入学準備6
 太郎の引率でロンドンに戻ってきた二人は、昼食を食べ、また観光がてら、家族に頼まれた土産の買い物をこなした。
 しかし、家族くらいにしか土産の必要がない弦一郎と違い、紅梅は姉芸姑たちから山ほどおつかいを頼まれていた。それに付き合う選択肢もあったが、分厚いおつかいのメモの束を見て、弦一郎はうっと怯んだ。おそらく、付き合っていたら、夜までかかるに違いない。

 すると紅梅はにっこり微笑み、「テニスしてきたら?」と言ってくれた。

 買い物に付き合いたくないのもあるが、弦一郎が、早くこの魔法の杖──もとい、新しいラケットでテニスをしたくてうずうずしている、ということを見抜かれているのだ。

 申し訳ないが、その気遣いに甘えることにして、弦一郎はせめて壁打ちを、と、着物のまま、ホテルの近くのストリートテニス場へ行った。

 結論から言って、新しいラケットは、この上なく具合が良かった。
 目立つ格好のせいで目をつけられ喧嘩を売られ、挙句に試合を申し込まれるというトラブルがあったものの、全て返り討ちにしたほどだ。

 いや、相手の実力からいって返り討ちは当然であったが、壁打ちでは壁にひびを入れなかったし、コートにボールをめり込ませなかったし、ネットも燃やさなかった、というのが、弦一郎にはとても嬉しかった。
 喧嘩を売ってきた者達のラケットはことごとくぶち抜いたが、その程度である。

 そして、ご機嫌で約束の時間にホテルに戻ってくると、ダイアゴン横丁からの宅配物と、免税店で買った化粧品類、紅茶缶、ワインやジャムの瓶、ラッピングされた綺麗なお菓子などの山に埋もれるようにして、ベッドに突っ伏している紅梅に出迎えられた。
 頭はクッションの山に突っ込まれ、弦一郎が結んだ帯が、少し崩れて、尻尾のようにへにゃりと垂れ下がっているのが見える。

 その疲れ果てた有り様に、弦一郎は買い物に付き合わなかったことに「すまん」と思わず謝ったが、同時に、着いて行かなくて本当に良かった、とも思った。
 女性の買い物とは、かくも恐ろしいものである。



 そして夕食を取り、風呂に入って一息ついた二人であるが、部屋に置かれた荷物の山に、心底うんざりした。

「……これを詰めるのか……」

 どういう方法を使ったものか、ホテルの部屋には、午前中にダイアゴン横丁で買ったものが全て届けられている。
 日本の自宅に直接届ける選択肢もあったが、料金がなかなかのことになるので、ホテルに届けてもらった、──のであるが。

 買った時は現物すらようよう見ずにそのまま宅配を頼んだが、こうして揃うと壮観である。紅梅よりは随分ましたが、これを土産物とともにトランクに詰めなければならないと思うと──

「……荷物をあっという間に詰める魔法、とか……」

 ないんかな、と、紅梅が続ける前に、弦一郎がばっと彼女を振り返る。

 そのとき、二人の心がひとつになった。
 そして、何も言わずとも、書店で買った、“The Standard Book of Spells, Grade 1 Miranda Goshawk”──『基本呪文集・一学年用 ミランダ・ゴズホーク著』という教科書を手に取る。
 読み書きは弦一郎のほうが得意なので、弦一郎が膝の上でページを捲り、紅梅が横からそれを覗きこんだ。

 そして数分もしないうち、「トランクの中に物を詰め込む」という、希望通りどんぴしゃりな呪文を見つけ出す。
 おおお、と興奮しつつも、どちらが試すか、という話になり、まずは弦一郎が試すことにした。男たるもの、ということでもあったが、先ほどテニスで何も壊さなかった、という実績で、自信があったのだ。

 紅梅が見守る中、荷物の前に仁王立ちし、振りかぶる。

「──“Pack”!」

 詰めろ、と口にし、手にあるものを降った瞬間、体の奥から、手を伝い、ラケット──杖を通して、何かが外に出ていくのを感じた。
 そしてその何かが部屋中に広がるや否や、ゴッ、というものすごい音とともに、部屋中の荷物が──つまり、部屋にあるありとあらゆるものが、弦一郎のトランクに殺到した。

