心に堪忍ある時は事を調う
(二)
翌日、弦一郎と紅梅は、弦右衛門と信一郎に連れられ、朝から鎌倉にいた。
何度か東京・神奈川に来ているというのに、毎度ろくに観光もせずに帰っているという紅梅を、それらしいところに連れて行ってやろう、という、真田家一同の心遣いである。
そして基本的に悠々自適の隠居生活の弦右衛門はもちろん、大学四年の時、現役大学生では合格率1パーセントの司法予備試験に見事合格し、卒業後間もなくの司法試験にも見事合格した信一郎は、一年間の司法修習期間が始まる十一月まで、今までの凄まじい忙しさと一転して、比較的暇なのだった。
昨日、あのあと、紅梅も弦一郎も普通に夕飯を食べて普通に眠ったが、弦一郎の心にかかった薄靄のような気持ちは、晴れないままだった。
そんな気持ちだったからだろうか、相変わらず夏物の和服で、日除けの傘でさえ和傘を持った紅梅を見て、弦一郎は、自分も和服を着た。
兄が昔浴衣として着ていたものだが、それ以前は祖父の長着だったため、きちんと襦袢の上から着付けている紅梅の隣に並んでも違和感のないものだ。そしてそんな様を見て、弦右衛門と信一郎は、あいかわらずにやにやしていた。
まず最初にやってきたのは、報国寺である。
臨済宗建長寺派の禅宗寺院で、足利家にまつわるドラマティックな由来が色々あるが、古くから、境内の孟宗の竹林の素晴らしさで有名な寺である。実際、報国寺、という正式名称よりも、竹寺、という通称のほうが通りが良いぐらいだ。
本尊の釈迦如来に参拝してから、僅かな拝観料を払って、竹林の細い道に入る。
朝から容赦無い日光が、一歩竹林に足を踏み入れた途端に遮られて、薄緑のほのかな光に変わる。風が吹けば、笹の乾いた葉擦れの音とともに、青い香りと涼しさが抜けた。
弦右衛門に促された紅梅は、石の小道にちょこちょこと進み出て、はるかに高い竹を見上げると、赤い和傘をくるりと回して畳んだ。その動きだけでも、何かの舞の振付のようだ。
笹の色を透かして差し込む、柔らかい薄緑の光と、すらりと伸びる無数の青竹の林の中、奥に細く続く灰色の石の小道に立った日本人形のような少女は、いかにも映えて、絵になった。
またも、ついぽかんとその様を見ていた弦一郎は、パシャリ、と、信一郎がデジタルカメラのシャッターを切る音で、はっと背筋を伸ばした。
「ははあ。こりゃまた。かぐや姫のようだのう、なあ?」
弦右衛門のその評価は、褒め言葉というより、単なる事実だった。相変わらず紅梅の歩みは重力が感じられず、今にも竹林の暗い隙間にふっと消えそうな雰囲気がある。
「ほら、弦一郎。追いつかないと、月に帰ってしまうぞ」
もはやデフォルトになりつつあるにやにや笑いで兄が言い、弦一郎は心にかかった薄靄が濃くなったような気がした。
そしてろくに返事をしないまま、小走りに、竹を見上げて歩く紅梅を追いかける。
駆け寄ってきた弦一郎がすぐそばに立つと、紅梅は弦一郎を振り向いて、にこっとした。
「きれいやねぇ」
「……うむ」
弦一郎は、竹ではなく、紅梅を見たまま、そう返事をした。
──こいつは、もしかして、美人なのではないだろうか。
と、奥にある茶席で出してもらえる抹茶と菓子を頂きながら、弦一郎は思った。
丸く整えられた爪がついた指先が、抹茶の入ったごつごつした黒い器をそっと扱うさまや、細く白い喉がこくりと動く様子、笹の木漏れ日を受けてつやつや光る黒髪が流れるのを、つい目で追ってしまう。
そしてそれは、紅梅が、その所作が、美しいからに他ならないのだ。
観光名所なので、ここにいるのは、弦一郎たちだけではない。
だがしかし、その誰もが、紅梅に必ず目を留める。単に、今時珍しいくらいの日本的な容姿と和服のせいもあるが、その所作を少しでも見れば、紅梅がただそのへんにいる子供ではないことが、すぐに分かる。
それこそここが一般に開放された観光地でなければ、竹林の奥、抹茶を飲む紅梅の姿を目にすれば、幽世に迷い込んでしまったか、くらいのことは本気で思わせられるだろう。それほどの幽玄な雰囲気が、紅梅にはあった。
