心に邪見なき時は人を育てる
(九)
「断る。俺達は、受付できちんと時間を申請した。退く必要はない」

 弦一郎は、リーダー格と思しき中央の少年の目をまっすぐ見て、はっきり言った。
 全くもって“びびって”いない弦一郎の態度に、少年たちが、一瞬目を丸くする。
 しかし、すぐさま気に入らなさそうな顔になり、次いで、五人全員が、嗜虐的なにやにや笑いになった。

「生意気だな。俺ら中三だけど、お前、年下だろ?」
「年下なら何だ。それに、コートなら他にも空いているだろう」

 そう言って他のコートを見渡した弦一郎は、いつの間にか、ほとんど人がいなくなっていることに気がついた。
 端にいた幼児クラスはコーチごといなくなっているし、他の子供達も、ずいぶん少なくなっている。
 その代わり、いま眼の前にいる少年たちと似たような雰囲気の少年らが、ぎゃははと笑い声を上げながら、ボールをでたらめに打ち合ったり、コートをセーブしておきながらベンチでカードゲームをしていたり、お菓子を食べたりしていた。

 それにしても、中学生のクラスの者なら基本的に外のコートを使うはずだし、弦一郎も一度は見た顔の者ばかりのはずだ。
 しかし、弦一郎が顔を知っているのはこのリーダー格の少年とその回りにいる者達だけで、他は部外者のようだ。紅梅と同じ、レンタルシューズを履いている。
 おそらく、紅梅が弦一郎の紹介でここにいるように、この少年らの紹介で入ってきたのだろう。だが、まともにテニスをしようとしている者は、誰一人いない。

 出入口に目線を移せば、弦一郎と同い年ぐらいの少女たちが、こちらを気にするように目線を送りながら、こそこそと練習場から出て行ったのが見えた。

 不覚、と、弦一郎は眉をしかめる。
 リーダー格の少年は標準より縦も横も若干大柄で、いかにも「柄が悪いです」「体格に物を言わせています」と言って回っているような風貌だ。周りの少年たちも、体格こそ様々ながら、同じ系統である。
 紅梅と打ち合うのに夢中になっていて、この状況に気づくのが遅れた。今からコーチを呼びに行ってもいいが──

「外はあっちーからなァ」
「俺達は、ここがいいんだよ。わかるだろ?」
「つーか何? その格好」
「テニスをする時は、動きやすい適切な格好でプレイしましょう〜」

 壁に貼られた注意書きを誰かがおどけた口調で読み上げ、げらげらげら、と、下品な笑い声が響く。
 弦一郎は一層眉を顰め、紅梅はどうしていいのかわからず、その後ろでラケットを握りしめ、困った顔をしている。

「動くのには支障ない。関係ないだろう」
「うるっせえなァ! 下手な奴が端っこで遊んでると目障りなんだよ! とっとと失せろ!」

 リーダー格の少年が、ドン、と弦一郎の肩を押した、というよりは、突いた──つもりだった。
 傍目からは明らかにそのように見え、紅梅が「ひゃっ」と声を上げたが、当の少年は、自分の手が受けた衝撃に、人知れず若干戸惑う。
(なんだ、こいつ)
 突き倒すつもりで、そうでなくても盛大によろけるくらいはさせるつもりで打ったというのに、手に受けたのは、まるで、根を張った木を押したような感触だった。
 実際、弦一郎は衝撃で体を揺らしはしたものの、床を踏みしめた足は少しも動いていない。しかも、ドンと押されたその瞬間すら、まっすぐに、ぎろりと少年の目を睨み続けていた。

「やめて」

 少年たちの、げらげら、げたげたと下品な声と正反対の、鈴を転がすような声が、すっと響いた。
 決して大きくないのにりんと響く、魔法の呪文のような、不思議な印象の声は、弦一郎にも聞き覚えがある。そしてその声を紅梅が出したことで、弦一郎は、彼女が確かに“あの”紅椿の孫娘であるのだということを、改めて認識した。
 そして、その魔力の篭ったような声に、弦一郎はおろか、少年たちでさえ、シンと黙って注目する。
 紅梅はきゅっと眉を寄せ、苦々しい、そして心の底から不快そうな顔で、はっきり言った。

「暴力、振るわんとって。弦ちゃんがケガしたら、うち、許さへんから」
「……アァ?」
 きっ、と恐れ気なく睨んで言った紅梅に、少年たちが凶悪に眉をしかめる。

紅梅

 しかし弦一郎はといえば、そんな彼らを完全に無視し、あっさり背を向け、言った。

「大丈夫だ。強い力ではなかったからな」
「ほんま? どうもおへん?」
 紅梅が心配そうに言うと、弦一郎は微笑みすらして、うむ、と頷いた。
「全くなんともない。びくともしていないぞ」
「──ふざけんなよ!」

