入学準備1
 入学を決めた弦一郎と紅梅は、主に弦一郎が紅梅に教えを請う形ではあったが、色々と情報交換をした。もちろん、ふくろう便で。
 最初は本当にこんなことで手紙が届くのかと訝しんでいた弦一郎だが、実際に何往復もやりとりをして、しかも普通郵便より倍も速いとなれば、すっかり便利に使うようになっていた。

 しかもふくろうは忠実で、おとなしく、目がくりくりとしていてかわいいし、何よりすばらしくモフモフしている。ずんぐりむっくりに見えるがその身体のほとんど、おそらく八割方は毛であり、指を突っ込むとずぶずぶと沈むのだ。
 若干嫌がられるものの、礼の菓子を弾めば現金にもじっとしているので、弦一郎はふくろうのために自分に与えられるおやつをとっておくのを習慣にするようになった。

 それはともかく。

 紅梅との情報交換で発覚した最も重要な事は、入学するにあたって必要な学用品類は、ロンドンに行かねば手に入らないらしい、ということだった。
 それを一緒に買いに行かないか、という紅梅からの誘いを、弦一郎は喜んで受けることにした。

 なんといっても、入学許可証に同封された必要なもののリストは、どれもこれも、どこで手に入れればいいのか全く想像もつかないものばかりで、弦一郎は正直途方に暮れていたのである。
 一行目の“普段着のローブ”からして、ローブに普段着やよそ行きの区別があるということがまず驚きだし、“普段着の三角帽(黒)昼用”など、もうどこから突っ込んでいいのかわからない。
 三行目にして、安全手袋はドラゴンの革製またはそれに類するものでなくてはいけないという注意書きが現れ、弦一郎はもうすでにここで完全にお手上げだった。

 ちなみに、一応、精市も誘った。
 しかし連絡した時、既に精市は魔法使いである両親とともに買い物に行く予定があり、また紅梅が一緒に行く、ということに、精市があまりいい顔をしなかった。
 精市は紅梅のことが嫌いなわけではないが、ただ、未だに女の子だと思われているので、一緒に行動するのが気まずいらしい。

 弦一郎としては精市と一緒に行動できなくても全く構わないし、あの傍若無人を絵に描いたような精市が、紅梅を気まずそうに避けるのはなんとも面白く感じているので、彼がれっきとした男であることを親切に紅梅に教える気は、今のところ全くない。



 それにしても、紅梅も弦一郎も、海外に出るのは初めてである。
 まずパスポートを手配し、着替えと金を用意して、ひとまずは飛行機に乗り、イギリス・ロンドンへ──というのは当然として、しかしそれを弦一郎と紅梅のふたりきりで、大人の付き添いなく行うというのは、全く予想もしていなかった。

「可愛い子には旅をさせろというしのう! 特に男の子は」

 と祖父・弦右衛門に言い渡された時はさすがに唖然としたが、よく聞けばふたりきりなのは飛行機だけで、向こうに着けば紅梅らの知り合いである案内人が迎えに来るらしい。
 弦一郎はある程度英語もできるし、実年齢にそぐわぬほどの度胸もある。
 しかし、地球を半周もしたところの見知らぬ土地で、日本よりはるかに悪い治安に気をつけつつ、女の子を連れて地図にも載っていない場所にたどり着き、“普段着のローブ”やら“ドラゴンの革製の手袋”などという得体の知れないものを買ってくる──という、難易度の高すぎるお使いをこなす自信はなかったので、正直、本当にホッとした。

 兄の送迎で、真新しい海外旅行用のトランクを転がしながら、成田空港へ。
 魔法に大いに興味があるらしい兄の信一郎は、最後まで自分も付いて行きたいと言っていたが、司法試験の予備試験とかぶってしまったのではどうしようもできず、泣く泣く諦めた。
 何か魔法っぽいおみやげを買ってきます、と弦一郎は非常にざっくりした約束をして兄を慰めたが、はたして『魔法っぽいおみやげ』は存在するだろうか──と、そんな心配をしながら空港にたどり着けば、既にいつもの着物姿の紅梅が、姉芸姑の紅芙蓉に連れられて到着していた。

