心に邪見なき時は人を育てる
(八)
 紅梅との手紙のやり取りは再開したものの、祖母が亡くなった今、彼女が年に一回真田家に来ることはなくなってしまうのだろうか──、という弦一郎の心配は、杞憂に終わった。

 なにしろ紅梅も紅椿も、亡き佐和子にとって、いや、真田家全員にとっての恩人である。
『花さと』自体には出入り禁止を食らっているため連絡をとるのもためらうが、直接世話になった二人には、いやせめて紅梅をもてなし出迎えることはさせて欲しい、と、弦右衛門を筆頭に、全員が、葬式の時に頼み込んでいたのだった。



 よって、例年通り、夏。
 紅梅は真田家にやってくることになった。

 来訪予定の日、紅梅の到着を今か今かとそわそわ待っていた弦一郎は、玄関の大きな門が、昔ながらの防犯も兼ねて大きく軋む音に、飛び上がった勢いそのままに玄関へ走った──、が。

「おぉや、お久しぶりやなあ、ぼん

 玄関先に立っていた、日傘の下でにやりと笑う老魔女に、蛇に睨まれた蛙よろしく、びしりと背筋を凍らすはめになった。
 すぐ横で、相変わらず和服姿の紅梅が、花が咲くような笑顔で「弦ちゃん、お久しゅう」と言っているが、弦一郎は硬い声で「お久しぶりでございます……」と、固っ苦しい敬語で返しただけである。

 それほど、清姫のインパクトと、金切り、指切りの約束のトラウマは、弦一郎に、なかなか重くのしかかっていたのだった。そうでなくとも、相手は天下の人間国宝である。緊張しないほうがおかしいというものだ。
 しかも紅椿は、なぜか、弦一郎を見て、いかにも意地悪く、面白がるように、蛇のごとくにやにやしている。弦一郎は、暑さのせいではない冷や汗をだらだら流しながら、玄関先で硬直することしかできない。

 遅れて弦右衛門がやってきて、お待ちしておりました、と出迎えたのが、天の助けのように感じられた。
 しかし、それも束の間。あろうことか、葬式以外では一度も家に上がったことのない紅椿が、悠々と玄関に入っていったので、弦一郎はぽかんと口を開けて、また突っ立ったままになる。

 しかも紅椿は、紅梅と一緒になってさんざん佐助と遊んだ後、昼食の素麺まで食べていった。

 人間国宝が。
 うちで。
 ──そうめんを。

 何だこの状況、と思いつつ、弦一郎もまた素麺と、義姉の由利が山ほど揚げた天ぷらを、無心で食べた。
 紅椿は由利のことを「ええ嫁はんやねえ」と褒め、弦一郎に「よぅ食べる子やなあ」と、褒めているのかなんなのかよくわからないことを言った。
 そしてそういう紅椿の食事の所作といったら、もう何をどうやっているのかよくわからないくらい美しい。
 箸先一センチしか濡らさないというのはああいうものか、と、全体的にいちいち雄々しい真田家一同感心し、そして、お行儀はとてもいいが、まだ紅椿ほど洗練されていない紅梅が天ぷらとそうめんを美味しそうに食べる様を、微笑ましく見守った。

 そういえば、さっき並んだ時、紅梅の背丈は、自分より少し低かった、と、弦一郎はふと思い出す。
 佐和子の葬式の時は同じくらいか、もしかしたら紅梅のほうが僅かに高かったかもしれないのだが、会わない間に追い越したらしい。
 そのことに、弦一郎は、人知れず、ひそかにほっと息をついた。



 そして昼食を食べ終わった後、紅梅と弦一郎は、揃って部屋から追い出された。

 どうしてかはわからないが、大人の話をする時に子供が追い出されるのは、よくあることである。
 それに、佐助を抱っこした由利は、二人と一緒についてきてくれた。紅梅は佐助を抱っこしたり、あーうーと意味不明な喃語に適当な返事をしたりしてずっとにこにこしていたので、むしろ追い出されたほうが、彼女的には良かったようだ。
 そして由利も、いかにも女の子、といった風な紅梅をずっとにこにこ眺めていて、とても機嫌が良さそうだ。
 佐助もあまり人見知りをしないので、紅梅に構われても、いつもどおりやんちゃに手足をばたばたさせて暴れている。

 そういうわけで、尻の据わりの悪い思いをしているのは、弦一郎だけであった。

 昨年のこと、そして家族が一丸となって紅梅をもてなそうとしていることもあり、弦一郎もまた紅梅とどう過ごすかずっと考えていたのだが、紅椿が家に上がってきたことが予想外すぎて、完全に出鼻をくじかれてしまっていた。

