Doctor Gradus ad Parnassum(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)
<SEIYA - 2>
 不思議なことに、この場所に踏み入れた星矢が感じたのは、雄大なほどの“懐かしさ”だった。

 一般人には踏み入ることの出来ない特別な結界を抜けて目の前に広がるのは、神話の世界のような景色。崩れた柱や神殿はパルテノンのような“遺跡”ではなく、現在も現役の建造物として扱われており、電気やガスなどの近代的なエネルギーを一切用いない生活様式、そしてキトン等の古代衣装の上から革のプロテクターをつけた、いかにも古代の兵士然とした姿をした人々。
 孤児であり、贅沢な暮らしとは全く無縁だったとはいえ、先進国である日本で生まれてからずっと暮らしてきた星矢が、そんな景色に懐かしさなど覚えるはずがない。だが星矢の胸にあふれたそれは間違いなく望郷の念が叶えられたような無量の感であり、そしてそれは実際に涙となって、星矢少年の頬を伝った。
 だが日本からやってきた彼を案内した下っ端の使者は、彼の涙は単に日本を離れ見知らぬ場所へと連れて来られたからだと思ったようで、フンと鼻を鳴らしただけだった。

「──セイヤだ」
 歩幅が随分違う子供を全く鑑みることなく歩みを進めてきた使者は、突然そう言った。
 そして星矢は、必死で小走りに使者のあとを追いかけてきたせいですぐには気付かなかったが、彼の前に、一人の人物が膝をついている。明るい茶色の癖のある髪、そして胸を覆うプロテクターや男とはあきらかに違う肉付きから、その人物が女性──しかもかなり若い、おそらく十代前半の少女である事を知る。
「マリン、そいつはおまえにあずける」
 まだ七歳だが、お前と同じ日本人だ、ちょうどよかろう──彼は身を翻しながらそう言って、半ばこそこそと逃げるようにしながらその場を去った。星矢に声をかける事もせず。
 この彼の態度、星矢だけでなく彼女の事も嘲笑うような、しかしどこかびくびくしているような態度がどういう意味であったのか星矢が知るのは、もう少し後のことになる。正式に聖衣を得た白銀聖闘士であっても、日本人だというそれだけでまだまだ蔑まれる傾向。それでいて彼らの持つ力には怯えているのだから滑稽極まりないが、このとき星矢を案内した彼は、まさにそれに当てはまっていた。
 彼女は膝を伸ばして立ち上がり、去って行く使者をちらりとだけ見送る。
 しかし星矢は、既に使者の事などすっかり忘れ去っていた。立ち上がった彼女の姿が、あまりに衝撃的だったからである。
 聖域に入ってからというもの、見かける人々の姿は、まるで古代にタイムスリップしたかと思うようなものばかりだ。それを考えれば、彼女がアンダーとして身に纏うレオタードらしき装いなどは、かなり現代的と言える。その上に纏うのは、やはりグラディエーターのような古めかしい革と金属のプロテクターなのであるが。
 しかし、星矢が目を奪われたのは既に道行きで見慣れてしまったそういった装いではなく、彼女の顔に張り付く、銀色の仮面だった。
 しかも更に驚くべき事に、その仮面には、視界を確保する為の穴や、そして口や鼻に空いているはずの呼吸の為の穴などが、本当に、一切ないのである。この仮面で、彼女は一体どうやって生活しているのだろう。もう一つ付け加えるならば、仮面には紐など、顔に固定する為のものが一切付属していなかった。まるで吸着するように、ぴったりと隙間なく彼女の顔を覆っている。
 そんな不思議な仮面をつけた彼女は、ちらりと星矢を見た──多分、見たのだと思う。目の色さえわからないこの仮面では、顔面がどちらを向いているかでしかそれが推測できない。
「おまえ子供のくせに、どうしてこんな遠いギリシアまで来たの……?」
 それは、とても静かな声だった。そして、呼吸の穴すらない仮面の下から発されたというのに、全くもって篭って聞こえない。金属の風鈴が僅かに鳴ったような、静かだけれども細く遠くするりと響く、そんな、妙に力のある、不思議な声だった。
「聖衣だ」
 彼女の銀色の面を見上げて、星矢は答えた。
「聖衣?」
「そうだよ。オレは聖衣を日本へもってかえらなきゃいけないんだよ!」
「聖衣を日本へなんか持って帰ってどうする気?」
 ずけずけと質問してくる彼女に、星矢は意味なく反感を抱いた。星矢は元々素直な質ではあるのだが、今まで育った生活環境から、見上げる背丈の大人には無意味に反抗してしまうという癖があった。その生意気さと頑固さがまた子どもに接し慣れていない大人の不興を買って悪循環に陥っていたせいか、この星矢の癖はかなり根深く、余談を言えば随分大きくなっても殆ど改善しなかった。
「そんなことまであんたに言えないよ──、れれ」
 星矢が、むっ、と眉に力を入れたその瞬間、彼女は既に目の前に居なかった。思わず周囲をきょろきょろと見渡すと、彼女は星矢の後方数メートル程度の距離にある、2メートル以上はあろう大岩の上に膝をついていた。
「いつの間に、あんなところに……」
 “反感を感じる”“ものを言う”ということに意識を使った星矢の隙をついて、彼女が小宇宙を発動させ、音もなく星矢の頭上を飛び、宙返りを一回して岩の上に着地した、などということなど、まるで星矢は認識できなかった。星矢は瞬間移動したような彼女に引き続き大層驚いていたが、彼女がそうして移動したのだという事をこのとき知れば、更に驚いていた事だろう。
 わけがわからないがとにかくオクレを取ったような気がして、星矢は彼女が居る岩の近くに駆け寄った。
「割ってみて!」
「エ?」
 岩の上に居る彼女から降ってきた言葉が理解できず、星矢は疑問符を飛ばす。しかし彼女は、もう一度言った。
「この岩を、割ってみてよ!」
「そ……」
 星矢は、絶句した。反感を抱く事も忘れ、ポカンとしている。
 石を割る、という事すらかなりのことなのに、彼女が示すのは、一抱えどころではない大岩である。なにか頓知でも仕掛けられているのかとも一瞬思ったが、彼女はそういう冗談などまるで言いそうにない雰囲気をしている。つまり、彼女が言っている言葉の意味は、そのまま“この岩を割ってみろ”ということなのだ。
「そんなこと、できるわけないよ!」
 星矢は、持ち前の反骨精神を持って言い返す。
 そして彼女は無言のまま、一瞬じっと星矢を見た──おそらく──が、不意に、右拳を振り上げた。
「エ?」
 気付けば、振り上げた右拳だけでなく、左はしっかりと脇を締めて固定され、指先がピンと伸びている。それが武道の型、攻撃に移る前の姿勢である事は、母親の生家で古武道を習っていたという一輝が身近に居た事から、星矢にもわかった。しかし星矢が目を奪われたのは、その姿がこの上なく正確であることと、それが一瞬にして為された事だった。
 正確である、というのは、星矢が武道を習っているから、ではない。ダンスを見たことのない者でも、見事な舞踏はそれとわかる。彼女が為した動きは、それほどまでに洗練されていた。
「──わあ!」
 そして、一輝も、TVで見た事のある達人も、この構えを為してからが長い。まず構えの正確さを調整し、そして気合を入れて拳を突き出す。

