心に邪見なき時は人を育てる
(十二)
「蓮二、あなた、何をしたの」
「確実に気を失う確率は98パーセントだった。問題ない」
「問題あるわよ。スナイパーじゃないんだから」

 少女は、はあ、とため息をつき、頭痛を堪えるように、つるりと美しい額を指先で押さえた。
 さらさらストレートの黒髪に、長い睫毛が目立つ、切れ長の目元。シミひとつない白い肌をした、非常に麗しい美少女である。スタイルも良く、学校では、数多の男子生徒の心を奪っている。
 彼女の名前は、柳蓮華れんげ。纏っている制服が示す通り、立海大附属中学校に通う、二年生である。

 そして、反省するどころか、自分の“データ”が誤っていなかったことにどや顔をしているおかっぱ頭の少年は、彼女の弟、蓮二。小学五年生だ。

 彼らの父親が、二度目の妻──蓮二の実母と離婚して、約十年。
 公認会計士の父は、あまりの仕事人間ぶりゆえ、“家庭”というものに向いていないのが明らかな人間だ。
 しかしこのたび、東京の家で住み込み家政婦だった女性を、三度目の妻として迎えると言い出した。

 ちなみに、蓮華の母は銀座の高級ホステス、蓮二の母は、公認会計士事務所の同僚だった。
 蓮華の母とは、蓮華を妊娠したのを理由に入籍。そしてうまく行かない結婚生活ゆえに別居中、父が蓮二の母と交際を始めたために慰謝料を受け取って離婚。その慰謝料でバーを経営し始め、今もよく軌道に乗っているようだ。
 蓮二の母は一度家庭に入ったものの、家庭を顧みない夫に不満が募り、なのにその夫は家に帰ってこず、話し合い自体がまずできない日々。さらにその状況で自分の子供である蓮二と、前妻の子供で、手のかかる三歳児だった蓮華を一人で抱えてひどいノイローゼになり、離婚した。
 だが公認会計士の資格があるため食うには困らず、今では他県の事務所で働いている。

 そんな経緯であるため、三度目となると、とうとう祖父母が口を出し、神奈川、鎌倉の風情ある古民家をリフォームした半二世帯住宅に引っ越してきたのが、一ヶ月半ほど前である。

 祖父母には蓮華と蓮二もよく懐いており、東京と神奈川でさほど家も離れていなかったので、長い休みでなくても、ちょくちょく遊びに行っていた。
 彼らのそれぞれの母が、父親が嫌なら自分のところに来ても良い、むしろ来てほしいと言っても行かなかった最大の理由は、この父方の祖父母との縁、そして父親を同じくする姉弟の縁が切れるのが、どうしても嫌だったからだ。
 祖父母もまた、この母親の違う孫達を、とても愛している。

 そして、二十代前半で結婚して今まで続いているとても仲の良い夫婦である彼らは、離婚と結婚を繰り返す息子に呆れ、それに振り回される孫たちを、非常に心配しているのだ。
 しかしこのような、ちょっと昼のドラマに出てきそうな家庭では、祖父母が心配するのも無理の無い話だといえよう。

 蓮二はひどく大人びた少年ではあるが、父がころころ妻を変えるのを、当然ながらあまりよく思っていない。いや、若干以上の嫌悪感すら抱いている。
 これは蓮華も同じで、そのせいか、母親違いであるにもかかわらず姉弟仲はすこぶる良いが、両名とも、父親との折り合いはあまり良くない。
 とはいえ、父親は基本的にひどい仕事人間であまり家に帰ってこないので、ぶつかり合うこともあまりないのだが。
 更に完全に余談だが、家に帰ってこなくて家族と触れ合わないせいで、結婚した途端に妻と上手く行かなくなるのだ、と、子供二人は、それぞれの母の話を参考に、子供ながらに見切りをつけている。

 そしてそんな事情ゆえに、東京でダブルスパートナーもしていた幼馴染にとうとう事情を説明できないまま夏休みに入ってしまい、挨拶もせずに別れてしまうことになった蓮二は、今までになく落ち込んでいた。

