Doctor Gradus ad Parnassum(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)
<SEIYA - 2>
魔鈴に出て行かれた星矢は呆然とし、そしておろおろとしていた。しかしどこかで、また戻ってくる、大丈夫、とまだ思っていた。それは子供が母親にいくら冷たくされても期待を抱いてしまうのと似た本能、つまり、魔鈴が必死に星矢に捨てさせようとしていた“甘え”であった。そして星矢は、自分がまだそんな思いを抱いている事を魔鈴に知られたらまた魔鈴が激昂するだろう事を、まだわかっていない。
不安だけど、きっとそのうち帰ってくる。
無理矢理少し笑顔を作ってそう自分に言い聞かせ、食事もする事なくじっと魔鈴の帰りを待つ星矢少年は、一般的に見れば健気であり、そして聖闘士としてみれば、凄まじく質の悪い甘ったれだった。
そして星矢がそのまま一昼夜を待った時、コンコン、と扉がノックされた。
魔鈴か、と一瞬期待し、そして魔鈴はノックなどしない、と次の瞬間悟った星矢は、ぎくりとした。この家に自分たち以外に尋ねてくる者など、誰も居ない。ここは日本人の彼らが隔離された家であり、わざわざ近寄ろうとする者は、確実に厄介な悪意を持った者だけだ。
星矢は身を固くした。が、ベッドからは出なかった。魔鈴が居ればまた殴られているだろう危機感の低さ。
星矢が返事をしないせいだろう、コンコン、ともう一度ノックがされた。星矢はぎゅっと身体を縮め、ドアを睨む。
そして、反応のなさに焦れたのか、とうとうドアがガチャリと開く。
「────やあ」
現われたのは、青年だった。
干し草のような色の髪はくるくると跳ねていて、目の色は緑。星矢には見慣れない、そしてこの聖域に来てからはそれなりに見慣れたと思っていた欧州的な色彩。革で出来た訓練用のプロテクターは軽装なので、その下の肉体がどんなものかは容易にわかる。青年は、博物館のダヴィデが台座から裸足で逃げ出すような、それは見事な肉体をしていた。
星矢は唖然として、青年の姿を見る。彼は背筋の伸びた姿勢でゆったりと歩き、魔鈴が蹴倒して行った椅子を拾い起こすと、それに腰掛ける。魔鈴の1.5倍以上はゆうにあるだろう体重に悲鳴を上げるように、椅子がぎしりと音を立てた。
「おまえが星矢か」
やたらいい声だった。言語は、この聖域特有の──ある意味方言と言ってもいいかもしれない──古代の用法が色濃い、特徴のあるギリシア語。しかし星矢は、その言葉をきちんと聞き取ることが出来る。星矢がこの一年の間で最も上達したものは、言語だった。十にも満たない若い脳味噌は、殆ど魔鈴としか話さない環境ながらも、既に話す、聞く分には何ら問題ないギリシア語能力を会得していた。……読み書きの方は、まださほど上手くないが。
しかし、人間が母国語レベルで特定の言語を身につけようとすると、三歳までにその言語を日常的に用いる環境で脳にその言語を慣れさせなばならないという。だから、いくら星矢の若い脳味噌の吸収がいいとはいえ、母国語ではないギリシア語を聞いて話すのには、頭の中で日本語と変換する作業がひとつ挟まる。
だが彼の言語を聞き取ったとき、不思議とその作業がなかった。彼の声は、直接、星矢の頭に深く響いた。頭の中に、心に、直接打って響くような声。彼の姿が見えなければ、神様か、精霊か、それとも言語を解する獣とか、そういう神がかったものの声かと思ったかもしれない。
「おまえが星矢か、と聞いている」
「そうだ」
もう一度問われ、自分が返事をしていないと気付いた星矢は、少し慌てて肯定の言葉を返した。
そうか、と青年は言い、まっすぐ星矢の顔を見た。そして基本的に星矢も人の顔をまっすぐ見るたちなので、青年の顔を見る。彼はギリシア人らしく彫りの深い顔立ちで、眉が濃い。干し草のような髪は、根元が濃い茶色をしていた。星矢はこちらに来て初めて知った事だが、ブロンドは毛の根元が深い茶色をしていることが多い。はじめは地毛が茶色でブロンドに染めているからと思っていたが、天然でそうなのだ。生えたばかりの髪は茶色で、だんだん金色になっていく。余談だが、だから子供の頃は綺麗なブロンドでも、大人になるとブルネットになると言う例は多い。
青年はその特徴が顕著で、眉根のところなど完全に茶色であるし、睫毛ですらそうだった。そのせいで、大きめの丸い目は、猫科の動物のようなくっきりした縁取りがあるように見える。若干目尻が上に尖り、そしてその色が緑──更によく見れば金粉を散らしたような緑なので、彼の目は、髪は、まるでライオンのようだった。もしこの目の瞳孔が猫のようにくるりと変わり、そして彼は獅子の化身だと言われれば、すんなり信じてしまう位の。
「俺は、アイオリア。聖闘士だ」
──誰か他の奴、男の聖闘士資格保持者に頭下げてやるから
青年の圧倒的存在感に度肝を抜かれていた星矢は、名乗られて、急に現実を意識した。
名乗った途端に青ざめた星矢に、もしや自分が黄金聖闘士である事──もしかしたら逆賊の弟として何かとんでもない事でも他所から聞かされているのだろうか、とアイオリアは思う。しかし星矢の口から出てきたのは、別の事だった。