竹寺を出た後も、四人は近場の名所をゆったりと巡った。
紅梅は京都とはまた違う風情の古都を眺め、そして弦一郎は、そんな紅梅をずっと眺めていた。
濃い緑の木々、古民家や寺社仏閣が並ぶ古い町並み、真っ青な空と百日紅の花のコントラストといった情緒あふれる風景に、浮世絵から抜け出してきたような少女が黒髪を翻す様は、まさに絵になった。
時に少し離れて全体を眺め、時に近寄って隣に立ち、黒い壁に切って抜いたように見える華奢な首の白さを見た。髪を高く結ったうなじから、つう、と透明な汗が流れる様ですら、いつまでも見ていられるような気がした。
美人というのは顔立ち云々のことではない、というのを、弦一郎は、この日実感した。
紅梅の面相がまずい、というわけではない。
全体的に彫りが浅く、輪郭はつるりときれいなたまご型。あまりくっきりしていない控えめな鼻、明らかに小さい口。決して不細工ではないにしろ、特徴的で、似顔絵を描きやすい顔であるといえよう。
わかりやすく美人らしいパーツはやたら長い睫毛くらいだが、上向きにくるんとカールしているわけでもなく、目尻のラインを伸ばすように真っ直ぐなものだ。
そして肝心の目は、二重の幅が広い眠たげな垂れ目で、眉もそれに沿うようにして下がりがち、という目元。しかも常におっとり微笑んでいる表情が、ラクダやアルパカを連想させる。おかげで、美人というよりは、愛嬌がある、という印象のパーツである。
不細工ではないが、特徴的すぎて、美形、とは言いがたい。
精市という弩級の美形に慣れている弦一郎は、このあたりの審美眼は的確だった。
だが紅梅は、間近で見ても毛穴の有無もわからぬほど肌が白く美しく、撫で肩で、首が細長く、まだ少女であるということを差し引いても、この上なく和服が似合う。
足袋を履いた足は大人の手に乗ってはみ出さないほどに小さく、楚々と歩くときにほんの時々見える足首は細い。骨ばったところが一切ない白い指先は無駄な動きなど一切せず、手首は柔らかく、くるりと扇のようにひらめく。
真っ直ぐな黒髪は艶々と輝いて、触れれば手に色がつきそうなほどだ。まるで漆を塗った器か、もしくは、まさに烏の濡羽色。
そして何より、彼女の立ち居振る舞い、すべての所作は確実で、危なげがなく、迷いがなく、洗練されている。
その姿は、景観保護対象の古都に、文句なしに馴染むものだった。
弦一郎は、人間国宝の舞を見ても、ただ凄いということしかわからない。良し悪しなど判断がつかない。
だが、紅梅の姿が、国宝や重要文化財と並べても遜色なく美しいということは、弦一郎はその目で見て、間違いなく断言することが出来た。
──紅梅は、美人だ。
「弦一郎、お前、女の子をあんまりじろじろ見るもんじゃないぞ」
暗くなる前に帰ってきて、居間でお茶を飲んでいる時もまだ弦一郎が紅梅を見るので、弦右衛門はさすがに注意した。
結局、昼食を取りに入った店内でも、弦一郎は紅梅が行儀よく食事をするのをじっと眺めては、自分の膳のものをいくらか食べ、また眺める、といった有り様で、いつもの早食いが嘘のようだった。
最初は微笑ましく思っていた弦右衛門と信一郎も、まるで紅梅をおかずに飯を食うような有り様の弦一郎に、とうとう呆れた。
時折、いつもなら絶対に言わない「さっさと食べなさい」という注意をして紅梅から目を逸らさせたが、ほとんど効果がなかったし、午後も全く変わりがなく、むしろエスカレートしているくらいだった。
「なん?」
熱視線に時折首を傾げる紅梅に、弦一郎は「いや、なんでもない」首を横に振る。だがその間も、紅梅から目を逸らさない。
普段から見られることに慣れているせいだろうか、紅梅は「そ?」とにっこりするだけで気にしていないのが救いだが、普通なら十分怪訝に思われるだろう凝視っぷりに、弦右衛門と信一郎は、おかしいやら冷や冷やするやらの心持ちだった。
「どうしてですか」
「どうしてってお前」
質問で返ってくるとは思わず、弦右衛門は困った顔をして、ウームと唸った。信一郎はそんな様子を見て、あいかわらずにやにやしている。
「逆に聞くが、なぜそうお梅ちゃんを見るんだ」
