心に邪見なき時は人を育てる
(十)
「すまん」
冷静でいようと思ったのに、結局喧嘩を買ってしまった弦一郎は、まず、紅梅にそう謝罪した。
「ううん、うちもいらん事言うてもうたし……」
しかし紅梅はぷるぷると首を振り、心から共感を示した表情と声色で、しみじみと言う。
「なんや、もう、どうしても嫌どしたん……。生理的に、もう。くさいし……」
「ああ、俺も辟易していた。喋る度に臭う」
「弦ちゃん、場所が近おしたもんなあ。災難やなあ」
「おい! とっととコートに入れ!」
こそこそと慰め合う二人に、いらいらとした怒声が飛ぶ。
しかしやはり二人は全くびくつく様も見せず、二人揃って、心の底から面倒くさそうな、残念なものを見る顔でチラッと少年を見ると、また顔を見合わせあって、こそこそ言い始める。
「ダブルスて、どないしたらええの?」
「なに、心配するな。お前は後ろにいればいい」
「へぇ、わかりおした。弦ちゃんの邪魔にならんようにするえ」
細かく指示せずともだいたいの意図を把握し、にっこりして頷いた紅梅に、弦一郎も「うむ」と深く頷く。
もう頭から湯気が出ていそうな少年が再度爆発する前に、二人は並んでコートに入った。
ちなみに、少年のパートナーは、弦一郎と紅梅を囲んだ取り巻きのうちの一人だ。
「──フィッチ!?」
「smooth」
やたら勢い良くラケットを回して言った少年に、弦一郎は静かに言った。
そして、ラケットが倒れる。
「は! サーブ貰うぜ、悪いな」
「紅梅、後ろに下がっていろ。できれば、俺が走る逆側に動け」
「うん」
どや顔の少年を完全に無視し、二人は配置についた。弦一郎はコートの真ん中辺り、紅梅はほとんどライン際まで下がる。
少年はもう怒鳴ることもせず、口の端からよだれが垂れるほどにぎりぎりと歯を食いしばっていた。顔色は、もはや赤黒い粋に達している。
「──オラァ!」
力任せに、全力のサーブ。
手加減する、という前言はなかったことになっているようだ。中学三年生だけあって、弦一郎より少なくとも二回りは体格のいい少年の放ったそれは、それなりのパワーサーブである。──しかし。
「ふん」
コート左側にボールがバウンドするその前に、既に弦一郎は位置についており、完璧なバックハンドのフォームをとっていた。
──パァン!
まさに手本のようなライジングショット、そして絶妙なライン際に突き刺さったボールに、少年らが唖然とした顔になる。
年下だということ、明らかに初心者の紅梅とずっと緩く打ち合っていたこと。そして、見るからに動きづらそうな、足首までを覆う分厚い生地の袴を履いた弦一郎がここまで素早く動けるなど、誰も予想だにしていなかった。
ついでに言えば、テニスをするのに剣道着という格好をわざわざしてくるような奴が、熟練者であるとも思っていなかったのだ。
「0−15だ」
「ふ、ふん……、まぐれだ、まぐれ」
少し冷や汗を流しつつも、再度少年が位置に着く。
「──っどらァアア!」
「……その」
ひゅ、と、風が吹いたような気配。
その時には既に、弦一郎はボールの目前に移動していた。そして今度は、ボールが頭上まで跳ね上がるのを悠々と待つ。
「口を、閉じろ!」
──ダァン!