 ややして、佐助が眠くてぐずり始め、由利が立ち上がって、寝かしつけに別室へ行く。それを機に、弦一郎は、今ぞ、と、由利を見送る紅梅に話しかけた。

「──紅梅。……テニスをしよう」

 紅梅が、振り向く。そして満面の笑みで、「うん」と言った。
 その返事を聞いて、弦一郎も笑みを浮かべ、いよいよといった風に立ち上がる。
「よし。行くぞ」
「お庭? うん、先に着替えて──」
「いや、庭ではない」
 弦一郎は、よくぞ聞いた、とでもいうような、満を持した、というのが相応しいような笑みを見せた。

「──テニスコートに行こう」

 真田家の中で誰よりも、できうる限り紅梅に楽しい思いをしていってほしいと思っているのは、弦一郎である。
 誰かを楽しませたい、喜ばせたいと、弦一郎がここまではっきり意識したのは初めてのことで、彼は祖母の葬式以来、誇張なくずっと、一生懸命にそのことを考えていた。

 そして弦一郎が思いついたのは、テレビもようよう見れない環境ゆえ、テニスの試合を映像ですら見たことがない紅梅を、本物のテニスコートに連れて行き、そこでテニスをする事だった。

 土庭に枝で線を引き、ゴム紐を張った小さなスペースで行うテニスのような遊びではなく、きちんと整備されたテニスコートで、ネットを挟んで、ちゃんとした『テニス』を体験してもらいたい、と思ったのだ。

 弦一郎が通うテニススクールは本格志向で厳しいところだが、体験希望者も常に受け入れている。
 そこいらにはすぐストリートテニス場も乱立しているのでそこでもいいのだが、会員──この場合は弦一郎だが──の紹介、同伴で向かえば、空いているコートをすぐ使えるし、テニスシューズやラケットの貸出も、初回のみ無料で行っているので、紅梅にはうってつけなのではないだろうか、と弦一郎は考えたのだ。
 そしてそれを弦一郎が説明し終わると、紅梅はぽかんと口を開けた。目も口も、真ん丸になっている。

「……ほんま? テニスコート? ほんまのテニスコート?」
「うむ」

 弦一郎が頷くと、紅梅は頬をりんごのように赤くし、次いできらきらと目を輝かせ、ぱああああ、とでも効果音の付きそうな笑顔を浮かべる。そして、

「行く!」

 と、ずいぶん興奮した様子で言った。
 ここまで喜んでもらえるなら、頭をひねって提案した甲斐があるというものである。弦一郎もまた、にまにまと歪む口の端を抑えつつ頷いた。

「ほな、また袴貸しとくれやすか?」
「構わないが、……やはり洋服はだめか?」
 紅梅は和服の動きを洗練させる修練として、『花さと』の女将と、「和服しか着ない」という約束事をしている。そのため学校も和服で行っているし、唯一体育での体操着だけは免除されているそうだが、それ以外は一切ない。
 体操着以外の洋服を着たのは、佐和子の葬式で着ていたワンピースが最初で最後だと聞いて、弦一郎はほんとうに驚いた。徹底的である。

 常に身に纏っているだけあって、紅梅が和服でもずいぶん動けることは知っているが、それでも、テニスウェアではなくてもティーシャツに短パンとか、ジャージのほうが、思う存分テニスができるのは確かだ。
 テニスをするのにふさわしい格好を、というのではなく、ただ紅梅に最大限までテニスを楽しんでほしい気持ちから弦一郎は遠慮がちに言ったが、紅梅は当然のように首を横に振った。
「うん。そのほうが動きやすいんはわかっとぉけど、……お母はんと約束してしもたし。決まりやから」
 そう言われてしまえば、もう何も言えない。

 弦一郎も、人一倍、規則の類を守る質だ。しかも、自分の面倒を見てくれている目上の人間との約束事なら、なおさら、絶対に守らなければならないと思っている。
 だから弦一郎はそれ以上無理強いすることなく、ただ「そうか」と頷いた。
 決まりならば、仕方がない。それでテニスを目一杯楽しめないかもしれないというのは、少し残念ではあるが。

 むっつりと黙ってしまった弦一郎に、気分を害したと思ったのか、紅梅が少し首を傾げ、苦笑を浮かべて言った。
「堪忍な? やっぱり、変に見られるやろか」
「いや、それはいいのだが──」
 そこまで言って、弦一郎は一拍黙る。そして次に、何かはっとした顔をした。
「ちょっと待っていろ」
 と言い置き、弦一郎が、あっという間に部屋を出て行く。

 いきなり置いて行かれて手持ち無沙汰になった紅梅は、部屋に飾ってある、鮭が熊に噛み付いている珍妙な木彫の置物を眺めたりしていたが、そう時間も経たぬうち、弦一郎が戻ってきた。

