心に邪見なき時は人を育てる
(六)
弦一郎が、五年生になった時。
誰もが知るほどの愛妻家であったがゆえに、妻、佐和子の死によって、見たこともないほど憔悴していた弦右衛門が、突然頭をすっかり丸めた。
真っ白ではあったもののふさふさと豊かだった髪はつるつるに剃り上げられ、そのかわり髭を伸ばし始めたせいで、元々迫力満点の強面は、見るからに達人、といった貫禄となった。
まだ淋しげな気配はどこかにあるものの、彼が豪快な笑顔と振る舞いを取り戻したのは、孫の弦一郎が、たった一人で足を踏ん張っていたという事実を知らされたこと、またそれを密かに教えてくれた信一郎の子、己にとっては曾孫になる佐助の存在が大きいだろう。
それに、佐助の名は、亡き佐和子からとったものでもある。最愛の妻の名を貰った赤ん坊に、いつまでもしょぼくれた姿を見せられんからな、と、弦右衛門は広い背中を張って言った。
また、佐和子の死によってか、どこか決定的に雰囲気を変えたような弦一郎に、弦右衛門は、真剣をもってして、居合の指導をすることを決めた。
「無我の境地、というてな」
稽古の最初の日、弦右衛門は、そんな講義から始めた。
「無我、つまり我欲、私心のないこと。無心であること。仏教や禅においてはこれを目指して修行する場合も多いが、我が真田の剣は、それをしない」
弦右衛門は弦一郎に、毎朝四時起床での瞑想鍛錬を命じ、そして実際、弦一郎はそれを四歳から毎日かかさず続けてきた。
しかし多くの禅寺などでするように、「滅私」や「何も考えるな」といった指導方法は、一切していない。
そのことを弦右衛門が確認すると、弦一郎は「はい」と、重々しく頷いた。
そういう指導だからこそ、弦一郎は未だにその極意、真意を掴みきれていない。むしろ何も考えずにただ集中のみに至るほうが、何百倍も楽だとすら感じていた。
「真田の剣は、元々、“剣術”。これはつまり、人を斬るための技術という意味での剣術じゃ」
元々大した家ではなかった真田家がそれなりの土地持ちに成り上がったのは、その侍顔負けの剣の腕、居合を基本にした剣術にあった、と言われている。
しかし真田家が御家人からお目見え以上になる前に時代は明治へ突入し、一八七六年、明治九年に廃刀令が発された。真田の剣は流派と道場を開くことで存続し、表向きに教えるのは“剣道”となり、“剣術”に関しては、剣道で一定のものを修めた者にのみ伝授されるようになった。
だがこれは、他の多くの流派や道場のように、剣を現代スポーツとして捉えることにしたのとは違う。
「我々真田にとっての剣道とは、スポーツではない。もう一度言うが、その名の通り、道を極めること。廃刀令に従い、人を斬ることで動く時代が終わった時、儂らのご先祖様は考えたのだ。この時代に合う剣術とはどういうものか。それは、道あってのものだと」
道。人や物が通るべきところのこと。
またこれは、中国哲学上の用語の一つでもある。その場合、まず具体的には礼儀作法の徹底から始まる道徳的規範を学び、哲学的な範囲になると、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、美や真実の根元などを追求する。
真田で剣を習う場合も、まず礼儀作法の徹底、延々と続く基礎訓練の繰り返しから始まる。これが長い。数年にも及ぶ。
そして、殆ど試合をしない。
剣道の試合とはつまり現代スポーツの試合になるわけだが、真田はそれを目指さないのだ。真田にとって剣道とはスポーツの名前ではなく、精神鍛錬の修行法の名前、といったほうが正しい。
「わが真田流では、ある程度“道”を行った者でなくば、“術”は教えん。見なさい」
そう言って、弦右衛門は、弦一郎の目の前で真剣を抜いた。
しゅるん、と、まるで水でも落ちるような滑らかさで鞘から現れた刀身は、美しく、そしてどこまでも鋭利だった。
実際、研ぎ澄まされた、正真正銘の真剣である。
その輝きに、思わず弦一郎が怯んで竦むと、弦右衛門はふっと満足気に笑った。
「恐ろしいか」
「はい」
「よろしい。それでこそ」
今度は音すら立てず、弦右衛門はあっという間に納刀した。
刃渡り一メートル以上の刃物を、僅か数センチの鞘口に迷わず突き立てて仕舞った祖父に、弦一郎はごくりと唾を飲み込む。
