入学準備2
 翌朝、いつもの起床時間である午前四時ちょうど、さっぱりと目を覚ました弦一郎は、自分の体内時計がロンドンに適応したことを確認して身を起こした。
 ふと隣のベッドを見ると、布団にすっぽりくるまった紅梅が、猫のように丸くなって寝入っている。白いシーツの上に、つやつやの黒い髪が、水をこぼしたように散らばっていた。
 なるべく紅梅を起こさないよう、ふかふかの絨毯の上で日課の座禅と軽い筋トレをこなし、妙に豪華なバスルームでシャワーを浴びる。分厚いバスタオルでがしがし髪を拭きながら部屋に戻ってくると、隣のベッドで丸くなって寝ていた紅梅が目を覚ました。
「ふぁ。……おはようさん」
「うむ、お早う」

 起き抜けに機嫌が悪いタイプでもないらしい紅梅は、にっこり微笑んで挨拶をし、潔くぴょんとベッドから降りた。

 肌襦袢姿の紅梅が入れ替わりでバスルームに入って行くと、弦一郎は自分のトランクを開ける。取り出したのは、紬の長着と紗の夏羽織、袴。
 日本男子として恥ずかしくないように、と、祖父がこれを着ていくように命じたのである。弦一郎としても、正装といえば羽織袴であり、身に付ければ身も引き締まるので、否やはなかった。
 しかし格式張った場に出るわけではないので、羽二重紋付きの第一礼装を着るのはやりすぎだろう、ということで、色だけは黒とねずで揃えた、紬の略礼装である。
 夏であることもあり、長着は裏地もない単衣仕立てなので、フォーマルに近いカジュアル、といったところだ。

 袴にきちんと折り目がついているのを確認してベッドに広げ、褌を締め直し、足袋を履き、柔らかい肌襦袢をつけ、派手な虎の刺繍の長襦袢を着る。
 いまどき、子供が自分で和装を着付けられるのは珍しいが、弦一郎は剣道着の道着と袴は毎日着ているし、正装となると着物を着せられるため、このくらいは何でもない。

 角帯を一文字結びにし、動きやすいように長着の尻を端折って馬乗り袴を着ければ、弦一郎の身支度は完成だ。
 念のため、部屋にあるやたら大きな姿見でチェックするが、問題はない。よし、と満足して草履に履き替えたところで、紅梅が戻ってきた。

 弦一郎には用のないパウダールームとやらである程度の身支度は既に整えたようで、長襦袢まで着込んでいる。すっかり乾かされ、櫛を入れた黒髪もつやつやと輝き、シャンプーのCMのようにさらさら揺れていた。
 こちらも、いかにも正装の振り袖ではない。しかし長襦袢に施された蔦の刺繍が、麻織の上布に染め抜かれた青紫の桔梗の柄にわずかに透けて重なり、涼しげで華やかな風情となっている。
 全体的に、白と青紫。そこに金茶の糸巻柄の帯を締める。

「弦ちゃん、帯、ぎゅってして」
 夏用の粗紗の帯なのでさほどではないのだが、女の帯を締めるのは、なかなか力がいるらしい。着崩れてはいけないから、と、紅梅に請われ、弦一郎は、彼女の帯の結び目を固く引っ張った。
 剣道とテニスの賜物の腕力と握力により、しっかり締められた帯に紅梅が満足すると、朝食のために部屋を出る。

 チップをいくら置けばいいかよくわからなかったので、見ずに適当に掴んだ硬貨と、千代紙の折り鶴と兜をサイドボードに置いておいた。気持ち、である。



 まだ少し時間が早いせいか、待ち合わせている太郎はまだ来ていなかった。
 着物姿の子供というだけで目立つのに、しかも市松人形と五月人形のごとき容姿の二人がリッツの豪華なソファに並んで腰掛ける様は、非常に人目を引いた。
 さすがにロンドンいち格式高いホテルだけあって勝手に写真を撮るような人間はいなかったが、何度か声をかけられる。

