心に堪忍ある時は事を調う
(三)
「……そういえば、結局、お前と試合ができなかったな」

 ぼそり、と、弦一郎は言った。
 それは答えの出ない問から逃げた先の、半ば現実逃避に近い思考の流れから来た発言だった。もともと“雑談”というものがあまり得意ではない弦一郎だが、紅梅と話すときは、思いついた端から喋ってしまうところがある、と、なんとなく自覚がある。
 普段は、脈絡のない話題展開をする相手と喋るのは苦痛ですらあるのに、紅梅が基本的に聞き役に徹してくれるからか、徒然なるままに、という風情の喋り方をしてしまうのだ。

「ああ、そやねぇ。あんお人らァの事で色々あったさかい、忘れとったわ」

 そして紅梅も、こうして、突然変わる話題にも嫌な顔をせず、おっとりとついてきてくれる。それはとてものんびりしていて穏やかで、その時の弦一郎の気分は、彼女からの手紙を読むときと、全く同じものだ。
 よく考えれば、一年に一度しか会えない、今も明日帰ってしまう相手なのだから、もっと濃密な会話運びをすべきなのかもしれないが、弦一郎は、紅梅とこうして話すのが、どうしても心地良かった。

「そやけど、打ち方とかはよぅ教えてもろたし、弦ちゃんが他んお人と試合しとるん特等席で見られたよって、あれはあれで楽しおしたえ?」
「うむ、それはまあ、俺も、結果良ければ、と思うのだが」
 弦一郎は、甚兵衛の裾をいじりながら言った。

「テニスに限らず、……お前と勝負事をしたことがないな、と思ってな」

 何にしても勝った負けたに持ち込むくせのある弦一郎であるのに、本当に唯一、紅梅とは、そういうやりあいをしたことがない、ということに、弦一郎は気づいた。せいぜいが一昨年の金毘羅船々くらいだが、紅梅は最初にルールを教えるときに見本としてやっただけで、あとは、すっかり熱中した弦一郎と、付き合いの信一郎の勝負が続いていた。
 弦一郎がそう言うと、紅梅はおっとりした垂れ目をくるんと丸くし、次いで、けらけらと笑った。

「うちに勝ったり負けたりして、どないするのや」
「む」

 そう言われればその通りではあるのだが、勝負馬鹿の癖が出始めた弦一郎は、そわそわと胡座をかいた足を直し、紅梅の顔を覗きこむように見る。

「お前、将棋打てるだろう」
「打てるけど。今からおじいさまんトコ行って打つん?」
「むぅ。では簡単に、しりとりか、古今東西……」
「延々続きそぉな気ぃする」

 確かに、と、弦一郎は頷く。
 普段手紙でやりとりしているだけに、お互いの語彙や知識の量は、だいたい把握できている。そしてそれを思うと、紅梅の言うとおり、言葉遊びの類は、変に延々続いてしまいそうだった。

「腕相撲……」

 言いかけて、弦一郎は、いや、と目を伏せた。

「……は、だめか」
 速攻で却下した弦一郎に、紅梅はきゅっと首を傾げる。
「なんであかんの?」
「勝負にならんに決まっているだろう」
「……そんなことおへん思うけど」
「はあ?」

 弦一郎が怪訝な顔をしたので、紅梅は珍しく、いつもおっとりと下がり気味の眉尻を心持ち上げた。

「うち、結構力あるし」
「……ええ?」
「体力あるてよう言われるし」
「まあ、それは……。だが体力と腕力は違うだろう」

 昨日もテニスと剣道の体験を続けてこなし、今日も鎌倉を和服と草履で歩きまわってへばらなかった紅梅なので、平均以上の体力があることは、弦一郎も認める。
 しかしそれとこれとは別だとあっさり言われ、紅梅はさらにむっとした顔になった。
「お、お姐はんらァが開けられへん瓶とか、開けたりするえ?」
「うーん、むぅ……」
「なんで信じへんの」
「信じていないわけではないが」
 弦一郎は、困ったのと呆れたのが半々の表情をした。
 だが紅梅は僅かにふくれっ面をして、じっと弦一郎を見ている。信じていないではないか、と言わんばかりの顔だった。

