心に堪忍ある時は事を調う
(一)
佐々部たちの乱入で、せっかくテニスコートに来たのに、楽しめなかったのではないか──、と心配した弦一郎だが、紅梅は「特等席で、弦ちゃんがテニスしとるん見れた」と、なかなかにご機嫌だった。
確かに、最前列どころか、ダブルスパートナーとしてコートに立っての観戦というのは、なかなか出来ることではない。
それにしても、他にも嫌な思いをしたはずだが、紅梅はそのことには一切触れず、あのサーブが凄かった、ああして返したのが上手だったと、そんなことばかりを続けて口にした。
手紙でもそうだが、弦一郎は、彼女の、嫌だったことは二度と話題にしない性格を、非常に好ましく思っている。
「弦ちゃん、やっぱり強おすのやねえ」
気を使っているわけでもなく、本心からにこにこしてそう言う紅梅に、弦一郎もほっとして、「あいつらが弱かったのもあるがな」と、強気な笑みを見せた。
チーフコーチは、せっかく初めてテニスコートに来てくれた子が、こんな目にあってテニスに悪い印象を持ってしまったりしてほしくないからな、と言って、紅梅がまた再びここに来ても、無料で打たせてくれることを約束してくれた。
そして二人はチーフコーチに深々と頭を下げてから、日が暮れる前に、真田家に戻ったのだった。
玄関にあった、ひと目で高級と分かる草履がなくなっていたので、紅椿は既に真田家を辞してしまったようだ。
そして、二人が玄関で「ただいま帰りました」と声を張り上げると、どたどたと豪快な足音が近寄ってくる。
「おうおう、帰ってきたか!」
やたらにこにこ、いや、にやにやと表現してもいいような表情で出迎えた弦右衛門に、弦一郎は怪訝な顔をし、紅梅はきょとんと首を傾げた。
「テニスしに行っとったらしいな? お梅ちゃん、楽しかったかね」
「へぇ、えろぅ」
紅梅が本心からにっこりすると、弦右衛門は、今度はでれっとした笑みになる。本心祖父を尊敬している弦一郎も、つい“だらしない”と思ってしまうような笑みであった。
「弦一郎、よくやった。えらいぞ」
「はあ」
何を褒められたのかよくわからぬので、弦一郎は生返事をした。
だが弦右衛門はそれを気にすることなく、満面の笑顔のまま紅梅を家に上がらせ、居間に通した。弦一郎もそれに続いたが、居間の襖を開けた途端、家族全員が自分のほうを見たので、思わず、びくっと仰け反る。
しかも、兄の信一郎に至っては、弦右衛門と同じような表情──、つまりにやにやとした笑みを向けてきている。
「……何ですか?」
「いや、いや?」
別に、と続けた信一郎が尚一層にやにやしたので、弦一郎は眉を顰めた。隣にいた由利が、信一郎の脇腹に軽く肘を入れる。あーぅ! と、佐助が元気な声を上げた。
「何でもないよ。仲良いなあと思っただけ」
「はあ……?」
妻の肘打ちに軽く噎せつつ、信一郎は言った。
弦一郎と紅梅は揃って首を傾げながら、居間の卓袱台の空いている座布団の席に、隣り合って座る。そうしてからも、真田家総勢、妙に温かい目で二人を見る。
わけのわからない家族の行動に、弦一郎は奇妙な居心地の悪さを覚えながらも、台所に引っ込んでいた母がおやつとして持ってきてくれた水羊羹と麦茶を受け取った。
ガラスの皿に出してあるが、添えられた黒文字は、ビニールの包装に入ったままだ。先日、ここにいるそれぞれの方方の縁筋から山ほどお中元が届いたので、そのうちのひとつだろう。
いつもの練習と比べれば大した運動をしたわけではないので、さほど疲れているわけではない。
しかし真夏の日差しの中を行って帰ってきたので、冷えた甘い水菓子と、氷の入った麦茶は非常に魅力的に感じられ、弦一郎はさっそく喉を鳴らして麦茶を一気に半分飲み干す。そして黒文字のビニールをばりっと破り、水羊羹を大きめに切って突き刺すと、大口を開け、放り入れるようにして羊羹を口に入れた。
つるりと喉を滑る涼しい甘味に心地よさを感じつつ、弦一郎は、ふと、隣の紅梅を見た。
すると紅梅は、両手できちんとグラスを持って、すうっと、音もなく、軽く一口麦茶を飲んだ。だがいつまでもグラスを持たず、そっとコースターの上にグラスを戻すと、黒文字のビニールを静かに破り、殻を伸ばし、脇に置く。
