心に邪見なき時は人を育てる
(十一)
「気にせんで、当たらんし。ボール避けられへん程どんくさないえ」
そう言って、紅梅はにっこりする。
「しかし……」
「なんだかんだいうて、隣のコート、遠おすしな。そやし、一応“手が滑った”みたいな体裁はあるやろから、あからさまにサーブぶつけてくるようなことはせんやろ、いくらなんでも」
細めた目で、すぅ、と、紅梅は彼らを流し見た。
「それするんやったら、もうほんまに下衆の極みやし。救いようあらへん」
はっきり、全員に聞こえる涼やかな声で宣告されたその言葉に、苦い表情を浮かべる者は、まだ辛うじて“救いようがある”のだろう。
そして、何言ってんだこいつ、というような歪んだ表情をしていたり、あろうことかにやにやと汚らしい笑みを崩さない者は、紅梅の言うとおり、下衆の極み。もう、死ななければ治らないタイプと思われる。
「うちんことは、うちでするよってな。弦ちゃんは、早よあれやっつけてんか」
「……ふむ」
弦一郎は彼らをぐるりと見渡してから、ふぅ、と息をつき、まっすぐに紅梅を見た。
「……では、任せた。だが、無理はするなよ」
「へぇ、おおきに」
短いやりとりで、二人は再度位置についた。
「何だ、作戦会議は終わりか? もっと時間やってもいいんだぜ?」
「いらん。とっとと終わらせる。時間の無駄だ」
ラケットを構えた弦一郎には、先ほどまでの、相手を嘲るような笑みはない。その代わり、獲物を仕留めると決めた獣の如き眼光で、まったく笑いもせずに前を見据えていた。
「……つくづくクソ生意気なガキだな。おい、やれ」
「あ、ああ……」
佐々部が顎をしゃくると、パートナーの少年がトスを上げる。
やや戸惑っているところからして、彼はまだ“救いようがある”のかもしれない。だが今の状況で、弦一郎は、彼を佐々部もろとも潰すのに、何の躊躇いもなかった。
そして先ほどと同じ、スピンのかかったサーブが放たれる。
──ドッ!
しかしあっさりとリターンエースを取った弦一郎に、佐々部は苦い顔をし、パートナーの少年は、やっぱり、というような、疲れた顔をした。
「……15−15。どんな卑劣な手段を取ろうと、お前たちが弱いことに変わりはない。全てリターンエースで取ってやる。さっさと来い」
「ふ、ざけやがってぇ……!」
佐々部の顔が、また赤黒くなる。
「おい!」と佐々部が怒鳴り声を上げると、もうどう見てもただ帰りたそうな顔の少年が、またトスを上げた。またも代わり映えのしないスピンサーブを打つのは、それしかないのか、それとも、もう投げやりになっているのか。
おそらく後者だろう、と思いつつ、弦一郎は宣言通り、容赦無いリターンエースを返した。
そして、紅梅はといえば。
左右のコートから放たれる、“手が滑った”にしては勢いが良すぎるボールを、顔色一つ変えずにひらひらと避けていた。
紅梅の身のこなし、運動神経なら、ある程度のボールを避けること自体にわけはない。
しかし、コート内で、試合のボールにも弦一郎にもぶつからないようにしつつ、妨害のボールも避けるというのは、なかなか骨なこと、であるはずだ。
走りにくそうな袴でちょこちょこと走る紅梅は、傍目にいかにもお淑やかな女の子らしく、そして、スポーツとしての観点で見ると、どんくさそうに見える。
だが紅梅は最小限の動きで、ひらりひらりとボールを避けていた。
あまりにも当たらないので、焦れた少年らがあからさまに身体のど真ん中を狙ったり、左右からボールを飛ばすことも出てきた。紅梅はそれを、今にも転倒するか、というような姿勢で避ける。だが、結局当たらないし、転びもしない。
一見ぎりぎり、もうちょっとつつけばころんと転びそうな感じもするのに、絶対にそうならない。どう見ても死角に見えるところに打っても、ひょいと躱されてしまう。
それは、人間の体の作りに挑戦するかのようなポーズ、動きを求められる、彼女の流派の日舞が培ったボディバランスの成せる技だった。
ゆっくりした動き、しかしあえてリズムを取らないことで、とらえどころのない、非人間的ですらある印象を可能にするその技は、長い鍛錬を熟さないと手に入らないものでもある。