 一瞬にして、学用品類、教科書、土産物、そして全てのクッション、シーツ、布団、備え付けの電話やアメニティ類、果ては椅子やカーテンまでもが弦一郎のトランクに我先に詰まろうとし、結果、それらに埋もれてトランクは既に見えない。
 重くて動かなかったものの、大きなツインのベッドもトランクに入ろうとしたらしく、僅かに浮いてから、ドン、と音を立てて床に落ちた。そして遅れて飛んできた大きな花瓶がぎゅうぎゅうのクッションにぶつかり、満員電車に乗りきれなかった乗客のごとく、ごろんと絨毯の上に転がる。

 そのとんでもない有り様と、ぐちゃぐちゃになった部屋でぽかんと口を開けていた二人は、次の瞬間、自分たちが何をしてしまったのか理解して、揃ってさぁっと青くなった。

「──何だ、今のは!」

 大きくはないが強い声を上げ、バタン、とドアを開けて入ってきた太郎に、子供二人がびくんと跳ね上がる。
 そして、部屋の惨状と、教科書を開いた紅梅、ラケットを持った弦一郎を見て、教師は子どもたちが何をしたのかを悟ったのだった。



 二人は、太郎にしこたま叱られた。

「おまえたちはやけに魔力が高いが、それだけに、制御を覚える必要がある。そのためにホグワーツへ留学するのだからな」
「はい。誠に申し訳ありません」
「しかるべき環境できちんと訓練してからでないと、どんなことが起きるかわからない。ただでさえ日本の魔法使いは色々と自由すぎる結果を招くところがある」
「へぇ。ほんに、かんにんえ……」

 自主的に、絨毯が敷かれているとはいえ床に正座をしている二人に、太郎は淡々と説教した。
「試したのが荷物を積める呪文で、まだ良かった。他の呪文だったら、どんなことになっていたか」
 そう言われ、二人はますます小さくなって、ぶるぶる震え始めた。
 呪文を探す際、杖の先から鳥や水を出す宴会芸じみたものから、傷を治したりする奇跡のような呪文、さらには対象を炎上させる呪文だの、爆破する呪文だの、非常に物騒なものがあるのを見ていたからだ。

 重要な事なので、太郎はやや厳しく二人を叱ったが、小さな少年少女はくっついて小さくなってぶるぶる震えており、どう見ても本気で反省している。
 それに、重要な事であるのに事前に言っておかなかった自分たち大人にも責任があると考えた太郎は、このあたりで説教を切り上げることにした。

 学校で習っていない呪文を、みだりに使わないこと。
 どうしても使いたいなら、教師に必ず申し出て相談することなどを太郎は命じ、そしてその重要性を骨身に染みて理解した二人は、青い顔でこくこく頷き、やくそくします、と何度も誓った。

「よろしい」
 太郎は頷くと、あの、ぴかぴかの万年筆のような杖を取り出し、指揮者のように一振りした。
 するとカーテン、花瓶、シーツや布団、アメニティなどのホテルの備品類が、まるでビデオの巻き戻しのように、一瞬にして元に戻る。ずれたベッドも、きちんと壁に沿って置き直された。
 本物の“魔法”に、ぽかんと口を開けている子供二人に、太郎は言った。

「自分の荷物は自分の手で片付けなさい」
 ホテルの備品は綺麗に片付いたが、二人の荷物は散らばったままになっている。
「はい」
「へぇ」
「出発は明日の朝。では行ってよし!」

 ──ボン!

 ダイアゴン横丁で姿を消した時と同じように、僅かな煙を残して、太郎は消えた。

 二人は立ち上がり、散らばった荷物を見た。
 呪文を使う前は業者が大雑把にまとめて積んでくれていたものが、今ではそこらじゅうに散らばり、元々トランクに入っていた荷物もひっちゃかめっちゃかなっている。
 綺麗に畳んで仕舞ったはずの着物がぐちゃぐちゃに丸まって皺になっているのを見て、紅梅は「お母はんに怒られる……」と、苦り切った顔をした。

 幸い、カーテンや多数のクッション、布団やシーツを巻き込んだおかげで、壊れたものは特になく、詰まったものをもとに戻すだけで事は済んだものの、紅梅は姐たちへの土産が壊れていないことをひとつひとつ、戦々恐々と確認していたし、弦一郎は兄たちへの土産である、魔法のチェス盤の駒を集めるのに、ひどく苦労した。

 魔法界のチェスは、プレイヤーの指示に合わせて駒が自分で移動し、駒が取れる場合、本物の戦争さながらにその駒を破壊したりする。もちろんあとで元に戻るが、プレイヤーの指示がお粗末だったりすると従わなかったりもするそうで、つまり駒の一つ一つが簡単な意思を持っており、ある程度勝手に動く。
 隊列を組んで行進するポーンや、決闘を始めるナイト、お菓子の周りで茶会を始めようとするクイーンやホテルの聖書をめくるビショップ、また背の高いランプシェードの上でふんぞり返るキングを捕まえるのに、弦一郎はたいそう苦労したのだった。