そして紅梅は黒文字を持ち直すと、小さめ、しかしけち臭くない程度の大きさの“ひとくち”ぶんに水羊羹を切り分けると、ちゃんと下に手を添えて、あまり大きく開けない口に入れた。
紅梅の、この一連の動作で起こった音は、グラスの中で、溶けかけた氷がカランと鳴った音だけだった。
勢い良く麦茶を飲んだせいで、弦一郎の前の卓には結露の水滴が二、三滴飛び散っているが、そっと両手でグラスを持ち、水滴が落ちる前にさっとコースターに戻した紅梅の周囲は、きれいなものだ。
くず物であるはずのビニールの殻も、きちんと伸ばして平にしてから置いたせいで、あまり“ごみ”という感じがしない。
「まぁ、品の良い」
母の諏訪子が、ほぅ、とため息をつき、感心した様子で言った。
他の者も、うんうんと頷いている。
ただ、麦茶を飲んで、羊羹を一口食べる。それだけの動作、いや所作であるが、紅梅のそれは、思わず見入るほど美しかった。
やっていることは、まったく特別なことではない。
しかし、背筋をすっと伸ばし、堅苦しそうな様子もなく正座をした紅梅が行ったその所作のあまりの静かさと、落ち着いた無駄の無さに、弦一郎は、口の中に残った水羊羹のかけらを飲み込むのも忘れて、ぽかん、と見入った。
そうしてお八つを食べたあと、せっかく道着を着ているのだから、と、弦右衛門は、紅梅を道場に連れて行った。
こんな嫋やかなお嬢さんを、と周囲は一応止めたが、弦右衛門は「手加減するに決まっているだろう」と言い、何より本人が割と乗り気なこともあって、紅梅はテニスに続き、剣道の体験もすることになった。
紅梅は特に疲れた様子も見せず、興味深そうに道場に足を踏み入れる。前から薄々思ってはいたが、彼女は見た目に反して、かなり体力があるようだ、と弦一郎は確信した。
だがよく考えれば、日舞の舞台となれば十キロ以上の重い衣装を纏って時に一時間は舞い、舞妓としても、同じような重さの衣装で京の町を歩き回ったりするのだから、体力がないとやっていけない部分はあるのだろう。
弦右衛門は、基本である竹刀の持ち方、動作、挨拶の仕方などを、まずざっと教えた。
日舞を始めとして、多くの和の稽古事をやっている紅梅のそれは、初めてやったとは思えないほど堂に入っている。正座、頭の下げ方、すり足で下がる作法などは同じなので、当たり前といえば当たり前なのだが。
刀も、役柄によっては小道具として存在するので、普通の子供よりは扱いに慣れがある。
「せっかくなので、剣舞をやろうか。弦一郎も」
周囲には門下生もいるのだが、そちらは通いの師範代に任せて、紅梅と弦一郎は、弦右衛門の提案で、剣舞をやってみることになった。
剣舞のルーツは流派によって様々であるが、かつて、戦の前に、精神統一や自らの鼓舞のために刀や扇子で舞ったのが始まりとも言われていれば、型の演武の合理的に洗練された動きが、結果的に無駄無く美しいことから、独立して剣舞として扱われたとされる場合もある。
真田の流派は後者をルーツとし、基本の形や竹刀の扱い、足さばきを学べるので、体験者にやらせることもあれば、熟練者がやれば大変見栄えもするので、取材などの際に披露したりもする。
弦一郎はいつもやっている演武の“型”をところどころアレンジしたものを指導され、紅梅はそれに組み合うような動きをその場で弦右衛門が作り、それを指導された。
弦右衛門は普段こそ警察で剣道師範をするのを基本にしているが、剣術、居合の藩士称号を持ち、DVDに出演したり、時代劇の殺陣のアドバイザーとして呼ばれることもあるので、こういった指導も慣れたものだ。
弦一郎はいつもの型を少し見栄え良く変えただけなので、さほどではない。
しかし紅梅は初めて持つ竹刀を振り回し、その場で弦右衛門が作った動きを指導されるので、当然手こずるだろう、という弦一郎の予想は、外れた。
「三合目で、離れて、こう」
「へぇ」
弦右衛門が最初に見本として見せる動きを、紅梅は一度見ただけで、完璧にトレースするのだ。
その動きは軽やかで柔らかく、武術に必須の力強さは皆無だったが、動き自体は完璧だった。
しかも、ちょっとした手首の回しかたや足さばき、目線のつけかたなどが日舞のそれであるため、はっと目を引く。また、全く迷いなく動くため、“切れ”があるし、華やかで、見栄えがするのだ。
