入学準備5
 弦一郎の次に、蓮二の杖を選ぶ。
 蓮二は弦一郎ほど時間はかからなかったものの、合わない杖の場合、何故かことごとく貞治のズボンが下がったので、弦一郎は蓮二の杖が決まる間、ずっと紅梅の目を覆うことになった。
 貞治は「わざとやっているんじゃないのかい、教授」とぼやいたが、なぜかまんざらでもなさそうな顔をしていたため、誰もが彼を無視した。

 結局、蓮二の杖は、柳の木と人魚の鱗を使ったものに決まった。
 そして彼の杖もやはりテニスラケットになり、弦一郎と同じく、満足そうにグリップの感触を確かめていた。それに彼は、最初から杖をフォアハンドのフォロースルーで素振りしていたので、満を持して、ということだろう。

 貞治は巻き尺にズボンのベルトの長さを執拗に測られつつ、一発で杖を決めた。
 材料は樫の木と鵺の尻尾で、芯材は日本から取り寄せた珍しいものであるらしい。一発で決まったというのに貞治は何故か残念そうで、しかしやはり杖はラケットに変化した。

「興味深い。じつに興味深い」

 しかし先程から一番興奮しっぱなしなのは、オリバンダー老人である。
 珍しい日本の魔法使いの杖選びに、彼は先程から一度も瞬きをしておらず、もはや鬼気迫る勢いだった。

 そして最後に、紅梅の杖を決めようかという時、巻き尺は紅梅の体の寸法だけでなく、着物の袖の長さ、衿の抜き幅までもを測り、最後には帯の長さを測ろうと結び目を引っ張り始めた。
 びっくりして「ひゃあ」と声を上げる紅梅に、弦一郎は彼女にまとわりつく巻き尺をひっつかみ、うどんの生地のように伸ばしてたたんで固結びにし、カウンターの中に放り投げた。
 巻き尺はそれ以降うんともすんとも言わず、オリバンダーも「おやおや」と言っただけだったので、弦一郎は黙って、紅梅の帯をもう一度固く結び直した。

「おおきに、弦ちゃん。──そやし、うち、杖はもうあるんよ」

 そう言って、紅梅は帯に挟んでいた舞扇を取り出した。
 舞扇なので、普通の、ただ風を起こすための扇より大きい。たたんだ状態で九寸五分、約29センチの長さである。骨の部分は、よく磨かれた木で出来ていた。

「京都で作って貰たん。お祖母はんのとおんなしとこ」
「ほう! ほう! これはこれは!」
 オリバンダーが興奮気味に身を乗り出して、「日本の杖! よろしければ、見せて頂いても?」と、切実な様子で言ったので、紅梅は扇を彼に手渡した。
 いつの間にか白い清潔そうな手袋をした老人は、そうっと扇を手に取り、注意深く開いた。扇は真っ白で、何の絵も描かれていない。しかしその白さは単なる和紙の白さではなく、まるで真珠のようになめらかな輝きを放っていた。

「梅の木と、大蛇の筋、鱗。繊細かつしなやか。おまけに良い香りがします」
 オリバンダーは、どこかうっとりと言った。
 そしてしげしげと扇を眺め、パチンと閉じると、受け取った時と同じように丁寧に紅梅に返す。
「良い物をありがとう。最後に、振ってみて頂けるかな?」
 オリバンダーがにこにこと言い、紅梅は気前よく頷いた。

 紅梅は老人よりもはるかに慣れた様子で扇を開くと、腰を落とし、僅かに首を傾げる。
 日舞の姿勢だ。一瞬にして、紅梅の全体の姿勢が、大きな筆で一筆引いたような曲線になる。
 いつもながら見事なそれに弦一郎はうむと頷き、おそらく姉の関係で見るのは初めてではないのだろう、蓮二も似たような様子だ。オリバンダーはほぅと感嘆の息をつき、貞治はノートになにか書きこむのをやめ、じっと見入っていた。

 すうー、と、紅梅の扇が宙を滑る。
 途端、きらきらとした細かい輝きが美しい軌跡を描き、また僅かに起きた風は、甘酸っぱい、咲き始めの梅のようないい香りがした。

「ブラーァボー!!」

 まるでオペラのクライマックスでも見たような様子で、オリバンダーが叫ぶ。
 興奮しっぱなしの老人に、少年らは苦笑しつつも料金を払い、店を出た。

「色んな扇になるえ、便利なん」
 そう言って、紅梅は再び扇を帯に挟んだ。プリキュア云々の時といい、彼女はとことん便利かどうか、役に立つかどうかで魔法を捉えているようだ。なんとも現実的である。