 父と離れたかったこともあり、立海入学とともに一足先に祖父母の家に住み、一年と数ヶ月の間、前ほど弟の側にいられなかった蓮華は、それに若干の責任を感じた。
 そのため、登校日の今日、本格的と評判のテニススクールに連れてきてみたのだった。
 距離的にはさほど離れてはいないものの、絶妙に乗り換えが面倒なので通うのには適さないかもしれないスクールだが、気晴らしにはなるかもしれない、と思ったのだ。

 何しろ、父親がで、母親が不在のため、蓮二は祖父母っ子であると同時に、結構なお姉ちゃん子だ。
 そのため、蓮華の和風趣味をすっかりマネして回り、男の子であるのに自分から茶道やら華道やらをやっていた蓮二が、唯一姉とは関係ないところでのめり込んだのが、テニス、そして“データ”である。
 蓮華にとっては、“データ”とやらはなにが何やらさっぱりだが、テニスに関しては、蓮華は全面的に弟に協力したいと思っている。

 そしてここにやって来たわけだが、コート予約の時間より結構前に着いてしまったので、観客席から見学していると、どうやら剣道着姿で器用に打ち合う、男の子と女の子が目を引いた。
 特に男の子は相当の上級者であるようで、蓮二はずっとそちらばかり見ていた。
 神奈川の小学生テニスの次席だ、と蓮二が言うので、なら上手くて当然か、と蓮華は納得する。神奈川は日本国でも有数のテニス強豪区域である。ここで二位ということなら、全国でもトップレベルだということだ。

 相手の女の子はまるっきり初心者で、もちろん蓮二も知らない子だった。
 だが運動神経は良いようで、袴姿でも姿勢がぶれない。男の子の指示に素直に従い、みるみる上手になっていくのが、テニスをやっていない蓮華にもわかって、興味深かった。
 それに、初心者の女の子に対し、神奈川で二位のはずの男の子が威張り散らしたりせず、とても丁寧に相手をしているのが、見ていてとても気持ちが良く、微笑ましい。
「男の子はああでないとねえ」と、蓮華は感心して頷いた。

 だがその二人に、突然現れた見るからにガラの悪い集団が、因縁をつけてきた。
 二人に直接絡んでいた奴を蓮華はよく知らないが、他の子供達をじろじろ睨みつけて怯えさせて追い払ったのは、立海でも有名な不良だった。
 喧嘩になりそうであればすぐさま知らせに行こうと思ったが、どうやら健全にテニスをするらしい──というのが勘違いであることは、すぐに知れた。

 さすがに神奈川二位、あまりにも男の子が強いので焦りはじめた不良たちにざまあみろと思ったのは、2ゲーム目まで。
 3ゲーム目から、あろうことか両隣のコートから女の子を狙ってボールを打ち始めた彼らに、蓮華は秀麗な眉を思い切り顰め、勢い良く立ち上がった。

 そして、彼らが観客席に全く目を向けていないのをいいことに、蓮二を置いて速攻でスタッフルームに向かい、事情を説明した。
 コーチ陣は皆良識的で、蓮華の話を聞くなり、一番偉いチーフ・コーチが全速力で飛び出していった。

 ──というのが、今回の顛末である。

 蓮華がスタッフルームに行っている間に、試合が終わってしまった、しかもラブゲームで決着がついてしまっていたのは驚きだったが、男の子も女の子も殴られたりはしていないということに、蓮華はほっと安心する。
 そしてずっと彼らを見ていた蓮二の話を聞いて、蓮華はすかっとし、そして最後に男の子の胸ぐらをあの不良が掴みあげて恫喝したというところまで聞いて、なるほど、と頷きつつ、それで、と弟を見下ろした。

