入学準備(2)
 トンネルの向こうは不思議な街でした――――この出だしで始まる物語は、かの有名なジブリの名作「千と千尋の神隠し」である。

 あれを初めて鑑賞した時、主人公・千尋の情けなさに映画が始まってしばらくは辟易していた手塚だ。もちろん、この主人公は物語の中できちんと成長を遂げ、最終的には逞しくなるので納得しているものの、最初の頃のもやもや感はなかなかであった。もっとも、それを含んでの名作でもあろう。
 そんな手塚だったが、過去の自分を叱りつけてやりたい。

 千尋よ。たしかに見たこともないような場所に突然やってきたら、心細くなっても仕方はあるまい、と。
 手塚は、ほんのちょっと昔の自分を反省したのである。

 ――――トンネル、ではなく掛け軸に描かれた鳥居の向こうは、京都の街でした。



 手塚が地面に足を付けた場所は、東京とは全く異なる風景の場所だった。同じ日本でも、こうも違うのかと感心したくらいだ。
 社会の授業で先生が言っていたが、京都の一部の地域は景観保護のため色を統一したり、屋根を低くしたり、電線を地下に埋めたりしている。街並みは美しく、これぞ日本古来と言える。アスファルトではない石畳も、京町屋も、どれも写真や資料館でしか見た事のないものだった。
 宗一郎が言うには、京都市が積極的に景観保護政策に乗り出し、何十年もかけて復古させた街並みだそうだ。京都府の景観条例に明文化されたことによって、新たな建造物による景観破壊の心配もない。

「……色が違うな」
「ね。違うね」

 世界的に有名なジャンクフードショップや、コンビニエンスストアの色合いが、東京のそれとは若干異なる。これも景観保護の一貫による統一だ。
 シックな色合いの京町屋の景観を壊さないよう、本来の色よりも地味めに抑えられている。

 修学旅行はまだ先であったため、京都に来た事が無かった手塚は、ほう、と感嘆のため息を零した。子供らしくないと言われてしまえばそれまでだが、渋谷や原宿のような街並みよりも、手塚は京の街並みの方が好きだと思えた。
 ふと、紫乃が手塚の服の裾を引っ張った。

「みっちゃん、ハイ」
「? これは?」
「お守り。京都はね、色んな“ヒト”が暮らしてて、それなりのルールを守って生活してるけど、中には悪い“ヒト”もいるから」
 ――――色々と聞きたいことがあったのだが、何をどう聞けばいいのかわからなかったし、なんだか怖い答えが返ってきそうだったので、手塚は「そうか」とだけ言って、有難く受け取っておく。
 ズボンのポケットに押し込んだ姿を認め、紫乃はにこりと笑った。

「ここは八坂神社の目の前だ」

 いつの間にか宗一郎の格好が狩衣から落ち着いた深緑の着物に変わっていたことに、手塚は驚いたが、紫乃が何も言わないので「ああ、これは魔法なんだな」と納得させた。手塚の視線に気づいたのか、「また先ほどの格好には戻るが、一般人の前で狩衣は仮装のようになるからね」と宗一郎が言葉を添えた。

 「さて」と、そう前置きした宗一郎の視線の先には、八坂神社。京都盆地の東部、四条通の東のつきあたりに鎮座するその場所は、境内東側にしだれ桜で有名な丸山公園と隣接していることもあって、伏見稲荷大社に次ぐ参拝者数を誇っている。
 また、通称として祇園さんと呼ばれる八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊すさのおのみことを祭神とする約二千の関連神社の総本社である。

 ぐるりと見渡せば、やはり観光客が多い。夏休み中であろう大学生のグループに、中国語を話している集団、そんなありとあらゆる人たちの間をゆっくと通りすぎる。
 リラックスした様子で隣を歩く紫乃の様子を考えると、何度か来たことがあるのかもしれない。魔法族だと言っていたから、東京から京都までいきなりやって来たことも別に珍しいことではないのだろう。