 紅芙蓉は『花さと』に入ったばかりの見習いで、実は彼女も魔力を持っている。だが舞妓・芸姑になるのが夢である彼女はホグワーツ入学を拒み、そのかわり、魔女でありながら芸姑でもある紅椿に弟子入りしたのだった。
 明るくちゃきちゃきとした性格で、面倒見のいい姉御肌の彼女は紅梅にとっても良い姉分のようで、手紙にも何かと彼女の名前が出てくる。
 更には、彼女の弟も弦一郎らと同い年で、今年、ホグワーツに入学するそうだ。会ったら仲良くしてやって、と紅芙蓉が伝えた名前は、柳 蓮二といった。
 紅梅は既に面識があり、「蓮ちゃん」と呼んでいるそうだ。

 紅梅と弦一郎は、紅芙蓉と信一郎の二人に見送られ、フィンランド航空の、やや小さめの飛行機に乗り込む。

「弦ちゃん」

 トランクを預け、それぞれ小さな手荷物だけになって身体検査のゲートを潜ってから、紅梅が話しかけてきた。

「手、繋いでもええ?」

 僅かに首を傾げてそう言った紅梅は、少しだけ不安そうだった。
 そして、「はぐれたらイヤやから」と弱々しく続けられた言葉には、弦一郎も全く同意だった。
 空港の人々は子供の二人にとても親切ではあるが、それでも周りは見上げるように大きな大人ばかりで、少し人の多いところに行ったら、あっという間にはぐれてしまいそうだ。
 そして、なんだかんだでいつも頼ってしまうばかりの紅梅がこうして縋ってきてくれたことが、弦一郎を高揚させた。

 弦一郎は少し頬を紅潮させた顔で大きく頷き、差し出された紅梅の手を取る。
 剣道とテニスで胼胝だらけの弦一郎の手と比べ、紅梅の手は小さくて、柔らかい。その感触に、弦一郎は、イギリス行きを決めた時、紅梅に恩を返さねば、何かあった時は絶対に守らねばと決心したことを思い出し、その気持ちを新たにした。

「この旅の間は、こうしていよう」

 照れることもなく、堂々と、しっかり手を繋いでくれた弦一郎に安心したのか、紅梅は不安そうな表情を消し、いつも通り、にっこり微笑んだ。



 キャビンアテンダントが、親切な微笑みで案内してくれた席に着く。
 手を繋いだまま、二人して離陸の浮遊感に興奮し、シートベルトの着用サインが消えるや否や、雲の上の景色を見渡すべく、顔を寄せあって窓に張り付いた。
 ただ手を繋いだだけで、初めての、子供だけでの海外旅行への不安は既に消し飛んでいる。
 他の乗客に迷惑をかけないように一生懸命興奮を抑え、しかしどうしてもはしゃいだ声をあげながら、二人は始終言葉を交わしあった。

紅梅は、おばあさんに魔法を習えるのに、どうして学校に行くんだ?」

 機内食を食べ終え、幾分か落ち着いてから、弦一郎は尋ねた。
 紅梅が一緒に行くのはとても心強いことであるが、イギリス、しかも魔法界などに行けば、日舞や三味線の本格的な稽古はどうしてもできなくなる。紅梅が舞妓になることを何よりも望んでいる女将が、よくイギリス行きを許可したな、と、弦一郎は不思議に思っていたのだ。

「おばあはんは、七年間ちゃんと学校に行っとぉけど」
 寝る時じゃまにならないよう、帯を回して結び目を前にした紅梅は、パックのりんごジュースを飲みながら言った。
「随分前のことやし。今は習うこともちゃうやろし、よう教えんて」
「そんなものか」
「へぇ。あと、おばあはんがよぅ使てはる魔法は、おばあはんしか使えん魔法も多いん。それはあんまし教えるのに向かんから、学校で、だれでも使える魔法、ちゃんと習たほうがええて」
「ほう」
「ていう、理由なんやけど」
 ストローから口を離し、紅梅は、少しいたずらっぽく微笑んだ。
「このままやと、うち、……一生京都から出られへんもん。ちょっとくらい、他のところも見ときて、おばあはんが」
「……そうか」
 弦一郎は、はっとして、神妙に頷いた。

 舞妓や芸姑になれば、基本的に京都から出ない生活になる。
 もちろん旅行に行ったりはできるが、それは一人前の芸姑になり、なおかつ屋形から出て一本立ちが出来てからの話だ。その屋形の家娘である紅梅は一本立ちをすることはないし、普通の芸姑より拘束はきついだろう。
 実際、今でも、紅梅は年に一度神奈川の真田家に来る以外は、全く京都から出ることはない。せいぜいが、学校行事の遠足程度である。
 紅椿のように、舞踊家としての活動が大きく認められでもすれば話は別かもしれないが、人間国宝は特例過ぎて参考にならない。

