Doctor Gradus ad Parnassum(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)
<AIOROS>
 ──Gradus ad Parnassum.

 グラドゥス・アド・パルナッスム。ラテン語で、「パルナッソス山への階梯」という意味のこの一句は、聖域でも時々使われる。
 パルナッソス山は、中央ギリシャ、コリンティアコス湾の北、デルフォイの上にそびえる、不毛の石灰岩でできた、実在する山だ。標高は、2457メートル。デルフォイの神託によってアポロンとコリキアンのニンフたちを奉るこの山は、芸術家たちに天啓を与えるムーサたちが住むとされていて、一般的には、芸術や学問発祥の聖地として言及されている。そのため「グラドゥス・アド・パルナッスム」の句は、芸術の教則本、特に入門書、手引書のタイトルなどによく用いられた。つまり、学問、芸術、もしくは何らかの特定の分野において高みを目指して修練を積むという事のメタファーとして、「パルナッソス山への階梯」という一句は使われるのである。

 聖域においても、パルナッソスの暗喩は有効だ。ただし聖域ではそれに加えて、女神アテナの軍事要塞である十二宮のことも意味する。
 女神のおわす頂上にたどり着く為には、十二の宮と守護者である黄金聖闘士に認を貰い、長い階段を上り詰め、教皇宮を抜けなくてはならない。その様は、小宇宙の闘法を修めんとする者たちにとって、まさしくパルナッソス山への階梯だった。
 十二宮は、気軽に足を踏み入れることが出来ない場所だ。それは十二宮がアテナ神殿を守る軍事要塞として存在する場所だから、という理由ももちろんあるが、それ以前に、普通の人間にはとても耐えられない場所なのだ。
 まず、実際のパルナッスム山を有に越えて標高数千メートルにもなる上部の酸素は薄い。しかしこれだけなら、慣れれば耐えられる。問題なのは、そんな物理的な事項ではない。酸素が薄い、それ以上に、十二宮は──のである。
 外界に比べれば、聖域全体に漂う小宇宙もかなり濃厚といえるが、十二宮はその比ではない。何千年もの間、歴代の女神と黄金聖闘士たちの濃厚の小宇宙が万物に溶け込む十二宮は、ただ昇るだけでも相当な力を要する。まず小宇宙に目覚めていない一般人では、白羊宮に辿り着く事さえ難しいだろう。小宇宙に呑まれることによる、過換気症候群にも似た諸症状が発症し、失神くらいならまだ良し、悪ければ脳死もあり得る。
 歴代の住人──何百人もの黄金聖闘士たちの巨大な小宇宙、そして女神アテナの小宇宙がたっぷりと染みわたった十二宮の気配は、他のどんな土地でも感じられないだろう濃厚さを持つ。階段や建造物を形作る大理石、また岩肌、土、その土で育っている植物はもちろんの事、その空気でさえ、原子の一つ一つに、黄金聖衣から感じるのと同じ、歴代の黄金の小宇宙を感じる事が出来る。息をする度に小宇宙を感じ、それに呑まれる事が無いように常に気を張っていなければならない。内臓のそこかしこに重りでも括りつけられるかのような重圧感に耐えられなくては、十二宮に足を踏み入れる事など出来ないのだ。
 そんな場所で、黄金聖闘士たちの多くは、ごく幼い頃から生活することになる。はじめは濃度の高い小宇宙を処理し切れずに若干の体調不良を起こしたりするものの、生まれながらにして小宇宙に目覚める“黄金の器”の多くは、小宇宙をいち感覚としてコントロールするセブンセンシズの片鱗を掴む事でそれを克服する。それは“黄金の器”たちの誰もが通ってきた道だ。十二宮というパルナッソス山への階梯、その最初の数段がそういった経験だった。
 鍛錬の為に酸素の薄い山岳部に赴いて生活するという方法があるが、この場所で生活するのは、小宇宙に関してそれに似た効能がある。そして生まれながらにして小宇宙に目覚めた“黄金の器”はより鍛えられ、黄金聖闘士になって行く。

 だが、アイオロスはそうではなかった。

 アイオロスは、自分がどこからやってきたのか、知らない。
 物心ついた時には、彼は十二宮に居た。教皇シオンによれば、アイオロスが“黄金の器”であることは彼が生まれる前から占星によって託宣があった、ということらしい。
 聖域における占星は、絶対的ではないが信頼の置ける大きな目安のような存在──天気予報のようなものに近い。雨が降る事はわかるし降水確率も弾き出すことができ、大概は当たる。しかし時々外れることがあっても、そういう事もあると納得される、そういうもの。そしてそれは聖域では教皇を筆頭にして専門のものが用いる技として、それなりに重要視されている。
 アイオロスが射手座サジタリアスの“黄金の器”であり、またどの女性から彼が生まれるのかも、既にその時点で弾き出されていた。そして「もしその通りであれば、その子を引き渡す事」を、女性、即ちアイオロスの母に告げたのだ、と教皇シオンは語った。