ぽかんとその様に見入っているのは、弦一郎だけではなかった。
周囲の他の門下生たちも、この道場ではまず見ない、いかにも嫋やかな感じの女の子がくるくると軽やかに動くのを、時に自分の稽古を止めてまで目で追っていた。
その様にほぅと目を見開いた弦右衛門は、悪戯心を起こしたのか、おもしろがって、紅梅の“振り”を、どんどん華やかなものにしていった。
「さて、弦一郎と合わせてみようか」
いくらかの動きを決め、弦右衛門が切り出した。
弦一郎はいつもどおりに構え、ぴしりと背筋を伸ばす。自分だけでなく、周囲の空気もぴぃんと張り詰めるようにして、呼吸を整える。
目の前にいる紅梅も、弦一郎と同じ構えをとっている。同じように、まっすぐに背筋を伸ばしている。しかしその姿は柔らかく、強張ったところなどどこにもない。
「二人共、目線は相手に」
「はい」
「へぇ」
試合では、まずこうして立ち会った時、空気の張り詰めあいともいうような、雰囲気でのやりあいがある。ここで気迫で負ければもうお終いだ。
しかし、紅梅の放つ空気はひたすら柔らかく、微笑みさえ浮かべているので、弦一郎はちょっと調子が崩れそうになった。──試合ではないし、紅梅は剣士ではないので、当たり前といえば当たり前ではあるのだが。
「始め」
弦右衛門の仕切りで、弦一郎は短く息を吐くと、深く一歩踏み出した。
同時に面に振り下ろした竹刀は、さすがに力一杯ではないが、打ち合えばぱしんと音が出る程度の力の打ち込みだ。しかし紅梅は言われたとおり、弦一郎から目を逸らさず、危なげなくそれを自分の竹刀で受けた。
試合ではないとはいえ、防具もないまま顔面に打ち込まれた竹刀に怯えず、どころか相変わらずの微笑を浮かべたまま受け、弦一郎から目線を逸らさないというのは、なかなかの胆力である。ほぉ、と、誰かが感嘆の息をついた。
決められた足さばきで動き、近寄れば打ち合う。
しかし弦一郎は、紅梅と打ち合う時、調子を崩されないようにするのに骨を折った。
(──やりにくいような、やりやすいような)
ふわり、するり、ゆるり。時に、きりりと。
そんな紅梅の動きは、弦一郎がやりあったことのないものだった。
弦一郎の力強い踏み込みとは比べるまでもなく、もはや不自然なまでに足音のしない紅梅の足さばきは、まるでふわふわ浮いて滑っているようだ。
それに、あの、妨害しに飛んでくるボールの勢いを完全に殺し、掬って投げるようなボレーもどきと同じく、打ち合うときに微妙に竹刀を引いてクッションにするので、打った手応えが殆ど無いのだ。
弦右衛門はそんな受け方の指導はしていなかったので、単に癖なのかもしれない。しかしそれは“受け流し”という技術にも繋がるそれで、試合において正しく使えば、武器にもなるものである。
──まあ、紅梅は腕力も握力もまるでないので、そんな風に使うことは出来ないだろうが。
それに、よく観察すれば、紅梅は威力を殺すためというよりは、見栄えを良くするためにそのようにしているようだ、ということに、弦一郎は気づいている。
力で対抗しようとしても、どうやっても力負けして、竹刀が格好悪くぶれてしまう。しかし最初から手首や腕を柔らかく引けば、竹刀はまっすぐなままで、見栄えがする。更にそれで目線も逸らさずにいれば、ギリギリのところであるのに堂々と恐れず受けた、というふうにも見える。
紅梅は足音も殆ど無く、動きも滑るような、浮いているかのようだ。だから弦一郎の踏み込みの音や、竹刀が空気を斬る音ばかりが大きく響く。音だけ聞けば、弦一郎がひとりで剣を振るっているようだ。
ふわふわと、重力を忘れたような現実感のない動きで剣の間をすり抜ける紅梅の黒い目だけを、逃すまいという意志を込めて、弦一郎はじっと見た。
真田の剣は、術だ。人を斬るための、合理的な技術。
だが紅梅が行っているのは、動きこそその型通りだが、実際に用いるための合理性よりも、“魅せる”ためのものになっている。
とにかく人の目を引くことに特化した美しい動きに、弦一郎は気を引かれないよう更に空気を張り詰めて、紅梅の目を見つめ続ける。
最後に弦一郎が突き出した竹刀の先を、紅梅が、ふいと避ける。
それは落ちてきた花びらが、空気に押されてひらりと翻るような動きで、まったく自然で、無駄がない。