「綺麗だからです」
ブゴフッ、という、巨大な猪が鼻を鳴らしたような音を立てて、信一郎が、飲んでいた麦茶を噴いた。
げほげほと咳き込む兄を「大丈夫ですか」と気遣う弦一郎本人とは裏腹に、質問した弦右衛門は、口を開けてぽかんとしている。
「え? 綺麗?」
「はい。竹林の中で立っているのとか、寺の前とか、花の植え込みのところにいるのが綺麗だったので、見ておりました。あと、髪とか、手とか、ものを食べるところも綺麗です」
「……おまえ、弦一郎、……ほんっとうに、馬っ鹿正直だなあ!」
噴いた麦茶を布巾で後始末しつつ、信一郎がまだ咳き込みながら、ほとほと呆れた、という感じの素っ頓狂な声で言った。
その言い方が流石に気に触ったのか、弦一郎はむっとした顔で、信一郎を見た。
「観音菩薩は見ても良いのに、紅梅を見るのが何故いけないのですか」
国宝の神仏と女の子を同列扱いなのはありなのか、なしなのか。と、祖父と兄は悩んだ。捉えようによってはものすごい女たらしの台詞にも聞こえるし、弦一郎という少年の性格を考慮した上だと、救いようのない朴念仁の意見にも思える。
そしてこの場合、間違いなく後者であることを重々わかっている二人だからこそ、頭を抱えた。
「紅梅、お前とて、別に気にしては──」
いないだろう、と続くはずの弦一郎の声は、そこで途切れた。
振り向いて見た紅梅の顔が、いや、顔と言わず耳と言わず、目につく肌色の部分のすべてが、赤く染まっていたからだった。しかも、いつもすっと真っ直ぐな目線もうろうろと泳ぎ、微笑みの絶えない小さな口元も、変に力が入ってぐにゃぐにゃとしている。
「どうした。具合でも悪いのか」
怪訝に思った弦一郎が声をかけると、紅梅は黒髪がばさばさと乱れるほど激しく横に首を振り、次いで、肩を竦めて俯いた。
「紅梅?」
疑問符を浮かべた弦一郎が顔を覗きこむが、紅梅は不自然なまでに顔を反らし、目を合わそうとしない。しかも、思い切り顔を逸らしているせいで目につく紅梅の項に、じんわりと汗が滲んでいるのが見えた弦一郎は、眉をひそめる。
「紅梅、どうした。嫌だったのか」
そしてそんな二人を、弦右衛門と信一郎は、無言のまま見守る。
「ぷふ」
小さく吹き出す声がした。
その声を発した紅梅は、赤い顔のまま、しかし袖で口元を抑え、目を細め、肩を揺らして、くっくっと笑っている。
弦一郎はくるりと目を丸くしたが、紅梅が具合も悪くなければ気も悪くしていないことを確信し、祖父と兄に向き直る。
「ほら、紅梅も別に嫌がっておりません」
「ふひゃぅ」
弦一郎がどや顔で言うと、珍妙な声を上げて、紅梅がまた笑う。
その様子に、弦右衛門と信一郎は、残念なものを見る目で、生暖かく弦一郎を見た。
「弦ちゃん、おもろいなあ」
くふくふと、喉で空気を鳴らすような笑い方をしながら、紅梅が言った。笑い方こそ大人しいが、堪えているのか、顔色は赤く、目尻に涙が滲んでいる。
「……そうか? 見たままを言っただけだ」
「ふぇっ、くっくっくっ」
紅梅はとうとう両手の袖で顔を覆って俯き、体全体を揺らして笑った。
そして数秒そうして散々笑ってから、はぁー、と、大きく息を吐いて、顔を上げる。その表情はにっこりとして、ひと目で嬉しいということがわかる笑顔だった。
「……おおきになぁ」
「うん? うむ」
何に礼を言われているのかよくわかっていなさそうな顔で弦一郎が返事をしたので、紅梅はまた「ぷひゃ」と噴き出した。つぼに入ってしまったのか、それから延々笑い続ける。
そしてそんな二人を見ながら、「やっぱり女の子のほうが大人じゃのう」とか、「いやコレは弦一郎が特別アレで……」とか、弦右衛門と信一郎がこそこそと言い合った。
──余談だが、この時の出来事と弦一郎の発言の諸々は、早速この日の夕飯時に家族全員の耳に入り、更にそう遠くない数年後あたりから、毎年弦一郎が家族じゅうからいじられる鉄板のネタになる。
そして弦一郎は毎度両手で顔を覆って居た堪れない思いをするはめになるのだが、今の本人は、そんなことなど想像もしていない。