「ここから、あの馬鹿の頭にテニスボールをぶつけた、というわけね? 脳震盪を起こすようなショットを打って? どうしてそんなことしたの?」
「こちらは位置が高いので、座席に立って思い切り打ち落とせば、俺のスマッシュでも相当な威力が出る」
「理屈は聞いてないわ。理由を聞いてるのよ、蓮二」
「いいデータが取れた」
「データのことも聞いてない」
「いえ、いいデータが取れるかな、と思ってやったので」

 さらりとのたまった弟に、蓮華は脱力して、肩を落とした。
 ここで「見ていられなくて、つい」などと言ってくれれば、気持ちはわかるわ、でも今度からはもっと他の手段を、などと一般的な対応ができるのに、この弟ときたら、一事が万事こうである。

 いつの頃からか、どこでどうやって、どういう基準で収集しているのかわからない“データ”を持つようになった弟に蓮華は呆れ気味だが、人間グーグル、ウィキペディアだと思えばむしろ便利だ、と思うようになってからは、あまり気にしなくなっている。──が、それでも、度々こういうことがあると、溜息をつかずにはいられない。

 ひたすら自分の後ろを追いかけてくるのをやめ、自分の意志で何かに熱中することを覚えた弟を出来る限り応援してやりたいと思っているが、この“データ”に関しては、なんだかもう手がつけられないのだ。
 そして蓮華もまたクールな性格ゆえ、手がつけられないならもう放っておこう、と、既に諦めの境地に達していた。

 元々、『柳』の家系は、趣味人の家系である。
 祖父は風情煽るる鎌倉の古民家を幾つか所有するオーナーでありつつ、茶道の師範で、教室も開いているし、祖母も手芸、洋裁、また華道で個展を開いたりしている。その繋がりで友人も多く、趣味仲間のコミュニケーションが非常に盛んな生活を送っている。
 そんな祖父母から、なぜあの仕事にしか興味が無い、コミュニケーションどころか家族とも上手くやれない父が生まれたのか本当に謎だが、叔父はペンションやキャンプ場を経営しながら、小説家の顔も持っている。

 蓮華は、祖父母の影響で始めた茶道、華道をきっかけに、あらゆる和文化に興味を示した。歴史はもちろんのこと、日本の伝統的な音楽、建築まで網羅し、特に着物や装飾品などの服飾文化に目がない。
 蓮二より一足先に鎌倉に引っ越したのも、父には立海に通いたいからだと言ってあるが、実際は、和の風情あふれる鎌倉の古民家そのものの祖父母の家に一刻も早く住みたかったからで、そのために立海を受験した。ただ、祖父母の家から近い、それだけの理由で。

 蓮華の後ろをついてまわってばかりだった蓮二も、テニスを始めてからはすっかり『柳』の血に目覚め、濃厚な趣味人ぶりを発揮している。
 まあ、その対象は、“データ”という、なんとも得体の知れないものであるのだが、本人が楽しいのならばそれでいい。それが趣味人、マニア、オタクというものだ。

「それにしても、とてもいい試合だった」
「……そう? まともな試合じゃなかったと思うけど」

 男の子が圧倒的すぎたという意味、そして相手の卑怯な振る舞いで女の子が妨害されていたという意味、ふたつの意味で。
 蓮華が怪訝な顔で首を傾げると、蓮二は、光に弱いせいで開いているのかいないのかわからない伏せ目のまま、ふっと微笑んだ。

「いいや、……とてもいいダブルスだった」

 蓮二は少し目を開けると、遠くを見るようにして、言った。
 ダブルス、それは、蓮二にとってとても馴染み深いもの。そしてつい最近、後悔まみれのまま失ってしまったものでもある。

 先ほどまで眺めていた二人は、確かにまともなダブルスをしていたとは言い難い。
 しかし、二人息を合わせる、信頼を置いた上で行動し、一つの目的を為すというダブルスの精神性においては、これ以上ないものを持っていた、と蓮二は断言する。
 それはデータにできない類の、そしてとても貴重なものだ。