「かつての剣術とは、効率的に人を斬る技術のことじゃ。だが廃刀令以降、この現代で、その技術は必要か?」
「いいえ」
弦一郎は、ぶるぶると首を振った。
ナイフ一本所持して外を歩いただけで捕まるこの現代日本で、そんな技術は必要ない。どころか、忌避されるべきものである。
「うむ。戦国乱世の時代ならともかく、今の日本で多くの人を殺したいなら、人混みで手当たり次第に刀を振り回せば済む。切り結ぶ事がない分、そうじゃなあ、十人は斬り殺せるじゃろうし、刃が欠けても、突き殺すことは出来る。それに、重さ一キロの尖った鉄の塊じゃ。峰打ちだろうと、頭か首でもぶん殴ればまず確実に殺せるしの」
生々しい講義に、弦一郎は青くなりつつ、変な汗をかいた。
「つまり、ただ人を殺すのに、本来道理は要らぬ」
弦一郎が納得いかない顔をすると、弦右衛門は苦笑した。
「昔は、剣は主の命の元に抜かれるものであった。仕える殿様が斬れと言うたら抜く。滅私、無心、無我。侍の持つ剣そのものに、魂はない。なぜなら、魂は仕える主に預けてあるものであるからじゃ」
そこまで言われると、なるほど、と弦一郎は納得して頷く。
そして納得したからこそ、いよいよ現代では要らぬ心得であるな、と感じた。もう、殿様など居ないのだ。
「道は殿様が示してくれるので、侍はただ滅私奉公し、技術さえ磨いておればよかった。しかし今は違う。わざわざ剣を持つことは、その者の意思あってのものである。よって、道も自分で考えねばならぬ。だから真田流は、自分で道を見出だせる者にしか術を教えぬ。わかるか?」
「はい」
弦一郎は、頷く。
「無我の境地とは、滅私に徹することで目的を成す極意である」
剣であれば、相手を殺す、倒す、そのことのみに極限に集中することで、今までの鍛錬で得た技を無意識かつ全力以上に発するようになる状態のことである、と弦右衛門は言った。
「サムライであれば、無我の境地こそがまさしく極意であろうな。しかし我らはもうサムライではない。己の行く道は自分で考えねばならぬ。わざわざ剣を持つ意味を考えねばならぬ。なぜそのように剣を振るうのか、答えられなければならぬ」
弦一郎、と、名を呼び、弦右衛門はまっすぐに孫の目を見た。
「決して、我を無くしてはならぬ」
びりっ、と、背筋に電流でも走ったかのような感覚に、弦一郎は身を強ばらせる。
「こう言っては何だが、無我の境地に至るのは、はっきり言って、安易である」
「……簡単だということですか?」
「そうではない。極限の集中力を身につけることは、決して簡単なことではないからの」
弦一郎の疑問に、弦右衛門は首を振って答えた。
「だが、集中するのと我を無くすのは別の事じゃ。極限の集中力を感覚のまま振るうのではなく、己の意思でもって振るえるようにならねばならぬと言っておる」
我を無くし、考えることを放棄してはならぬ、と弦右衛門は言った。
「儂が教えるのは剣だが、テニスでも、書でも、あらゆることで言えることだ。良いか弦一郎。全てのことに責任を持て。その一閃を、なぜ振るったか。その一球は、何のための一球か。その一筆は、どのような意図の一筆であるのか。答えられるようにせよ」
「……難しいです」
「はっはっはっ。でなければ意味がない。──では実際やってみようぞ」
立てと命じられ、弦一郎は、言われたとおりに立つ。
そして室内用の巻藁を用意し、その前に立った。用意されたのは、まだ背の低い弦一郎に合わせ、脇差。
真剣を抜くのは初めてであるが、数年前から既に、手入れ方法や抜き方など、取り扱いは徹底的に仕込まれてきた。
しかしまだ抜刀術を使えるほどではないため、抜いた状態から、袈裟懸けに振り下ろす方法を指導される。もう何度も聞かされた注意事項をまた口頭で説明されるのを、弦一郎は、最初に説明された時と同じ真剣さで聞き入った。
「……簡単ではないとは言うたが、弦一郎。無我の境地は、お前ならもう扱えるじゃろうな」
「えっ」
さらりと言い渡されたそれに、弦一郎は目を丸くする。しかし弦右衛門は、最近伸ばし始めた顎の髭をさすりながら、やはり当然のように言った。
「いや……むしろ、使ったことがあるのではないか?」
心当たりがない、わけではなかった。
