入学準備(4)
紫乃がいないことに気づいてからすぐ。傍から見れば表情は変わらないながらも、内心で大慌てな手塚は、これ以上ないくらいに焦っていた。
まずそもそも、異国の地であること。日本の常識が通用しない場所で、迷子センターに類似した施設が存在しているかは、疑問である。そして、魔法の世界という異世界であるということ。不安要素としては、こちらの方が大きい。
泣き虫な幼馴染のことだ。今頃、心細さに泣いているに違いない。クラスメイトの女子が泣いていると、「どうしたんだ?」くらいにしか思わない手塚だが、あの幼馴染の泣き顔だけは慣れないでいる。なんというか、豪雨の中で生まれたての子犬を捨てたぐらいの罪悪感を覚えるのである。
「まあ、そう慌てずとも大丈夫だ、国光君」
文字にすればアワアワといった所である手塚に対し、のほほんとした様子でのたまったのは、紫乃の祖父である宗一郎である。
「悠長なことを言っている場合ではありません!」と内心では思いながらも、尊敬すべく相手かつ年長者相手に、手塚はぐっと堪えた。
「しかし、」
「のんびりさんの泣き虫さんが紫乃ちゃんだけど、“そうであってもいい”とうちの一族に認めさせてるから」
そう言って、手塚を落ち着かせようとする宗一郎。不可解な言が多く、意味深長なその言葉に疑問を覚える。
だが、それも束の間の事で、「いや、やはりそんなことを言っている場合じゃない!」が、手塚の紛れもない本音である。
「泣き虫さんは息子に似たのかなあ? まあ女の子だからいいんだけどね」と、当人はほけほけ言った。この人に、焦りという感情はないのだろうか、といっそ尊敬の念すら覚えそうである。
「いやはや、魔法界は不便だね。日本と同じく携帯電話なども使えない」
やきもきする手塚の横で、のんびりと宗一郎が言う。魔法界ではマグルの電子機械は使用してはいけない、というのをつい先ほど手塚は学んだところだった。
いずれにしろ、紫乃が携帯もスマートフォンも所持していないため、ふりだしに戻る。
「そうなると、私にはこれしかない」
懐から、懐紙にも似た何かを取り出し、ビュッと空へと放り投げる。
白い紙は、宙を舞うとその姿形を変えてゆく。ひらひらと泳ぐ姿は、蝶。しかし、その蝶は手塚にしか、見えていないらしく、周りの視線が蝶へと向かうことはない。
「あれの後を追いかける先に、紫乃ちゃんは居るよ。だから――――」
不思議な術を使った宗一郎は、やはり慌てず騒がず、そう言った。
「一緒に行こう」と宗一郎が続ける間もなく、その瞬間に弾丸のように手塚が飛び出した。
常の彼からすれば、考えられないことである。「人の言うことは最後まで聞きなさい」という言いつけを、律儀にも守っている手塚であるが、絶対に泣いているであろう幼馴染を思えば、居ても立ってもいられなかった。
もちろん、孫のために文字通り必死な手塚を宗一郎が咎めるはずなどなく――――。
「おやおや、あっという間だ。流石だねえ。ああ、もうあんなところまで……速いなあ、国光君は」
年寄りになったものだねぇと、後姿が小さくなっていく背を眺めながら、ゆっくりと宗一郎は歩き出した。
自身が魔法族であることを告白できてからというもの、打ち明ける前と比較して、手塚との心の距離が近くなったように紫乃は感じていた。
やはり、手塚に対して大きな隠しごとをしているという申し訳なさや、隠さなければならないことへの負担、知られてしまった時に拒絶されたらどうしようという恐怖など、あらゆる感情が交ぜになった気持ちから解き放たれたからだろう。
そして、“大きな秘密”を明かしても、手塚との関係は変わらなかったし、それどころか手塚は紫乃を頼ってくれるようになった。手塚の背に隠れて、手塚を頼っていた身分の紫乃としては、これはとても喜ばしいことだった。手塚の力になれることが、たまらなく幸せだったからだ。
そんな大好きな手塚と魔法界へ来ることができたことも嬉しかったし、写真でしか知らないけれど大好きな父親のローブを着ていること、夢にまで見た魔法の杖まで購入することが出来た。
――――はっきりと言おう。浮かれていたと。
購入したばかりのツヤツヤとした杖を何度も眺め、軽く振ること数回。杖の先から銀の星がきらきらと散ったり、蝶がひらひらと舞ったりするのを見て、高揚を抑えきれなかった。なんて綺麗で、なんて素敵なんだろう! と、興奮しっぱなしだった。
陰陽術とは全く異なる魔法術をこれから手塚と学べる――――高まる期待で、頭の中は興奮していた。
その結果。
「み、みっちゃん……? おじいちゃん……? 二人とも、どこ……ッ!?」
気づけば二人を見失った。見事に迷子である。
大通りで、蒼褪めながら右往左往するも、どこをどう探しても二人は居ない。標識から、ここはグリンゴッツの銀行からさほど離れていないことを知るが、たいして役には立たない。