弦一郎の邪魔にならないようにする、という最初の言葉を覆すことなく、紅梅は、弦一郎が動くのと逆の位置をふらふらしている。
そして彼女を的にして狙うがゆえに、妨害ボールは、弦一郎の試合の邪魔をすることはない。
また弦一郎も、紅梅にぶつからないよう、前衛エリアからほとんど動いていない。
紅梅が後ろで妨害の的になり、なおかつ全て回避し、弦一郎が前で試合を片付ける、というスタイルが、完璧に確立していた。
「紅梅、チェンジコートだ。お前がサーブだぞ」
弦一郎が、振り向いて言った。
ちなみに、当然ながら、弦一郎は「全てリターンエースで返す」という宣言を覆すことはなかった。佐々部は俯いて拳を握りしめており、パートナーの少年はもはや半泣きである。
──まだ、3ゲームめだというのに。
「あらぁ」
もう終わったん? と、紅梅は、ひょいとボールを避けながら言った。
こちらも、一度として、ボールに当たってはいない。あまりの当たらなさに、両隣のコートの少年たちは完全にムキになっていて、“試合中に手が滑った”という様相は早くも崩れかけているが、紅梅はにっこりとしたままだ。
周囲には、いくつかのボールがころころと虚しく転がっている。
「サーブ? 打てるやろか。届かなさそやわあ」
こてん、と首を傾げて、紅梅がラインまで下がる。そのかなりの余裕ぶりにいっそ気が抜けた弦一郎は、苦笑して、「下手打ちでもいいぞ」とアドバイスした。
結局、紅梅が打ったのは軟式風の下手打ちサーブで、しかも完全にロブになった打ちやすい球のみだった。──が、問題はない。
紅梅のサーブが、ポーン、と弧を描く間に二人は配置につき、そして、非常に打ちやすい球であるだけに、ワンパターンな佐々部らの球は軌道が見え見え。弦一郎が容赦なくスマッシュやボレーを叩き込み、紅梅がダブルフォルトで1ポイント失ったのみで、あっという間に4ゲームめを取ってしまった。
紅梅のサーブを邪魔しようと、左右から妨害するボールも飛んできたこともあったが、これは弦一郎が、打ってきたその場所に、数倍の勢いで打ち返している。
「なぁ、佐々部っちィ、もうやめようぜ……」
「う、うるせえ……」
あまりにも圧倒的、いろいろな意味でまともな試合になっていない状況に、あれほど威勢の良かった佐々部も、すっかり消沈しつつある。
それを証明するように、5ゲームめの佐々部のサーブは、前よりも若干勢いがないように感じられた。そして全力でもあっさり返せるのに、唯一の売りであるパワーもダウンしたサーブはもはや弦一郎にとって練習の球出し程度にしかすぎず、あっさりとリターンエースが決まる。
その状況に危機感を感じた両隣コートの少年らは、互いに目配せし合う。
意図を把握した仲間たちは、睨みつけるようにしていた紅梅から目を逸らし、今度は、サーブに備える弦一郎に視線を向けた。そして──
「──む」
「もぅ」
弦一郎に向かってきた球を、ぽこん、と紅梅が打ち返す。返した方向は完全にあさっての方向だったが、試合と違って露払いが出来ればそれでいいので、全く問題はない。
弦一郎は、紅梅が初めてそばに来たことで、狙われていたことに気付いた。それほど、意識から紅梅に任せきりにしていたのである。
「ああ、俺を狙い始めたか……。面倒な」
「ほんまに。……んん、なるべく払うけど、あんまり期待せんで」
「無理はするな。怪我にだけ気をつけろ」
「へぇ、弦ちゃんも」
会話は、それだけ。
妨害組が弦一郎を狙い始めたため、紅梅は先程までとは打って変わって、弦一郎の近くで、その背を守るような風に立った。
そして、弦一郎めがけて飛んでくるボールを、とにかくコートの外へ打ち返す。
──いや、紅梅のそれは、打ち返す、というのとは少し違う、と、試合の合間に後ろを振り返った弦一郎は思った。
弦一郎が先ほど解説したように、サーブやスマッシュでは、握力の高さや手首の頑強さが肝になるが、逆に、球威を殺すのが肝であるボレーの場合は、必要に合わせて握力を緩めたり、いかに手首を柔らかく使うか。つまり、絶妙のクッションでパワーを分散させることがポイントになってくる。