審美眼こそなかなか鋭いものの、やや情緒の発達が鈍いらしい弦一郎少年は、とりあえず紅梅が嬉しそうなので、満足げなどや顔を披露した。
「……お前は、何故そんなふうに動けるのだ?」
風呂に入り、夕飯を食べたあと、弦一郎の部屋で、佐和子の遺品である日本画の画集を二人で眺めているとき。
実のところ、絵ではなく、ページをめくる紅梅の指先を眺めていた弦一郎は、ぽつりとそう言った。
寝間着の甚兵衛を着て胡座をかいている弦一郎に対し、同じく寝間着として緩めに浴衣を着てはいるが、きちんと正座をして画集を眺める紅梅は、きゅっと首を傾げる。
「なん? なんやおかしい?」
「違う、逆だ。いちいち綺麗だろう、動きが」
「……ん、ぅん? そ? ……おおきに」
紅梅は顔を赤らめ、むず痒そうな、はにかんだような表情で目を泳がせる。
しかし、馬鹿正直な素直さと、情緒の発達が鈍いことに定評のある弦一郎少年の目がどこまでも真剣なので、一度軽い深呼吸をして、なるべくなんでもない事のように言った。
「んん、……“お行儀良ぅし”て、いっつも口酸っぱくして言われるよって」
「俺とて言われる。しかし、どうしても思い切り動いてしまう」
お前のように、常に指の先まで気を使って丁寧に動くということはできない、と、弦一郎は、ごく真面目に言った。
「弦ちゃんは、それでええんやないの? 特別お行儀悪いわけやないし。男はんやから、きちんとしてはったら、豪快でもええと思うけど」
「む、……いや、まあ、お前ほどの所作を身につけようというのではないが、どのようにしているのかと気になっただけだ」
弦一郎は、つるつるに磨かれた紅梅の手指の爪先を、じっと見ながら言った。
「やはり、茶道などをやっていると身につくものなのか?」
「そういうんもあると思うけど──」
心底不思議そうな弦一郎に、紅梅は、首をひねる。
「……そやね。“よそはんのもんやと思い”いうんは、言われるなぁ」
「どういう意味だ?」
首を傾げた弦一郎に、紅梅は、ゆっくりと話しだした。
「だれでも、自分の手の中にあると、自然と、自分のもんやと思てもうて、扱い方が雑になるんやて。そやけど、これはよそのもんや、出されたもんや、借り物やて思たら、扱いかたが丁寧になるて」
紅梅は、両手を使って、佐和子の遺品である画集を丁寧に閉じる。
「お母はんなん、よう脅してきはるえ。アンタその着物汚したら、そのぶんきっちりつ(・)け(・)て、出世払いしてもらいますえ、いうて」
舞妓の衣装は数百万からがざらである、と祖父に聞いたことがある弦一郎は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「そないして考えたら、着とる着物も、道具も、食べるもんも、ぜーんぶ、うちのもんと違うし。特に屋形のもんは、気ぃ使て扱うようなるえ」
「……む」
養われている子供の身である以上、それは弦一郎にも当てはまる。
しかし、家娘であると同時に、『花さと』に抱えられたおちょぼという立場もある紅梅は、そういった意識が特に強いようだ。
「モノだけやのぉて、口のきき方いうてもそぉや。下手なこと言うたら、おばあはんやお姐はんや、屋形の評判も下がってまうし。評判第一の商いやさかい」
「うむ、……まあ、そうだな」
なんとも現実的な厳しさに、弦一郎は唸った。
そんな弦一郎を見て、紅梅は小さく笑い、佇まいを直す。
「そや。うちのもんなん、いっこもあらへんよってなァ」
それは、とてもあっさりと発された言葉だった。
ごく当たり前のことであるというような、そして、仕方がない、ともいうような。
そして弦一郎は、その言葉に対して、否定する言葉も肯定する言葉も発することが出来ず、開けかけた口を結局閉じた。
なんとなく、そんなことはないだろうと言いたい気もするが、理屈では、全くそのとおりだとも思うし、立派な心がけであるとも思う。だが、そうだな、と簡単に頷くのも、なんだか──、なぜか、なんとなく、嫌な気がした。
昨日から感じている、正体不明の薄靄のような気持ちがまた濃くなるのを感じ、弦一郎は口をへの字にして、腕を組み、むっつりと黙った。