 太郎との約束の時間には、まだ時間がある。
 いろいろな濃い経験の連続で疲れを感じたこともあり、四人は“Florean Fortescure's Ice-Cream Parlour”──『フローリアン・フォーテスキュー・アイスクリーム・パーラー』というアイスクリーム専門店のテラスで、控えめに鳴き始めた腹の虫を抑えることにした。

 やはり想像もできないようなフレーバーがあるのに対し、小豆や抹茶のアイスクリームがないことに、イギリスだからか、魔法界だからか、と言い合っていると、店主のフローリアン・フォーテスキューが興味を示し、いろいろ聞いてきた。
 マダム・マルキンの時と全く同じ状況になったことを苦笑しつつ、黒胡麻やきな粉など、日本のアイスクリームについていくつか教えると、アイスクリームをシングルからダブルにしてくれた上、いま教えたフレーバーがヒットしたら、それはいつでもタダで食べさせてくれると約束した。

 できれば抹茶アイスがメニューに加えられることを望みつつ、四人はテラスでアイスクリームを食べた。
 男の子三人のその傍らには、それぞれ、風情の違うテニスラケットがある。他の荷物はすべて宅配にしてもらったが、これだけは自分の手で持ってきた。──そうすべきだ、と直感で感じたからである。

「どうだ? 魔法界は。馴染めそうか」

 バニラビーンズの入ったミルクアイスクリームと、チョコミントのアイスクリームを食べながら、蓮二が言った。
 この中で、以前から魔法界に馴染みがあり、このダイアゴン横丁にも来たことがあるのは、彼だけだ。
「俺は蓮二から話は散々聞いているからね。実地で確認しているような感じだな」
 貞治が言った。彼のノートは、魔法界に来てから三冊目に突入しているらしい。

「俺は、まあ、……常識が通用しない部分も多いが、それは追々どうにかなるだろう。それにしても、魔法族の人々が皆、なんとなく浮かれているようなのが気になる」
 少し戸惑った様子で、弦一郎が言った。

 珍しい日本からの魔法使いといえど、店の人々は親切であるのとはまた別で何かと気前が良すぎるし、道行く人々、談笑する者達、皆浮き足立っているような気がする。
 ちなみに、そんなふうに言った弦一郎のアイスクリームは、ナッツ入りのバニラと、カフェオレのアイスクリームだ。
「そやね。お祭りの前みたいな感じどすな」
 紅梅が言った。

「ふむ。それは、ハリー・ポッターが今年ホグワーツに入学するからだろう」
「ハリー・ポッター?」
「そうだ。マグルの世界で生活していればまず知らないとは思うが、実は魔法界は長いこと、とある人物によって脅威にさらされていた」

 そう言って、蓮二は、まるで教科書を読むような説明をした。

 魔法界には、古くから『純血主義』と呼ばれる思想がある。
 その名の通り、魔力を持つ人間、魔法使いのみで婚姻を結び血を繋ぐべきという思想で、それこそ魔法使いの存在とともにずっとあるため、過去においては主義というより常識ですらあった思想である。
 だが、かつて魔法の力を恐れたマグルによって行われた残虐な魔女狩りなどが決定打となり、魔法界では長いこと、この純血主義が掲げられていた。

 だが、本来自衛と棲み分けが根底にある主義であるにもかかわらず、現在では、単なる選民思想に発展している部分が大きい、と蓮二は淡々と言った。
 具体的には、マグルと魔法族のハーフである“半純血”や、マグルが続いた家系から現れる“マグル生まれ”は劣った者、もっと過激に言えば穢れた存在であり、魔法界に招くべきでない、魔法魔術学校にも入学させるべきではない、という主張などが目立つという。

「純血主義だと……? まさか、今どき?」
 弦一郎が、嫌悪感をあらわにした。その反応に、蓮二が苦笑して肩をすくめる。
「気持ちはわかる。マグル界ではアパルトヘイトやナチスのユダヤ人虐殺などの歴史があり、忌むべきものとされているし、日本の魔法使いは混血が基本で、純血を保とうという姿勢自体起こったことすらないからな。だがこちらの魔法界はたいへん閉鎖された狭い社会で、そうなってしまっただけの理由もある。最大の理由は魔女狩りだな。この凄惨さは想像を絶するもので、魔法使いたちがマグルとの関係を断絶する理由としては充分といえるだろう」
「……ふむ」
 納得はいかないが、理屈はわかる、というような顔で、弦一郎は黙った。その反応を確認して、蓮二はなるべく私情のこもらないように気を付けた声で続ける。