あまりに強い力で打ったスマッシュは、少年のコートに突き刺さり、大きく跳ね上がって、コートの外に飛んで行く。
「0−30、……紅梅」
シン、と静まり返る室内練習場に、さほど大きくない弦一郎の声がよく響く。
「今のがスマッシュ。その前が、ライジングショットだ。違いがわかるか?」
「えっと、スマッシュが頭の上まで跳ねたんを打ち落とす感じのんで、ライジングは、跳ねてすぐ打つのん?」
「そうだ」
たったの二打。
その二打で、予想通りに少年らの実力が大したものではないと判断した弦一郎は、どうせなので、紅梅にショットのレクチャーをすることにした。
教本をよく読んでいるらしい紅梅は満点の答えを返し、「本に書いてあったんとおんなしやった」と、興奮気味に目をきらきらさせている。
「二回目、なんであない高う跳ねたん?」
「まずはパワーの違いだが、加えてスピンをかけたからだ。トップスピンをかけると、ああいう風に高く跳ねる。最初のライジングはフラット、回転なしだ」
「あ! スマッシュのほうがスピン、かけやすい?」
「……なぜそう思う?」
「そやかて、高ぅ跳ねてゆっくりになったボールやったら、ラケットの面に滑らすんも、やりやすそやし」
「それも一理あるが、完全にそうとも言えない。速い球なら、力をかけずとも面に滑らすだけでそれなりに回転がかかる。──お前の言うとおり、それなりのテクニックが要るがな。しかし球威がないボール──例えばサーブの際に強いスピンをかけようとすると、それだけパワーが必要になる」
「んー……、ほな、今みたいに回転のかかってへん、そこそこ速い球にスピンかけて返すんが、一番簡単?」
「その通りだ」
このくだらない試合が終わったら、紅梅にスピンのかけ方を教えよう、と、弦一郎はひとり計画を立てる。
彼女のパワーは女子として標準的な程度しかないが、器用なので、スマッシュやパワーサーブは打てないだろうが、ボレーやスピンショットは向いているはずだ、と。
「……くっちゃべってんじゃ、ねェッ!!」
もはや完全に少年らに背を向けている弦一郎に、目を三角にした少年が、いきなりサーブを放つ。
話し込んでいた弦一郎たちにも非があるといえばあるが、完全にマナー違反の行動だ。
「ふん!」
それでも素早く身を翻した弦一郎は、まるでボールが飛んでくる方向がわかっているかのように動き、緩慢にさえ見えるストロークで、山なりにボールを返した。
紅梅から見ても打ちやすそうなそれを、少年が見上げてにやりと笑う。そしてややジャンプすると、ボールを上から叩き落すために、大きくラケットを振りかぶった。
「──死ね!」
サイドライン際に打ってことごとく返されたからか、少年が放ったスマッシュは、ネット際狙いだった。しかしやはり弦一郎は既に移動しており、今度はバウンド前のボールを、掬うようにして打ち返す。
そして、少年が渾身の力を込めたようなスマッシュは瞬時にその球威を無くし、ネット際にぽとんと落ちた。
「ボレー! あ、えと、0−40!」
「両方正解。今のはドロップボレーだな。球威を殺してネット際へ落とす技で、主に相手がベースラインに下がっているときなどに打つ。しかし、何を根拠にか、決まると思い込んで次への予備動作を一切取っていない間抜け相手にも有効だ」
「ぐ……」
ことごとく返されるどころか、球種を選んで披露する余裕まである弦一郎に、少年らが今更ながらに怯み始める。ぎりぎりと歯を食いしばるリーダー格の少年に、パートナーである少年が、こそっと話しかけた。
「なあ、佐々部っち、ヤベーよ。あいつ超上手ぇじゃん」
「うるせえ! 何もしてねー役立たずのくせに、でけえ口叩くな!」
佐々部、という名前だったらしい少年は、血走った目で、いらいらと声を張り上げる。
パートナーの少年は眉をひそめつつも、佐々部少年のかなりのキレ具合、そして何もしていないというのも確かだったため、僅かにのけぞり、そのまま口を噤んだ。
──そして次に佐々部少年が放ったサーブも弦一郎にあっさり返され、ゲーム。
コートチェンジをし、今度は弦一郎のサーブ。
ベースラインまで下がり、ポン、と一度ボールを跳ねさせる。
「まずこれが──フラットサーブ!」
「なっ!」
球種を宣言してのトスに、少年らがぎょっとする。
そしてそれはフェイクでもブラフでもなんでもなく、本当に、身体を反り、ラケットを大きく振りかぶっての、ど真ん中へのサーブだった。
──にもかかわらず、ドッ! と重い音を立てて、コートのど真ん中に突き刺さったボールに、二人共、反応することさえできない。
「回転なしの、ごくストレートな基本のサーブだ。さっきからあいつがやっているサーブだが、見ての通りどこに来てどこに跳ねるのか非常にわかりやすいので、どれだけパワーとスピードを乗せられるかが肝だ。ぬ(・)る(・)い(・)球だと、むしろ相手に打ちやすいだけの球になってしまうからな」
一歩も動いていない──いや動く必要のない紅梅に、弦一郎は淡々と説明する。
紅梅はこくこく頷きながら、真剣に講義を聞いていた。
(なんでだよ……!)
