心に堪忍ある時は事を調う
(四)
翌日は紅椿の公演日であり、紅梅が京都に帰る日である。
弦一郎はいつもどおり、明け方四時に目を覚まし、いつもどおりの鍛錬をこなした。睡眠時間は少し短かったはずだが、前日の疲れは全く体に残っておらず、すっきりとした気分だった。
六時前くらいになると紅梅も起きてきて、かつて佐和子の手伝いをしていたように、由利を手伝って台所に立つ。
紅梅は普段から一人でも台所に立って朝食を作り、修行先でもあるお茶屋兼料亭の『瓢屋』で手ほどきを受けてもいるそうなので、気を使ったというより、普段の習慣の延長なのかもしれない。
佐和子亡き後、赤ん坊を抱えて真田家の台所を預かるようになった由利は、大変だろうに、その愚痴を言ったことは一度もない。
しかし小さな助手がいることの快適さにはいたく感動したらしく、「女の子がいるといいですね」と、朝食の時に三度は言った。
公演は午後、いや夕方に差し掛かる三時からなので、弦一郎は庭でテニスの基礎練習を行った。紅梅は縁側に座って、その様子をじっと見ている。
練習メニューを消化し、髪の生え際に溜まった汗をタオルで拭った弦一郎は、後ろを振り返った。
目が合うと、座っていた紅梅はひょいと縁側を降りて、置いてある大人用のつっかけを足に引っ掛けて、ぺたぺたと歩いてくる。
「ん」
「ん」
双方、何も喋らない。口すら開けずに発された声とともに、ラケットを手渡す。
寝る前に散々じゃれあってからというもの、弦一郎と紅梅の会話は少し少なくなった。
──が、それはなにか気まずくなったということではない。むしろその逆だ。
きちんとした体裁ではなかったものの、合図もなしにお互いをフォローし、ダブルスパートナーとしてコートに立つ。竹刀を合わせ、息を合わせた剣舞。ぎゃあぎゃあ喚きながら転げあって、相手の力加減や動きを見極める。
そんな体験を経て、二人はいちいち一から十まで説明しなくても、なんとなく、お互いの言いたいことがわかるような気がしはじめていたからだった。
きちんと着付けてはいるのでだらしなくはないが、紅梅は浴衣のままで、足元は素足に、ぶかぶかのつっかけだ。
しかし紅梅はラケットを構え、弦一郎が教えたフォームを完璧に再現し、軽くトスしたボールを打つ。
生憎、握力も腕力も足りないので、球威のないボールは的に当たらなかったが、フォームは本当に完璧だった。
(──こいつ、ボディバランスに関しては本当に飛び抜けているな)
と、弦一郎は確信する。
運動神経といっても色々あって、筋力、瞬発力、持久力、跳躍力、更にはもっとピンポイントに、動体視力など。テニスは一つでも欠けていれば一流にはなれないと言われる、総合能力スポーツだ。更には、ゲームメイクなどを行う頭脳や駆け引きも必要になるので、脳筋ではやっていられない。
テニスにおいて、選手に求められる物は、本当に多彩だ。それは多くの子供達の心を折る残酷な事実であり、そして、本来突出したものが少なく、全体的にこなせるが器用貧乏の感のある弦一郎にとって、心を支える力強い光明でもあった。
──自分には、突出して得意なものはない。
と、弦一郎は、もはや痛いほど自覚がある。
だから全てを鍛え、それぞれの分野で必殺といえるようなショットを持つ、という具体的な目標を、弦一郎は最近固め始めていた。一昨日、佐々部ら相手に放った、剣道で鍛えた握力の強さを活かしたグランドスマッシュは、最初に完成したその一つである。
最近は、居合い抜きの速度を応用したスイングなどを考案し、形にするべく、剣道とテニス、両方で更なる練習を重ね、思索を続けている。
そして紅梅は、弦一郎とは逆に、力の強さや瞬発力、筋肉のバネなどは心もとないが、自分の体を精密にコントロールして動かすボディバランス能力に関しては、少し気味が悪いくらいに優れていた。
柔軟性は弦一郎よりあり、普通なら届かないようなところに飛んだボールを水のようになめらかな動きで捉えてみせたのも、一度や二度ではない。
一瞬の剛力を出すことは出来ないが、絶妙で繊細な動きが可能で、それはやはり普段動かさないような筋肉を酷使する、無理のある姿勢を常に強要される日舞をやっているからこそだ。
手首を柔らかく使い、ボールの勢いを完全に殺してラケットで受け止めるさまは、まるで暴れる魚をタモで易々とすくうようだった。