「……では、やってみるか?」
「やる」

 即答だった。
 何が琴線に触れたのか、最初に勝負どうこうと言い出した弦一郎よりも完全にむきになっていて、口元は微笑みが消えてへの字になっており、黒い目はやる気満々だった。

 弦一郎の部屋には、壁際の文机以外に机はないので、それぞれ座っていた座布団を畳んで肘置きにする形にして、うつ伏せに寝転ぶ。
 そして二人は、出会ってから初めて、お互いの手を組んで握り合った。



「……く、ううううううううううううう」
「そら、見たこと、かっ」

 思い切り力を入れているのだろう、ぶるぶる肩を震わせている紅梅に、弦一郎は呆れた口調で言った。
 それなりに自信があったらしいだけあって、紅梅の腕力は、弦一郎が息ひとつ乱さずあしらえる、というほどではなかったものの、やはりまるで及ぶものではない。

 ぎゅっと弦一郎の手を握る紅梅の手は、こうして手を合わせているからこそ、弦一郎より随分白いのがよく分かる。手の大きさ自体は弦一郎とそこまで変わらないのだが、その柔らかさは、タコだらけでごつごつと硬い弦一郎の掌とは、比べるまでもなかった。
 剣道で鍛え、今では体格のいい中学生よりも重いサーブを放てる握力でこの柔らかい手を握るのは躊躇われたため、弦一郎は握力を殆ど使わず、腕と肩の力だけで対抗していた。

 そういうハンデがある上で、組んだ腕は弦一郎の手の甲側に少し倒れているが、そこからびくともしていない。
 あんまり紅梅が一生懸命なので、弦一郎はほどほどの力で紅梅の腕を押し返しながら様子を見ているが、やろうと思えばいつでも、あっという間に勝ててしまうのは明らかだった。

「ほら、頑張らんと、負けるぞっ」
「あー! あー!」

 悪戯に腕を押し返せば紅梅は声を上げて必死に対抗してくるが、やはり無駄な抵抗にしかなっていない。なのに諦めずにうんうん唸っている紅梅に、弦一郎はなんだか楽しくなってきて、笑みを浮かべながら、力を緩めたり強めたりしてみた。
 紅梅は歯を食いしばって呻き、びくともしない弦一郎の腕を睨んでいる。

「そろそろっ、諦めんかっ」
「う、く……」

 にやりと笑う弦一郎に、紅梅は眉間に皺を寄せる。
 そして一瞬の逡巡のあと、力を入れるために畳に着いていた左手を、組んだ手にがしっとかけた。予想外の行動に、弦一郎の目が丸くなる。

「む、おお?」
「う──!」

 もはや腕相撲の体裁すらなしていないが、紅梅は両手を使い、弦一郎の右腕を押さえつけるようにして倒した。
 弦一郎は驚いたのもあり、また力の差がありすぎて勝負になっていなかったことから、さほどやり返す素振りもなく、そのまま手の甲を畳につけることになった。寝転んでいるので、肘や肩をひねらないよう、弦一郎が、体ごと半分ひっくり返る。

「……勝ったっ!」
「いや、ズルではないか──」

 勝利を示すためだろうか、膝立ちで宣言した紅梅に、弦一郎は呆れ半分の声で言って、半分転がったままの姿勢で彼女を見上げた。

「そやっ、かてっ、」

 どれだけ全力だったというのだろうか、膝立ちになって弦一郎を見下ろす紅梅は、つやつやの黒髪が大きく乱れ、真っ赤な顔にばらばらとかかっている。たくさん酸素を取り込もうと大きく開いた口は、はーはーと荒く息をつき、その度に上下する胸元の浴衣の合わせ目は、ずるりと歪んでいた。
 仁王立ちに近い膝立ちのため、裾も乱れて、脹脛が少し見えている。

