この一球は、絶対無二の一球なり。
されば身心を挙げて一打すべし。
この一球一打に技を磨き、体力を鍛え、精神力を養うべきなり。
この一打に、今の自己を発揮すべし。
これを庭球する心という。
福田雅之助『庭球訓』
「どうしたのさ、真田」
基礎練習のあとの試合、クールダウンしている弦一郎に、精市が話しかけてきた。
「最速試合時間、とか、連続千勝、とか言ってたのに、とてもじっくり打ってたね?」
簡単に勝てる相手だっただろ、と精市が言う通り、今回の相手は同い年で、特に上を目指しているでもない、スクールに来る目的の半分は仲のいい友だちと会うため、というような少年だった。
実際、スクール内どころか神奈川県内トップクラス、最近はもう全国レベルに片足以上を突っ込んでいる弦一郎と対峙した彼は明らかに引腰で、始まる前から、早く試合が終わってしまわないものかと思っているようだった。
以前なら、さっさとポイントを取って試合を終わらせている相手。
だが弦一郎は、そうしなかった。まず様子見と言わんばかりに相手の好きな様に打たせ、得意な打ち方などを見極めると、それを真正面から破ってみせた。
「……『庭球訓』を知っているか」
「福田雅之助の?」
知ってるけど、と、精市は首を傾げた。
彼の人は、1922年の第一回全日本テニス選手権で優勝を飾った、日本テニス史に大きく名を残す人物だ。「庭球する心」を記した『庭球訓』は、ある程度本気でテニスをしているプレイヤーなら誰もが知っている金科玉条でもある。
弦一郎も、テニスを初めて間もなく、やや古い言葉で記されたこの著書を読んだ。しかし祖父に真田の剣術の手ほどきを受けてから改めてこの『庭球訓』を読み返した時、弦一郎は初めて、その意味がきちんと理解できたような気がしたのだ。
──この一球は、絶対無二の一球なり。
──されば身心を挙げて一打すべし。
かの金言は、そんな言葉から始まる。
そして祖父が言ったこともまた、これと通じる、と、弦一郎は思った。
──この一球一打に技を磨き、体力を鍛え、精神力を養うべきなり。
──この一打に、今の自己を発揮すべし。
(……これを、庭球する心、という)
心のなかで、弦一郎は暗唱する。
「初心に戻って、それを実行してみようと思っただけだ」
弦一郎はそっけなく言い、水分補給のドリンクを一口飲んだ。
剣においては、その一閃を、なぜ振るったか。テニスにおいては、その一球は、何のための一球なのか。書においては、その一筆は、どのような意図の一筆であるのかを、答えられるようにならなければならない。
自分の剣とは何か、己のテニスとはどういうものか、己が表現したい字の本質とは一体何なのか、弦一郎は、責任をもって考えなければならない。
そしてそのためには、確かに、我を失ってしまってはとても成し得ない、と弦一郎は実感している。無我の境地など、以ての外である。
教えを受けた時も目から鱗が落ちたようであったが、実際に一閃、一打、一筆する度、またそれについていちいち考えを巡らす習慣をつけるようになると、自分がいかに未熟で、しかもどれだけ何も考えずに動いていたのか、弦一郎はつくづく思い知らされた。
それはとても恥ずかしい思いをすることであり、同時に、まっすぐ向きあいさえすれば、どこまでも成長できる手応えのあるものでもあった。
祖母の死を乗り越え、真田の剣術を習い、居合道を修めるようになってから、弦一郎のテニスはまた変化していた。
ただただ血反吐を吐くまでラケットを振ったり、相手を叩き潰すことしか考えていないような“なり”は潜まり、練習においては自分の力量をあらゆる角度から客観的に見ることを心がけ、試合においては、対戦相手に対してもその目を向けるようになった。