そしてその心当たりには、つい最近の、とても苦い記憶が付随している。その心境が顔に出た孫に、ふむ、と、弦右衛門は軽く肩眉を上げた。
「こればかりは才能──いや、それ以前の、単なる向き不向きの問題じゃ。お前は一本気な性格で、融通がきかん所がある分、集中力に優れる。ただそれだけのこと」
「……はい」
正当な評価なのだろう。叱られたわけではないが決して褒められてはいない言葉に、弦一郎は微妙な顔をする。
「では構え」
「はい」
命じられれば、すぐに気持ちを切り替え、弦一郎の顔つきが変わる。
弦右衛門が評した弦一郎の“向いている”性格が、これである。
こうと決めたら、すぐにそちらに気持ちを向けることができ、他は一切切り捨ててしまえる性格。かつての時代にサムライとして生まれていれば、もしかしてそれなりに名を残せていたかもしれないほどの。
しかし今は平成の世であり、刀はもう人を斬る道具ではない。
そして真田家はもう御家人ではなく、道を極める道場主であり、弦右衛門も、この孫をサムライのように育てる気はさらさらなかった。
「弦一郎、何が聞こえる?」
弦右衛門は、穏やかに尋ねた。
「……風の音と」
「うむ」
「お祖父様の声と、遠くに、車の音」
「他には」
「少し……床の軋む音。人の声……」
集中すればするほど、弦一郎の聴覚は、あらゆる音を拾ってくる。
自らの心臓の音、耳を流れる血潮の音でさえ。
「では、何が見える?」
「巻藁、道場、──埃、塵がきらきらして、光が……」
「においは」
「木、藁、鉄」
「何か、味はするか?」
「……魚が」
昼飯は、季節外れの秋刀魚だった。
強がってはらわたを食べてしまったのだが、意識すると、僅かに残ったその時の苦味がぐんと大きく感じられて、弦一郎は少し眉を顰める。
──今の今まで、さっぱり忘れ、感じていなかったというのに。
「他には、何が感じられる?」
「……暑いです」
まだ桜も散りきらぬ春だというのに、今日はやけに陽気が濃く、汗をかく。
道場は熱気が篭って暑くなりがちだが、いつものことなので気にしないようにするのはもはや習慣だった。しかしこうして意識すれば、やはり暑い。
また、意識すればするほど、煩わしくなってくる。
そしてそれに引きずられるようにして、刀を握る手にかいた汗、道着の着心地なども気になってくる。袴の紐の位置が悪いような気もしてくるし、足の位置も良くないような、踏ん張り切れないような頼りなさを感じてきた。
「うむ。ではその全てをきちんと把握せよ」
「…………はい」
「出来たら、斬れ。どうやって斬るのか考えて斬れ」
「……は」
ぐっ、と詰まった弦一郎は、脇差を構えたまま固まった。
──出来ない。
様々な情報が雑多に入り組み、行き交い、あちらを見ればこちらが聞こえず、向こうを嗅ごうとすればそちらの感触を忘れてしまう。
──混沌。
いろんな色の絵の具を混ぜると最終的に真っ黒になってしまうように、溢れかえった情報はすぐさま弦一郎の手に余り、どこを見ても真っ黒な感じで、ひとつひとつの正体がつかめない。
そしてあわあわとしているうちに、集中力は端から霧散していく。
「出来んじゃろ」
どこか面白がるような祖父の声に、弦一郎は悔しげな、そして困惑した声色で「はい」と返事をした。
「それが真田の剣じゃ。全てを把握し、支配した上で、一番大事な所を見出し、集中する」
「支配……、集中」
「真田の剣は、サムライの剣ではない。なぜそうするのかを考えて振るう剣じゃ」
祖父、師の講義に、弦一郎は、この上なく真面目に聞き入った。
「多くの民や土地を治める殿様、王様、皇帝は、その全てを理解しておかねばならん。そしてその上で、一番大事なものは何か、一番弱い所はどこなのか、結局何をどうしたいのか、きっちりわかった上でどうするのか決断せねばならん」
それは独特ではあるが、ある種、帝王学にも近い哲学であった。
「信一郎は剣もテニスもせんかったが、このあたり、器用ではあるな」
「兄さんが?」
「うむ。あやつは一度に色々なことを同時進行で行うのが非常に上手い。常に広い視野を見ておる。将棋も囲碁も奇襲が得意じゃしのう」
それには、弦一郎も同意だった。