「弦ちゃん、びくともっ、せんしっ、……ぇふっ」

 息が乱れているのに無理に喋ったせいか、紅梅は軽くむせた。
 こちらにやってきてからずっと完璧だった立ち居振る舞いとはかけ離れたその姿に、弦一郎はぽかんと口を開けて呆ける。
 そして、そんな弦一郎の表情に、紅梅は何を思ったのか、いつもの微笑みよりずっと子供っぽくにんまりと口角を釣り上げ、合わせが乱れた胸元を僅かに反らし、どや顔をしてみせた。

「ぶっ」

 その表情とぐちゃぐちゃになった身なりがどうにもおかしくて、弦一郎は盛大に吹き出し、斜めになっていた身体をごろんと転がして、腹を抱えて大きな声で笑い出す。

「はははははははは!!」
「なんで笑うん!」

 畳に突っ伏して爆笑する弦一郎に、紅梅は撫で肩をいからせた。
 一回転してまたうつ伏せになっている弦一郎は、笑いをこらえながらチラッと顔を上げて紅梅を見る。しかしその乱れた格好がやはりなんとも可笑しくて、ぶはあ、とまた噴出した。

「おまえ、ズルして勝っておいて、その顔、くくく」
「う……」
「ひー」
「笑いすぎどっしゃん、馬鹿力!」

 完全にむくれた顔の紅梅が、丸めた背を震わせて笑っている弦一郎の肩辺りをべしべしと叩く。
 しかし弦一郎は度々ちらっと紅梅を見て、その膨らんだ頬を見てはまた笑う、といった様を繰り返すだけだった。完全につぼに入ってしまったのか、ひいひいと引きつりすら起こして笑い続けている。
 そんな弦一郎に、紅梅は更に膨れっ面になった。



「──弦一郎!」

 どかどかどかどか、と勇ましくもキビキビとした足音の後、断りも入れずに勢い良く襖を開けて姿を表したのは、弦一郎の母、諏訪子だった。
 弦一郎の部屋から騒音が聞こえるというのは普通ないことで、せいぜいが、たまに精市が来た時に小競り合いを起こす事くらいである。
 それが、よりにもよって、めったに無いほどの大事な客、しかも女の子を預かっている時に聞こえたため、まさかと思いつつも心配し、様子を見に来たのだった。

 そして、その問題の二人はといえば。

 双方やや着ているものを乱し、向い合って両手の指を組み合い、掌を押し合っている、という格好。
 紅梅は振り上げた両腕の肘を曲げ、牛が角を使って頭突きをするような格好をしており、弦一郎がそれを真正面から受け止めている様は、諏訪子が心配していた喧嘩をしているように見えなくもない。
 ──とはいっても、弦一郎のほうが圧倒的に力が強いのはあきらかだ。胡座をかいてどっしり動かない弦一郎に、紅梅が無駄に挑んでいるだけ、というのは、諏訪子もひと目で理解できた。

 ふぬぬぬ、と、可愛らしくも力んだ声を上げている紅梅の突進を悠々と受け止めながら、弦一郎が諏訪子を見た。

「あ、母上」

 弦一郎がそう言うと、紅梅は驚いた猫のようにビクーンと全身を小さく跳ねさせるようにしたかと思うと、弦一郎と組んでいた手を離し、その手で髪をざっと整え、色んな所を素早く引っ張って乱れた身なりを整え、そして座った姿勢のままササッと後ろに下がって、きちんと正座をした。
 この間、三秒である。あまりの早業に弦一郎はぽかんとしたが、まるでお人形のようにちょこんと座り、いつもの澄ました微笑を浮かべるさまが、つい今しがたまでの、なりふり構わず腕を振り上げたり、歯まで剥いて力んでいた表情と落差がありすぎて、また噴出した。
 陳列された人形のようになっていた紅梅は、首だけ動かして、きっ、とした目で、また自分を笑った弦一郎を見る。

 そんなやりとりに、諏訪子は目を丸くし、しかし万が一ということも考え、すぐに厳しい顔をした。

「何をしていたのですか」
「遊んでおりました」
「ちゃうもん! 真剣勝負やもん!」

 また表情を崩し、きいっ、と紅梅が言うと、弦一郎はまたにやりと笑った。
「勝負になっとらんかっただろうが」
「うー、るー、さー、いー!」
 紅梅は最後の音で、イー、と歯を見せしかめっ面をした。そして弦一郎はまた噴き出し、後ろに倒れ、仰向けになってけらけら笑い始める。