自分も日舞をやるという訳にはいかないが、球威や回転を完全に殺すあの繊細な柔軟性は、取り入れればかなりの武器になることは間違いない。紅梅なら初心者の暴投を受け止めるくらいがせいぜいでも、筋力のある弦一郎がやれば、スマッシュの威力を殺して返すこともできるようになるかもしれない。
弦一郎は、今までずっと主力にしてきたパワー系のトレーニングの他に、柔軟性に関するトレーニングについてコーチに相談してみよう、と心に決めた。
こうした具体的な構想や指針は、祖母の死をきっかけに、真田の剣の真髄を教わり、庭球訓を見直したりして、精神的な面で、自分のテニスとは何か、ということをきちんと考えだしてからというもの、どんどん捗るようになっている。
「あー」
紅梅が声を上げたので、弦一郎は、思考の海から上がる。
見れば、十回ほど壁に打たれたボールは脇に飛んでいて、紅梅の手に握られたラケットは、見るからに歪んだ持ち方になっていた。
「やっぱり手がしんどいなあ」
紅梅はラケットを持ち替え、右手を握ったり開いたりして言った。
やはり握力が足りないと、打ち続けることでグリップがずれ、緩む。いくらフォームが完璧でも、肝心のラケットをきちんと握れていなければ意味が無いのは、最初に出会った時の打ち合いでも、一昨日の佐々部でもさんざん立証されていることだ。
「そうだな。フォームは申し分ないし、お前は器用だから、握力を鍛えれば、もっと精密なショットが打てるぞ」
「そ?」
紅梅は、こてんと首を傾げた。表情は、いつもの、彼女の標準である、ごく僅かな微笑。
「残念やけど、手ぇが厳つぅなってもうたら、あかんよってな」
「む……?」
「舞妓はんの“作った”格好いうたら、着物分厚いし、顔も首も白塗りやし、髪も日本髪やから、“素”の格好がようわからんけど──」
紅梅は、自分の首もとや顔を手で示しながら、言った。
「手ぇは、どないやっても素のまんまやろ? 舞う時とか、お客はんとおしゃべりしたり、お茶出したりする時、注目されるし、近ぅで見えるし。そん時に手ぇとか指がごつごつしとったら、あんまり良ぅあらしまへんやろ?」
「……確かに」
華やかで嫋やかな姿の舞妓の袖口から見える指先が男のように節くれだっているのを想像した弦一郎は、紅梅の言うことにいたく納得し、深く頷いた。
それに、紅梅の手がとても白く柔らかいことはつい昨晩実感したばかりだし、あの紅椿の手とて、年齢相応の皺が多く刻まれていても、爪は美しく整えられており、紅梅よりもはるかに無駄のない所作を行うさまは、それこそ、仏像の御手のようだ。
弦一郎は自他ともに認める朴念仁ではあるが、鎌倉の景観に佇む紅梅を、美術品を見るのと同じ目線で眺める審美眼を持ってもいる。その価値観を働かせれば、彼女たちの手を力仕事で損なってしまうことの惜しさは、すぐに理解できた。
弦一郎自身は、強い体を求め、それが何より素晴らしいことだとも思っている。しかし、そうではない世界があることを、紅梅という存在で知り、実感し、納得してもいる。
そうでなければ、紅梅が言うようなことを、くだらない、と切り捨てたかもしれない、という自覚が、弦一郎にはある。
紅梅と知り合い、手紙をやりとりしていなければ。
彼女の、もはや異世界のような暮らしやその価値観、文化を知らなければ、弦一郎は美術品を美しいと思うことも、ましてや人に対してその美を見出すこともなかっただろうし、自分とは違う価値観で動く世界の美を認めることも、きっと出来なかっただろう。
祖母の言う『器の大きい人』には未だ遠いが、遠いということを自覚し認め、そして今の自分の器の小ささを客観的に見つめることが出来るようになった弦一郎は、確実にあの頃より成長していた。
「耳もそやね。素のまんま。そやし、ピアスの穴は絶対開けたらあかんの」
「なるほどな」
彼女らにも私生活がある、ということは当然にしても、舞妓の手が荒れているより、耳にピアスの穴がある方がなんだか嫌だな、と、もともとピアスを装着することについてあまりいい印象のない弦一郎は、うむうむと二度頷く。
「……そやから、ほんまはお料理とかもせんほうがええんやけど、……楽器もするし、て屁理屈言うてな、許して貰とるん。指切ったり火傷せんように、だいぶ気はつけとぉけど」