 リーダー格の少年が、どら声を張り上げた。
 しかし、その声に二人はびくつくどころか、ただきょとんとしている。
 そのリアクションに、弦一郎を突き倒すつもりだった少年はもちろんのこと、取り巻きの少年たちも、面白がるようなにやにや笑いより、どうにかしてやろうという攻撃的な色合いのほうを濃くしてきた。

 わかりやすいほどに見た目どおりの性質を持つ少年らにとって、二人が全く“びびらない”ことは、ちっぽけながらたいへん沽券に関わることだ。
 いや、もしかしたら、自分たちより年下だろうに、揃いの格好の女の子と二人で楽しそうにテニスをしていた上、庇われ、それに微笑み返した弦一郎が、単に気に食わなかっただけかもしれないが。

 ちなみに、彼らはリーダーの少年を含めだいたい中学三年生で、弦一郎のことは、中学二年か一年生だろうと思っている。
 更には紅梅も、弦一郎ほどではないにしろ、大人っぽい方ではある。それに、彼女が属する世界特有の年齢不詳な雰囲気がはたらいて、一緒にいる弦一郎と同じかひとつ下ぐらいだろう、程度に思われていた。
 ──まあ、二人共、そんなふうに思われていることなど知る由もないし、彼らが小学五年生であることを知られたところで、対応が変わっていたとも思えないが。

「何もふざけていないが」
「黙れ! おとなしく退いてりゃあ良かったのに、気が変わったぜ。おまえら──」
「そうか。俺も気が変わった」
「……は?」

 少年たちが、怪訝な顔をした。
 目を逸らしたほうがまず負け、という、喧嘩における動物じみた様式美を守ってずっとこちらを睨み続けていた弦一郎が、先ほどまでとは打って変わって、なんだか淡々とした対応になったからだ。

「こんな事でやりあうのも馬鹿馬鹿しい。わかった。退くから勝手にしてくれ」

 いつもなら、全力で高く買っている喧嘩だ、ということは、弦一郎にも自覚がある。
 実年齢よりいくらも上に見え、いかにも喧嘩の強そうな風貌だからか、弦一郎がこういう輩に絡まれて喧嘩になったことは、今までにもある。
 しかも、一度や二度ではない。そのたびに弦一郎はもれなくその喧嘩を買い、血みどろになろうとも勝ち続けてきた。
 真田家のとても厳しい鉄血教育でずいぶん矯正されているものの、本来、弦一郎は、獣じみていると言えるほどの闘争心の持ち主である。それゆえ、こうしてあからさまに柄悪く喧嘩を売られれば、もはや条件反射で即買してしまう。

 しかし紅梅が自分のために前に出ようとしたことで、弦一郎は、自分でも驚くほど、すっと冷静になった。

 そして冷えた頭は、こうまでマナーの悪いコートの使い方をしていることをコーチに報告すれば、すぐにでも彼らが追い出されるだろうこと、彼らを招き入れたリーダー格の少年は厳重注意ではすまないだろうこと、そしてこんな頭の悪いことをする輩とわざわざ関わり合いになるのも馬鹿らしいということを、淡々と判断させた。
 それに、彼らの雰囲気を恐れて自主的に出て行ってしまった子たちが報告しても注意程度になってしまうかもしれないが、弦一郎たちははっきり、理不尽な理由で恫喝されている。これがばれれば、注意どころか、何らかの罰則を喰らうか、少なくとも、保護者に連絡くらいは行くだろう。

 そして、仮にいつもの様に取っ組み合いの喧嘩になれば、喧嘩両成敗、後で弦一郎も何らかのお咎めを受けるのは、もう何度も経験済みだ。
 喧嘩に勝つこと自体には自信があるが、彼らのこの柄の悪さなら、紅梅にも暴力を振るう可能性は高い。それを防ぎながらというのは少し苦しいし、何よりそれは、弦一郎が怪我をしないよう、前に出てくれようとまでした彼女に申し訳ない展開だ。

 ならばここは一旦折れ、さっさと出て行って、このことをコーチに報告するのが、間違いなく上策。
 コーチが彼らに雷を落とし終わるまで、二人で適当に休憩するなり、紅梅に外のコートを案内するなりして時間を潰し、またここに戻ってくればいい。
 紅梅に少しでも楽しんでもらおうと思って来たのに、こんな奴らに邪魔されたのは非常に癪だが、こちらが同じ土俵に上がってしまっては本末転倒。