特に手首の柔らかさは天性のものであることが多いので、これは鍛えるのが難しくもある。
そして、頑強な筋肉など皆無だが、ひらひらと風に舞う、柔らかな花びらの動きを扇で再現できる腕と手首を持つ紅梅は、どうやら、ボレーの適性がなかなかに高かったようだ。
救いようのない連中はもはやサーブに近い球を打っているが、弦一郎を狙っているのが明らかなため、コースはわかりきっている。
そのボールを、紅梅は、叩き落すでも、打ち返すでもなく、ただひょいと掬うようにして“受け止める”と、そのまま、ぽいとコート外に捨てるようにしていた。
つまり、ボールの球威を完全に殺しきっているのである。やろうと思えば、ラケットの上にボールを留めることも出来るのではなかろうか。
ドカドカと激しい音を立ててリターンエースを取り続ける弦一郎のすぐ後ろで、ひょい、ぽい、と、気の抜ける、しかし軽く曲芸じみた返球を行っている紅梅。
彼らがやっているのは、最初からまったくダブルスではない。
だが、息のあったプレイ、ということならば、確実にそうであった。
6ゲームめで、再び弦一郎のサーブ。
当然ながら、素早く四連続でサービスエースが決まり、もうこの時には、妨害組も完全に戦意を喪失していて、紅梅は最初の時のように、弦一郎のサーブを見学しているだけであった。
そして、ラブゲームでゲームセット。
「さあ、勝負あったが、どうするんだ?」
「う、ぐ……」
トン、と肩にラケットを担ぐようにして言った弦一郎に、佐々部は歯を食いしばる。
パートナーの少年はもうすっかり消沈していて、「佐々部っちぃ、もうやめようぜ、本当……」と情けない声を上げている。
周囲の仲間たちはまさかここまでこてんぱんにやられると思っていなかったのか、困惑している者、気に食わなさそうな顔をしている者、様々だったが、潔く引き上げようとしているのは、ダブルスパートナーの少年だけだ。
その態度に、弦一郎は、はあ、と大きくため息をつく。
「出て行けとは言わん。きちんとマナーを守ってコートを使ってくれれば、それでいいんだ。もう俺達に関わらないで貰いたい」
「なっ……くっ……」
ぐぬぬ、と、佐々部らの顔が赤くなる。
年下に喧嘩をふっかけ、卑怯な手まで使ったというのにこてんぱんに負かされてしまった彼らとしては、いっそのこと、「出て行け!」と言われたほうがまだマシだ。
しかし弦一郎はもうすっかり、呆れ果て、救いようのないものを扱うような、温度のない態度で接してくるので、いっそう無様で惨めであった。
「……うっせぇ!」
そう怒鳴ったのは、妨害組の一人であった少年だった。紅梅が“下衆の極み”と称した際もにやにや笑ったままで、また、最も遠慮無く、あからさまに彼女にボールをぶつけようとしていた少年だった。
ただ、テニスに関してはまったく素人のようで、ラケットの握り方も適当、打ち方も力任せにめちゃくちゃでコントロールも何もなかったため、さほど脅威ではなかったが。
「佐々部も甘ェんだよ。こういうのはぶん殴っていうこと聞かせんのが一番いいんだ」
「で、でもよ……」
「アァ!?」
「い、いくらなんでも、コートで暴力沙汰起こしちまったら、俺ら、」
「はァ!? 知るかよ! 涼しくて遊べるとこねーのかっつったらここに連れてきたのはテメーだろうが! テメーが責任持てや、クズ!」
「ひぃっ」
どうやら真のリーダーは佐々部ではなく、こちらの少年だったようだ。
彼がずいと前に出てくると、佐々部の口臭と同じくらいの強さで、ぷん、とタバコの臭いが漂った。──詰まるところ、単なる不良である。
目つきなども、単にいい年をして幼い癇癪を起こしているような佐々部とはまた違い、どこか突き抜けた、得体の知れない、根本から話が通じないような目をしていた。
弦一郎と紅梅が、顔を顰める。
そして、その少年が、ガッと弦一郎の道着の襟を掴み、引き寄せた。
漂うタバコの臭いに弦一郎は顔を顰めつつ、しかし、若干焦点のあっていない少年の目をまっすぐ睨み返す。その目が気に食わなかったのか、少年は大声を出した。
「クソ生意気なガキが! 何がテニスだ、腕の一本でも折っ、て!?」
──スッ、コォ──ン!!