かつては試合最速時間に拘っていたこともあり、相手の弱点を速攻で叩くことを癖のようにしていた。しかし今の弦一郎は、自分に対してそうするのと同じように、相手の長所と短所をなるべく冷静に見つけ、把握し、そしてあえて長所の部分、相手が一番得意で強い所の攻略を目指すようになった。
その、まさに真っ向勝負といわんばかりのやり方には、敗北もつきまとう。相手の一番得意な所での勝負、わざわざ自らアウェーに立っての試合運びであるので、当然だ。
しかし弦一郎は一度負ければ、己の負けた原因を徹底的に矯正し、次は絶対に負けない。それは以前のような、その場その場の試合だけにこだわるのとは正反対の、先を見据えたやり方だった。
そうして弦一郎は、ひとりの選手として、確実、着実に死角を減らしていき、以前とは比べ物にならない重量感のある、揺るぎない実力をつけていっていた。
「ふぅん……?」
雰囲気の変わった弦一郎の真意がよくわからないのか、精市は目を眇めて小首を傾げた。
そしてその時、「真田」と名を呼びながら、一人の少年が二人に駆け寄ってきた。つい今しがた、弦一郎と試合をした、同い年の少年である。
「真田、ちょっといいか」
「何だ?」
弦一郎が、振り向く。
少し興奮気味な少年が弦一郎に尋ねたのは、先ほどの試合内容についてだった。あのショットはどうやったのか、なぜあそこで返せたのか、等々。
弦一郎は、彼の質問の全てに、的確に答えていった。少年が更に突っ込んで質問しても、まるで詰将棋の答えを説明するように、すらすらと解説する。──余談だが、最近、弦一郎は将棋が強くなった、と弦右衛門に言われていた。
そしてそんな弦一郎を、精市は、少し驚いたような表情で見つめていた。
「へえ、……ああ、なるほど。やられたなあ」
「納得したか」
「そりゃあ、あそこまで真正面からこてんぱんにされればな」
少年は、苦笑であるが、しかし朗らかに笑って言った。
「でも、勉強になったよ」
「そうか」
「……今まで、楽しければいいやって思ってたけど、俺ももうちょっと頑張ってみるよ」
そう言って、少年は、弦一郎に右手を差し出した。
弦一郎がきょとんとしていると、少年は、今度こそ明るく笑う。クラブに沢山友達のいる、彼らしい笑顔だった。
「試合終わったばっかりの時は、バテて動けなかったからさ」
走りこみもしなきゃなあ、と、彼は頭を掻いた。
「ありがとな、真田」
弦一郎と握手を交わし、少年は言った。
──おおきに、弦ちゃん
そう言って、嬉しそうに笑った
紅梅の顔を思い出す。
(……ああ)
六年もテニスをやっているが、テニスをやって、笑顔で礼を言われたのは、これでたったの二度目。
兄は、楽しんでテニスをすればいいと言った。弦一郎はその言葉に未だ納得できていないしする気もないが、“自分のテニス”でもって挑んだ試合でありがとうと言われるのは、悪い気はしなかった。
それに、この少年は元々、今さっき自ら言ったように、「楽しければいいや」というスタンスでテニスをしていた。テニスに打ち込み強くなることよりも、仲のいい友達と喋ったり、その延長として楽しく打ち合うことを目的としてスクールに来ていた少年、そのはずだった。
しかし、弦一郎が彼の一番得意なショットをわざわざ打たせるように仕向け、そしてそれを完膚なきまでに返し続けると、彼の顔つきは変わっていった。
負けてたまるか、といわんばかりの表情は真剣で、そしてそうなってから、彼のショットはより強烈なものとなっていったのだ。
限界を超えたショットを打ってなお負けた彼はいま、全てに納得したような、清々しい、そして僅かに悔し気な顔をして、弦一郎に握手を求め、更に礼を言った。ありがとうと、勉強になった、と。そして、もっと頑張ってみる、と。