「……ま、魔鈴さんからいわれて来たのかよ」
「うん? ……いや?」
アイオリアは、ゆったりと否定した。そして星矢は、彼のそんな余裕のある動きに、少し心を落ち着ける。アイオリアの動きや声は常にどっしりとしていて、揺るぎがなく、必要最小限で静かだ。低く唸り、ぶっとい足で悠然と、そして猫科らしく音なく歩くライオンのように。
星矢から見ると魔鈴も十分超然とした存在感を持っているのだが、アイオリアはその更に上を行っていた。魔鈴は意識してその存在感を纏っている感じがするが、アイオリアは天然で、自然体で居てこうである、ということを、星矢にもほぼ本能に近い感覚で理解する。
それが生物として根本的な格の高さ、草食動物が肉食動物を感じるのと似た感覚であるということ、つまり生まれもって小宇宙を身につけているかそうでないかの違いである事を、星矢はまだ知らない。小宇宙を出すよりも押さえる方に気を使わねばならない“黄金の器”であるアイオリアは、その動作、話す声、眼差しに、常に小宇宙が滲み出ている。水を浸した綿を動かせば、どんなにそっと動かしても、その度に水が滲んで滴るように。
「魔鈴は俺に頼み事なんかしない」
アイオリアは少し面白くなさそうに、しかし半分で面白そうにするという、複雑な調子で言った。
「ただ魔鈴がものすごく珍しく、いや本当に珍しい、初めて見た。……愚痴を言ったものだから、その原因がどんなものか少し見たくなった」
「はあ?」
今度こそはっきりと面白そうに言ったアイオリアに、星矢は表情をひん曲げる。
「あんた、魔鈴さんの知り合い?」
「そんなところだ」
星矢は目を丸くし、純粋に驚いた。日本人であるという事で、己と同じく、いや正式な白銀聖闘士であるという事で星矢以上に不遇を受けている魔鈴に、敵対していると言う意味でない──愚痴を言うような知り合いが居たなど、星矢は全く知らなかった。
しかもアイオリアはおそらく年上の立派な男で、欧州人で、さらに聖闘士だ。この場所で聖闘士と名乗るからには、資格だけでなく、聖衣も正式に賜っている本物の聖闘士であるという事は、星矢も知っている。そしてそのことが、この聖域では最大のステイタス、権力に繋がるという事も。
そんな知り合いが居るのに、魔鈴は彼に一度も頼った事がない。そのことを、星矢はすごいとか、そういう事以前に、いっそ不思議に思う。
そして、頭に珍妙な疑問符を飛ばしている星矢を前に、アイオリアは、久々に会うなり不機嫌丸出しだった魔鈴を思い返していた。彼女は上機嫌である時もあまりないが、不機嫌な事もそうない。彼女は常に冷静で、その感情値はフラットそのものだ。
知り合ってもう数年になるが、あんなに不機嫌でいらいらしている──癇癪を起こしていると言ってもいいような魔鈴を、アイオリアは初めて見た。彼女が本当に鷲なら、翼を目一杯広げ、かぎ爪を振りかざし、ギャーッと雄叫びを上げているようなところだろう。
彼女の愚痴は愚痴と言うには攻撃的すぎた──例えば、そんなにわたしが女なのが嫌だって言うならあのガキも女にしてやろうかとか──具体的な方法についてアイオリアは聞かなかったがしかし、滅多に見れない、いや見たことのない反応であるという点で、アイオリアはそんな魔鈴の姿が非常に興味深いと思った。若干にやけた顔でそんな彼女を見ていた事が魔鈴にばれれば更に彼女は不機嫌になるだろうが、それはそれで良い、とか思っているあたり、アイオリアも彼女に対して大概だ。
そしてその興味は、彼女がそんな反応を見せる原因に移り、アイオリアは殆ど初めて、彼女の家を訪れた。もちろん彼女に頼まれてなど居ないのでこれはアイオリアの勝手な行動だが、愚痴を聞き終わった後彼が魔鈴の家の方向に向かっても、彼女は何も言わず、彼の背中を見送った。その、何をどうと具体的に言うわけではないが、何とかなるのだろうかとほんの少し期待が込められた視線が背中に刺さるのを感じて、アイオリアは笑いそうになった。
こんなに楽しいのは久々だ、とアイオリアが思っているのを知ったら、彼女はまた不機嫌になるだろうか──と考えるのもまた楽しい。
「魔鈴が女だから殴れない、と言ったそうだな?」
にやにやしそうなのを堪えながらアイオリアが言うと、星矢はむすくれた。
「それは、怒る。怒るだろう。聖闘士である事を全否定されたのと同じだ」
だって、と星矢は反論しかけたが、そのまま押し黙る。そうじゃない、とは言わなかった。そして星矢は、女性がそもそも聖闘士になる事自体よく思っていない、という事を自覚する。
「当然出る疑問だと思うが、敵が女だったらどうするのだ?」
「知るもんか」
ぷい、と星矢は顔を背ける。
「……否定してるのは、魔鈴さんの方だ」
「うん?」
ぼそりと呟いた星矢の顔を、アイオリアが覗き込む。
「魔鈴さんが女のひとだって言うのは、本当の事だ。女聖闘士は仮面を被って女を捨てるって言うけど、仮面を被ったからって、魔鈴さんが女のひとだって事は変わらない。ばかみたいだ」
「……ばかみたい、か」
「あ、いや」
言った途端、また魔鈴の存在自体を損ねるような発現をした事に気付き、星矢は少し慌てる。──しかし、否定はしなかった。本心だったからである。