 諏訪子はといえば、そんな二人を、呆気に取られて見つめていた。
 なにしろ、一時は乱暴者すぎて問題を起こしまくり、厳しい躾で矯正したものの、今度は家族であろうともいつも堅苦しい態度を崩さなくなって久しい次男が、ひっくり返って爆笑しているのである。
 そしていかにも育ちが違う、という風に品が良く、お人形のように大人しいと思っていた紅梅もまた、弦一郎に対抗して肩を怒らせ、膨れっ面で声を張り上げている。
 自衛官であり、剣士でもある諏訪子としては、紅梅の暴れかたは子犬や子猫が転げまわっているのと大差ないくらいの可愛らしいものだが、精市以外では喧嘩で負け知らずの弦一郎に真正面から突っかかっているのは、なかなか勇ましい。

 とはいえ、弦一郎はまるで真面目に取り合っていないので、虎の子に子猫が無謀に突っかかって、軽くあしらわれているようにしか見えないが。
 そして、あの弦一郎が“真面目に取り合わない”というのも、とても珍しいことだ。いつもなら、むしろ冗談が通じずに全ての事柄を糞真面目に受け取ってしまう融通の効かなさが、どうしても抜けないというのに。
 そんな弦一郎が、むきになっている女の子相手に、大笑いしながら、自ら“遊んでいる”と言ったのだ。

 二人はまた何言か、会話になっているのかいないのかわからない言い合いをし、紅梅が両手で弦一郎をばしばし叩いたのを皮切りにして、またお互いの両手指を組む格好になる。そして紅梅がうーうー言いながらひたすら弦一郎の掌を押し、弦一郎が笑いながらそれを押し返す、という図が出来上がった。

「いやー!」
「お前、軽いな!」

 弦一郎に押され、紅梅が、頭突きをするような格好も虚しく、その格好のまま後ろに滑って下がる。畳の目がレールになって、つるつると滑るのもあるだろう。負けじとそこから押し返そうとした紅梅は、しかし畳で滑ってべちゃりと転び、それをまた弦一郎が笑う。

 ──じゃれあっている。

 そうとしか表現できない、そしてそんな風に接するなどとは思っても見なかった二人を、諏訪子は唖然として眺め、しかし数秒してから、ふっと微笑んだ。
 それは、もしここに彼女のファンの女性門下生がいたら、うっとりと見惚れているだろう笑みであったが、弦一郎はそんな感性を持っていなかったし、紅梅は弦一郎に突っかかるのに忙しかった。

「おちゃん、いいことを教えてあげましょう」

 畳に倒れこんでいた紅梅は、諏訪子の凛とした声に、顔を上げる。くるんと丸くなった目と、その顔にかかる乱れた髪が愛らしく、諏訪子は笑みを深くした。

「弦一郎は、あっちむいてホイがものすごく弱いですよ」
「ほんまどすか!」
「母上!」

 目を輝かせる紅梅とは裏腹に、弦一郎は苦い顔である。
 一昨年の金毘羅船々でもなかなか勝てなかったように、弦一郎は、元々の素直で真面目なな性格からか、実はフェイントに弱い。テニスに限っては、その弱点はかなり改善されているものの、決して得意ではない。

「じゃーんーけーんーでっ」
「待て! それは無しだ!」

 こちらとは違う、関西方面独特のリズムでじゃんけんを仕掛ける紅梅に、弦一郎が待ったをかける。
 そこでまたやるのやらないの、ズルだのなんだのぎゃあぎゃあ言い始めた二人に、諏訪子は「もう遅いのですから、あまり騒ぐんじゃありませんよ」とだけ言い置いて、すとんと襖を閉めた。