それは弦一郎にとって、決して悪い気分ではない──、いや、とても気分のいいものだった。己のやり方が間違っていないことが証明されたような、道が開けたような心地。
「練習してくるから、また試合してくれよ」
「ああ、もちろんだ」
弦一郎が力強く笑って頷くと、少年は手を振って、コーチの所へ走っていった。どうやら、早速指導を受けるつもりらしい。
少年の後ろ姿を見送る弦一郎を見ながら、精市は、ポン、と、ラケットの上でボールを跳ねさせる。
葬儀の後、いくらかしてから、弦一郎はわざわざ精市の家までやってきて、精市に頭を下げてきた。
弦一郎と精市が喧嘩をするのはよくあることだが、いつも、どちらかが何かしたというわけでなく、ただ単にお互いにいけ好かない苛つきがくすぶってぶつかり合うだけなので、こうしてどちらかがどちらかに頭を下げるというのは、初めての事だった。
「……悪かった」
その表情は苦虫を噛み潰したようなそれで、お世辞にも悪いと思っているような顔ではなかったが、いかにも屈辱に耐えて口にした、という感じのそれに、精市はむしろ気分が良かった。
なんとも性格の悪いことであるが、立場が逆でも弦一郎とて同じ気持になるだろうことは確実。二人はこういう関係なのだ。いまさらである。
精市はにやにやしながら、頭を下げている弦一郎を鼻で笑い、言った。
「何?
梅ちゃんに、“せぇちゃんにちゃんと謝るんどすえ”とでも言われた?」
「ぐぅっ」
図星だったらしい。
潰れたような呻きを上げた弦一郎に、精市は腹を抱え、指まで指して大笑いした。
葬式での二人のやりとりは、
紅梅にとって、きっと相当険悪な様子に感じられたのだろう。確かに、一般的にも、「謝った方がいい」と言われるような様子であった、ということは、二人も一応、自覚はある。
それでも、あれは彼らにとっては当然のやりとりであって、わざわざ頭を下げるまでのことではないし、精市も別に、謝れとも思っていなかった。
だがしかし、弦一郎は、彼女に言われて、天敵ともいえる精市に、わざわざ頭を下げに来た。
──あの真田弦一郎が、女の子に言われて、自分に頭を下げに来た!
玄関先でうずくまり、涙を流してひいひい笑っている精市を、弦一郎は今にも蹴り飛ばしたそうな顔をしていたが、ぎりぎりと歯を食いしばって耐えた。
そして、これにて、弦一郎と精市は、すっかり元の通りになったのだった。
二人の間に、読まなければいけない空気とか、繊細な気遣いとか、そういう柔らかい物は元々、一切ない。
ぶつかり合いたい時は血みどろになるまでぶつかり合って、言いたいことを言い合って、それでも気が済まないなら倒れるまでテニスをして、それで終いである。簡単なものだ。
弦一郎の手の怪我は、きちんと病院で処置してもらったところ、一ヶ月もすれば万全の状態になる、と言われたが、結局三週間で元に戻り、告知されていた一ヶ月目には、すっかり元の通りにラケットを振っていた。
どころか、折れたりひびが入ったりしたところが自己修復され、前より頑丈になったらしく、握力も上がった、というのを聞いて、誰もがいっそ呆れた。
そしてこの頑丈さこそが、弦一郎の最大の武器なのだった。
弦一郎は、何に関してもある程度うまくやれるが、きらりと光るだけの特別なものはない。神の子とまで言われる精市とは、比べるべくもない。
だが弦一郎は、常軌を逸するまでの壮絶な努力ができる精神力を持ち、また、それに耐えうる、真田家の鉄人遺伝子が作った、信じられないほど頑強な肉体の持ち主だった。
弦一郎は、精市のような類まれな才能も、センスもない。
だが弦一郎は、いくらでも努力が出来る。血反吐を吐くまで練習しても、翌日にはけろりとして起き上がってこれる鉄の肉体と、屈強とただ表現するにも生ぬるい、もはや人間離れした精神力の持ち主であるがゆえに。