完全にパニックに陥った紫乃は、今にも泣きそうだった。むしろ、泣き出していないことが奇跡であったし、恐怖のあまりに泣けないといった方が正しいのかもしれない。
周囲を見渡しても見知った顔の二人はおらず、通りすぎる魔法族たちは、紫乃へ目もくれない。
世界から見放された心境というのは、こんな心境かもしれない。そう思わせるほどの絶望感だった。
このままイギリスの土地で死んでしまうのだろうか――――と、いささか飛躍しすぎた心境に陥る。
ここに冷静な第三者が居れば「大袈裟だ」と待ったをかけるだろうが、冗談でもなんでもなく、紫乃は本気で恐怖だった。
恐慌状態に陥った人間は、冷静さを欠く、というのは真理である。
「み、っちゃ……みっちゃん……!」
声が震える。どうしよう。どうしたらいいんだろう。誰か――――。
ガタガタと震える白い手で、ローブをぎゅっと握りしめる。パパ、助けて。
何処をどう目指せばいいのかわからないまま、おぼつかない足取りで歩き出した。
「弦ちゃん、あれ」
――――耳朶を震わせた日本語は、ともすれば女神様の声だったのかもしれない。
同じく、真剣な紫乃の気持ちである。
クイーンズイングリッシュに溢れる世界で、馴染み深い日本語を聞き間違えるはずがない。声の主を探す。
すると、着物姿の男の子と女の子が居た。
「目が合ってもうた」
「言うな」
天の助け、とはまさにこのことだった。間違いなく日本人だ。二人が話している言語が日本語であったことも大きいが、二人の身なりが決定打だった。二人とも、着物だったのだ。
紫乃は、家柄ゆえに着物の機会は一般家庭の子供よりも多いが、普段はなるべくならワンピースやフリルのついたスカートの方が好きだ。着物が嫌いなわけではないが、気を引き締めなくてはならない時にしか着たいとは思わない。
着なれているからこそ、よくわかる。二人とも、おそろしく着物が似合っているのだ。“着られている”様子はまったくない。
――――ああ、良かった……!
追い詰められた小動物は、すでにいっぱいいっぱいであった。
「どないしたん? お父はんか、お母はんは?」
「ふぇ……」
恐ろしく雰囲気のある二人組の中の、おっとりした優しげな少女が声を掛けてくれた。目が合った時から、本能的にSOSを発していた紫乃だったが、どうやら見捨てないでくれたらしい。ガラスケースに居るような日本人形のような綺麗な女の子は、とても優しく話しかけてくれる。
じわりじわりと眦が熱くなり、寂しいやら悲しいやら、安堵の気持ちやら、あらゆる感情が爆発した瞬間だった。
「あー、あー、泣かんでええんよー。お名前は?」
しかし、女の子は動じた風もなく、とろんとした目元を一層に柔らかくさせて訊ねる。
白と青紫の着物に、艶やかな緑の黒髪がさらりと流れる。一連の動作はとても優雅で、何処のお嬢様なんだろう、と泣きながら思った。
「ふっ、ふじみや、シノ……」
つっかえながらも、ようやく名乗ることが出来た。
「あらぁ、やっぱり日本の子ぉや。おんなしやねぇ」
とても嬉しそうに言ってくれるので、泣きながらではあるが、紫乃も嬉しいと思った。
ふと、頭に過るのは祖父の言葉だ。紫乃と同い年の日本人の女の子こそ、新入生の日本人留学生。怖い子だったらどうしよう、と数時間前は考えていたけれど、とても優しい女の子だ。その優しさに触れ、感動のあまり、またもや涙で視界が滲む。
初対面なのに、女の子は紫乃にとても優しかった。
にっこりと微笑んで、紫乃の名前がどんな字を書くのか、と質問した。わかりやすく説明すると、今度は名前の由来を聞いてくれた。だから、紫乃はしゃくりあげるのを堪えて、深呼吸して。そうして、答えた。
「パパの……ッ、お、お友達が、考えてッ、くれ、たの……」
――――きっと夜を朝に変えてくれるような、そんな子が生まれてくると思うよ。
まだ紫乃がヒトの形にすらなれずに、母親のお腹の中に居た頃。少し膨らみ始めた母親のお腹を撫でながら、その友人が呟いたという。
その言葉に感銘を受けた紫乃の父親は、紫乃の名前に願いを込めた。
七夕の夜空の星がさやかな光を放ち、やがて美しい朝日を運んでくれる――――そんな子供になりますように、と。
数少ない、パパのくれた贈り物だから、紫乃は自分の名前が大好きだった。
ぽつりぽつり話せば、ほうと感嘆のため息を零して、女の子は言ってくれた。「綺麗なお名前なんやねぇ」
やはり柔らかくおっとりとした京都弁だったが、胸にスーっと沁み渡るような音だったので、不思議と気持ちが落ち着いた。