「だがお前の言うとおり、“今どき”、という思想であることも確かだ。思想的にも時代遅れだが、実際問題として、ただでさえ少ない魔法族の中で純血を保つために近親婚を繰り返し、遺伝病に苦しむ一族も存在する」
 いくら魔法の力が働く世界といえど、人間だからな、と、蓮二は学者然とした様子で言った。
「よって、現在の魔法界において、純血主義は、少なくとも“公式には”恥ずべきものとされており、マグル生まれや半純血が差別されることはない」
「……“公式には”?」
「理不尽な差別はほぼないにしろ、誰にでもある種の区別感情があることは否めないな。まあ、理由あってのことなのでしょうがない」
「ふむ」
 弦一郎は腕を組み、そのまま黙った。聞いたことを整理し、飲み込もうとしているような様子だった。

「さて、純血主義についての討論は又の機会にするとして、だ。純血主義者の中でも特に過激で、なおかつ闇の魔術に非常に長けたとある人物がいる」
 蓮二が続け、弦一郎が顔を上げた。
 紅梅はずっと何も言わずにクランベリーのアイスクリームを食べているが、話は聞いているようで、所々で小さく頷いている。
「彼と彼が作った組織は、純血やマグル生まれを穢れたものとみなし、根絶やしにすべく、虐殺、暗殺などを行っていたのだ。まさにナチスが行ったユダヤ人虐殺のように」
「……つまり、この魔法界では、時代遅れの選民主義思想に基づいた、非常に過激なテロリストが存在し、この間まで猛威を振るっていた──、ということか」
「そうだ」
 むっつりと顰めっ面で言った弦一郎の言葉を、蓮二は端的に肯定した。

「彼に本心から追従する純血主義の魔法使いも居たが、無理やり洗脳したり、言うことを聞かせる禁術も多く使われ、魔法界中が疑心暗鬼に陥っていた。俺が先程から“彼”とか“とある人物”と言っているのも、その関係だ。誰もが彼の名前を知ってはいるが、一時期、その名前を口に出すと保護魔法が破られて居場所が感知され、即座にその配下の襲撃を受ける、という呪いが蔓延していたことがあった。今ではその呪いは解けているが、その呪いの恐ろしさと、彼への恐怖ゆえ、未だに“名前を言ってはいけないあの人”と呼ばれている」
 三人は、黙って話を聞いている。蓮二は続けた。

「先ほど、純血主義は“公的には”恥ずべきものとされていると言ったが、これには政治的な意図も含まれている。なんだかんだ言っても、“今どき”、半純血やマグル生まれの魔法使いのほうが数は多いのだ。そのすべてを殺されてはたまらない。そのため、純血主義は“悪いこと”である、と全体に知らしめることによって、“名前を言ってはいけないあの人”を完全なる悪者に仕立て上げる必要があった」
 誰の意図かは知らないが、なかなかうまいやり方だ、と蓮二は言った。

 本来、そして原初の純血主義は、自衛と棲み分けのための、主義というよりは単なる対処法であり、また古い常識であった。本来なら時代の流れにそってやんわりとなくなっていくはずのそれを、“あの人”が主義として掲げ、そして本来常識として扱われる考え方であったために、賛同者も多かった。
 そんな人々を断罪するためには、彼らが掲げる“純血主義”ごと悪として認定する必要があったのだ、と蓮二は冷静に言う。

「理由があれど、テロリストは悪だろう」
「そのとおり。だが後に遺恨を残さないため、どこかの誰かはそうしたのさ。そして“名前を言ってはいけないあの人”が死亡し、その組織が壊滅した今、魔法族の人々は一丸となって喜び、極一部を除いて、純血主義はよくないことだと考えが統一されている。見事に」
 少し皮肉げに言った蓮二に、むう、と弦一郎は唸った。
 弦一郎は馬鹿ではないが、こういう、腹黒い考え方は不得手である。

「それにしても──なるほど。皆が浮かれていたのは、長年皆を苦しめてきたテロリストが死亡したせいだったのか」
「正しくは、そのテロリストを殺した英雄の帰還を祝って、だね」
 貞治が言った。