 諏訪子の言うとおり、あっちむいてホイでは紅梅が弦一郎に圧勝してどや顔をし、また腕相撲という名のただの転げ合い第二ラウンドが落ち着く頃には、就寝時間を三十分は過ぎていた。
 いつも寸分違わず夜九時に布団に入る弦一郎は、時間が過ぎているのに気付かなかった事に驚き、しかし自覚した途端に働いた体内時計が起こす大きな欠伸に従って、押し入れから布団を出して敷いた。

 その間紅梅はといえば、全力という全力を出し切ったのか、ぜえぜえ言いながら、ずっと畳に倒れ伏していた。相当疲れたらしい。
 ──テニスや剣道、鎌倉巡りでもへばらなかった彼女であるのに、である。

 例年通り、紅梅の布団は客間に敷いてあるのだが、いつまで経っても来ない紅梅の様子を見に弦右衛門がやってきて、畳の上に溶けたようになっている紅梅に目を丸くし、何故こうなっているのか聞くと、更に目を丸くし、次いで、豪快に笑った。
 紅梅は立ち上がるのも億劫らしく、弦右衛門に抱き上げられた。

 そして弦右衛門の肩越しに、もう遅い時間だからか、それとも疲れからか、眠そうな目を本当に眠たげな半目にして、弦一郎を見た。

「一勝一敗やし……」

 ──まだ言っている。

 弦一郎はにんまりして、「一勝三敗ぐらいではないか」と言い返した。途端、紅梅の頬が膨らむ。

「うー!」
「もう俺は寝るぞ。おやすみ」
「うー……」

 紅梅は悔しそうだが、もう一度ウーと唸ると、襲い来る疲労と眠気に今度こそ負けたのか、「おやすみ、弦ちゃん」と言って、弦右衛門の肩に突っ伏した。
 弦右衛門はその間ずっとにやにや笑っており、そしてそのにやにや笑いのまま、紅梅を客間に連れて行く。

 一人になった弦一郎は、シンと静かな部屋の電気を消して、布団に潜り込む。
 黙って横たわれば、非力な紅梅相手とはいえ散々暴れたせいか、どくどくと自分の心臓の音がうるさくなっているのがわかった。

「……く」

 勝負と言い始めてから、大方膨れっ面かしかめっ面のままだった紅梅を思い出して、弦一郎は我知らず、笑みを浮かべる。
 その場で会話をするより格段に詳しく、多くの情報が込められている手紙をやりとりし、お互いのことはだいたい知っているような気になっていたが、こうして直に会わなければ、紅梅がこうまで負けず嫌いであったなど、──大きさは弦一郎と同じくらいなのに、比べるべくもないほど手が白く柔らかいことや、あっさり押して下がらせることが出来るくらい軽いことも、知ることはなかっただろう。

 ──うちのもんなん、いっこもあらへんよってなァ

 よそのものだ、自分のものではない、借り物なのだと思えば扱いが丁寧になると、彼女は言った。
 テニスをした時、弦一郎が売られた喧嘩の邪魔にならないようにと動いていた彼女の動きは曲芸じみていて、剣道では、人間味すら薄い、ふわふわと天女のような動きを見せた。
 鎌倉の町を、幽玄な竹林を歩く紅梅もまた、月に帰るかぐや姫を思わせ、観音菩薩よりも目を惹いた。
 ただ茶を飲んで菓子を口に運ぶ様すら、絵になるほどに美しかった。

 ──だが、自分とやりあった、先ほどの様といったら、どうだ。

 髪を振り乱して全力で弦一郎の手を握り、裾や襟が乱れるのも構わず脚を踏ん張り、眉をしかめて頬を膨らまし、歯を食いしばっていた彼女。
 ズルをしたくせにどや顔を浮かべ、疲れ果てているくせに負け惜しみを言った紅梅は、どんなお世辞をひねり出しても、美しいとは言いがたい。

 弦一郎はしばらく笑っていたが、興奮でうるさかった鼓動が落ち着いてくると同時にやってきた眠気に、すう、と滑らかに寝入っていく。

 穏やかになったその胸に、あの正体不明の薄靄のような気持ちは一切ない。
 いつもより遅い就寝だというのに、弦一郎は非常に晴れ渡った気分で、眠りに落ちた。
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BY 餡子郎
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