 二人は何かあった時にのみ少し目を合わせて会話し、しかしすぐに自分の役割に戻っていった。
 そして、あの狭いコートでそれぞれが縦横無尽に走りながら、ぶつかることも、邪魔しあうこともなく、むしろお互いをサポートしあっていた。それは、お互いに邪な心など一切ないというのが明らかで、澄み切った信頼関係を感じさせた。

 蓮二は、事情を説明することも、さようならを言うことも、連絡先を伝えることもできないまま別れてしまった幼馴染を思い出す。
 次の大会で蓮二がいなかった時、彼はどんな風に感じるだろうか。

「……離れていても、……別のことをしていても、心が一つなら」
「そうね」

 蓮華は、つやつやと輪状の輝きを持つ、弟のおかっぱ頭を撫でた。

「大丈夫よ。あの貞治くんでしょ? 私はデータとやらがどういうものかよくわからないけど、年中蓮二蓮二教授教授言ってたあの子のことだから、あなたの居場所ぐらい簡単に見つけ出すわよ」
「まあ、……そうだろうな」

 何か感動的なことを言っていたかと思えば、蓮二はけろりとそう言った。
 引越し先が外国とか、行ったこともない親戚の家等ならまだしも、貞治──乾貞治は、祖父母の家にも、何度も来たことがあるのだ。明日にも「蓮二いますか」と訪ねてきたとしても、全く不思議ではない。
 そうでなくとも、彼には“データ”があるのだ。蓮二の居場所くらい、本気を出せばすぐに知ることが出来るだろう。

 事情を説明できないまま別れてしまったのは本当だが、おそらく、貞治は言う。

「ははあ、教授。これは挑戦だね。……と、お前は言う」

 その確率100パーセントだ、と、蓮二は、今度は少年らしい笑みを浮かべた。
 “データ”の使い方を貞治に教えたのは、蓮二だ。それに驚き、感心し、もっともっとと目を輝かせる貞治に嬉しくなって、次から次へと教えていくうち、彼は蓮二と共同でデータを収集、分析するまでになった。
 そしていつしか、貞治は蓮二と収集するのとは別の自分のデータまで持つようになった。それは蓮二に敵うとまでは言わなくとも、違うベクトルで収集された独自のものであったのは確かだ。

 危機感を感じていたわけではない。
 だが、彼とのダブルスを心から楽しく思うのと同じくらい、彼と対決してみたい、という気持ちがどんどん膨らんでいたことも、また確かだ。そしてそれは、貞治もきっと同じだろう。

 ──離れている間に、どちらがより高みに登っているか。

 そういうことにするなら、離れていても、寂しくはない。
 むしろ、再会が楽しみだ。蓮二も、貞治も。

「よく考えたら、貞治に仰々しく別れを言うなんて、なんだかおかしな話だしな」
「……前から思ってたんだけど、あなた、貞治くんの扱いがちょっとぞんざいじゃない?」
「そんなことはないさ。親友だからな」
「親友に、そんな大仕掛のドッキリみたいなことするの、あなたは」
「いいんだよ、貞治だから」

 その答えに、蓮華は、「……ああそう」、とだけ言って、それ以上なにか言うのをやめた。
 蓮二も『柳』の人間として立派な趣味一徹の変わり者だが、いかにも理系男子といったあの黒縁メガネの少年も、大概な変わり者だ。
 “データ”とやらも弟達の関係性もなんだかよくわからないが、本人たちがいいというのなら、それでいいのだろう、と、蓮華は追求を投げた。
 よくわからないくせに、人の趣味に口を出すのはよくない、ということを、彼女はよくわかっていた。自分もまた、趣味一徹の変わり者であるがゆえに。

「……まあ、元気が出たなら何よりだわ」
「もう大丈夫」
「そう」

 本当に大丈夫そうな弟に、姉はにっこりと微笑んだ。
 あの見知らぬ男の子と女の子に、深い感謝の意を抱きながら。
- 心に邪見なき時は人を育てる -
(よこしまな心がなければ、その様を見、周りの人も自然に育つ)

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BY 餡子郎
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