なんだか中身のなさそうなものを力いっぱい叩いたような、イイ音がした。
そして、ぐるん、と白目を剥いて倒れた少年、そうさせた黄色いボールに、弦一郎も紅梅も、そして佐々部らも、全員、ぽかんと目を丸くする。
少年の頭にジャストミートしたテニスボールは、相当いいところに当たったようで、天井近くまで高く跳ね上がって落ち、ころころと転がっていく。
(観客席、か……?)
弦一郎は、半二階の観客席を見上げる。
ボールの飛んできた方向からして、出処はあそこに間違いない。が、そこにはもう、それらしき人影は見当たらなかった。
それにしても、この高低差のある観客席から、頭を的としてジャストミートさせるコントロールは、かなりのものだ。しかも、チャンスは一回きり。弦一郎でも、同じ芸当ができるかといわれれば自信はない。
どこの誰かは分からないが、相当の技術の持ち主のようだ、と弦一郎は確信する。
そんな風に見知らぬ誰かに思いを馳せる弦一郎だが、その傍らにいるのは、目を回して倒れている不良の少年、呆気にとられている佐々部たちである。
そして、もう半泣きを越えようとしているダブルスパートナーの少年が「ほら、こいつらも仲間がいるんだって! チクられてたらヤバいって!」と声を上げたのをきっかけに、弦一郎は引っ張られて乱れた剣道着を直しながら、言った。
「……中学三年なら、俺達より四つも年上だろう。少しは潔くしたらどうなんだ」
「よ、四つ!?」
「ってことは……、げぇ!? 小五!?」
二人の実年齢、また“小学生に負けた”という事実を突きつけられた少年らは、一斉に騒ぎ始める。
「小五でこの強さってことは、もしかして、小学生チャンピオンの……」と、弦一郎の正体に近づいた者もいた。
だが実際のチャンピオンは精市、弦一郎は次席。そのことでついじろりと睨んでしまったが、別の意味に取られたのか、気まずそうに小さくなられてしまった。
「──おい、一体何をしてるんだ!」
場が騒然とする中、とうとうコーチが、しかも一番偉いチーフ・コーチがずかずかとやってきたので、少年らは飛び上がった。ダブルスパートナーの少年は、もう泣き出している。
弦一郎と紅梅はほっと息をつき、事情を説明しようとしたが、コーチは既に粗方の事情を知っていた。
「知らせに来た子が、説明してくれたぞ。立海の制服を着た女の子なんだが」
知り合いじゃないのか? と言うコーチに、弦一郎は首を横に振る。
このテニススクールで、そのくらいの年齢の女子に知り合いはいないと言えば、このテニススクールの子ではなかった、見学者である、と返ってきた。
ますます心当りがないので、善意の第三者だろう。ありがたいことである、と、弦一郎と紅梅は、見知らぬ少女に感謝した。贅沢を言えば、もう少し早く知らせて欲しかったが。
「……で? 彼はなんで倒れてるんだ?」
脳震盪を起こして目を回しているだけと判断したコーチに、「テニスボールで……」と誰かが言えば、少しせっかちなコーチは「ああ、踏んで転んだのか?」と勝手に納得した。
まあ、そういう事故はよくあるし、周囲には妨害組が打ちまくり、その度紅梅がコート外に出したボールが沢山転がっているので、そう判断しても無理は無い状況ではある。
それに、誰がボールを打ったのかということについて追求されてもわからないので、そのまま黙っておいた。
それにしても、佐々部らが「こいつがやった」と言って自分を指さしたら、と弦一郎は少し心配していたのだが、幸い、そんなことはなかった。
弦一郎との試合、また四つも年下であったということにすっかり心が折れてしまったのか、それとも、先ほどの少年の態度で愛想が尽きてしまったのかは、定かではないが。
佐々部含め、少年らは全員スタッフルームへ、ということになった。
まず間違いなくきつく叱られるであろうことに全員がうなだれ、罰則云々をほのめかされてスクール生組が悲鳴を上げ、全員、保護者と学校に今すぐ連絡すると言い渡されると、一人残らず青くなった。
弦一郎は、いい気味だ、と思う半分、こうなることはわかりきっているのになぜこんなくだらないことをするのだろう、と不思議に思った。
勉強も規則も、言われたとおりにまじめにしていれば何もかもうまく行くのに、わざわざ意味の分からない行動をとって、何の得があるのだろう。
不良とはなんとも不可解な生き物だ、と弦一郎が思っていると、紅梅が「あほやなあ」と小さく呟くのが聞こえた。
もちろん、弦一郎は大いに同意し、深く頷いた。