そしてアイオリアは、少し上を見上げて考えてから、言った。
「わからんでもない」
「えっ」
星矢は、少し明るい気持ちになった。聖域に来て、初めて喧嘩腰でなく話す同性から、おれもそう思う、と言われた事が嬉しい。しかし彼は、更に続けた。
「というか、聖域全体が思っている事だ。魔鈴も含めて」
「……え?」
仮面を被って生理が止まるならいいけどね、とは、魔鈴だけでなく、女聖闘士共通の定番の愚痴で、皆知っている。
「そして、もう何十年も、おそらく何百年も──もしかしたら何千年も昔から、馬鹿馬鹿しいと思われて来た風習だ。仮面を被り、そして聖闘士になっても、彼女らが女の肉体を持っている事は覆せない」
ゆっくりと話すアイオリアの声は、頭に直接染み入るように響く。
「……おまえが今(・)更(・)言わなくても、星矢。皆思っている事だ」
「──なんで!」
何も知らない子供扱い、いやそのものである事を思い知らされたという意味で、星矢はカッと顔を赤くし、しかし尚も言った。
「皆思ってるなら、なんで直さないんだ! 女の人が、あんな」
「彼女はもう聖闘士なのだ、星矢」
獅子の声は、大地に染み入るように深い。どうしようもなく雄大な響きに、星矢は絶望した。
「彼女は自分で選んで、俺とて頭が下がるような凄まじい努力をして聖闘士になった。それをどんな理由であれ否定するのは、何よりも失礼な事だ。魔鈴が傷ついても仕方が無い」
「……傷、つく?」
その言葉に、星矢は呆然とした。しかしアイオリアは、しっかりと頷く。
「星矢。人が怒るのは、傷つけられた心がそれ以上傷つくのを守る為だ」
手負いの獣というだろう、とアイオリアはどっしりと言う。これ以上心が傷つけられないように、人は怒りによって周りを攻撃するのだと。
「俺は、魔鈴があそこまで激昂しているのを初めて見た。おまえは女性を傷つけたくないと言うが、お前はあんな風になるまで魔鈴を傷つけたのではないのか?」
星矢は、ショックを受けて固まっている。
「魔鈴は、聖闘士だ。だから肉体を傷つけられることは、なんというか、生業のうちだ」
「……でも、心は、そうじゃない?」
「うん……どうだろうな。聖闘士は頑強な精神も必要なものだから。しかし」
アイオリアは、ゆっくりと、そしてしっかりと、揺るぎなく言った。
「心があり、感情があるのは確かだ」
星矢と話していて、アイオリアは、彼がいかに幼いかを正しく感じ取っていた。まだ十にもなっていない少年ではあるが、日本人だという事もあるだろう、“黄金の器”であったアイオリアと比較すると、身体はとても小柄で華奢だ。そしてその幼い精神は、かつていじけて引き蘢っていた頃の己の幼さを思い出させ、アイオリアはむず痒い気持ちになる。
星矢は今、8歳。アイオリアとは7つの差があり、そしてそれは偶然アイオロスとアイオリアの歳の差と同じだった。
兄のアイオロスが居なくなったとき、彼は14だった。そしてアイオリアは今、15。記憶にある兄よりも年上になったいま、アイオリアは目の前の星矢を見る。──兄も、自分を見るとき、こんな気持ちだったろうか。
幼い星矢は、何もかもが単純だ。それは幼さ故の素直さという美徳とも繋がる要素なのだが、単純さは残酷さにも取って代わることがある。深く考えないまま、事実は事実だと悪気なくはっきり言い切ってしまう残酷さは、時に誰かを傷つける。
そして、真の意味で、“考える”というスキルを身につけることができる人間は、実はあまり多くない。己が本当に何をしたいのか、あのひとは何を考えているのか、どうしてこんなことになってしまったのか、どうすれば一番いい方に物事が向かうのか。そういったことを、理論的に、そして冷静に思考する、考察する、即ち考えることが出来る人間は、少ないのだ。
メディアが流す情報を何も考えずに鵜呑みにし、時に残酷な差別や迫害すら行なう人々。己の些細な意思さえ把握できず、食べるものの品目ごときですらすぐに決められない人間とて、一般社会では珍しくない。そういった人々は、己の選択権を自覚なく放棄したがっており、多数決を好む。考えなくていいからだ。「皆やっているから」──だから安心だという理由をつけて、個人ではなく、大衆の一部になって行く。
それはそれで、別に悪いとは言わない。しかし聖闘士というものになるにあたって、波にさらわれるままの砂浜のひと粒の砂のままではならない。凍てつく真空の中で微塵もずれない軌道を描き、ひとりきりでも輝く星のようにならねば。
幼い頃は、皆素直だ。親や大人の言う事を吸収し、知識を増やして行く。
だが考えられる者になるには、いつまでも素直なだけではだめなのだ。それはなぜ、これはどうしてと疑問を持ち、その事について思考できるようにならねばならない。情報をただ吸収する事は知識になるが、考える事は学ぶ事とも言い換えられ、深くなれば瞑想になる。そして瞑想は小宇宙を深く知る為のいち手段だ。
幼い星矢は、素直だ。しかし聖闘士になるには、考える事が出来るようにならねばならない。女にして聖闘士になる事について、また聖闘士になる為に必要な事は何なのかについて、そして己の本当の目的について。考え抜き、その果てに小宇宙を見出さねばならないのだ。たったひとつの、輝く星になる為に。