すっかり呑気にコーチングをしている二人に対し、佐々部は非常に焦っていた。
恫喝もワンパターンだった彼だが、実のところ、テニスのプレイも非常にワンパターンである。標準より恵まれた体格と腕力に任せたパワーショットが得意だが、逆を言えばそれしかない。
更にはその強い球威のボールを相手の顔面近くに打つことが文字通りの必殺技だが、コントロールがいまいちなせいで、百発百中ではない。しかも、先ほどのサーブで四回ともそれを狙ったはずなのに、完全にコースを見切られているせいで、むしろ弦一郎の近くに落とした非常に打ちやすい球にしかなっていなかった。
(なんでだ……! あんな身体で、なんで俺より強いサーブが打てる!?)
そして、更に佐々部を焦らせたのは、弦一郎が今放った、佐々部と全く同じフラットのパワーサーブ。
このサーブはとにかく腕力がものを言うが、弦一郎より、佐々部のほうが二回りも体格は上のはずである。単純に腕の太さを見ても、明らかに弦一郎のほうが細い。
しかし弦一郎の放ったサーブは、宣言までして打ったにもかかわらず、全く反応できないほど速かった。つまり、佐々部を上回るパワーで打ち出されている。
「んー……」
紅梅は、顎に指を当てて、長考した。そして、はっと思いついた顔をする。
「……握力?」
「ほう」
佐々部よりも華奢な体格で、彼より強いサーブを打ち出せる理由を見抜いた紅梅に、弦一郎は、今度こそ素直に感嘆した。
伊達に頻繁に彼女と手紙をやりとりしていない。彼女の知性の高さは重々知っていたが、頭の回転も速い、と弦一郎は感じた。それに、どうやら観察眼にも長けている。球種を間違いなく見極めたところからして、動体視力もそこそこありそうだ。
そして、紅梅の言ったのは、正解だ。
ストレートのフラットサーブは何よりパワーがものを言うが、正しくは、ボールとラケットがインパクトする際、どれだけパワーや体重を乗せられるか、ということである。
つまり、いくら腕力が強く体重があろうとも、ラケットを強い握力でホールドできていなければ、そして手首が頑強でなければ、せっかくのパワーも分散されてしまう。
ボールを打つのはラケットだが、ラケットが選手の一部であるように、選手もラケットの一部であるのだ。
ラケットのガットがぴんと張っていないと、どれだけ力任せにボールを打っても無駄であるのと同じように、腕力があっても、がっちりとラケットを固定できる握力と手首がないと意味が無い。
そして逆に言えば、強い握力と頑強な手首があれば、プロレスラーのような腕力がなくても、身体全体をバネのように使うことで、体重を全て無駄なく乗せることができ、結果かなりのパワーショットが打てる、というわけだ。
そして弦一郎は、握力が非常に鍛えられるのが特徴の一つである剣道の稽古を、四歳の頃から毎日欠かさずやっている。
ラケットより数倍重い竹刀、木刀、そして真剣を決して取り落とさず、限界まで速く振ることを毎日追求している弦一郎の握力は、小学五年生の今の時点で、この年令の男子の平均値である約24kgをゆうに超え、三倍近い数値を記録している。
無論その数値は、佐々部よりも数段上であった。
「そしてこれが、……スピンサーブ!」
──ダン!
「スライスサーブ!」
──ダン!
「ツイストサーブ!」
──ドォン!