六法全書を読みながらラジオを聞き、誰かと電話で話しつつ爪を切っている、などという兄の姿は日常茶飯事であるが、弦一郎は絶対に同じ事は出来ない。そして、将棋を始めとする頭脳ゲームで兄に勝てたことは一度もない。
この性格はあきらかに父・信太郎譲りのものである。
この父に至っては兄以上で、一見のほほんと何もしていないようにすら見えるが、既に部下にあらゆる指示を的確に下しており、見てもいないのに、今どれだけ事態が進んでいるのかも細かく把握しているという。
「……俺も、兄さんや父上のように……?」
「いや、あれをそのままやれとは言わん。似て非なるものじゃしな」
弦一郎は、ほっとした。父や兄のようには、とても出来るとは思えなかったからだ。
「お前がせねばならぬのは、己自身の全てを把握し、支配し、統制、管理することじゃ。言うたであろう、我を無くすなと」
「……はい」
「よくわからんか?」
弦右衛門の問いかけに、弦一郎は素直に頷いた。
「では、やってみるか。無我の境地」
やはりさらりと、なんでもないように、弦右衛門は言った。
その様に弦一郎はまた複雑そうな顔をしたが、弦右衛門はつまらなそうにも見える表情で、また顎髭を撫でた。
「なんという事はない。呆気ないもんじゃよ。そら、構えよ」
言われ、弦一郎はもう一度気を取り直し、その通りにする。
「さて」
先ほどとは違い、ぴり、と、糸を張り詰めたような緊張感を感じた。
「斬ることのみを考えよ」
率直な、無駄のない言葉だった。
「他のことは考えるな。見るな、聞くな、感じるな。臭いも嗅がずともよい。味覚など殺してしまえ。ただ、斬れ」
弦右衛門が、経でも唱えるかのように言う。
弦一郎は、そのとおりにした。ひたすらに、集中していく。
風の音、祖父の声、遠くに聞こえる人の声、車の音、床の軋みが消えてゆく。
なまぐさいはらわたの苦味、木のにおい、藁のにおい、鉄のにおいも薄れてゆく。
塵が、埃が、きらきらと煌めく光が消える。かといって、闇でもなく。何の色もない。
暑くもなく、寒くもなく、着ているものなどどうでもいい。
自らの心臓の音、耳を流れる血潮の音でさえ、──消える。
真田弦一郎という人間が感じる全てが消え、ただ斬るということだけが、そこに残った。
きらりと、弦一郎の中の何かが光る。
あの時のように、身体から黄金色の何かが立ち上り、揺らめく。
「斬れ」
──ごとり。
「……えっ」
綺麗に斜めに斬られた巻藁を前に、弦一郎は、ぽかんと呆気にとられたような声を上げた。
「あ……、今の、え?」
弦一郎は、狼狽えた。
目の前の巻藁は、確かに、弦一郎が斬った。しかし、驚くほどその実感が無い。何をどうやったのか、自分でよくわからないのだ。
斬った時の感触も、音も、藁のにおいも、刃の色も、何もわからない。ただ、斬る、ということだけが頭にあって、他のことは、何も──
「そら、言うたじゃろ。ただ人を殺すのに、本来道理は要らぬと」
祖父の淡々としたその声に、弦一郎は、ぞっとした。
自分は今、何も考えずに、斬った。みごとに。
──見事に、切り捨てたのだ。
「今のが、無我の境地じゃ」
呆気ないじゃろ、と言う祖父に、弦一郎は、やや青くなりながら頷いた。
それは、無我の境地がなし得る効果そのものに対するのと同時に、これを、ついこの間まで、何もわからず使い放題使っていた、ということに対する戦きであった。
こうして順序立てて行ったことで、去年の冬の精市との試合、あの時、わけも分からず発揮したあれは、確かに無我の境地であった、と弦一郎は思い返し、確信する。
一度コツをつかめば、無我の境地に辿り着くのは、さほど難しいことではなかった。……とはいっても、それは、弦一郎の集中力あっての所感ではあるが。
発揮したところで精市にこてんぱんに負けた、という事実が、弦一郎に、この力への期待を大いに削いではいたが、常ならぬ力だという実感はあり、練習の時などに、興味本位で度々発動させてみてはいたのである。
「お前には、巻藁を切れるだけの実力が、確かにある。だからそれ以外を徹底して排除すれば、迷いようがない。迷っていないなら、当然成せる。斬れる」
「はい……」
「だがそこに、お前の意志はあったか? 我はあったか?」
「いいえ……」
「なぜ斬った?」