最初から決められた“振り”だというのに、避けられた、と感じてしまい、つい弦一郎はその姿を目で追った。
(しまった)
「──そこまで」
パン、と、弦右衛門が手を打った音で空気がリセットされ、弦一郎と紅梅は佇まいを直し、片や試合終了の礼を、片や舞い終えた時の所作をした。
すっかり見物客になっていた門下生たちが、ぱちぱちと拍手をする。
「いやはや、思ったより面白い試みじゃったな」
弦右衛門が言うと、興味深そうに、師範代達も頷いた。
弦一郎の動きは実用の“武”、紅梅の動きは、魅せるための“舞”。
相反する、しかし突き詰めればどちらも人を魅了するふたつの理念が、『剣舞』という名目で上手く絡みあい、組み合わさっていた。
それは弦一郎が、何万回と行った型を全く崩さずに行ったからであり、紅梅がそれを柔軟に受けるからであり、何より、弦右衛門がそんな二人を完全に把握した上で“振り”を指導し、成せたことだった。
「最後、弦一郎、お前、気を取られたじゃろ」
「う」
祖父に指摘され、弦一郎は詰まった。
しかし弦右衛門は叱るようではなく、師範代達も、なんだかにやにやしていた。
「いや、いや。あれはあれで演出のようで、良かったですよ」
「天女様に逃げられた、ああ、みたいな感じでしたねえ」
「なるほど」
自分そっちのけでわいわいやっている祖父と師範代達から目をそらし、弦一郎は、竹刀を持って立っている紅梅を見た。
ちょこんと立っている紅梅の足は、もちろん、きちんと床に付いている。
しかし先ほどの紅梅の動きは、師範代が言ったとおり、天女のようだった。掴みどころがなく、リズムらしいものもなく、重力を感じさせず、ふわふわと空気を滑るような。
どうやればあんな動きができるのか具体的に全く想像がつかず、弦一郎は、つい、紅梅をじろじろと見た。紅梅は不思議そうに、きょとんと首を傾げているが。
「お梅ちゃん、ちょっといらっしゃい」
その時、佐助を抱いた由利がやってきて、紅梅を手招きした。
行っておいで、と弦右衛門が竹刀を受け取ると、紅梅は丁寧に頭を下げて、すーっと走って道場を出て行った。その走り方も、なんだか滑るようで、不思議だ。
(あいつ)
あんなだっただろうか。
と、弦一郎は、薄いもやがかかったような気分になった。
紅梅の運動神経がいいのは初めて会った時から知っているし、今日テニスをして、それに磨きがかかっていることも確信した。
しかし、あんな、──ただ茶を飲んで羊羹を食べるだけで目を引いたり、まるで人間ではないような動きで剣を避ける動きをするのを見るのは初めてだったし、手紙でも、あんなことが出来るなどということは、聞いたこともなかった。
「あれ、取材の時とかにやれば、宣伝になるんじゃないですか」
師範代が言ったので、弦一郎は振り返った。
しかし弦右衛門は、首を横に降っている。
「あれは、剣道では出来ん動きじゃ。それに、あの娘くらい舞えるのは、そうそうおらん」
へえ、そうなのですか、と、さすがに日舞までには造詣の深くない師範代らが感嘆の相槌を打つと、自分もさほど詳しくはないだろうに、弦右衛門は何やら自慢気にも見える様子で言った。
「そりゃあ、あの紅椿殿の直弟子であるしなあ。そうでなくても結構な実力で、まだ五年生であるのに、名取になるのも遠くないらしい」
「えっ」
弦一郎が目を見開いて発した声は、師範代らの、ほおお、そりゃあ凄い、大したもんだ、というような声でかき消された。
──そやけど、うち、えっらいへたくそでなあ。いっつも怒られるんえ
出会った頃、俯いてそう言った紅梅を、弦一郎は知っている。
弦一郎には、日舞の良し悪しなどわからない。どうしてしまえば下手で、どうやれば上手いと評されるのか、見てもさっぱりだ。
だが今、ただ茶を飲み、菓子を食べるだけで目を引いた紅梅の姿も、弦一郎の剣を人ならざるもののようにすり抜けた動きも、事実である。
弦一郎はなんだか落ち着かないそわそわした気持ちになって、祖父にことわり、師範代らに頭を下げて、紅梅を追いかけて道場を出た。
ろくに稽古をしていないが、弦右衛門も師範代も弦一郎を咎めることはなかった。
そのかわり、なんだかにやにや笑いながら、まだ小さな少年の背を見送るのだった。