「ほう。……もしや、むしろそのせいでより上達したのではないか? 緊張感を持って気を配って取り組むのと、ただがむしゃらに暴れるようにやるのでは、習得度合いは随分違うものだからな」
「……その発想はあらへんかったわ」
紅梅はくるんと目を丸くした後、ころころと笑った。
そして、「弦ちゃんはえろぅがむしゃらにやっとったみたいやし、説得力あるわ」と、笑いながら、京女らしい、ちょっと嫌味なことを言う。
祖母の死に関して、自分を痛めつけるようにして無茶な練習をしたことを言われているのは、すぐにわかった。弦一郎は苦笑して、「それは良かった」と返す。
二人が、あの時のことをすっかり乗り越えていることを示す、穏やかなやりとり。
もうほんまにケガ大丈夫なんよな、ああ前より丈夫になっているくらいだ、そら良ろしおした、といくらか話すと、ふと、沈黙が降りる。
みぃーん、みんみんみん、と、すぐ横にある、真田家自慢の大きな木に止まったセミが、大きな声で鳴いた。真っ青な夏空がまぶしく、強い日差しと木が真っ黒な影を作り、二人に一時の涼しさをもたらしてくれる。
「──うち、来年、名取になるん」
弦一郎は、どきっとした。
それは、弦一郎が知らなかったことだった。弦右衛門は知っているのに、秘密の手紙をやりとりしている弦一郎が、彼女から知らされなかったこと。心にかかる、薄靄の発生源。
紅梅は弦一郎を見ないまま、少し俯いている。
蝉の声に負けそうな声に、弦一郎は耳を澄ませて、慎重に口を開いた。
「……うむ、お祖父様からそれらしいことを聞いた」
「ほぉか。おばあはんが言うたんやろなぁ」
紅梅の反応は、あっけらかんとしたものだった。少なくとも、秘密を明かした、というようなものではない。
弦一郎はそれに少し拍子抜けし、もしや言うほどのことでもないことだったのか、と思う。しかし、俯き、ぽそぽそと話す紅梅の様子はやはりあまり気楽な感じではないので、壊れ物を扱うような丁寧な口調で、尋ねた。
「名取、というのは……、免許皆伝、というようなものだったか?」
「そこまでとちゃうえ。んー……」
日舞にかぎらず、華道や茶道、雅楽器など、日本の伝統芸能では、『家元制度』と呼ばれる形態が成り立っている。
家元の襲名方法は世襲であったり先代指名制であったり、はたまた決まり事も大きく違っていたりと様々ではあるが、その流派を設立した“宗家家元”を頂点に、多くの門弟が従い、その中で弟子を持つことを許された師範格の門弟が、さらに門弟を持つ──、という、ピラミッド型の組織形態であることは同じだ。
そして、名取ということになると、流派名、そして芸名を名乗ることを許されること、そしてその試験と見極めは宗家家元が行う、ということも同じである。
そして紅梅曰く、名取というのは、流派の一員として、本格的に舞うのを許されるというか、これから専門的なことをするにあたって、基本の技能を習得したと認められること、であるという。
「お弟子はん持てるよぉなるお免状と、またちゃうよって」
「しかし、中学生にもならんうちにというのは、凄いことなのではないのか? それとも、別に珍しくもないことなのか?」
「お家元は、三十年ぶりやて言わはったけど……」
「三十年……」
「……おばあはんは、おんなし十二で名取にならはったて」
「凄いのではないか、やはり」
三十年に一人の逸材であることは確かなのだ。それに、これからのことはわからないにしろ、最初の経歴が人間国宝と同じになるということは、やはりすごいことだろうと、弦一郎は、興奮気味に言った。
「前は、へたくそだのなんだの言っていたのに、凄いではないか」
「そ、やろか……」
──しかしなぜか、紅梅の表情は、いまいち明るくない。戸惑っているような、納得いっていないような、そんな表情のように見受けられた。
「……何か、納得いかん事でもあるのか?」
「うー、……ん」
紅梅は普段から下がっている眉尻を、もっと下げた。
いつもはただ彼女をおっとりと見せるパーツが、今は、ほとほと困り果てている、というのを、この上なくわかりやすく表現していた。
「最初に、その、へたくそやて言われる、言うたときな?」
紅梅が話しだしたので、弦一郎は、真剣な表情で佇まいを直した。
「うむ」
「弦ちゃん、とにかく仰山練習せぇ、いろんなお人に見てもらえ、て言わはったやろ」
「言った」
弦一郎は、いかにも自分の発言には責任を持っている、というふうに、はっきり頷いた。