真田弦一郎が真田弦一郎である限り、彼は努力し続ける。そしてその分、確実に、そして際限なく強くなるのだ。
“故障知らず”であり、“屈強なメンタル”の持ち主。
これが、アスリートにとって、どれほどのことか。
口に出したことはないが、神の子と呼ばれる精市にとってさえ、弦一郎のこれは、充分に脅威なことだった。
精市には測り知れぬほどの才能という圧倒的なアドバンテージがあるが、それに驕ってばかりでは、いつか必ず弦一郎に追いつかれる。
見えないほどの高みに君臨する精市の存在があるからこそ、弦一郎が想像を絶する努力をやめないように、精市もまた、常に弦一郎が石に齧りつくようにして追ってくるからこそ、己の才能に胡座をかくことがない。
容姿、あらゆる好み、性格、何もかもが正反対の二人だが、二人に同じものがあるとすればそれは、狂気にも近い負けず嫌いだ、ということだ。
まだ小学生で、ただ我武者羅である二人としては、ただ負けず嫌いな心のままに、力いっぱい遠慮なしにやりあっているだけ、ではある。
だがそれはこの上ない“高め合い”であり、また、そのやり合い自体が大人顔負けに苛烈であるゆえに、有象無象を自覚なく蹴り落とし、二人は日本の小学生ジュニアテニス界に留まらぬほど名が知られはじめ、どんどん突出してきている。
よって、今までは精市ばかりが注目されていたところ、それに肩を並べかねない存在として、弦一郎はだんだんと認められ始めている。
何しろ、弦一郎は、精市以外には負けないのだ。それに気付かれると、注目はすぐに集まった。
──龍と虎。そうなるかもしれぬ、と。
虎はどうやっても龍のように空は飛べぬが、地上では最強である。
そしてこのまま険しい山を登りきり、雲を抜ければ、いつか天空の龍をその爪で引きずり下ろす時が来るのでは、と、だんだんと期待され始めてきたのである。
当事者である精市も、佐和子の葬儀から、また竹刀での剣道だけでなく、真剣を使う、真田家独自の剣術をやり始めたという頃から、弦一郎のテニスが、少し変わった。──と、確かに感じてきている。
それは、なにが変わったというより、今から何か大きく変化する、予兆のような感覚だった。幼虫が蛹になったが、どんな姿で羽化するのかはわからない、そんな風な。
弦一郎自身もそれを感じていて、模索しているのだろう。
さて、鬼が出るか、蛇が出るか。それとも周囲が期待しているように、龍を引きずり下ろしかねない爪を持つ、猛虎が出るか。
──この一打に、今の自己を発揮すべし。
──これを、庭球する心、という。
精市は、さきほど弦一郎が言った『庭球訓』を、頭のなかで諳んじた。
(……俺のテニスは)
勝つことだ。
精市は、相変わらずぶれなく、断言した。
テニスの神の子と言われ、全く練習しなくても、そこらの有象無象では歯も立たぬ、圧倒的な、人に絶望感すら与える、比類なき才能。
それを持っているからこそ、周囲は精市が負けることを許さない。期待している者、嫉妬している者、絶望した者、すべてが。
──そして何より精市自身が、負けることを許さない。
高みに君臨する自分の役目は、這い上がってくる者たちを一人残らず叩き落とし、完膚なきまでに潰すこと。
対戦した相手が、もう二度とテニスをしたくないと思うほどの圧倒的な実力を見せつけ、そうやって高みにあり続けることが自分のテニスだと、精市は確信していた。
弦一郎のように、叩き落としても叩き落としても這い上がってくるのもたまにいるが、自分も、何度でも同じようにするだけだと。
──龍が、天から堕ちることはない。だからこそ龍なのだから。
つう、と、ヘアバンドが吸い込みきれなかった汗が、精市のこめかみを伝う。
「ああ、……もうそろそろ、夏だな」
空は、抜けるような青。
ポォンと跳ねさせた、テニスボールの黄色が、鮮やかに映えた。