入学準備(1)
 紫乃の祖父・藤宮宗一郎からもたらされた真実と情報は、たった一晩で手塚家を変えた。
 なぜなら手塚家の一人息子が、魔法使いになるのだ。まず何から手につければいいのかわからず、国一はウンウンと唸るばかりだったし、国晴はうろうろとリビングを歩き回った。意外と肝の据わっている手塚の母・彩菜は、いつもと変わらずせっせと朝ごはんの仕度をし、掃除をし、くるくると動いて家事をこなした。いまはニコニコと全員分のご飯をよそっている。

 世間は、平日である。
 始業30分前になり、その事にようやく気付いた国晴は慌てて上司に連絡し、久しぶりの有給休暇を取得したのであった。孫の緊急事態だ、国一でさえ文句は言わなかった。

 そんな風に、母を除く男二人がアワアワとしている横で、渦中の手塚国光は冷静だった。
 父や祖父よりも早くから紫乃によって情報を得ていたことも大きいのだが、大人と違って彼はまだ子供で、子供ゆえに「魔法使い」になることに対するドキドキとワクワクが大きかったからかもしれない。

 いかに大人びている、冷静沈着、と学校の教師やテニスクラブのコーチから褒めそやされようと、彼とてまだ小学生なのである。
 それに、当初はテニスができなくなるかもしれないという、手塚の人生を左右するような大問題も発生していたわけだが、これから入学するホグワーツにテニス部ができる上に、テニス部の監督者まで派遣されることが決定している以上、なんの不安も憂いもなくなったわけである。さらには、入学資金というお金の面の問題もクリアすることになりそうだ。

 ――――手塚が入学をする上での前提条件がすべて整っている以上、慌てる事などなに一つない。
 こうなってしまえば、逆にあとは楽しみという感情しか残らないのである。


 初めて見る祖父の動揺っぷりを視界の端に留め、手塚は静かに味噌汁を飲んでいた。
 余談だが、考えながら醤油を手にした父は、醤油をこぼしていた。


 昨日の内に父親からもらった事務用品の封筒と便箋で入学意思をしたため、入学許可証のサインと共にフクロウに飛ばしたものの、こんな方法で大丈夫だろうか、といぶかしんでいれば案の定である。
 戦国時代の鷹文のように原始的すぎるこの方法は、フクロウへの負担が大きすぎた。魔法省日本支部経由で、日本に渡ったフクロウが夏の暑さで全滅したらしく、結局、口頭で魔法省日本支部の役人に入学の意思を伝えることとなったのだった。
 魔法使いとはいえ日本支部だからなのかは知らないが、手塚が初めて目にした魔法省の役人は、黒いローブに黒い三角帽子という格好ではなく、宮司のような格好だった。
 紫乃が言うには、「イギリスの魔法族はちゃんと魔法使いだよ」らしい。
 ――――それはともかく。


「おはようございます、皆さん」
 昨日に続き、今日も手塚家へと訪れた藤宮宗一郎と紫乃
「おはようございます」
「おはよう、みっちゃん」
「ああ、おはよう」
 にこにこと挨拶する紫乃に、ふっと相好が崩れる。

 昨日と同じように紫乃は普段着なのだが、反対に、昨日とは違って宗一郎の格好は魔法省の役人に似たような身なりをしていた。社会の資料集で見たことがある。あれは烏帽子と狩衣だ。
 臙脂色のそれらを身に纏った宗一郎は、柔らかな雰囲気が薄れ、厳格さと迫力があった。ほう、と祖父が、柔道の強者を前にしたときのような感嘆のため息を洩らしたのが聞こえた。

「さて、昨日お話したように、国光君はホグワーツ魔法魔術学校に入学することに相成ったわけですが」
 そう切り出した宗一郎は、「ああ、そうそう。学費の方も話はついたよ。最初から問題はなかったがね」と付け加え、続けた。
「入学するにあたり、準備する品がいくつかありましてな。その準備のために、国光君には我が家に来ていただきたいのですが」

 どうですかな、と訊ねた宗一郎に、手塚家の誰もが反対するはずもなく。すぐに、手塚は藤宮家へと赴くことになった。
 赴く、とはいえお向かいさんだ。ものの30秒で到着し、後は勝手知ったるなんとやら。見知った玄関を通り抜け、案内された和室へ。

紫乃ちゃん。入学準備に必要なものリストは持って来てあるかな?」
「うん! 持って来てる!」
 嬉しそうにリストを取り出した紫乃に、宗一郎は微笑んで受け取る。
「国光君は、リストは見たかね?」
「……拝見しましたが、その……なにがなんだか」

 手塚家が朝からてんやわんやしていたのは、これがすべての理由である。入学することになったのに、何を準備したらいいのかがわからず、右往左往する羽目になったわけだ。

 ――――なんせ、一行目に書かれている「普段着のローブ 三着(黒)」の時点でどうしたらいいのかわからない。
 普段着ってなんだ、普段着って。正装もあるのか、ローブは。そんな疑問を浮かべながら読み進めた二行目に登場するのは、「普段着の三角帽(黒) 一個 昼用」だ。昼用ってなんなんだ、意味がわからない。
 そしてとどめの三行目の「安全手袋(ドラゴンの革またはそれに類するもの) 一組」である。さらっとドラゴンなんて単語が登場してきた時点で、匙を投げた。