 そしてアイオロスは、十二宮で育った。
 あまり“下”には降りなかったように記憶している。なぜかというと、
(空気が、薄い)
 ──そう感じたからだった。
 もちろん、実際には逆だ。十二宮の上部は既に高度数千メートルを誇り、酸素も薄い。だが生まれてすぐに十二宮へ連れて来られたアイオロスにとって、小宇宙に目覚めていない“普通”の人々が暮らす下界の方が、空気が薄く息苦しく感じられたのだ。
 生まれる前から“黄金の器”だろうと予測されていたアイオロスは、その予測通りに、生まれてすぐ、その身に小宇宙が宿っている事が確認された。のちに双子座ジェミニの候補生として召喚され、神のような男といわれたサガが“黄金の器”としての小宇宙を発現させたのが5〜6歳の頃だということを考えれば、その特異性がわかるだろう。
 そして彼は生まれてすぐに“黄金の器”として引き取られ、十二宮で育てられた。つまり彼は、階梯を昇った自覚なく、物心ついたときからパルナッソスの高みに居た。
 濃厚極まる小宇宙の中で呼吸する事を覚え、立つ事を覚え、歩く事を覚えた彼にとって、小宇宙というものは、そしてアテナというものは、聖闘士というものは、何ら特別なものではなかった。濃厚な小宇宙が溶け込む薄い酸素を吸い、母を知らず、父を知らず、ただこの宮の最上に降臨する女神を守る聖闘士として、命も惜しまぬ射手座サジタリアスの黄金聖闘士になるのだと言われて、彼は育った。
 だから彼は、何を疑った事もない。
 彼にとって、小宇宙は空気と同じものであり、聖闘士になるというのは己の心臓が鳴るのと同等の事であり、女神の存在は毎日太陽が昇るように当然の事だった。
 先述したように、パルナッソス山は、何らかの分野の高みのメタファーとして用いられる存在である。しかし同時に、「Parna-」は言語的にギリシア語と同じルーツを持つヒッタイト語で「家」も意味する。
 小宇宙を空気のように、聖闘士である事を心臓の鼓動のように、女神を太陽のように自然に受け入れていたアイオロスにとって、生まれたときからの当然の居場所であった十二宮は、単に家、そのものであったのかもしれない。

 アイオロスはシオン教皇や童虎老師に次ぐ新たな世代の黄金聖闘士として最も最初に発見されたが、その次に召喚されたのがサガだった。
 己と同じ黄金聖闘士候補だという存在を、アイオロスはどきどきしながら迎えた。
 サガ少年はアイオロスよりひとつ年上で、若干ほっそりした、天使のように造作の整った子供だった。子供特有の少し青っぽい白目の中に薄いブルーグレーの瞳があるのは、まさに生きた宝石と言っても遜色無い。だがそれを縁取る長い睫毛や同じ色のプラチナ・ブロンドの髪はぐちゃぐちゃに乱れており、顔にはひどく泣き腫らしたあとがあった。
 要するにサガは非常に話しかけ辛い状態で十二宮に召喚されてきたわけだが、、という理由でもって、アイオロスは何の疑いも躊躇もなく、彼に元気よく話しかけた。
「おれはアイオロス! いっしょに聖闘士になれるようにがんばろうな!」
 まっすぐに差し出した手を、サガは随分長い間取らなかった、とアイオロスは記憶している。それどころか、わけのわからないものを見る目で、彼はアイオロスをじろじろ見ていた。

 それは、“自分とは違うもの”を見る目だった。

 アイオロスは、それにじんわりとショックを受けた。
 いっそ差し出した手を叩かれでもしていたら、カチンときて、そのことについてサガを問いつめ、喧嘩のひとつでもしたかもしれない。だがサガはおそるおそる、そして何だか目で、アイオロスの手を取った。
 そして、最初は薄い酸素と濃厚な小宇宙によって青い顔をしていたサガも、時を経るごとにそんなこともなくなった。だから最初は僅かに戸惑ったアイオロスも、サガを同じ“黄金の器”同士として認識し、以来、それを疑う事はなかった。
 実のところ、サガのほうはそれからも何らかの折りにあの目でアイオロスを見ることがあり、アイオロスはその度にやはりじんわりとしたショックを受けたが、サガは結局の所アイオロスたちの手を取る。だから、アイオロスは気にしないことにした。

 アイオロスは、自分がどこからやってきたのか、知らない。

 己の母である女性が、どういういきさつで自分を生んだのか、父は誰なのか、アイオロスは何も知らない。

 七歳のとき、お前の弟だと言われて連れて来られた赤子、アイオリアをどうして彼女が手放したのか──そもそもアイオリアが本当に自分と母を同じくする弟なのかどうかも、アイオロスにはわからない。ただ、アイオロスが、それをただの一度も疑った事がない、それだけだ。
「お前の弟だ、アイオロス」
 そう言われた。
「お前はサジタリアスとして。アイオリアはレオとして、女神をお守りするのだ」

 呼吸をするように。
 心臓が脈打つように。
 太陽が毎朝天に昇るように。

 アイオロスは、なにかを疑った事など、一度としてなかった。
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BY 餡子郎
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