 ここから目指すのは阪急河原町駅だよ、と宗一郎が地図を指さす。西へ真っすぐの一本道だ。歩きながら、宗一郎は話を続けた。

「八坂神社の祭神は素戔嗚尊、櫛稲田姫命くしなだひめのみこと、そして素戔嗚尊の八人の子供である八柱御子神やはしらのみこがみだ。一度は聞いたことがあるくらいの有名どころが集結している」
 日本の神話に登場する神の名前。だが、陰陽師たちにとってそれ以上に関わりが深いのは明治時代の神仏判然令以前の主祭神である牛頭 ご ず天王だ。
 牛頭天王は陰陽道である地の神――――天道神の方位神とされる。お天道様、という言葉がある。天道神は、まさにそれだ。
 太陽神は天照大神を連想しがちだが、明治政府における神仏分離・廃仏毀釈政策が起因する。人々にとってのお天道様とは、「天道神」のことなのである。
 そういったわけで、吉神の中では非常に強力な力を有しており、それゆえに陰陽師の通り路を設置するにあたって、八坂神社は重要な拠点となったのだ。

 また、牛頭天王は平安京の祇園社の祭神であるところから祇園天神とも称され、崇め信じられてきた。しかし、御霊信仰の影響から当初は御霊を鎮めるために祭っていたのが、やがて平安末期には疫病神を鎮め退散させるために花笠や山鉾を出して市中を練り歩いて鎮祭するようになったという――――それこそが。

「これが祇園祭の起源とも言われている」
 そして同時に、平安時代における疫病や天災を語る上で、ある一人の陰陽師の活躍を抜きにして語ることは出来ないだろう。
「……安倍晴明、ですか」
「ご名答。かの人が居てこそ、我らが居る。そして、京の町がこのような碁盤の目のように存在している理由もね。とはいえ、京が帝や陰陽師らの力だけで成り立ってきたわけではないことも覚えておかなくてはいけない」
 続きの言葉を探すように、曖昧に微笑んだ後に、「ご覧」と促す。
 日向の大通りではなく、細い裏道を優雅に通り抜けていく美しい着物の女人。すぐに姿が見えなくなり、宗一郎が「彼女はなんだと思う?」と質問した。
 京都で、着物で、女性。一つしか、思い当たらない。

「舞、妓?」
「その通り」

 先ほどから大通りを擦れ違う着物姿の女性ではなく、さきほどの隠れるように避けるように行動していた女性が舞妓であることに、ほんの少し驚いた。
 日本人でも大半が誤った認識を抱くことが多いが、日中の京都で出会う舞妓衣装の女性は、そのほとんどが舞妓体験によって着物を着ている一般人だ。本物の舞妓は日中にお稽古に励むため、いわゆる本物の舞妓たちには滅多に出会えないのである。
 運が良かったね、と紫乃がはしゃいだ。

「我ら陰陽師、僧侶は魔を使役するか、滅するか。けれど、彼女たちは違う。魔と共にあり、時には魔を利用し、魔に生きる。そうして芸を磨いてゆく」
 ニヤリと、あの悪戯を成功させた子供のような笑みをうかべ、宗一郎は囁いた。
「昔から、魔性の女は“魔女”と言うからね」

「上手く説明はできないが、そういうわけで我らとも違い、しかし悪霊でも怨霊でもない第三の存在として、彼女らは在り続けてきた。積極的に関わってはいないが、彼女らの存在を無視することはできない。程良い距離を保って良好な関係を築いておくことは、大切なことだからね。これはもちろん、彼女たちに限った話ではない」
 チラ、と視線を寄越し、あの穏やかな笑顔から一転して、真剣な面持ちで宗一郎が言う。その真剣みを帯びた眼差しに、自ずと二人の背筋は伸びた。

「誤解と偏見こそ、人と人との繋がりの上で最も難しい問題だからね。そしてすべての争いの始まりは、そうした小さな出来事がきっかけなんだよ」
 「だからこそ、イギリス魔法界は闇の歴史を抱えることになったのだろうけど……」と、小さく呟いたその声は、偶然にも二人には聞こえなかった。