「──おまえは、なぜ聖闘士になりたい?」
アイオリアは、そっと尋ねた。
星のような子になるには、ただ素直なだけではならない。しかし子供に考えさせることを覚えさせるのは、大人の役目だ。子供は勝手に育つが、目指すものがあるのなら、そうなるように年長者が促してやらねば。
その点、魔鈴はしくじった。彼女は「聖闘士ならこうあらねば」という強い信念、言い換えれば頑固な思い込みによって、生きるか死ぬかに等しい、二択の選択肢のみを星矢に示した。それは厳しい環境で生き抜き聖闘士になった彼女なら当然の事だが、選択肢を示すという時点で甘い、とも言えなくはない。
天秤座ライブラの黄金聖闘士・童虎老師に師事した経験はアイオリアはさほど多くないが、あの老人は、質問を投げかけるだけ投げかけ、散々考え抜かせた上で出した答えにすら「そういう答えもある」としか返さない。魔鈴のやり方とは逆のやり方と言えよう。アイオリアも、昔は老師の質問がとても苦手だった。デスマスクやシャカなどはそういうやり方を楽しんでいたようであるが、子供は普通、そういう曖昧なものを苛立たしく思うものだ。素直さ故に、白か黒かを決めたがる。
曖昧。だがそれが考えるという事、高度に言えば瞑想することにおいての極意だ。曖昧なまま受け止める、その度量も必要になってくる。隣の宮にシャカが居るせいか、アイオリアは持ち前の性格にしてはなかなか早く、そういった事を理解できるようになっていた。
「オレは」
星矢は俯き、ぎゅっとシーツを握り締めた。
「……聖衣を持ち帰らなきゃ、ならない」
小さな少年の手が握り締める手は、まるで、泣き崩れるのを堪えるようだった。実際、そうなのだろう。
「聖衣を持ち帰る為に、聖闘士になるのか」
星矢は、頷いた。
「なぜ聖衣が必要なんだ」
「言えない」
「そうか」
アイオリアは、あっさりと言った。わからない、ではなく、言えない、という事は、星矢の中ではっきりと答えが出ているからだと判断したからだ。生来アイオリアもかなり素直な質で、未だ15歳という事もある。星矢が聖衣を持ち去る為にどこかしらから送られて来た間者であるとか、そういう危惧は全く抱いていなかった。彼の頭にあるのは、ただ、魔鈴の弟子で7つ下の年少者、後輩である星矢を導いてやる事だけだ。慣れぬ事でもあるので、他になかなか頭が回らなかったというのもあるだろう。
「ではなぜ、女に拳を向けられない?」
「……ねえさんが」
ぼそり、と、星矢は言った。
「……女の子を、殴ってはだめだって」
「姉が言ったから、それが理由か?」
言われた事をただ鵜呑みにしているだけならば、とアイオリアは考える。だが星矢は続けた。
「それもある。でもオレは、ねえさんには絶対手を上げたりしないし、したこともない。だからねえさんと同じ女の人には絶対手を上げたくない」
「ふむ」
「女の人を殴って聖衣を手に入れたって、なんにもならない」
姉と同じ女を殴って姉と会えても、と、星矢は心の中にある言葉を、必死に考えながら変換した。
姉に再び会いたいが為にグラード財団と取り引きをした、そのことについて、星矢はきつい口止めを受けていた。それが何故かという事まで星矢はこの先ずっと考える事はないが、実際言っても軟弱で私情の為のけしからぬ理由だと言われるだろう、悪ければ候補生から外されかねないという事はわかっていたので、絶対に口を開かなかったのである。師匠の魔鈴にさえ。
それほど星矢は、必死だった。
「──だそうだ、魔鈴」
アイオリアがそう言ったので、星矢は驚いて、ばっと顔を上げた。
すると、閉まっていたはずの戸口に、魔鈴が立っていた。いつからそこに居たのか、全くわからない。彼女の気配を読めるようになるには、どれほどの修行が必要なのだろうか。
魔鈴は、はあ、と仮面の下でため息をついた。
「何をしてるんだい、アイオリア」
ここに向かうアイオリアの背中をしっかり見送ったくせにそう言う魔鈴に、アイオリアは少し笑う。
「おまえにあれだけ癇癪を起こさせる奴に、少し会ってみたかった」
「暇なの、黄金聖闘士のくせに」
星矢は、ぽかんと口を開けた。黄金聖闘士、彼女は今そう言わなかったか。
そんなリアクションの星矢を見て、魔鈴はいつも通りの淡々とした口調で言った。
「なに、言ってないの。アイオリアは獅子座レオの黄金聖闘士だ」
「……黄金聖闘士って、雲の上の存在なんじゃなかったっけ」
「確かに十二宮の上の方は雲が漂っているが」
「そういうことじゃない」
すっとぼけた答えを返すアイオリアに、星矢は突っ込む。では何か、この雲の上に住む黄金聖闘士は、わざわざ新米候補生の、しかも煙たがられている東洋人候補生の様子を身に来たというのか。
「……黄金聖闘士って、暇なの?」
「暇なんじゃないの」
「お前ら揃ってひどくないか」
こんなときだけ息が合っている東洋人師弟に、アイオリアは苦笑いをした。
だが、暇だというのは事実でもある。十二宮では腫れ物扱い、“下”では逆賊の弟として扱われているアイオリアは、人と接する機会が少ない分、やる事があまりないのだ。そしてその間に彼は黙々と修行に没頭し実力をめきめきと上げているのだが、やはり人と接しないので、その事を正しく知っている者はあまり多くない。
