫乃の父親のことを耳にする機会が増えたな、と手塚は感じた。同時に、本当に紫乃の父親が魔法使いだったのだ、と再確認させられる。
 すると、オリバンダーはいきなり紫乃にずい、と近づく。おっかなびっくりといった様子の紫乃だったが、目の前の老人が危害を加えないだろうという漠然とした確信から、徐々に肩の力を抜いていったが、反対に、オリバンダーは「これは、これは……」と息を呑んだ。

「なんと、なんと……! ああ、あなたもお父さんと同じ目をしていなさる。今日はなんと良き日じゃ。懐かしい気持ちにさせられてばかりじゃ」
 うんうんと頷き、オリバンダーは語る。深い、声だった。
「あなたのお父さん……マサムネが……あの子が杖を買った日を、思い出すようじゃ。杖の長さは二十八センチ。しなやかな桐の木で出来た、軽くて丈夫な杖じゃった。鳳凰の尾羽根と人魚の鱗を芯にしていた」
 聞いたこともない材料だが、さすがは「魔法使いの杖」といったところかもしれない。

 ひとしきり感慨に耽っていた老人は、ハッとしたように頭を振る。
「年を取ると独り言が多くなっていかんの。杖ですかな?」
「今年、この二人がホグワーツに入学することになっておりましてね。二人の杖を買いに来ました。選んでやっていただきたい」

 二人に代わって宗一郎が言った。
 オリバンダーは鷹揚に頷き、さっそく箱の山から何箱か持ってきた。

「さて、まずは――――」
「あ、あの……」
 おずおずと、紫乃が言葉を挟む。
「あの、私、わかり、ます」
 オリバンダーの目が、これ以上ないくらいに大きく見開かれたのを、手塚は見た。
「どの杖が、私の杖なのか……どうしてかはわからないけれど、わかります」
 そう言って、老人の手にある箱の内の一つを、紫乃は掴んだ。オリバンダーは驚いたままだが、紫乃の行動を咎めるつもりはないらしい。宗一郎も見つめている。


「……これ、です」
「藤の木に、狼のたてがみ。二十四センチ。良質でしなやか。妖精の呪文にこれほど適した杖はありません。取り出して、手に取って振ってごらんなさい」

 いそいそと箱から出された杖は、艶のある綺麗な杖だった。
 紫乃は手塚を見た。手塚が頷く。それを認め、紫乃は杖を振った。

 ――――ふわり、と。風が吹いた。

「素晴らしい!」

 風が吹き、何もない薄暗い空間から桜の花びらと雪が散る。幻想的な光景だった。吹きすさぶ花々は、けっして乱暴ではない力で全員の身体を包み、光が溶けるように消えてなくなった。

「お父さんとまったく同じとは……やはりオンミョウジは違うのか……ううむ」
「陰陽師ほど失せ物探しが得意な人種はおりませんよ、翁」
 考え込むオリバンダーに、宗一郎は穏やかに微笑んだ。
「いやはや、驚かされました。杖の方が魔法使いを選ぶものじゃが、互いが互いを選び合い導かれるさまを、初めて目に致しました」
 興奮冷めやらぬ、と言った風に、オリバンダーは言った。

「では、次の方。日本の方。杖腕はどちらですかな?」

 今度は手塚の番だった。
 マダム・マルキンの店で、杖腕が利き腕のことだと学んだ手塚は、迷うことなく左腕を差し出した。手塚の肩から指先、手首から肘、肩から床、膝から腋の下、頭のまわりと寸法を採っていく。頭のまわりまで必要かどうかは悩む所だが、巻尺がひとりでに動くさまを見ていたおかげで、退屈とは無縁だ。  ややあってから、オリバンダーは一つの箱を差し出した。

「イチイの木と人魚の涙。三十センチ。良質でしなりがよい」

 紫乃と同じく、手にとって振ってみるように促されたので、蓋を開けて箱の中で寝かされていた杖を手に取る。指揮棒と同じくらいか、少し長いかといったそれを、恐々と手にして、えい、と一振りした。
 ――――瞬間、窓ガラスが大破した。

「だめだ。では次はこちらを。柊の木に龍の鱗。二十八センチ。堅くて振りやすい」

 たった今、窓ガラスが無残な姿になったというのに、全く意に介した風もない老人に、むしろ手塚の方がぎょっとした。謝罪の言葉が飛び出るよりも早くに次の杖が渡されたので、中途半端に口を閉ざした。
 言われた通りに、杖を振るう。今度は杖の箱の山が崩れた。

 それから何本かの杖を試したが、酷い時は爆発するか、軽い時はねずみ花火のような火花が杖から噴き出るか、あるいは手塚が杖を振るよりも前にオリバンダーが杖を取り上げるかのどれかだった。驚きの連続が重なれば、感覚がマヒして来るのか。最初の頃は杖の起こす「事故」に手塚の内心は穏やかではなかったのが、次第にウンザリとしてきた。
 同時に、もしかすると自分にピッタリの魔法の杖なんてないのでは――――そんな疑問すら浮かんでくる。

「やはり神の国、日本は違うようですな。うぅむ、難しい、難しい」

 困った困ったと言いながら、その声音はちっとも困った風ではなく、オリバンダーは愉しそうに杖の箱の山を漁ってゆく。
 ああでもない、こうでもない、とブツブツ零しながら、オリバンダーは一つの箱を手に取った。

「ではこれを。珍しい組み合わせじゃが、檜に麒麟の心臓、三十一センチ、軽くて頑丈」

 もう勘弁して欲しい。そんな懇願にも似た気持ちで、手塚が杖を手にすると、指先から温かな何かが広がる。熱は手首、腕、肩、やがてじわりじわりと全身に伝達し、理由は説明できないが、「これだ」と感じた。
 ビュッ、と頭の先から爪先にかけて躊躇なく、杖を振り下げた!