全てサービスエースで、あっという間にゲーム。
紅梅はきらきらした顔で拍手をしているが、ほとんど動けなかった佐々部は冷や汗を流して歯を食いしばっているし、パートナーの少年にいたっては、もはや若干顔色が悪い。
「なあ、佐々部っちィ……」
「うるせえ黙れ」
情けない声を出すパートナーに、佐々部は唸るようにして言った。
そしてチェンジコートの際、ちらり、とコートの外の仲間たちに目配せをし、僅かに顎をしゃくる。すると彼らは心得たようににやりと笑うと、それぞれラケットを持って、試合をしているコートの両隣のコートに入っていった。
「打ち返してもこれんようなら、もうレクチャーにもならんな」
位置についた弦一郎は、構えをとった。
「もういい。──さっさと終わらせるぞ」
「抜かせ!」
今度は、佐々部のパートナーの少年のサーブである。
佐々部よりパワーはないが、それなりにスピンがかかっている。──が、やはり、“それなり”だ。球威のないそれのコースは読むのも容易く、弦一郎はもはや悠々とした動きで軌道上に移動する──その時だった。
「きゃ!」
──ド、ドッ!
紅梅の短い叫び声に、弦一郎は一瞬気を取られた。
そして次の瞬間、ボールがバウンドした音は、ふたつ。
「──15−0だ」
にやり、と佐々部が笑う。
そして両隣にいる仲間の少年たち──紅梅に対し、明らかに狙ってボールを打った奴らも、似たようなにやにや笑いを浮かべて、弦一郎たちを見ていた。
「紅梅!」
「だいじおへん。当たっとおへんえ」
紅梅は、にっこりした。
気丈な態度に弦一郎は安心したが、当たらなかったからといって、今されたことは、もちろん許されることではない。
「──下種が」
地を這うような、低い声だった。
弦一郎の今の目つきは、試合前のようなぎらぎらしたものとなっており、その身体から立ち上るオーラは暗く、怒りというよりももはや殺気と言っていいほどだ。
何人かが思わず一歩下がったが、場所が遠いせいか佐々部や妨害をした少年たちは全く気にしていないようで、むしろにやにや笑いをさらに深くする。
「ええ? もしかして、俺らが邪魔したと思ってるゥ? まさかまさか。試合してたら、うっかりボールがそっちに飛んだだけだって。なあ?」
「そうそう。俺ら初心者だから、勘弁してくれよ」
白々しいにも程がある言い訳だが、ここで反論したところで何もならないのも、わかりきっている。
あまりにも下劣な行為に、弦一郎の堪忍袋の緒が切れそうになった、その時。
「弦ちゃん」
少年たちの醜悪な笑い声をさっと吹き飛ばす、鈴を転がすような、清涼感すら感じる穏やかな声に、弦一郎ははっとした。
振り向けば、ラケットを両手で持った紅梅が、にっこりとしている。
その笑顔は、まるで菩薩のように凪いでいた。
「気にせんで、試合して」
「しかし」
「んん、だいじおへん。……うちも、すこぉし、怒ったよってな?」
紅梅は、にっこりしたまま、こてんと首を傾げた。とても愛嬌のある、かわいらしい仕草である。
「……怒った、のか?」
弦一郎は、思わず聞いた。
祖母が亡くなった時、あれほど不義理をした弦一郎にも、全く怒らなかった紅梅である。先ほどまでも、不快そうな声や表情をすることはあったものの、どちらかと言えばうんざりしたようなそれで、怒っている、というのとは違っていたように思う。
怒るところなどまるで想像できず、正真正銘菩薩の如しと思っていた彼女が、「怒った」と自己申告したことに、弦一郎はぽかんとした。
今の紅梅は、相変わらず菩薩さながらの凪いだ微笑みを浮かべていて、一見、とても怒っているようには見えない。
──が、しかし。やや細まった目は、まさしく名のある仏師が彫った仏像さながらに、もし黒目がきろりと動いたならきっとぎくりと身を強ばらせてしまうような、不思議な迫力を蓄えていた。
「なんや、わけのわからん因縁つけてきて、弦ちゃんに暴力振るうし。うちにも気ッ色悪いこと言いよってからに、今度はこれや」
口調は相変わらず穏やかなものの、長い睫毛の目がすうっと細まると、いつものおっとり眠たげな垂れ目の様相はどこへやら。切れ長の、まるで能面のような顔になるということを、弦一郎は知った。
「ええかげん、怒ったよって。──あないへぼ球、当たるかい」
──仏の顔も、三度まで。
弦一郎は、そんな諺を思い出した。
佐々部は、あの佐々部の親戚かなんかです。やられ役の血筋。
テニプリのやられキャラってなんか皆憎めなくて好き(*´∀`)