「……魔鈴さん」
星矢が、まっすぐに魔鈴を見る。縋るような目で。
「ひどいこと言って、ごめん」
魔鈴は、黙っている。
「魔鈴さんが立派な聖闘士で、オレなんかよりもずっと強い事ぐらい、わかってるんだ。……でもそれでも魔鈴さんは女の人だから、どうしても魔鈴さんに手を上げる事は出来ないよ」
心優しく、美少女と言って遜色ない姉を持つ星矢は、女性というものを若干美化し過ぎ、か弱く守るべきものとしてみているところが過剰な部分がある。魔鈴との出会いによって、若干ながらもそれが改められ、世の中には凄まじく強い女性も居るのだと言う事実は受け止めたものの、それでも、星矢にとって女性は守るもので、絶対に拳を向けてはいけない存在だった。
「……おまえ、ねえさんが居たの」
低く、小さな声で、魔鈴が言った。それはまたも珍しく、動揺しているようにも聞こえる。同時に、忌々しそうにも感じられた。
ああは言ったものの、まだ星矢の師匠としての責任は放っていない魔鈴は、まずい、と直感で感じていた。
ここまで星矢の性根が甘い以上、師匠である自分はそれを叩き直す為、より厳しくあらねばならない。そしてそうある為には、星矢に一切の同情をしてはならない、と魔鈴は確信している。だからこそ、崖から落ちる星矢に、指一本の助けも貸さなかった。
極限までの厳しさによって、魔鈴は滅多に動じる事のない、冷静極まる精神を手に入れた。しかしやはり──魔鈴もまた、感情があり、心がある。そして星矢に姉が居るという事実、そしておそらく誰よりも大事に思っているのだろうその事実が、魔鈴の心の奥、聖闘士であろうとする根本の所にある琴線を、どうしてもくすぐる。
(あの子は、星矢と同じ歳)
それだけでも、本当は、泣き叫ぶ星矢に手を貸してやりたい気持ちを堪えている。星矢に初めて会ったときとて、幼い男の子の姿にドキリとした。必死に押さえつけて来た心が、揺らぐ。
──弟も、わたしを女だと言うだろうか。ねえさんは女の人なのだから、そんなことをしないで、と、拳を下げさせ、この仮面を外して欲しいと言うだろうか。
星矢に姉が居る、ただそれだけで、魔鈴にそんな考えが浮かぶ。浮かんでしまう。星矢の師匠である為には、そんな事ではならないのに。
やはり自分は、星矢の師匠にはどうしても向いていないのかもしれない。そう、魔鈴がもはや諦めにも似た──魔鈴が聖域に来て初めて抱く気持ちであった──気持ちを抱いたとき、ふと、アイオリアが言った。
「どうする、魔鈴」
頭に直接響く、どっしりとした声。その声にはっとして、魔鈴は銀色の面を上げる。
「星矢は、女に手を上げられない。それはもう、きっとどうしようもないだろう。いやだいやだで通る世界でもないが、無理にやらせた所で身を滅ぼすだけという事も多い」
正論だった。根性論の極地のような世界であるが、根性だけではどうにもならない事も世の中には山ほどある。
そして星矢が女に拳を向けられないことに関しては、おそらくそれが当てはまるのだろう。これは星矢の信条と言うよりは単に性格、もはや生理的なものにまでなっている。
つまり星矢は星矢と言う生き物として、女と言う生き物に牙を剥くことが出来ない性質なのだ。そして性質というものは、根性や努力によって覆すことがひどく困難だ。そしてたとえそれが出来たとしても、同時に何か他の要素が潰れたり、もしくは全てがだめになってしまう事もある。脚を進化させ、ものすごく速く走れるようになったが、空を飛べなくなったダチョウのように。
「おまえが星矢の師匠を辞めるというのなら、俺がなってもいい」
その提案に、魔鈴は彼を見る。
アイオリアは、黄金聖闘士だ。その実力は申し分ないどころではないし、魔鈴個人的にも十分信用の置ける人物だ。逆賊の弟という不遇の立場を持っては居るが、魔鈴とて日本人という事で不遇を受けているので、そう違いはないだろう。そして男の彼であれば、星矢も遠慮なしに組み手が出来る──胸を借りることが出来るだろう。そのことと単純な実力差を考えれば、第三者的に見て、断然魔鈴よりもアイオリアの方が師匠として相応しい。
「──いやだ!」
しかし響いたのは、声変わり前の少年の、高い声だった。
「オレは魔鈴さんの弟子だ! あんたじゃない!」
「決めるのは魔鈴だ」
喚く星矢に、アイオリアは重々しく言った。首根っこをライオンの太い脚で押さえつけられたような心地がして、星矢がぐっと黙る。しかしここでやり込められてはならないと思ったのか、持ち前の我の強さを奮い立たせ、星矢はまっすぐ魔鈴を見て、はっきりと言った。
「魔鈴さん、オレ、魔鈴さんに手は上げられないけど、でも、魔鈴さんに教わりたい」
「言ってる事がむちゃくちゃだ」
もはや完全に呆れ果てた様子で、魔鈴は言った。何だかどっと疲れたような気がする。しかし、星矢は更に言い募った。
「……わかってる。でもそれがオレの気持ちなんだ。女のひとに手は上げられないけど、でも師匠は魔鈴さんがいい」
揺るぎないその声には、覚悟が籠っていた。その覚悟が本当に強いものなのかどうかは、魔鈴にもわかる。星矢は本気だ。
「他の事は何だってする。今度は崖から吊るされても絶対弱音なんか吐かないから」