「……アーン? へえ、キモノか」

 大人のようにまだ太くはないが、しっかりした、少年の声。──日本語だ。
 思わず二人揃って振り返ると、そこには、昨日の太郎に負けず劣らずスーツを着こなし、ぴかぴかの革靴を履いた少年が、すぐ近くに立っていた。
 ブロンド、とまではいかないが、シャンデリアの光をきらきら跳ね返す薄茶の髪に、冴え冴えとしたアイスブルーの目。まるでコンピュータで調整したようなシンメトリーを誇る美形だが、左目の下の小さな泣きぼくろが、その完璧に整った顔立ちに、一滴の愛嬌を与えていた。
 おそらく、黙っていれば、ガラスケースに入れて国立美術館に展示するのがふさわしいような少年だ。しかしいかにも好奇心旺盛で怖いもの知らずといった風の生き生きとした表情が、彼がただ飾られるだけの存在でないことをありありと証明していた。

「誰だ?」
 やや警戒心を滲ませた弦一郎が尋ねると、少年はふんと鼻を鳴らし、二人の向かい側、一人がけのソファに身を沈めた。
 傲岸不遜な態度だが、仕草がいちいちスマートで無駄がないので、凄まじく“はまって”いる。一人がけのソファが、まるで王様の玉座のようだ。

跡部 景吾

 手早く名乗り、少年はじっと二人を見た。
「お前ら、今年ホグワーツに入る日本人だな」
「……もしかして、お前もか?」
「そうだ」
 日本人に見えないが、名前からして同郷のようだ。日本語も非常に流暢で、むしろ少し柄が悪いぐらいである。
 景吾は、にやっと笑い、ソファにふんぞり返ったまま手を差し出してきた。
 無礼なようでいて不思議に友好的なその態度に弦一郎は面食らったが、守るべき礼儀は先程からきちんとしていることに気づき、その手を握り返す。
「真田弦一郎だ。よろしく頼む」
「上杉紅梅どす。よろしゅう」
 横に座った紅梅が、座ったまま頭を下げる。

「……お前もテニスプレーヤーだな?」
 ぱっと見はいかにもよく手入れのされた美しい手だが、握った手のひらには、弦一郎に負けず劣らずの硬い胼胝の感触がある。
 景吾は返事をする代わりに、にやりと挑戦的な笑みを返してきた。

 話を聞けば、跡部家もかなり古い魔法族だが、少し前に日本の魔法使いの血を混ぜたことを機会に、マグルの世界にも進出した一族であるらしい。
 景吾も日本人国籍を持ち、イギリスの、マグルのプライマリースクールに通っていたそうだ。
 そのためホグワーツに通う気は元々なかったのだが、他にも多数の日本人が、しかもほぼ全員がテニスプレーヤーであり、更には監督として榊太郎が指名されたということで、景吾も留学生としてそのメンバーに加わる気になったのだ、と。

「どんな奴らかと思ってたが、その格好見て安心したぜ。他所の国で萎縮しちまうような腰抜けと、二年も過ごしたかねえからな」
「どういう意味だ?」

 弦一郎と紅梅が首を傾げると、「何だ、知らねえで着てるのか」と景吾は笑った。
 彼によると、ここリッツ・ロンドンではホテル内の雰囲気を保つため、ロンドン市内のホテルでは唯一ドレスコードがあり、宿泊客、非宿泊客を問わず、ホテル内にジーンズや短パン、スニーカーやサンダルで入場することはできないという。
 特に昼から夜にかけては、男性にはジャケットとネクタイ、革靴の着用が求められており、これを着用していない客の入場は完全に断られるそうだ。
 全く知らなかった弦一郎と紅梅は驚いたが、周りを見てみると、確かに、まだ朝早いはずだが、ホテルの客達は皆きちんとした格好をしている。

「無理に着慣れねえもん着て、妙に気合の入り過ぎたちぐはぐの格好になった観光客も多いからな。そんな無様なナリするより、お前らみたいなののほうがよっぽど堂に入ってるってもんだ」

 リッツの規定に和装については示されてはいないが、二人が纏うのは、日本ではきちんとした、そしてかしこまり過ぎない略礼装だ。
 やはり祖父の言うことは聞いておくものである、と弦一郎は確信しつつ、こうしてドレスコードについて教え、また褒めてくれた景吾に、随分個性的ではあるものの、見どころのある人物であるようだ、と評価を固めた。

「他のメンバーは、全員日本に住んでる奴らだろう? 知り合いか?」
 脚を組み直しながら、景吾が言った。弦一郎が頷く。
「俺が直接知っているのは、一人だけだ。幸村精市、という」
「“Demigod”! やっぱりな!」
 そう言って、景吾は日本ではまず見ないような、大袈裟で、しかし絵になるボディ・リアクションをとった。
 デミゴッド、すなわち『神の子』。古い血を持つ名門にしてマグル界と親しい一族という共通点のある跡部家と幸村家は、直接の関わりこそないものの、お互い存在は知っている、というものらしい。
 しかもその御曹司同士がそれぞれテニスをやっているということで、景吾は精市に密かに注目していたようだ。