「……安易に楽な方法を選ぶとろくなことがない、ということか……」
「そやね……魔法も結構融通がきかんもんどすな……」
「そうだな……」

 教訓を得た二人は、渋々、そして黙々と荷物を片付けた。






 初めての魔法界、イギリス観光、それぞれテニスに買い物、そしてトランクの騒動と、なんとも濃い一日に疲れ果てて就寝した二人であったが、さすがの根性でいつもどおりの早朝に起床し、ぱんぱんのトランクを転がして、指定通り、リッツ・ロンドンの太郎の部屋にやってきた。

 太郎の部屋は、エレベーターにその部屋専用のボタンが有り、マホガニーのドアに金文字で、“Trafalger Suite”と書いてある部屋だった。中も、まるで宮殿のような、ものすごい部屋だ。

「お早う」

 やはり、一分の隙もないびしっとしたスーツを着た太郎は、非常にラグジュアリーなソファに長い脚を組んで座り、アイロンのかかった英字の新聞を読んでいた。
 部屋の中だからかリラックスしており、シャツの首元は寛がれ、ネクタイもスカーフもない。重厚な金のコート掛けには、あのベルベットのローブが吊るされていた。

 太郎は子どもたちを座らせ、手慣れた仕草でボーイを呼び、あっという間に朝食を手配した。
 昨日はきつく叱られ、そして豪華な部屋に萎縮してまさに借りてきた猫のようになっていた二人だが、焼きたてのクロワッサンやソーセージ、スクランブルエッグなど、美味そうな朝食が並ぶや否や、これまた現金な猫のようにぺろりと平らげた。
 その様子に太郎も満足し、うむと頷いて微笑む。子どもは元気でポジティブなのが一番である。

「さて、これから君たちは日本に帰ることになるが、用意はいいかな」
 優雅にコーヒーを啜りながら、太郎は言った。

 はい、と二人は返事をする。
 ──が、まだ航空券を渡されていないし、太郎もまるで出かけるような気配がない。組まれた足には、ぴかぴかに磨かれた革靴でなく、ふかふかのスリッパが引っかかっている。

「よろしい。──承知だとは思うが、君たちは学生ビザでイギリスに入国している」

 昨日ダイアゴン横丁に行った時と同じ、教師然とした口調で太郎が話し始めたため、二人はびしりと背筋を伸ばした。
「学生ビザは、おおまかに言って六ヵ月以上留学する場合に用いられるものだ」
 また一定の英語力があることも求められ、入国審査の際に、最低限、滞在先や学校名などが伝えられないと、英語力が理由で入国を拒否されてしまう場合もある。二人は幼いながらそれを難なくパスし、ここにいるのであるが。

「学生ビザで入国したのに、二泊三日で帰国というのは都合が悪い。わかるな?」
「……はい」
 わかる。が、帰国しなければならない今になってそんなことを言われても困る。
 困惑顔の子供二人に、しかし太郎は落ち着き払って言った。
「よって、書類上はイギリスに居ることにしてもらう。半月後にはまたイギリスに戻ってくることになるが、それまで日本でおとなしくしていること」
「はい、……しかし、その、飛行機や入国審査が」
「我々は魔法使いだ」
 昨日散々実感しただろう、と太郎は言い、コーヒーカップに口をつけた。

「魔法は誤って使うと大変なことになるが、きちんと使えば、非常にスマートで便利なものだ」
「法律違反はスマートでも便利でもありません」
 魔法を使ってどうにか誤魔化すと言っていることに気付いた弦一郎が、険しい顔で反論する。しかし太郎はやはり優雅な佇まいを崩さぬまま、悠々と言った。
「確かに。──だがそれはマグル世界に対しての法律であって、魔法使いに対するものではない」
「しかし」
「真田。私が言っているのは、決まりを無視せよということではない」
 太郎は、コーヒーカップをソーサーにそっと置いた。

「マグルの規律、魔法使いの理。どちらかに厳重に従うと、どちらかに問題が出てくる。双方が理解どころか存在もよくわかっていない現状では、これはどうしてもしかたのないことだ」
「……はい」
「そのため、臨機応変に。難しいところだが、このようにすることで、魔法使いは──特に日本の魔法使いは、マグルの人々に上手く溶け込んでいるのだ。そしてそのためには、マグルの決まり、法律、規律、そして魔法使いの理、倫理、道徳をよく調べ理解した上でないといけない。好き放題、自分の都合のいいようにだけ魔法を使ってはトラブルを生む」