「吊るされたのか」
アイオリアが反応した。少し驚いたような顔をしている。星矢は頷いた。
「落ちた」
「そうか。よく生きていたな」
そう言って濃い焦げ茶の頭をぐりぐりと撫でたアイオリアに、星矢はきょとんとした。孤児院でも、城戸邸でも、聖域に来てからも、星矢は姉以外に頭を撫でられたことなどない。だからこそ、年長者に対して無意味に反抗心を持っているという所も大きかった。
ずしりと重たい手を頭に乗せられたまま、星矢はただ呆気にとられたようにアイオリアを見ている。
「ちょっと。その甘ったれをこれ以上甘やかさないで」
「頭を撫でただけじゃないか」
魔鈴から険しい声が飛び、星矢はびくりとするが、アイオリアは何でもないように軽く言い返した。
「うるさい。こいつの甘ったれぶりと来たら筋金入りなんだから」
「魔鈴の優しさはわかりにくい」
苦笑を浮かべて、アイオリアは言った。
「おまえこそ筋金入りだ、魔鈴」
「どういうこと?」
頭から手を退けられた星矢が、不思議そうに顔を上げる。焦げ茶色のその目には、既にアイオリアに対し疑わしそうなものはなかった。
「優しくしないようにする優しさ、ということだ。わかりにくかろう?」
「アイオリア!」
魔鈴が咎める声を出すが、アイオリアはけろりと無視した。
「魔鈴のいう通り、お前は筋金入りの甘ったれのようだ、星矢。……もう一年も経ったなら、いやでも自覚しているだろう?」
攻める風ではなく、ただ事実を淡々と述べるようにいうアイオリアに星矢は言い返せず、唇を噛んで黙り込む。そしてアイオリアはそんな少年の姿に、かつて膝を抱えて引き蘢っていた頃の自分を重ねて思い出す。あの頃のアイオリアも、自分の弱さについてはいやというほど自覚していた。そして、自覚し過ぎているがために直視する事が辛く、逃げていた。星矢もまさにそうである事を、アイオリアは見抜いている。
どこまでも己に容赦なく厳しくできる性根を持って生まれた魔鈴には、もしかしたらわからないかもしれない気持ちを、アイオリアは察したのである。
「だからその性根を叩き直す為に、魔鈴は徹底してお前に厳しくした。おまえが聖闘士になれるように──聖衣を持ち帰ることが出来るように。それは厳しさと言う優しさに他ならん。違うか?」
星矢は、まさに目から鱗が落ちる思いだった。
幼く単純な星矢には、言葉を、行動を、そのままの意味でしか受け取ることが出来ない。しかし今、魔鈴の厳しさが優しさ故である、ということを理解したとき、その価値観が崩壊したのである。子供は今、今まで生きて来て初めて、物事は捉え方によっていくつもの見方があり、隠された意味を秘めているという事を知ったのである。そしてそのパラダイム・シフトは、間違いなく、星矢が成長し殻を破る為の大きな一歩だった。アイオリアがかつてそうだったように。
「まあ、お前も、心のどこかではそれを感じていたのだろうがな。でなくばここまで懐くまい。……師匠は絶対に魔鈴がいい、と」
アイオリアは頷いてから、もう一度魔鈴に向き直る。
「やれ、黙して語るのは日本の美徳だと聞いたことがあるが、言わねばわからん事もあるぞ。ただでさえおまえたちは両方頑固なのだから、ぶつかりすぎると両方折れる」
「…………うるさいったら」
珍しく饒舌なアイオリアに何だかきまり悪く、魔鈴は不貞腐れたように返した。
「それで、どうするんだ」
「……どうって」
「決めるのはおまえだ。星矢ももう言いたい事は全て言った。その上で、おまえが決めるんだ。恨みっこなしだ」
「……あんたは、どう思う」
ぼそりと呟かれた質問に、アイオリアは目を丸くする。魔鈴が何か決断するのにアイオリアの意見を求めるなど、初めての事だったからだ。そこまで悩んでいる、という事ならば、よほどの事だろう。
「……参考までに、だ。……わたしはどうやら筋金入りの頑固者のようだから、思い込みで凝り固まった決断をするかもしれない」
彼女らしからぬ行動だが、拗ねているような声ではない。ただ淡々とした、仮面の下から凛と響く声に、アイオリアは彼女がいつもの冷静な調子を取り戻しつつある事を悟る。
「俺の意見が参考になるか?」
「さあね。でも、聞くだけ聞いてもいいだろう?」
「もちろんだ」
アイオリアは、ゆったりと頷いた。しかし心のどこかでは、少し緊張しているかもしれない。
「そうだな。俺は、魔鈴が今まで以上に出来るのなら、師匠をやれば良いと思う」
「どういうこと」
訝しげに、魔鈴が尋ねる。星矢もまた、アイオリアと魔鈴の会話をじっと聞いている。
「俺は、魔鈴の今までのやり方が間違っていたとは思わない。聖闘士の修行としてはもはや常識として相応しいものだし、星矢には徹底して厳しくする事が必要だろう。ただ星矢は、覚悟が出来ていなかった」
「だろうね」
「だが、もう覚悟は出来たろう」
アイオリアは、言い切った。
心の奥まで、問答無用で響く声、小宇宙を纏ったその声は、神様か、精霊か、それとも言語を解する獣とか、そういう神がかったものの声のようだ。そしてそんな声でこうもきっぱり宣言されると、星矢の背筋ももはや強制的に伸びる。意思を持って口に出す事でそれを実現させる力は、日本では言霊という概念として確かに認識されている。そして“黄金の器”たるまでになると、他人の事でもそう宣言する事で、相手にそう決意させる力があった。