 そして、開いた襖の向こうに立っている弦一郎の姿に、紅梅はきょとんとする。
 ──弦一郎は、剣道着姿だった。

「道着なら、和服の一種だし、運動するための服装だから、まだいいだろう?」

 そう言って、紅梅の分の道着を差し出す。
 暑いだの重いだの言われる剣道着だが、れっきとした、日本伝統のスポーツウェアの一種である。少なくとも、普通の夏用の着物に袴をつけるよりは、はるかに機能的といえるだろう、と彼は考えたのだった。

 紅梅はまだ少し戸惑った顔のまま、しかし少し頬を紅潮させて、刺し子のされた白い上着と、紺色の袴を受け取る。
 弦一郎が着ているのは居合の稽古を受ける時の黒の上着で、紅梅に渡したのは、“剣道”の稽古を受けるときに主に着るスペアだった。袴は同じ紺色である。
 紅梅は、ちらちらと、自分の手の中の剣道着と、目の前に立っている弦一郎を見た。

「……なんで弦ちゃんも剣道着なん?」

 自分はともかく、弦一郎がわざわざ剣道着を着る必要はない。
 動きやすいティーシャツ短パンなり、ウェアなり、いくらでもあるだろうに、なぜ弦一郎までその格好をしているのだ──と首を傾げる紅梅に、弦一郎は、きっぱりと言った。

「俺も着ていけば、恥ずかしくもなかろう。我慢してくれ」

 紅梅は、またぽかんとして、そしてすぐに、嬉しそうに笑った。
 どうやら彼は、「変に見られるやろか」という紅梅の発言を、変わった格好で行くのは恥ずかしい、みっともないことかしら、と懸念するような意味にとったらしい。そして、それを解消するために、同じ格好をしてきたと。
 実際は、我慢も何も、紅梅は今の着物に袴という、もっと変わった格好で行く気満々だったので、弦一郎の気遣いはまったく方向違いのものだ。

「ふひゃ」

 だが紅梅は、満面の笑みで珍妙な笑い声を上げると、一層にこにこして、「ほな、着替える」と言い、剣道着を抱えなおした。
 その様子のどこにも、恥ずかしいとかみっともないとか、気が進まないとか、そういう感じが全く無いので、弦一郎も「うむ」と満足気に頷く。
 そして「ラケットを取ってくるので、その間に着替えろ」と言って踵を返した弦一郎の背中に、紅梅は言った。

「──おおきに、弦ちゃん」

 それに、弦一郎もまた少し赤い顔で振り向くと、「うむ」と頷いて、襖を閉めた。



 下は肌襦袢だけで刺し子の剣道着を着ると、紅梅は「えろぅ涼しいなぁ、動きやすいし」と満足気だった。
 剣道着は、洋服に慣れた者には生地が厚く、重く、袖や裾が大きいために暑く感じられ、動く上でも持て余し気味になりがちだ。
 しかし日頃から真夏でもきっちり和服を着ている紅梅には、裾を気にしなくても良い袴や、ひらひらしない筒状の袖、厚いが総木綿、更に通気の良い刺し子が施された剣道着は、非常に過ごしやすいものであったらしい。

 弦一郎は自分の選択が間違っていなかったようであることに満足し、佐助を寝かしつけている由利に出かけることをそっと告げると、タオルやラケット、少々の金銭の入った財布を持って、紅梅と一緒に外に出た。
 弦一郎は祖父から貰った黒い帽子をかぶり、紅梅は日傘を差している。そして、片や黒、片や白の上着に、同じ紺の袴という、剣道着姿。

 ──紅梅と二人だけで外に出るのは、初めてだ。



 日本の中でも、神奈川はテニスに力を入れている県といわれる。
 少し山側に行けばたくさん土地が余っているのもあって、テニスコート、ゴルフ場などが多いのだ。フリーやワンコインのストリートテニス場なども、割とそこかしこにある。

 弦一郎の通っているテニススクールは、電車で二駅、ちょうど真田家と幸村家の真ん中くらいのところにある。
 電車の中でも、剣道着姿であるのにラケットバッグを持った二人はそれなりに注目を集めたが、二人はまったく気にしなかった。
 紅梅はずっとにこにこしていて、弦一郎が確認がてら出すテニスのルールクイズに、一生懸命答えていた。聞けば、テニスのルールブックや『月刊プロテニス』をお小遣いでこっそり買っているそうだ。

 実際にラケットを振ることもなく、テレビで試合を見ることもままないのにもかかわらず、そうしてテニスを知ろうとする紅梅の姿が弦一郎には好ましかったし、これはなんとしてでもテニスを楽しんでもらわねば、という気になった。