そうして女の子は、紫乃のミルクティの色合いに似た髪を褒めてくれたり、着ているローブについて質問してくれたり、紫乃が話しやすいように配慮してくれた。いくつかの質問の後、女の子の名前は紅梅といい、「梅ちゃん」と呼んでくれてもいいと言ってくれた。「梅ちゃん」もまた、紫乃を「しーちゃん」と呼んでくれることになった。
隣の男の子は目つきが険しかったので、出来る限り紫乃は顔を見ないようにしていた。男の子という生き物が、手塚以外では恐怖でしかなかったし、その男の子は紫乃が小学校で見る誰よりも逞しい体格だったからだ。
「しーちゃん、魔法使いなん? ダイアゴン横丁は初めて?」
「うん……」
「ほぉかぁ、うちらもや。うちらマグル出身やし、魔法自体初めてでなあ」
困ったような声音であったが、とても困った風には見えない。むしろ――――。
「は、初めてなのにそんなに堂々としてるの……?」
紫乃の疑問は最もだった。黒壇の瞳をぱちぱちと瞬かせている紅梅を、半ば信じられない気持ちで見つめる。傍らで沈黙を保ったままの男の子――真田弦一郎だと紅梅が教えてくれた――も、異国であり異世界であるのに、不安げな様子などまるでない。何度も足を運んでいる、と言われた方がまだ納得できるくらいである。
そんな風に堂々とした、いや堂々としすぎる二人を前にすると、べそをかいている自分がなにやら情けなく思えてくるのである。――――が、紅梅と真田が、実年齢を大幅に上回る精神年齢ゆえであることを指摘してやる人間がいないため、落ちこんでいる紫乃を励ます者はいない。
「しーちゃんは、ひとりで来たん?」
「ううん……。おじいちゃんと、みっちゃん……」
言われて、改めて優しい祖父と幼馴染の顔が浮かんだ。きっと、心配しているに違いない。
「さよかぁ。おじいはんとみっちゃん、どこ行くーとか、言うてへんかった?」
「わ、わかんない……」
今頃、探し回ってくれているだろう二人を思い浮かべ、引っ込んでいた涙が紫乃を襲う。じわりじわりと侵食する寂しさと不安感が胸を覆い尽くしてゆく。
察した紅梅が、柔らかい口調で頭を撫でているが、いまの紫乃にとってはその温かさが涙を誘う要因でしかない。
はぐれた時の待ち合わせ場所などについて質問されたが、特にそういったことは決めていなかったことを思い出す。祖父や手塚と一緒に居て、迷子になったことが今までなかったからだ。
しかも、携帯なども持っていない。紫乃も手塚も、小学生に携帯は不要という家の方針で、携帯を所持していなかったが、持っていたとしても魔法界ではマグルの電化製品は使用することは良く思われない上に、場合によっては罰則が科せられる。
――――まさに、八方ふさがりだった。
「うーん、困ったなぁ。ここでじっとしといたほうがええやろか」
「そのほうがいいと思うな。彼女の連れがここに来る確率は、84パーセントだ」
突然聞こえた声は、新たな日本人の男の子だった。いつの間にこんな近くに、という場所に突っ立っている。
つんつん尖った黒髪に、瓶底眼鏡のように全く目元が見えない黒縁眼鏡をかけている。名前は、乾貞治といって、彼もまたホグワーツの新入生だという。ごく普通のシャツとズボンという格好から、マグルに違いない。
光の反射のせいか、あるいはレンズの度数の関係か、目元が見えないせいで妙に胡散臭い。ノートにカリカリとシャープペンシルを走らせ、「データ」がどうのこうのと発言していることも原因だ。
けれど、威圧的な風格の真田と比べて、それほど紫乃は苦手意識を持たなかった。もっとも、手塚とはぐれている現状でそれどころではない、というのが大きいけれど。
「そうそう彼女の連れの話だけど」
立て板に水、とでも言うのだろうか。とにかく、三人のことなどお構いなしに話を続ける乾に、三人とも口を挟む暇もない。紫乃はぽっかりと口を開けていた。
「偶然だが、つい一時間ほど前に彼女と彼女の連れが買い物をしているところを目撃してね。彼女の連れの“みっちゃん”とやら、おそらく我々と同じ日本からの留学生だが、そのための学用品を買いに来ているようだった。合っているかな?」
「ふぇ、あ、はい」
急に話を振られたものだから、紫乃はびっくりしてしまった。
「ふむ。その時の荷物の量からいって、買い物はもう殆ど終わっているはずだ」
確かに、あとは教科書だけだったはずだ。こくり、と頷けば、乾は満足そうに笑って続ける。
「ならば他の店に行っている可能性は少ないし、ここで泣いていた彼女の性格から察するに、彼女もまた好奇心のままにふらふら店を回るタイプではない。更にここグリンゴッツ前はほかと比べてやや広く、待ち合わせ場所に最適で、迷子になった時の目印として一般的。よってここで待っていれば“みっちゃん”が彼女を探しにやってくる確率は、再計算して──92パーセントといったところかな」
「──紫乃!!」
――――刹那、聞こえた声。
迷うことなく紫乃は振り返り、そして盛大に泣いた。