「僕が言いたかったのは、君たちがこれから出会うであろう同い年の子供たちは、色んな生い立ちの子供たちだ。彼ら彼女らがどんな生い立ち、どんな家柄、どんな身分の子供であろうと、平等でありなさい。対等でありなさい。同じ目線で、相手の立場に立って考えなさい」
 諭すような声色は、責めるものではなかったけれど、どこか悲しみを帯びていた。後悔するようなその声を聞き、手塚は「間違ってもこの人の期待を裏切らないようにしよう」と決意を胸に宿す。

「その子の背景を知らなくとも、知ることへの努力を放り投げてはいけない。まずは、理解することから初めて欲しい。年寄りの戯言だが、どうか聞いてほしい」
「もちろんです」
「うん、わかった」
「よかったよかった。二人とも、良い子だ」
 間髪いれずに即答すれば、安堵したように宗一郎は微笑んだ。

「君たちが出会う子ら、日本人の子供たちは星の輝きが違う。きっと良き友、良き戦友、良き好敵手になるだろう。ああ、そうだ。女の子も居る」
「!」
「楽しみだね、紫乃ちゃん。僕の占いは外れないから、間違いないよ」
 ぱあっと紫乃の笑顔が輝いたのが、見ていなくても手塚にはわかった。

「彼女の星は、輝きが違ったよ。まあ、君たち含めた新入生はどの子も特別に輝いていたけれどね。しかし、彼女はそれらとは何かが異なる。どんな子かは僕にはわからないが……かの女帝殿とゆかりあるとあらば、きっと大物になるかもしれないね」
 なんだか、新しく出会うことになる少女は、とんでもない存在なのだろうか。嬉しそうにしていた紫乃の横顔が、見事に固まったので、手塚は安心させてやるようにポンと肩を叩く。


「……怖い子、なのかな……」
 落ちこんだ声で紫乃が呟いた。せっかく女の子同士だから、出会えたらぜひ仲良くして欲しかったのにと、どんよりしている。
 二人の前を歩いていた宗一郎は、いつの間にかずんずん先へ進んで、時折、何かを確認するように周囲の景色を眺めている。
 二人が歩いていた場所は、花見小路の格子作りの茶屋や料理屋をいつの間にか通り過ぎ、大きな鋼製の連続桁橋に差し掛かった。八坂周辺の景色と随分と印象が異なる。橋を越えた先には、多くのビルが立ち並ぶ。
 車と人の往来が激しいので、ともすれば紫乃の声は聞き逃してしまいそうだ。

「しかし、宗のお祖父さんが言っていただろう。良好な関係を保つことは大切だと」
「……うん」
「わざわざそんな話をするのだから、悪い人間であるはずがないだろう。もし仮にそんな人間だったとしても、紫乃一人ではない」

 怯えるような両の目が、手塚を捉える。
 じっくりと時間をかけ、瞳に安堵の色が浮かぶ頃には、紫乃の表情もいつもの笑顔に戻り始める。

「……うん、そうだね。みっちゃんが、居てくれる」
「ああ。だから悲観せず、ポジティブに考えてみてはどうだろうか」
「うん! 私ね、できたらお友達になりたい。女の子はその子以外に他に居るのかなあ?」

 悪い方向へ想像することは止めにしたのか、ニコニコとこれからの生活の希望を語り始める。こんなことをしたい、あんなことをしたい。
 それらはすべて、日本の学校では紫乃が手に入れることができなかった夢物語だった。だから、手塚は少しだけ切なくなった。

「……大丈夫だ。きっと」
「うん」
「たくさんの友達が出来る」
「100人、作りたいな」
「多いな。そうなると、何事にも励まなくてはならないと思うが」
「うん。だからいっぱい頑張るの。苦手なことも……が、がんばって、みる」
「……ちなみに、例えばなんだ?」
「…………男の子の、友達もがんばって、つくって、みる」

 それはかなりハードルが高いのでは、とも思えたが、これほどやる気の幼馴染を応援しないわけがなく。無理はするなよ、と言いつつ、他の日本人留学生も居るのだから大丈夫だ、とも手塚は思った。

「さあ、着いたよ」

 橋を越えて、さらに歩き続ければ、大きな百貨店のビルが続いている。有名百貨店に面する交差点を渡り、地下道への入り口の隣に、何かの扉があった。日本料理店のようだ。その扉の前に、宗一郎が立つ。
 みすぼらしい料理屋であった。しかし、いくらちっぽけな店だとしても、人が多く行き交う道に、三人が立ち止まって居れば一人くらい振り返ってもおかしくはない。なのに、誰ひとりとしても三人には見向きもしない――――いや、むしろ。

(気づいて、いないのか……?)