「そやし」
 重い空気になりかけたのを察したのか、紅梅が、ぱっと笑って言った。
「魔法が使えるよぉなったら、便利そぉやし」
「……ふむ。例えば?」
「んー、着付けとか、髪結とか」
 芸姑や舞妓、また舞台衣装は非常に大掛かりで、とても一人で着ることは出来ない。
 それに髪は鬘の時はあるが、舞妓の髪は必ず地毛で結わねばならず、一度結うと五日は洗えない。しかも、結った髷を崩さないように、昔ながらの箱枕で寝なければならないのだが、紅梅はそれがとても憂鬱であるらしい。
「一人で着れて、脱げて、あと髷のまんまでも髪洗えたりとか、出来ひんかなあ」
「出来るんじゃないのか? ほら、あるだろう、女子向けのアニメでそういうの、日曜の朝にやっている、何だったか……、ぷ、」
「ぷりきゅあ?」
「ああ、多分、それだ。よく知らんが」
「うちも、ちゃんと見たことあらへんわ」
 クラスの女の子が筆箱や下敷きを持っているのを見たことはある、と紅梅は首を傾げながら言った。

 やたらカラフルで、目の大きい絵の少女がたくさん出てくる大ヒットアニメに、弦一郎はもちろん全く詳しくない。
 しかし朝にテレビのチャンネルを回している時に数秒目にしたことはあるし、もう少し幼い頃は、クラスの女子がごっこ遊びをしているのを見たこともあるので、ざっくりした知識はある。

「あれ、確か、変身するだろう。髪から服から。ああいう感じでまるごと姿を変えられれば、なお便利なんじゃないのか」
「あー!」
 紅梅は、眼から鱗、というふうに声を上げた。
 生まれた時からアナログ極まる生活をしているせいで、そういう発想がまるでなかったらしい。
「すごい! 便利!」
「うむ。ぱっと着替えられるのは、確かに便利だな」
 弦一郎も、頷いた。
 紅梅はすごいすごいと何度も言い、絶対にその魔法を使えるようになる、と強いやる気を見せ始めた。

「ほな、うち、ぷりきゅあみたいなる!」

 満面の笑みで言った紅梅に、弦一郎は「うむ、頑張れ」と頷いた。
 ちなみに、プリキュア云々の会話を聞いていた周囲の人々がひどく微笑ましい目で二人を見ているのだが、彼らはそれに気づいていない。






 ロンドン、ヒースロー空港。

 十二時間のフライトで疲れてはいるものの、すっかりいつもの度胸を持ち直した子供二人は、さっさとトランクを受け取って、案内板に従い、待ち合わせのロビーに向かった。

 二人の英語力は同等ほどだが、会話するのは紅梅のほうが、読み書きは弦一郎のほうが比較的得意である。
 そのため、看板や案内板を読むのは弦一郎、係員に質問するのは紅梅、という自然な役割分担で、そこらの大人の観光客よりもよほどスムーズに待ち合わせ場所に向かうことが出来た。

「あっ、太郎たろ先生センセ
 そう紅梅が声を上げて手を降った人物は、なんとも人目を引く男性だった。
「太郎」というこの上なく日本人らしい名前のようだが、白人ではなく、しかし日本人らしくもない。機内で観た、ハリウッド映画の俳優のような顔立ちをしている。
 年齢は、弦一郎の兄よりは明らかに上で、しかし両親よりも随分下に見える。おそらく、三十代半ば頃だろうか。
 背が高く、体格が特別いいわけではないが、決してひ弱そうではない。姿勢がいいこともあって、非常にスマートな立ち姿だ。おそらくオーダーメイドの高級そうなスーツには、テイラーが望む完璧なしわが通っている。
 特徴的なのは、襟元にネクタイでなく、寛げたシャツの内側にスカーフを巻いているところだろうか。あまり夏らしくない格好だが、イギリスは七月でも最高気温は22度程度。それに、何より本人に全く暑そうな気配が感じられず、そういうものなのだ、と納得してしまうような、確立された雰囲気の持ち主だった。

「やあ、お
 整い過ぎた顔立ちのせいか、無表情で立っていると、俳優でもクールな悪役がはまるような印象の男だが、紅梅に微笑みかけた表情は、穏やかで優しげだった。
「それと、……君が真田弦一郎君か」
「はい。榊監督でいらっしゃいますか」
「そうだ」