 重々しく告げられる言葉を、二人は黙って聞いている。

「これからマグルと魔法族の関係がどうなっていくのかは、私にもわからない。だが現状、このようなやり方が最も誰にも迷惑をかけず、そして誰にとっても都合の良い方法なのだ。納得行かないかもしれないが、ここは教師である私の言葉を信じて貰えるとありがたい。今だけでなく、これからの二年間においても」
 真摯、かつ紳士的なその言葉に、二人は顔を見合わせ、そして双方、揃ってこくりと頷いた。太郎がふっと微笑む。

「ありがとう。──では、ソファに荷物を全て乗せなさい」

 言われたとおり、二人は豪華なソファに、恐る恐る荷物を乗せた。紅梅はどうしてもトランクに収まりきれずに荷物が一つ増えていたが、問題ないようだ。

「では、ホグワーツで」

 杖が振り下ろされる。

 ──ボン!

 次の瞬間、僅かな煙を残して、二人の子どもと荷物の山は、すっかりソファーから消える。
 太郎はそれを確認すると、優雅に新聞の続きを読み始めた。






「お帰りやす」
「おお、おかえり、二人共」

 ボン! と突然縁側に現れた弦一郎と紅梅にそう言ったのは、紅梅の祖母、紅椿と、弦一郎の祖父、弦右衛門だった。二人の間には、将棋盤がある。
 思わず「ぎゃあ」と声を上げた子ども二人は揃って扇の先で額を小突かれたものの、そこは確かに日本、神奈川の、真田家、無骨な武家屋敷であった。

 ──さっきまで、確かにイギリスにいたというのに。

太郎たろはんは、移動の魔法に関してはぴかいちやさかいなァ。地球の裏側でも一発で“飛べる”お人は、そうおらんえ」
 呆然としている子供二人に、正真正銘のベテラン魔女であるらしい紅椿は言った。

 しかも、瞬間移動の魔法は総じて難易度の高いものであるそうで、失敗した場合、身体が“ばらける”こともある。そのため魔法界では瞬間移動系等の魔法は試験による免許制度があり、これに受からないと、魔法を行使することは出来ない。

「日本やったら、勝手に使うんも、勝手に身体がばらけよるんも、お構いなしやけどな。ま、たろはんは律儀なお人やよって、ちゃーんと免許も持ってはりますえ」

 それを聞いて、二人は、先ほどその太郎本人が言った、決まりを無視せよということではない、という言葉を思い出した。なるほど、彼は守るべきところはきちんと守り、その上で誰からも文句の出ない、上手いラインを渡っているらしい。

「それはそうと、買い物はちゃんと出来やったんか」
「へぇ、ちゃんと揃たえ」
 教科書と、制服と……とリストを口にする紅梅に、紅椿は、「あほ」と短く言って、紅梅の額を扇の先でこんと小突いた。
「そないなもんはどうでもよろしおすわ。うちのお酒と香水とお菓子、ちゃーんと買うて来たやろなあ、え?」
 そう言いながら、こんこんこん、と紅梅の額を小刻みに小突く紅椿に、紅梅は「あいた、いた、いたい、買うた、買うたえ」と言って、ぱんぱんの荷物を指さした。
「全部あっこに入っとおす。……お姐はんらァのおみやげも多うて、詰めるんえらい大変どしたんえ」
「ふん」
 紅椿は、扇をぱっと開いて、口元を覆った。
 その扇は漆が塗られた黒骨だが、扇面はやはり白く、きらきらとなめらかな輝きがあった。しかしその輝きは、真珠のようだった紅梅の扇よりも輝きが強く、しかも、白蛇の鱗のような、ぬるっとした、有機的な質感も有していた。

「ほな帰りましょか」
「ええっ、紅椿殿、まだ勝負は」
「もう着いとおすやろ。ほらお稽古遅刻するよって、行きますえ、紅梅

 将棋盤を前に往生際の悪い弦右衛門をぴしゃりと切り捨て、紅椿はすっと立ち上がった。
 そして紅梅が荷物を引きずるようにしてその裾にひっつくと、扇を構え、すうっと宙に滑らせる。

「弦ちゃん、また、ホグワーツで!」

 慌てて言った紅梅に、弦一郎は言葉を返すことが出来なかった。
 太郎の時は、軽い爆発音と煙が出たが、使う者によって違うのだろうか。和服姿の老女と少女は、すうっと空気に透けるようにして消えたのだった。
入学準備1/6/終