「ブラボー!!」

 大きな叫び声を上げたのは、オリバンダー老人だった。「なんと! なんと、なんと……このような現象は生まれて初めてじゃ!」大興奮といった風に老人は大きく拍手し、飛び上がらんばかりに歓喜している。
 傍らで見守っていた紫乃と宗一郎は目を丸くさせたが、すぐにパチパチと拍手して喜んでいる。
 そして当の手塚は自身が手にする杖――――だったものを凝視し、固まった。

 かつては杖だった――――テニスラケットを、である。

 ただの棒だったそれは、手塚が普段から愛用しているテニスラケット以上に、しっくりと手に馴染み、ラリーをしなくても使いやすいということがよくわかった。しかし、何故にテニスラケットなのか。いやまあ、杖よりも見慣れているし、使い慣れているけれども。

「……なぜテニスラケットに……」
「魔法の杖がゆえ、といったところでしょう。日本の方」
 もう、何を言っていいかわからず、コメントに窮した手塚が洩らした一言に、律儀にもオリバンダーが応えてくれた。
 しかし、その深い声が真剣みを帯びていて、自然と意識はオリバンダーの言葉に向けられる。
「このような現象に初めて立合いましたが……聞いたことがあります。これは、杖の忠誠心によるものとしか、考えられません」
「忠誠心?」
 手塚の代わりに紫乃が疑問を口にする。「さようでございます」とオリバンダーは頷いた。
「魔法の杖は、持ち主を選び、持ち主に対して忠誠心を持ちます。そして、持ち主に尽くします。聞くところによれば、日本の方が杖を持つと、杖という形状すら変え主人の望むままの姿になる、と」
 「いや、しかし、本当にそうなるとは……」と、オリバンダーでさえ現実の光景が信じられないようだ。

 手塚は、手にしているテニスラケットをもう一度見つめた。
 主人の望む姿になる、とオリバンダーは言った。テニスが好きで、テニスが楽しくて、全力を尽くして来たし、これからもテニスをするために全力を尽くすと決めている。テニスのために、ホグワーツ入学を決意したくらいなのだ。
 手塚は、テニスに全身全霊をかけてきた。
 そんな自分に、杖は応えてくれたのだろうか。
 ――――ぎゅ、とグリップを握りしめる。今までのどんなテニスラケットよりも、しっくりとする感じがする。次いで思ったのは、今すぐにテニスがしたい、だった。

 そして、思う。この杖は、大した忠義者だ。
 どれほど手塚がテニスに情熱を傾けてきたかを、その心を、反映しているようなものなのだから。

「……大切に、使わせてもらいます」

 両手でラケットを抱きしめ、手塚は深くお辞儀をした。



「日本では、杖を振り、呪文を唱え、術を発動させるという一連の形式が存在しない」

 オリバンダーの店で代金を払い、店を出た後、歩きながら宗一郎が切り出した。魔法界の存在を教えられてからというもの、彼の話は決して無駄なものではなく、もしかすると今後に役立つだろうと思われる話ばかりだったので、宗一郎が話し出すと手塚はすぐに話に聞き入るようにしている。
 もともと年長者の言うことは真面目に聞く手塚だったが、紫乃の祖父が相手となれば真剣味は増す。

「だから翁がおっしゃった“主人が望むままの姿になる”というのは、日本人がその形式に囚われないからかもしれないね」
「……そうなのですか?」
「うむ。私のような陰陽師はそうだよ。数珠や呪符、時には大太刀なんかも使う。他にも色々だよ。神職の者たちは仏具なんかもある。お坊さんを思い出してごらん?」
 言われて家の仏壇を想像した。確かに、仏具にも種類は豊富だ。徳の高いお坊さんあたりは、見たこともない金色の何かを使っていたりする。

「だからきっと、国光君が心の底から、もっと言えば、魂からテニスを望むからこそ、杖も主人である国光君の力になりたくてテニスラケットになったんだろうね」
「……そう、かもしれません」
 杖を買ってすぐのことなのに、愛着すら沸くのも無理はなかった。
「魔法族にとって、杖は命と同じだそうだ。大切になさい」
「はい!」
 元気よく返事した手塚に、宗一郎はその相好を崩した――――が。

「じゃあ、次は教科書を買って、それからどこかで何かお土産でも買って帰るとしよう。紫乃ちゃん、リストは――――」
 宗一郎が振り返り、手塚も振り返る。

紫乃……?  紫乃……!?」

 二人が振り返った背後には、紫乃はいなかった。