「事前の情報収集ぐらいは当然だ」
 ふん、と、景吾は鼻を鳴らし、続いて紅梅を見た。
「お前もな。魔法界の蛇女帝、マグル、日本の人間国宝、紅椿の孫」
「こいつはテニスをやらんぞ」
「知ってる。うちの家族に、紅椿のファンがいるもんでね」
「へぇ、そらおおきに」
 紅梅は、にっこり微笑んだ。「毎度ご贔屓に、ありがとうございます」という意味の、営業用の微笑みだ。

「噂によると、“あの”手塚国光も来るらしいが、その話は?」
「手塚が……!?」
 手塚国光といえば、東京のジュニアテニスの頂点に立ち、他の追随を許さないテニスプレーヤーである。
 未だかつてない金の卵揃い、黄金期、とも呼ばれる今のジュニアテニス界でも、精市とはまた違うところで頭ひとつ飛び抜けた選手で、対戦したことはないものの、弦一郎も非常に注目している選手である。
「いや……初耳だ。俺は、ええと……亡き祖母が魔女ではあるが、入学許可証が来るまでそれを知らなかったので、ほぼマグルのようなものだ。情報のつてが全くない。誰が入学者かどうかなどは、幸村のことしか知らん。入学者のうち、男子が全てテニスプレーヤーであるということは校長からの手紙に書いてあったので知っているが、それだけだ」
「そうか」
 弦一郎からどうしても新しい情報を得たかったというわけではないらしく、景吾はあっさりそう言って、ソファの背もたれに身体を沈めた。

「で、お前ら、ここへは?」
「授業に必要な物を買いに来た」
「ああ、ダイアゴン横丁か」
「ダイ……?」
 また、知らない単語が飛び出す。
 頭の上に疑問符を飛ばしている二人に、景吾は、「魔法界のショッピングモールだ。だいたいのものはそこで揃う」と説明した。先程から態度は尊大だが、言っていることは至極親切でフレンドリーである。

「お前も行くのか?」
「俺はもう、必要な物は揃えたんでね。……ああ、榊監督。おはようございます」

 景吾がざっと立ち上がったので、弦一郎と紅梅もソファから立ち上がり、背後に目を向ける。そしてそこにいた人物に、きちんと頭を下げた。
「おはようございます」
「おはようさんどす」
「おはよう。既に仲良くなっているようで何よりだ」
 やはり完璧なスーツ姿の太郎は、三人の子どもたちに微笑みかけた。
 昨日とは違うスーツだが、やはり襟元はネクタイでなくスカーフだ。何かポリシーでもあるのだろうか。

「ええ、有意義な時間を過ごせました。知らせて下さってありがとうございます」
 先ほどまでのガラの悪い喋り方とは一転、美しいクーンズ・イングリッシュで、景吾は言った。
 その声には単なる敬意が篭っているのがあきらかで、別に猫を被っているわけではないようだ。目上の者は敬う教育を強く受けている弦一郎は景吾の態度に一人感心し、元々太郎を知っているようだし、尊敬しているのだろう、と判断した。

「何、顔合わせは早いほうがいいかと思ったに過ぎない。跡部、これからの予定は?」
「母の付き合いで、ハロッズへ。しばらく会えなくなりますので」
「そうか。エスコートして差し上げなさい」

 なんとも別世界の会話である。
 太郎と景吾はそれから二言三言言葉を交わしたが、やがてどこからともなく現れた、非常に大柄な少年の「ウス」という呼びかけで、会話を打ち切った。

「ああ、樺地、今行く。……じゃあな、ホグワーツで」

 さっと身を翻し、パチン、と景吾が指を鳴らすと、そこらに居た黒服の数人の男が、ざっと立ち上がって彼を囲むように随行する。
 今まで全く気付かなかったが、ボディガード、というやつだろう。
 従者のような少年を引き連れ、跡部景吾は、本当の王様のような風格でその場を去った。