 スクールに着けば、顔見知りのスタッフは剣道着姿の二人に目を丸くしたものの、弦一郎の家が剣術道場で、本人も剣道をやっているのは、スクール内の者なら、割と誰でも知っていることだ。
 この時も、「真田君、午前中は剣道? そっちは道場の子かな」と言われただけである。ただ、弦一郎が体験者を、しかも女の子を連れてきたというのが相当珍しく思われたようで、わざわざ奥のスタッフルームから数人コーチが出てきて、興味深そうに二人をまじまじ見ていった。

 このままテニスをすると言っても、シューズさえちゃんとしていれば問題ない、と、あっさり受け付けは終了した。
 そして、体験者用のレンタルシューズを履き、弦一郎の予備のラケットを握りしめた紅梅を連れて、室内コートに入る。

「わああ」

 館内にずらりと並んだ緑のコートに、紅梅が歓声を上げる。
 頬を紅潮させ、目を輝かせ、しばらくきょろきょろしてから、「これ、全部テニスコート?」と見ればわかることを興奮気味に言ったので、弦一郎は笑いを堪えながら、「そうだ」と頷いた。

 熱射病予防や防犯上の理由から、室内コートには年少者が優先的に通されることになっているため、居るのは小学生以下の子供ばかりである。
 天井から吊り下げられたネットに囲われた端には、就学前の小さな子供がスポンジボールでテニスをするための、小さいコートもある。今も、保護者に付き添われた幼稚園生ぐらいの子供が、よちよち歩きながら、飛んでくるボールを手当たり次第に叩き落としていた。
 もちろん、テニスも何もあったものではない拙い様だが、本人たちは楽しそうで、保護者やコーチもにこにこしている。

 弦一郎は早々にここを卒業し、正式な大会に出場し始めた四年生からは、完全に中高生や大人に混じって外のコートのみを走り回っているので、室内コートに入るのは久々だった。
 紅梅は、自分と同じくらいの子どもたちがボールを打ち合っているのを、とても珍しいものを見るように眺めている。
 そして、「テニスしとる」と、また、見ればわかるどころか、当たり前のことを言う。相当興奮しているのだということは、弦一郎にもわかった。思わずはっきり笑って「うむ」と返事をすれば、やっと自分が少し頓珍漢なことを言っていることに気付いたのか、紅梅は恥ずかしそうにはにかんだ。

 二人は割り振られた一番端のコートにつき、さっそく打ち合う。

 土庭に引いたコートより広く、ラインがまっすぐな正規のコートに紅梅は最初戸惑っていたが、弦一郎のにわかコーチングを糞真面目に聞き、すぐ感覚を掴んだようだった。
 さすがの運動神経である、と弦一郎も感心した。だが握力や腕力は弦一郎と比べるまでもなく、例えばネット際にいても、弦一郎側のコートの端に強いスマッシュを打ったりすることはできない。

 しかしそれはしかたのないことだし、今回、自分たちはテニスを強くなるためにここに来たのではない。

 ──テニスを楽しみに来たのだ。

 だから二人は、例年通り、何回ラリーが続けられるかという“遊び”を始めた。
 年に一度しかテニスをしない──いやできない紅梅には、これぐらいがちょうどよかったし、初めてのテニスコートにはしゃいでいる彼女には、代わり映えのしない単調な遊びでも充分楽しいというのは、その笑顔を見れば明らかだった。

 剣道着姿のまま、それにしてはやけに器用にラリーを続ける二人は、なかなか注目を浴びていた。
 しかし紅梅があまりに楽しそうで、また明らかに上級者とわかる弦一郎が彼女に対して上手いこと手加減をしてラリーを続けさせているさまに、テニスを愛する人々はそれに微笑みこそすれ、怪訝な顔をする者など一人もいない。

 そして、一旦水分補給をした頃。

「試合をしてみるか」

 と、弦一郎は提案した。
 紅梅は「弦ちゃんに勝てるわけあらへん」と、いっそきょとんとして首をひねったが、ただルールを適応させて打ってみるだけ、というような具合で行うことを提案し、もちろん手加減することをほのめかせば、それなら、と乗り気で頷いた。

「ラケット回すの、やってもええ?」

 もちろん、弦一郎は頷いた。
 ラケットを回すだけの事のなにがそこまで楽しいのかはよくわからないが、紅梅がいいならそれで良い。弦一郎は今日、彼女を楽しませ、喜ばせるためだけにここにいるのだから、それ以上のことなど何もなかった。

 そしてネットを挟んで再度コートに入り、うきうきした顔で、紅梅がラケットを回そうとした、その時だった。

「──おい。遊んでるんなら退けよ」

 低い、ガラの悪い声に振り向けば、そこには、あきらかに中学生と思しき、しかもややだらしない格好をした数人の少年たちが、にやにやと笑いながら立っていた。
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BY 餡子郎
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