「だから魔鈴、おまえは今まで以上に星矢に厳しくするべきだ。崖から吊るしたらしいが、今度は吊るすだけじゃなくいっそ蹴り落とす位はやれ」
星矢だけでなく、魔鈴もその仮面の下で目を丸くした。
「星矢はおまえに拳を向けることが出来ない。たとえおまえに殴られようと蹴られようと崖から突き落とされようとも、抵抗する事はないだろう。自分でそう言ったのだから。女に手を上げない代わりに、他のどんな事でもやり遂げると」
確かに、言った。星矢がシーツを握り締める。覚悟を決める為に。
「だから魔鈴、おまえもそれに応えて、今まで以上に厳しくするべきだと俺は思う」
本来、アイオリアは理路整然と話す事は得意ではない。だから彼はゆっくり言葉を選び、慌てず、しっかりと間違えないように言った。
「星矢を聖闘士にする。それは師匠と弟子、魔鈴と星矢がそれぞれ別々の努力をして初めて為せることだ。女で師匠のおまえは、星矢に極限まで厳しさを貸すのが仕事。そして弟子である星矢は、それにひたすら耐え、生き残るのが仕事」
「仕事」
「そうだ」
魔鈴がぴくりと反応し、アイオリアは頷いた。
「魔鈴、生き残るのは星矢の仕事だ。だからおまえは星矢を厳しく鍛え上げる事だけに執心すればいい。それでもし星矢が死んだとしても」
淡々と言われた言葉は、今までで一番重たい。その重さに、星矢が息を詰まらせる。
「覚悟の上だろう」
おまえがどうこうする事ではない、とアイオリアは言った。星矢の命を守り管理するのは魔鈴の仕事ではなく、星矢が死に物狂いで為すべき事であると。
魔鈴はしばらく無言のままだったが、やがて言った。
「……参考になった」
「それは良かった」
憑き物が落ちたような、そして空気をするりと斬り裂いて発された魔鈴の声に、アイオリアは薄く微笑む。彼女の力になれたようだ。初めて。
「あんた、わたしよりよっぽど厳しいんじゃないの」
「そうか?」
「そうさ。……わたしはまだまだ甘かったようね」
──それはないよ、魔鈴さん。
星矢は思わずそう突っ込みかけたが、魔鈴の射抜くような視線に、唇を引き結び、無言でびしりと背筋を伸ばした。彼女と過ごして既に一年、仮面をしていても、彼女の視線位は既に把握できるようになっている。
「……星矢」
「はい、魔鈴さん」
ややひっくり返った声で、星矢は返事をした。高みから見下ろしてくるようなプレッシャーが、魔鈴から降りてくる。押し潰されないように背筋を伸ばし、星矢は彼女をまっすぐに見る。
「おまえの言い分はわかった。殺す気で来い、とはもう言わない。だけどその代わり、わたしはおまえを殺す気で鍛える事にする。──甘ったれのおまえを、天馬星座ペガサスの聖闘士にする為に」
魔鈴は迷いなく、不思議に響くその声で宣言した。アイオリアと同じく、小宇宙がにじみ出た、口に出す事でそれを実現へと導く力を持った声。
「覚悟しな。死んだら承知しないよ」
「わかった」
そしてその声に応え、星矢もしっかりと頷いたのだった。
それから数年、魔鈴は宣言通り、星矢を殺す気で鍛えた。星矢もまたそんな彼女に応えるべく、二度と姉にするような甘えを見せた事はなく、ただ死に物狂いで、生き延びる為に何でもした。殴られても蹴られても耐えられる身体を作る為に、きっちりと食べ、眠り、足りなければ自分で何とかしようとした。崖から蹴り落とされそうになれば、泣き言など一切言わず、ただ岩にかじり付いてでも抗った。
組み手が出来ない事をカバーするために、魔鈴は雑兵や候補生の中に星矢を蹴りだすことにした。よく考えれば、敵との実戦を肉薄にシュミレーションするのにこれ以上うってつけの環境はないではないか、と、恐ろしい事に魔鈴は己の思いつきに喜びすら覚えた。どんな環境もいつかは自分の為になるものだねえ、といっそ感動しているような師匠の声に、星矢は青くなりながら、温い笑みを浮かべ、そうだね魔鈴さんと返した。
魔鈴の言う通り、いじめの対象を常に求め、そして東洋人を聖闘士に相応しくないとする人々は、星矢に対して容赦がなかった。すれ違っただけでも直ぐさま因縁をふっかけられる環境のおかげで星矢は随分喧嘩慣れをすることになり、本気の潰しあいの中で戦いを覚えた。生き残る為の、向けられた悪意を跳ね返す為の戦い──守る為の戦い。
そして、組み手に労力をさかれない分、魔鈴は星矢にアドバイスをし、また引き続いて変わらず、徹底した基礎訓練を課した。基礎こそが極意という信念を掲げるが故、魔鈴はそういった、本当の意味での地盤づくりを欠かさない。だから彼女は星矢への罰として、睡眠と食事を抜くという事だけはした事がなかった。
またその一環、また組み手をしない代わりとして、彼女は星矢に、座学による知識を目一杯星矢に叩き込んだ。それは戦いの為の知識が半分以上ではあるが、読み書きや一般教養も含まれている。やはりここでも基礎は欠かさない。それは、星矢の勉強の出来が悪いと判明すればするほど厳しくなった。
そしてアイオリアは、時折彼らの前に現われ、ほんの少しの助言くらいをするだけで、本格的に星矢を鍛えたりはしなかった。