「それはそうだろうね」
 手塚の渋面に、手塚家の大混乱を察した宗一郎は、なんともいえない苦笑いを浮かべた。
「大丈夫だよ、みっちゃん。ちゃんとロンドンに行けば全部手に入るから」
「そうか、ロンドンか……ロンドンだと!」
 知る人ぞ知るお笑い好きの手塚は、実のところ、ノリツッコミという手法はあまり好まない。にも関わらず、意識せずにそうなってしまったのは、紫乃の口から飛び出た「ロンドン」の文字に他ならない。

「ロンドンのダイアゴン横丁という場所でなければならないんだよ。そこは魔法族の街だからね」
「ダイ……?」
「ダイアゴン横丁」

 魔法族の街でなければ手に入らないだろうことは予想済みだったが、国境を越えなくてはならないことは失念していた。ホグワーツはイギリスの全寮制の学校なのだから、ちょっと気を付ければ気づいていたはずなのに。
 次から次へともたらされる情報に、そろそろ頭を掻きむしりたい衝動に駆られる。油断せずに行こう。

「日本でも手に入らないことはないんだが、そうするとどうしても日本魔術対象になってしまうからね。やはりイギリス魔法のものは現地で調達した方が早かろう」
「はい」
 よくわからないが、そういうものらしい。
「ただ、重複購入はもったいないからね」
 何より、手塚が在学するのは2年間なのだ。7年の在籍を前提にしている魔法道具はいらないだろう、と宗一郎はリストの中にあった大鍋とガラス製またはクリスタル製の薬瓶、望遠鏡、それから真鍮製秤を赤いマーカーで×印を付けた。
 聞けば、紫乃の父親がホグワーツの生徒だったらしく、「息子の道具が有り余っているからね」だそうだ。

 「パパのが嫌じゃなければ」と、とても嬉しそうにニコニコした紫乃が、「みっちゃん、どうかな?」と聞いた。紫乃は、父親の道具を使うことができることが、とても嬉しいようだった。
 迷わず、「いただきたいです」と返答すれば、宗一郎も紫乃も、さらに嬉しそうに微笑んだ。

「よし。では、ローブや制服などの衣類や、杖といった必需品と、教科書類は買いに行こう。こればかりは仕方ないからね」
「うん!」
「はい」
 うきうき、といった様子の紫乃と、無表情だがその下では昂揚でウズウズしている手塚。
 顔を見合わせて、小さく笑い合う。
 それにしても。

「あの、宗のお祖父さん。パスポートを取りに、一旦家に戻ってもかまいませんか? それに荷物も必要になりますので……」

 これからロンドンに向かうのであれば、パスポートと荷づくりが必要になって来る。幸い、手塚はテニスの試合で海外に短期留学の経験――夏休みなどの長期休暇を利用した――があるので、パスポートはすでに取得済みである。
 そう思っての手塚の申し出だったが、きょとんとした後に、「あっはっは!」と大笑いした宗一郎に、手塚が面食らった。

「いやいや、すまないね。そうだった。言い忘れていたよ。パスポートも何も必要はないさ。その身一つで十分だよ」
「は?」
 目上の人間を敬う、というのは祖父から徹底的に仕込まれている手塚だったが、いまばかりは思わず口をついて出た。ぽかん、と口を開ける手塚に、宗一郎はニヤリ、と笑って、バサリと狩衣の裾を払う。
 次の瞬間、ブツブツと何かを呟き、懐から何枚かの白い紙――札のようなものだった――を取り出し、何かを叫ぶ。
 呪符は、床の間に飾られている掛け軸の絵に当たった瞬間、眩い光を放つ。室内だというのに風が巻き起こり、目も開けてられないほどの突風がぶわっと舞いあがった。


「――――さて」
 光と風が止む頃、宗一郎の声を合図に伏せていた瞼を開けば、掛け軸の絵に描かれていた鳥居の向こうに、違う景色が見える。
 ぎょっとして振り向けば、悪戯が成功した子供のように宗一郎は笑みを浮かべる。

「我ら陰陽師の一族は、いつでも帝の元へ馳せ参じることができるように、秘密の通路を隠し持っていてね」
 「イギリス魔法族が所有する煙突飛行のようなものなのだが……」と言い差し、宗一郎は首を傾げる手塚の頭を撫でた。
「魔法省の日本支部とね、宮内庁、それから日本各地の神社や霊山の地下に繋がってるんだよ。全部、晴明様のおかげだよ!」
「せいめい……安倍晴明のことか?」
「うん、そう! 晴明様はね、ご先祖様のお師匠さんだったんだって」
 ――――そんな、さらっと言われても。
 屈託のない笑顔を浮かべている紫乃が、なんだか違う世界の人間のように思えてしまった。


「まずは、京都に行こう。このルートは、陰陽師と一部の神職の者にしか使えないルートだから、特別だよ」

 にっこりと笑った宗一郎に、これから何が起こってももう驚くものか、と手塚は腹を括ったのだった。