「……斬れ、と言われたから」
「サムライならば満点の答えじゃな」
言われ、弦一郎ははっとした。そして、理解した。
──無我の境地。
これは、誰かのために、自分以外の何かのために、己を殺して振るう力だ。
「しかし、弦一郎。お前はそうあってはならぬ」
自分の思考を読んだような祖父の声に、弦一郎はびくりと肩を跳ねさせる。
「刀を持っているのは、お前じゃ。刀を持ったのは、お前の意思。何をどうやって斬るのか決めるのもお前。そして自分で決めたことには、責任を持たねばならぬ」
主君に魂を預けたサムライならば、無我の境地こそがまさしく極意。
しかし弦一郎は、誰にも魂を預けてはいない。己の魂は己にあり、ゆえにその行動の全ては自分の責任のもとにあるのだと、祖父はそう言っている。
「……難しい」
弦一郎は、あらためて、今度は熟とした実感を込めて言った。
「難しいです、お祖父様」
「はっはっはっ」
言葉だけでなく、その表情も難しいものにしている孫に、祖父は豪快に笑った。
「そうじゃろう。でなくば、意味がない。……それに、難しいほうが、やりがいがあるじゃろう?」
挑戦的にニヤリと笑みを向けられ、負けん気の強い弦一郎は、むっとした顔で「はい」としっかり頷いた。
「なに、やれば出来る事じゃ。自分の事を自分で受け止めきれるようにするだけのこと。己の器の大きさを、きちんと見極めよ。それが出来れば、今度はその器を大きくしていける」
「うつわ」
──器の大きい人にならなければね
「……お祖母様にも、同じ事を言われました」
「佐和子が?」
「はい。器の大きい人にならなければ、と」
「……そうか。そうじゃな。そうとも。男は器が大きくなくては」
目を細め、弦右衛門は、うむうむと頷く。
そして弦一郎は、改めて、祖父母に言われた言葉の意味を考えた。
祖父は、我を無くさず、己の全てを支配した上で、責任をもって事を成せと言った。決して誰かのせいにせず、自分の頭で考えて事を成せ、と。
祖母の病、テニス、剣道、そして紅梅のこと、またそれらに対する自分の心、色々な事を持て余し、一つのこと以外を切り捨ててどうにかしようとした弦一郎に、亡き祖母は、もっと力を抜けと言った。そして、器の大きい人になれと。
(……ああ)
確かにそうだ、と、弦一郎はこの時、しみじみ納得し、反省した。
あの時、もし弦一郎が自分のことをもっときちんと把握し、理解し、落ち着いて受け入れることができていれば、紅梅はあの夏、きっとこちらに来ていただろう。
しかし弦一郎の余裕のなさは、遠い京都にいる紅梅にも容易にわかるほどだった。そして彼女は、弦一郎が受け止めきれない分を、黙ってそっと背負ってくれた。
そして、そのことに気付かなかったどころか、祖母の死を受け止めきれずに癇癪を起こして責任転嫁をした弦一郎に怒ることなく、心配し、慰めてさえくれた。
紅梅は弦一郎と同い年の、武道を修めているわけでもない女の子だ。
だがしかし、その器は、きっと自分より大きいのだろうな、と弦一郎は感じ、そして、情けない気持ちになった。
そして弦一郎は、ふと、精市に負けたあの試合を思い出す。
ただ必死に勝つことだけに集中した結果辿り着いたその世界で、弦一郎の身体は勝手に、一番いい形で動き、精市の打った球を全力で打ち返した。
──だが、それだけだ。
血反吐を吐いて積み重ねた練習で身につけた技を、無我の境地は、全力で発揮させてくれた。
それは非常に心地よく、すかっとするものではあった。だがそこに、弦一郎の意志がきちんと篭っていたかというと、限りなく怪しい。
あの時、弦一郎はただただ全力で飛んでくる球を打っただけで、他のことは何も考えていなかった。なんのために勝つのか、どうしてそのように球を返すのか、どうしてテニスをしているのか、──自分のテニスがどういうものなのか、ろくに考えてはいなかった。
それはそれでも、いいのかもしれない。
しかし弦一郎はそれをよしとしない真田家に生まれ、そして弦一郎自身、無我の境地への道は、自分の行く所ではないように感じた。……だからといって、どういう道を行けばいいのかは、未だ見当もつかないのだが。
「精進せよ」
「はい」
いつになく真剣に返事をした孫に、弦右衛門は、満足気に頷いた。