「愚痴くらいならいつでも聞くぞ」
星矢と魔鈴、両方に向かって、アイオリアは笑いながら言った。
星矢の師匠は魔鈴であるという線引きを、彼はしっかりと守っている。それはけじめでもあるし、また、星矢と魔鈴の努力を台無しにしない為でもあった。
魔鈴の代わりに、男のアイオリアが星矢の組み手に付き合う事も出来る。しかし常に小宇宙を纏う黄金聖闘士の彼と必要以上に触れ合えば、その巨大な小宇宙に誘発されて小宇宙が目覚める可能性は高い。それを幸運ととる事も出来ようが、努力の鬼である魔鈴はそれを断った。星矢の師匠である魔鈴の意向であるならば、それに逆らう権利も、その意思も、アイオリアにはない。ただ、
「何もせんが、盗むのは勝手に」
と、魔鈴に言った。
魔鈴はどうとも返事をしなかったがしかし、アイオリアに頻繁に組み手を頼むようになった。
高レベルの実力者同士の組み手は、観戦するだけでも十分身になる。星矢は離れた所からいつも彼らの組み手を眺め、そして魔鈴はアイオリアの技──ライトニングボルトを模倣し、流星拳という技を編み出した。それは自分が得意とする足技よりもパンクラティオンを基礎とする打撃技に向いている星矢の為でもあったし、そして蹴りは強いが上半身が若干弱い自身の実力向上ももちろんあるだろう。
拳を交えて関わる事のない二人は、そうして師弟の関係を築いて行った。
「星矢」
拳を交える事がない分、二人はよく言葉を交わした。当然ながら主に魔鈴が星矢に教えるという形ではあったが、星矢もただ聞くだけではなく、それについてどう思うか、その都度よく考え、よく発言するようになった。
そして一日の修行が終わったある日、聖域の名物とも言える、結界によって外界のように天空まで殆ど空気の汚染がない故に見事な星空の下、魔鈴は言った。
「聖闘士の闘技は、宇宙の開闢に基づいている……」
宇宙の開闢とは爆発だ、と魔鈴は続けた。
「おまえもあの星と同じ原子で出来ている、といつか教えたわね」
そう、はじめはこの地上の生物もあの星も銀河も、そのもっと果てにある何千億という星雲も、全てがひとつの塊だった。宇宙は百五十億年前、そのひとつの塊から爆発によって誕生したのだ。
「いわばおまえの肉体も、爆発によって生まれた小宇宙のひとつなのよ」
星がその一生を終えて超新星となり、ひときわ大きく輝いたとき、果てしない宇宙空間に「星のかけら」が散らばった。それがビッグ・バンである。
そして地球上には約100種類の元素があり、生物の身体の約96%は炭素・窒素・水素・酸素の4元素、有機物の構成要素で構成されている。そしてそのうちのひとつである水素はビッグ・バンによって発生し、酸素・炭素・窒素は数十億年前に星の内部で作られた。
つまり、宇宙物理学の観点で言えば、地球上の生命は皆、気が遠くなるような太古の星のかけらから出来ているといえるのである。
そして聖闘士は、それを感覚的に悟り、星のかけらから出来た己の身体をひとつの小宇宙とみなし、秘めたる力を集中し爆発させる事で超人的な力を生み出す。その力を総じて小(コ)宇(ス)宙(モ)と称し、それを用いて大地を割り、星を砕いて闘う事を、小宇宙の闘法、聖闘士の闘法と呼ぶ。
魔鈴があらかた講義をし終わったとき、少し無言の間を置いた後、星空を眺めていた星矢は、ふと言った。
「……あっちの端は、星が見えないね」
星矢が指差した方向を見て、ああ、と魔鈴は頷く。
「十二宮があるからね」
「アイオリアはあそこに住んでるんだよな。でっかい山だなあ」
「パルナッソス」
魔鈴がそう言い、星空を覆うように真っ暗な塊になっている十二宮を半分呆れたように見ていた星矢が、振り返る。
「本物のパルナッソス山は、別にあるけどね」
そう切り出して、魔鈴は、芸術の世界、そして聖域の聖闘士たちの間で使われる、Gradus ad Parnassum──「パルナッソス山への階梯」というメタファーについて話した。星さえ覆い隠すようなその高み、それが持つ暗喩。
それを聞いて、星矢は、アイオリアと魔鈴が、よく高い所に座っている事を思い返す。星矢ではとても昇れないような高い所に背を預けあって座り込む二人は、本当に、崖に佇む獅子と鷲のようだ。彼らが恋人であるのかどうかは未だよく分からないが、聞けば答えてくれるだろうか。
「頂上には、何があるんだろう」
強く、気高ささえ感じる、孤高の獅子と鷲の姿。あの高みに近付ける日は、来るだろうか。天馬の翼を得られれば、あの場所に行くことが出来るだろうか。
「女神さ」
魔鈴は、やはり淡々と言った。不思議の透瑠、魔力のある鈴のような声が、夜風に乗って流れた。
パルナッソスの頂上、神が居るというその場所からなら、見えない星もきっとよく見える。おそらく壮絶なまでに近いのだろう星空はどんなものだろうかと星矢は思ったが、頭上に広がる降るような星空よりもすごいものなど、想像すら出来ない。
「あんたもいつか、──天馬ペガサスの聖闘士になったその時は、パルナッソスの高みを目指して、階梯を昇る日が来るだろう」
「ペガサス」
「そうだ」
高みを見上げ、魔鈴は言った。それが近い将来、予言になる事も知らずに。
「天馬ペガサスこそ──パルナッソスに住むとされる存在なのだから」