 ──こんな奴らの相手をするなど、まったくもって時間の無駄だ。

 はっきりそう確信した弦一郎の心は、ひどく凪いでいた。
 そして先程まで彼らに抱いていた炎のような気持ちはまるで温度を無くし、完全なる無関心へと移行しつつある。

「──紅梅、行こう」
「へぇ、だいじおへん」
 紅梅もあっさり頷いて、ベンチに置いているドリンクやタオルを取りに向かおうとした。──が。

「待てや、コラァ!!」

 少年の声が、室内練習場に響いた。
 先ほどまでの単なる大声と違い、“切れた”ことがありありと分かるその声に、仲間の少年たちも残らず彼に目を向ける。

 ぎらぎらと真正面から睨みつける先ほどまでの弦一郎の態度も、たいそう生意気ととれるものではある。しかし、弦一郎が今回最良と思ってとった行動は、皮肉にも、それをはるかに上回る行為に映った。
 自分たちを取るに足らない小物とみなし、無視に近い扱いをしたというのは、彼らにとって、完全に琴線に触れるどころか、思い切りぶっちぎるに余りある行為だったのだ。

「クソガキが! 馬鹿にしてんのか!?」

 馬鹿にしているかしていないかといえば、もちろん、これ以上ないほどしている。
 弦一郎は無言だったが、うんざりした顔が、その思いをこれ以上ないほど表現してしまっていたらしい。まさにキレやすい若者といった風貌の少年のこめかみから、更にぶちぶちと音がしたような気がした。

「行こう、紅梅
「へぇ」
「待てっつってんだろうが!」

 無視してさっさと行こうとする二人の進路を、取り巻きの少年たちが阻む。

「……何なんだ。出て行けと言うから出ていこうというのに」
「うるっせえんだよ! クソガキが!」

 実に語彙の乏しい罵声に、弦一郎が、尚一層うんざり顔になる。並んで立っている紅梅も、非常に残念なものを見る目で少年を見ていた。

 さもあらん、学校の勉強を毎日まじめに予習復習し、別件で英語、日舞の理解のために古国語も手を抜かず学び、古都で風流そのものの暮らしをしている紅梅と、ベクトルは違うものの伝統的な武家文化の色濃い家に生まれ育ち、同じようにまじめに勉強している弦一郎。そしてそのお互いの文化を交換するような文通を、もう三年も続けている二人である。
 そんな彼らにとって、見るからに勉強が嫌いそうで、活字よりも漫画雑誌を好みそうな少年たちの罵声は、ワンパターンすぎて、幼児の癇癪レベルでしかなかった。
 いや、本当に幼児なら可愛げもあるが、見た目が“こう”なだけに、たちが悪い以外の何物でもない。もっとはっきり言えば、すさまじく滑稽で、情けない。

「……言っておくが、ここで騒げば、すぐにコーチが飛んでくるぞ」

 暗に喧嘩をするつもりがないことを言えば、少年は、にやりと悪どい笑みを浮かべた。
「ええ? 騒いだりなんかしねえよ。そんな、そんな」
 先ほどまで怒鳴り声を上げていた口で言うか、と弦一郎は呆れたが、黙っておく。
「ここはテニスコートだぜ? よりテニスが強い奴が使うのが有意義に決まってるだろ? なあ?」
 そう言って、取り巻きの少年らを見渡すと、彼らは総じて型を押したように同じにやにや顔になった。
 意図がつかめず怪訝な顔をする二人に、リーダー格の少年は言った。

「テニスで決着つけようや? お前が勝ったら、出て行かなくてもいいぜ」
「いや、だから、出て行くからいらんと言っているだろう」
「うるせぇ黙れ!」

 完全に白けた顔で言った弦一郎に、少年がワンパターンな怒声を上げる。
 相変わらずの語彙の残念さに、弦一郎と紅梅の表情は、怒るでもなく、怖がるでもなく、そして冷ややかでもなく、もうひたすら面倒くさそうなものになりつつあった。
 怒り狂った猿でも、もう少し話が通じるような気がする。──と、弦一郎は内心で悪態をつく。

 そんな二人に少年は再度ぴきぴきと青筋を増やしたが、一度ふっと息をつくと、挑発的な顔をして、ふんぞり返って言った。

「ま、気持ちはわかるぜ? 女とゆる〜いラリーしかできねえような奴が、俺達に勝てるわけねえもんなあ?」
「……あぁ?」

 安い挑発である、と判断するだけの冷静さはあるが、その言い方と、鼻の穴を膨らませた少年の表情が生理的にむかついて、弦一郎は顔を顰める。
 すると乗ってきたと思ったのか、少年は尚一層口角を吊り上げた。
「安心しろよ、手加減してやっから」
「……はあ…………」
 もう話が通じないことを諦め、弦一郎は心底面倒くさそうな溜息をつく。