 そんな疑問が浮かび上がるのも、当然だった。

 手塚の疑問に誰も答えるわけがなく、先頭の宗一郎がガラガラと引き戸を開ける。
 手塚の目に飛び込んできたのは、異世界だった。

「こんなに、人が……」
 京町屋は間口が狭く奥行きが広い構造から、うなぎの寝床と呼ばれる。この店も、その構造をしていたのだろうか、と逡巡するが、それにしても人が多すぎる。
 ――――扉の先には、たくさんの着物姿の大人たちが忙しなく動き回っていたのである。

「ようこそ、魔法省日本支部――――京都本部へ」

 おどけた様子の宗一郎に、手塚は目を丸くさせるばかりだ。なんせ、八坂神社の前に到着した時と同じく、いつの間にかあの狩衣姿に戻っていたからだ。
 一方、同じく目を丸くさせていた紫乃は、どうやら此処へ来るのは初めてだったらしい。「来たことがないのか?」と聞けば、「魔法省に来るのは初めてなの」だそうだ。
 書簡を持った大人がひっきりなしに往来し、邪魔をしているような居心地で申し訳なくなる。

「この階は闇払い局だね。本業が退魔・祓魔を生業としていた者がわりと多い」

 ちら、と見れば、テレビで見た事のある修験道の格好をした壮年の男性や、徳の高そうなお坊さんが居る。

「色々あってね。最上階は、神秘部だ。占いや星詠みを行ったり、暦を作ったりする者も居る。ああ、天気予想もするね。他にも何かやっているようだが……謎に包まれているから神秘部でね。そもそも占いごとは秘密のヴェールに包まれていることが多い」
 むしろ、日本支部の神秘部が表舞台に出てくる時は、天災などの日本に関わる惨事を未然に防ぐために占うときだ。有事の際にこそ輝く部署なので、暇な方が平和なんだよ、と宗一郎は締めくくった。

 そうして、複雑な通路を通り抜け、いろんな部署を通るたびに宗一郎が、「あれはこういう部署だ」と教えてくれるので、手塚も紫乃も興味深く話を聞き、相槌を打ち、忙しそうな大人たちを眺めていた。
 顰め面したままデスクとにらめっこする大人も居れば、子供二人の視線に気づいて手を振ってくれた優しい女性も居た。格好は着物姿だったり、スーツだったり、平安時代に出てきそうな官服姿だったり――――と、職業や部署によって様々だった。

「やっと着いた。ここだ」

 そう言って、一つの部屋へと入る。
 本日、二度目に宗一郎が立ち止まった目の前は、壁。ちょうどエレベーターくらいの広さだが、部屋とも言えないような部屋は、周囲を石の壁で囲まれている。扉があるわけでも、掛け軸があるわけでもない。
 だが、きっと、何かしらの仕掛けがほどこされているのだろう。ここに至るまでに、あらゆる摩訶不思議に立ちあった手塚は、しっかりと学習していた。


「“一つの魂が眠りについた”」
 ――――厳かな口上が、始まる。

「“二つの息衝く命の炎が 三の宿命のもと 四龍の縁をより結ぶ”」

 突如、何もなかった壁をぐるりと囲むようにろうそくのような炎が四辺で輝く。

「“五つに紡ぐ星に導かれ 六つの花に抱かれし時にて 七曜は巡る――――”」

 灰色の石の壁は、まるで意思を持っていたかのように揺れ始めたかと思えば、ピシリとひびが入る。亀裂は天井へまで達し、やがて避け目から光が漏れ始めれば、ガラガラと石が崩れ、三人くらいなら余裕で通れる大きさの穴が出来た。
 石が崩れたことで砂ぼこりのようなものが舞い、視界が霞む。
 ようやく晴れる頃に――――ファンタジー映画のような景色の現実が、出迎えてくれていたのだった。