 ──榊 太郎
 彼こそが、紅椿の指名により、ホグワーツ魔法魔術学校のテニス部顧問になった人物である。

 事前に知らされた情報によると、『榊』は魔法族としても名門だが、マグルの世界でも古くからその名を知らしめている一族でもある。魔法族とマグルの世界をうまく渡るのに最も長け、それゆえに莫大な権力とあらゆる方面への抑止力を持っている。
 太郎は、その中でもまた特別な立場の持ち主であるらしい。
 もし何か問題が起きた時、太郎がいれば、大概の事は上手く取り計らってくれるだろう、というのが、紅梅経由で聞いた紅椿のはからいである。

 そして紅梅は以前から縁あって、彼から英語を習い、それ以外の勉強や知識に関しても教えを請うている、ということも、弦一郎は彼女の手紙で知っている。
 また若いころはテニスプレーヤーであり、プロ選手名簿にも名を連ね、しかもなかなかの成績を残した選手であった、ということも。

 魔法族とマグル、両方できちんとした立場と視点を持ち、実力のあるテニスプレーヤーでもあり、教師として教えることにも慣れており、紅椿や紅梅からの信用、信頼もある。
 事前情報だけでも理想的な人物だと評するに十分とは思っていたが、こうして実際会ってみると、多少見た目は派手だが、とてもきちんとして公平そうな様子だ。
 弦一郎は、この人物が二年間、自分のテニスの監督となることに納得し、とりあえず満足した。

「二年間、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い致します」
「うむ、こちらこそ」
 きちんと頭を下げた弦一郎に、太郎はしっかりと頷いた。こちらも、新しい生徒の礼儀正しい態度に満足したようである。

「飛行機では、よく眠れたかね」
「んー……」
「……少しだけ」
 弦一郎と紅梅は、飛行機に乗るのは初めてだった。
 エコノミーシートといえど子供の彼らには十分な大きさだったが、十二時間もの間ずっと座っているのはやはり苦痛だったし、眠ろうとしてもすぐ目が覚めてしまう。外の景色は最初はとても珍しかったが、延々雲ばかり見ていてはやはり飽きる。
 一人ではなく、お互い話し相手がいるのが救いだが、周りが寝静まっている時に、こそこそとでも話し声をさせるのは気が引ける。結局、二人で機内エンターテインメントシステムの映画を延々、結局三本も観るはめになった。

「そうか。ロンドンはもう、子供は寝る時間だが──」
 気圧の影響と中途半端な睡眠で浮腫みぎみの顔をした子供二人に、太郎は時計を指し示す。
 現在、ロンドンはサマータイム。日本との時差は約八時間、空港の時計は21:30を指している。
 この時間は、いつもならちょうど二人が布団に入る時間だが、日本時間であると現在約05:00、逆に布団から出てくる時間でもある。いつも早寝早起きの規則正しい生活をしている子供二人は、途切れ途切れの中途半端な睡眠で、すっかり重い時差ボケに陥ってしまっていた。
 疲れているし、眠くないわけでもないのだが、身体が妙に興奮状態で、いま横になっても眠れる気がまるでしない。

「……では少し夜更かしをして、それからホテルに向かおうか」

 結果的に、その提案は大正解だった。
 最初は黒光りの大きなリムジンに度肝を抜かれた弦一郎だったが、ちょうど夜景が美しいロンドンの街をドライブするうち、緊張も取れ、紅梅と二人ですっかり楽しんだ。
 テムズ川を沿って、タワー・ブリッジ、ウェストミンスター宮殿、また隣接するビッグ・ベン、巨大観覧車ロンドン・アイなどの見事なライトアップを眺める。
 いつも良い子の見本さながらに早寝早起きを守っている二人なので、夜のピカデリー・サーカスの通りを歩くのは非常にどきどきした。

 十二時間の初フライトで凝り固まった身体は、夜の外国の街を巡り歩くことですっかり浮腫みが取れて血流が良くなり、ホテルに着く頃には、興奮した疲れと満足感がもたらす正しい眠気で、良い感じにふらふらしていた。
 そのため、太郎に促されるまま入ったホテルがかのリッツ・ロンドンであることにもようよう気付かぬまま、二人は放り込まれたツインの部屋で、シャワーも浴びずにすっかり眠りこけたのだった。
入学準備1//終