 作家のサマセット・モームは、「イギリスで美味しい食事がしたければ、一日に三回朝食を取ればいい」と言ったという。
 その言葉に嘘はなく、イギリス伝統のフル・ブレックファストは非常に美味で、またそのたっぷりしたボリュームも、時差ボケの影響で結局長いこと食べていなかった二人には、ありがたい量だった。

「さて、それでは向かおうか」

 満足するまで腹ごしらえをした二人を連れて、太郎はリッツを出た。
 てっきりそのまま昨日のように車に乗るのかと思いきや、彼はそのまま颯爽と歩き出す。相変わらずの人混みに、弦一郎と紅梅はアイコンタクトでもって無言のまままた手を繋ぐと、モデルのような後ろ姿を追った。
 すぐ近くのピカデリー・ストリートに入り、本屋の前を通り、楽器店、ハンバーガーショップ、映画館を通り過ぎる。太郎の歩みに迷いは一切無く、悠々と歩いていく。

「さあ、ここだ」
 太郎が示したのは、ちっぽけな、薄汚れたパブだった。
 “Leaky Cauldron”──『漏れ鍋』。見た目に相応しい、なんともな名前である。そしてそのぼろさに全く不似合いな太郎は、堂々と店の中に入ってゆく。

 不思議なことに、『漏れ鍋』に向かうように意思を定めてから、ハリウッド俳優のような男と、日本人形のような男の子と女の子を観る多くの視線が、一斉に失くなった。
 近くを歩く人の目線を追っても、パブの隣にある本屋から反対隣のレコード店へと視線が移り、真ん中の『漏れ鍋』には全く目もくれないのである。

 薄汚れた、そして不思議なパブへ足を向けながら、太郎が腕を一振りする。
 その手に、教師が黒板を指し示す指示棒を思わせる、先細の棒のようなものが握られていることに二人が気付いた瞬間には、彼は宙から現れた、ベルベットのローブのようなものを素早く羽織っていた。
 ローブは足首を覆うまでのたっぷりと長いもので、彼のスカーフの色合いと似た、黒に近い濃い紫色で、ところどころに金色の飾りがついている。
 どうしてネクタイでなくスカーフなのか、という疑問は、この瞬間に解けた。ベルベットのローブには、確かに、堅苦しいネクタイより、スカーフのほうが断然似合う。

「やあ、侯爵Marquess。今日もすばらしい貴公子っぷりだ。ほれぼれするね」
 カウンターの中でグラスを磨いていた禿頭のマスターが、威勢よく声をかけてきた。
「ありがとう。奥を使わせてもらっても?」
「もちろん。……おや、遠い国からようこそ」
 マスターがウィンクしながら言うと、そこかしこから、「ようこそ」「こんにちは」「楽しんで」と声がした。

 二人はその声の全てに返事はできなかったが、何度かありがとうと口にしながら、優雅なドレープをはためかせる、ベルベットのローブを追いかける。
 太郎はいかにも裏口といった風のドアを出てパブを通りぬけ、そこでやっと止まった。
 そこは煉瓦の壁に囲まれた、小さな中庭、というよりも、単なる空き地だった。ゴミ箱があり、雑草がわずかに生えているだけで、見るべきものなどどこにもない。

 しかし太郎は相変わらず迷いなく奥の壁の前に立つと、手に持った木の棒──近くで見ると、磨きぬかれてニスが塗られたようなそれは、まるでひどく高級な万年筆のようだった──を振り上げ、その細い先端で、赤茶の煉瓦のひとつを三回叩いた。

 すると、なんと叩いた煉瓦が震え、ぐにゃぐにゃと揺れ始める。そしてその煉瓦が引っ込んで壁に穴が開いたかと思うと、それはあっという間に広がり、大人が数人通れるような、大きなアーチ型の入り口ができた。
 その向こうには、明らかに先ほど散々通ったロンドンの通りとは違う、ひとつも直線的なところがない、曲がりくねったレトロな石畳の通りが続いていた。

 手を繋いでそれを見ていた二人は、ぽかんと口を開けたまま、顔を見合わせあう。
 まるで飛行機の中でさんざん見たファンタジー映画のような光景だが、それはコンピュータ・グラフィックスではなく、確かに今目の前で起きている現実だった。
入学準備1/2//終
榊先生のローブは、映画のルシウス・マルフォイが着てるローブみたいな、肩付近がかっちりした、ローブというよりロングコートのようなイメージで。あれの濃紫&金みたいな感じ。