「……ああ、わかった。試合をすればいいんだな?」
「やっと理解できたか?」
「ああ、ああ、わかったわかった」
 したり顔の少年に、弦一郎は、ひらひらと虫を追い払うような仕草をした。少年の青筋が更に増えるが、弦一郎はやはり完全に無視し、紅梅に向き直る。
紅梅、すまんが先に出て──」
「おっと、それはさせらんねーな」
 ざっ、と、少年たちが二人を囲うように立つ。

「……何のつもりだ」

 初めて、弦一郎が、試合前のような、真剣かつ冷静な目をした。
 その表情に気を良くしたのか、少年は更にふんぞり返って続ける。
「コートを使ってたのは、お前ら二人だろォ? なら二人共試合してもらうぜ。ダブルスだ」
「ふざけるな。俺はともかく、こいつは初心者だぞ」
「はっ、関係ねえな。断るんならお前だけ出て行けや。……へへ、そっち、結構可愛い顔してるし、俺らと遊んでもらうぜ」

 その発言に、一気に弦一郎の堪忍袋の緒が限界近くになったが、何とか堪え、冷静に思考した。
 自分がさっさと出て行って、コーチを呼んでくるのもひとつの手ではあるだろう。しかしこんな奴らの中に、紅梅を数秒でも一人で置いておくなど、論外である。

「……何言うてはるの、こん人。絶対いやどす」

 後ろから響いてきた心底不快そうな声に、弦一郎ははっとして振り返る。
 すると、今の声に違わずの表情をした紅梅が、少年を睨んでいた。

「何やのんな、わけのわからんことばっかり言うて」
「ああ? 何だとこのアマ」
「ちょぉ、寄らんとっておくれやす。くさい
「なっ」

 眉を顰めて袖で鼻を押さえ、少年から距離をとって弦一郎の側に寄った紅梅に、少年が未だかつてなくショックを受けた顔をしたので、弦一郎はつい噴出してしまいそうになるのを堪えた。
 くさいと言われた少年は、ぶるぶる震えている。

「くっ……くっ……」
「さっきっから、あんたはんが喋るたんびにえろぅにおぅてかなんのやけど*あなたが喋る度にとても臭くてかなわないのですが、ちゃんと歯磨きしてはるのん? 虫歯があるんと違う? 歯医者さん行かはったほうがよろしおすえ」
「だっ、黙れ!」
「あんたはんが黙らはったらよろしやないの。くさいし」

 周りを囲む少年のうちの誰かが、うわぁ、と小さく言った。
 そして、確かに、この少年が怒鳴るたびに飛ぶ唾と漂う口臭に辟易していた弦一郎は、もはや俯き、己の口を押さえ、肩を強ばらせている。
 無論、噴出するのを堪えているのだが、紅梅がそんな弦一郎を覗きこみ、きょとん、とした顔で、おっとり言った。

「弦ちゃんは臭ないえ?」
「ごふっ」

 弦一郎が、とうとう噴いた。
 しかも、少年の仲間たちもまたいつの間にか少年からやや目を逸らしており、誰かが「あー、やっぱり臭ぇよな……」などと呟いたのが聞こえた。
 一度は可愛いと評した女の子から、喋る度にくさいと言われ、連れの生意気な年下と比較され、仲間にもフォローされるどころか追い打ちをかけられることになった少年は、日に焼けた顔にかーっと血を上らせ、握った拳をぶるぶると震わせた。

「じょっ……上等じゃねーか、このクソブス!」
「まぁ」
「……何だと?」

 さきほど可愛いと言ってから三分も経たぬうちの罵声は、負け惜しみなのが明らかすぎて、いっそ哀れを誘う。
 そのため、言われた本人の紅梅は口鼻に袖を当てたまま少し眉を顰めただけだったが、弦一郎の顔つき、声色が、完全にがらりと変わった。

「……おい、もう一回言ってみろ。誰が、何だと?」
「なっ……」

 地を這う、唸り声に近いような声、そして怒り狂った猛獣さながらの目つき。
 身体からなにか黒いものが立ち上っているようにすら感じる弦一郎のその雰囲気に、周りを囲っている少年のうち、何人かが、冷や汗を流して一歩下がった。

「ダブルス? いいだろう」

 黄色がかった弦一郎の目が、ぎらりと光った。

「貴様ら。……潰す」
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BY 餡子郎
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