「詳しいことは公表されていないが、1981年10月31日。ポッター宅が“名前を言ってはいけないあの人”本人に襲撃され、ジェームズ・ポッター、リリー・ポッター夫妻は死亡。しかし息子のハリー・ポッターは生き残り、そればかりか、“あの人”を撃退、死亡させた」
「……ええ? ハリー・ポッターて、うちらといっしょに入学しはるんやろ? ほなそん時、やや子やないの。どないしてそない怖いお人をやっつけられるん?」
 今まで黙っていた紅梅が、もともと下がり気味の眉を顰めて言う。顰めているのだろうが、顔つきがおっとりしているせいで、困っているようにしか見えないが。

「確かに、ハリー・ポッターは当時一歳。何が起こったのかは分からないが、赤ん坊の彼が“あの人”を死亡させる原因の一角を担ったことは確かであるらしい。魔法使いたちは暗黒時代が開けたことを喜び、それをもたらしたハリー・ポッターを“生き残った男の子”という英雄として称え、また、なぜか今までマグルの親戚に育てられたハリー・ポッターが魔法界に帰ってきてホグワーツに通うというので、皆お祭り騒ぎだというわけだ」

 英雄の凱旋、故郷に錦──といったところだろうな、と、貞治はどこかつまらなそうに言って、マカダミア・ナッツがたくさん入ったアイスクリームを食べた。ノートは閉じられている。

「なんやの、それ。テロリストが小さい子のおる家を襲って、子供だけ生き残って、それを喜んどるの? 悪い奴が死んだからって? おかしない? なんや気色悪いなあ」
 紅梅は、ますます眉を顰めながら言った。うむ、と弦一郎が頷く。
「確かに、そうだな。日本なら、赤ん坊とはいえ、目の前で両親を失った子供に対して……、お悔やみは言っても、英雄だなどとは言わんだろう。少なくとも建前では」
 倫理的に問題があるのでは、と弦一郎が言い、今度はそれに紅梅がこくこくと頷いた。

「確かに。──だが、多くの人の考えをまとめるには、わかりやすい図式である必用がある。つまり、“悪い魔王”と“英雄”を作る必用があるのさ」
 貞治が言うと、弦一郎と紅梅は、むっつりと黙った。
 そしてその続きを、蓮二が担う。

「そう。まるで物語のように仕立てあげることで、話がわかりやすくなり、そして直接の関係者ではない大衆にとっては現実感が薄まり、無責任に、心から喜ぶことが出来る。元々、欧米諸国は日本よりこういった傾向が強い。誰か一人を英雄、救世主に仕立て上げ、その一人に負担も栄誉もまとめて全て背負わせる。そしてその一人を讃え、祭り上げることで罪悪感を消し、一見気持ちよく大団円というわけだ。見方によってはキリスト教的なシナリオともいえるが──これ以上のことを言えるほど、俺には知識も経験もないので自重しよう」
 アイスクリームを食べ終えた蓮二は、一度言葉を切って、コーンの尻尾を口に放り込んで咀嚼した。

「とにかく、パフォーマンスというものを実によく心得た采配、といえるだろう」
「えげつないなあ」
 紅梅が、苦虫を噛み潰したように言う。そしてその言葉には三人とも皆同意らしく、無言で目を見合わせていた。

「実に興味深い議論だが、もう少し声を潜めたほうがいいな」

 よく通る低い声がして、四人の少年少女は飛び上がった。
 そして一斉に振り返ると、そこには、スマートな濃紫のベルベットのローブを纏った、立派な紳士が立っていた。

「あ、たろセンセ」
「太郎……、榊太郎監督でいらっしゃいますか?」
 紅梅の呼びかけに、蓮二と貞治が反応する。何かと情報通な彼らは、当然、自分のテニスの顧問となる人物のこともリサーチ済みだったようである。

「二年間、よろしくお願いします」
「こちらこそ。入学後、日本人の留学生たち全員の顔合わせを予定している。女子二人をのぞいて、全員がテニス部への入部を希望しているのでね。よくやりなさい」
「はい」

 それから軽く話した後、蓮二と貞治と別れた。

「では、またホグワーツで」

 弦一郎と紅梅は彼らに手を降って、そしてその手をまた繋ぎ直すと、来た時と同じように、太郎の背を追いかけて歩き出した。
入学準備1/5//終