「そやし、うち、そん通りにしたん。仰山練習して、いろんなお師匠はんやら、目ぇの肥えたお客はんやら、いろんなお人に見てもろて、どこが悪いとか、こうしたほうがええとか、言うてもろて、直して──」
紅梅は、また一度言葉を切り、少し俯いた。
「──そやし、みぃんなが、こないせえ、言うんは、……おばあはんの舞やのや」
ぼそり、と呟くような声は、恐る恐る、といった感じだった。
空気を読むとか察するというようなことが苦手な弦一郎が、おそらく紅梅は、このことを今はじめて口にしたのだろう、ということがすぐに分かったくらい、その声は密やかだった。
「おばあはんは、……“紅椿”、は」
──これは、内緒話だ。
と、弦一郎は正しく察した。
いつも自分にだけ向けて書かれる、しっかり封をされた、弦一郎の目以外には触れることのない、彼女の手紙。秘密の内容。祖父も誰も知らない、紅梅本人から、自分だけに伝えられる言葉。
弦一郎が、誰にも明かさない心の奥底の弱みを文字にして彼女にだけ伝えるように、彼女も今、自分の弱みを、本音を、自分に曝け出そうとしている。
そしてだからこそ、一音たりとも聞き逃してはならないと、弦一郎はより耳を欹てた。
「流派のお舞を、完成させたお人や。ただ伝統やいうだけやのぉて、今の時代でも通じる芸術にしたお人。おばあはんの舞が、流派を、京都の花街を、芸姑を、日舞いうもんを、世界に進出させたて言われとお」
そやから人間国宝なん、と紅梅は続けた。
こうして不思議な縁あって、弦一郎は、紅椿について、それなりに調べたことがある。
紅椿は、最も海外で日舞を舞った女性として、ギネスブックにも登録されている。今年も確か、二回はフランスで公演を行っているはずだ。その活動は日本の国際活動としておおいに注目されており、明確な肩書があるわけではないにしろ、親善大使のような役割を担っている。
そして彼女をそんな地位まで押し上げたのは、他でもない、その舞だ。
かつて南座の歌舞伎の舞台と紅椿の舞台が“かぶった”時、紅椿の舞台のほうが動員数が多かったという伝説もあるほど、彼女の舞は人を惹きつける。
伝統芸能の多くは、誰もが存続を望みながらも、古い時代の感性を大衆が理解し難いがゆえに、どうしても廃れやすい。伝統を守る人々は、守り伝えてきたものの形を壊さないように、しかし今の時代にも残っていけるようにと様々な努力をしているが、それが実を結んでいる例は少ない。
しかし紅椿が舞った舞は、平成の現在でも、魂を揺さぶる芸術として認められた。彼女が、彼女の技術が、感性が、古い伝統を、理想的な形で、再び蘇らせたのだ。
長い歴史と伝統を守りたい多くの人々にとって、“紅椿”がいかに稀代の救世主であるかということは、彼女の経歴を見るだけでも、十分理解することが出来る。
「お師匠はんらァも、お客はんらァも、お家元も、みぃんな、“紅椿”の大ファンや。紅椿のお舞が大好きで、──そやから、それ以外は、ちゃうんやて言わはる。──紅椿のお舞が正しゅうて、それ以外は、“ちゃう”て、へたくそやて言わはるんよ」
紅梅は、完全に俯いた。
「うちが、こうしたほうがええんやないか思て舞うても、それは紅椿とちゃうよって、へたくそやて言わはるんよ」
弦一郎には、日舞のことなどよくわからない。
だが、紅梅の言いたいことは、なんとなくわかってきた。
「そやからうち、むきんなってな? おばあはんのお舞、全部マネしたん」
紅梅は、自嘲気味に言った。
「おばあはんの舞わはるん見て、お舞台のビデオ見てな。指の先まで、目ェの動くんまで、全部“紅椿”とおんなしにしたらよろしおすのやろ、て思て。もう、意地くそや。ほしたらおばあはんが」
──猿真似やな。
「て言うて、それっきり、お稽古見てくれへんようなってしもたん」
「えっ」
「真似だけやったらビデオもようけあるし、言うて」
時間の無駄やて思わはったんやろ、と、紅梅は言った。
「せやけど、お稽古せんわけにはいかんし。結局なんも思い浮かばんやったから、ビデオ何百回も見て、そっくりそのまま舞えるように練習したん、ひたすら」
人間国宝の舞の、完全トレース。
それがどれほどのことなのか、弦一郎にはよくわからない。
しかしあの、紅梅の、ちょっと気味の悪いほどのボディバランスの秘訣と、そこに滲む狂気じみたものを、ぼんやりと感じた気がした。