 しかし、彼女はそうではなかった。

 洗練された構えを一瞬にして固定した事、それに星矢が見惚れた瞬間、すぐに拳は振り下ろされていた。そして、盛大な音を立てる。
 “素手で岩を割る”──星矢に要求したその冗談にしか思えない所業を、目の前の彼女は、も無しにあっさりとやってのけたのである。
 星矢は、後ろに倒れた。それは飛んで来た石つぶてを避ける為、ではない。腰を抜かしたのだ。
 目の前の岩は、割れている──、いや、正確にいえば、“砕かれた”,と言った方がいいかもしれない。彼女が拳を突き立てたその岩は、大の大人数人くらいの体積ぶん、粉々に砕け散っていた。片手で持てる程度の大きさに砕けただけでも驚愕ものだが、あろうことか、細かい砂になっているところが大半だった。削岩機をフルパワーで動かしたとて、こうはいくまい。だがそれを、彼女は素手で、しかも一撃でやってのけた。
 腰が抜けてひっくり返った星矢の身体を次におそったのは、震えだった。ありえないもの、得体の知れないもの、警戒すべきものに対しての本能的な反応。
 そんな星矢を見ているのか居ないのか、砕けた岩の残骸の上で立ち上がった彼女は、やはり淡々と言った。
「聖衣が欲しければ、このくらいの岩は割ってね」
 それが聖闘士としての最低条件、と言い渡した彼女を、星矢は信じられないものを見る目で見る。岩の上に立った彼女は、腰を抜かして地面にへたり込む星矢から見ると、随分高いところに居るようだった。
 この聖域に来た以上、日本に戻れる道はただ二つ。見事聖闘士となって出て行くか、死体となって帰るかだ、と彼女は言った。
「まさか、そんな恐ろしい所とは知らずに来た、なんていうんじゃないでしょうね、ぼうや」
 ククク、と彼女は笑った。やはりあの仮面の下から発したとは思えないほど、その声は星矢の耳までよく届く。そしてだからこそ、星矢は、むかっ、と眉を寄せた。まだ腰は抜けているが、頭に血を昇らせて自分を睨みあげる星矢を、彼女はじっと見下ろしていた。

 そしてその後、星矢の知らない手続きややり取りが、星矢の知らない人々の間で取りなされ、星矢は正式に彼女の弟子という事になった。
 星矢の師匠になった彼女の名は、魔鈴という。日本語は出来るものの、仮面で顔立ちはわからず、そして明るい茶色の髪を持つ彼女を自分と同じ日本人であると言われてもいまいち違和感があったのであるが、名前を形作る漢字を教えられたとき、星矢は彼女から初めて故郷の風を感じた。
 魔鈴、魔の鈴。その名は、仮面の下からでも不思議に響く声を持つ彼女に、よく似合っているような気がした。



 今考えれば、最初の一年、魔鈴が星矢へ課した修行は、揺りかごに乗せたようにやさしかった、と星矢は考える。主には筋力トレーニングや持久走といった基礎訓練を、当時は、なんて厳しいのだ、さすが聖闘士の修行だなどと思い、泣いてすらいたものだが。
 そしてそれが、親が居ないとはいえ,八歳まできちんとした施設で衣食住の揃った暮らし──聖闘士候補生的に言えば、随分甘っちょろい、恵まれた暮らしをしていた星矢が、いきなり聖闘士の修行を始めて身体を壊さないようにという、いわばウォーミング・アップ期間であった事を星矢が知るのは、もっと随分後になる。
 そもそも、修行以前に、電気もガスもなく食料も十分でない聖域の暮らしは、先進国・日本出身の星矢にとって、とても厳しいものだった。水道をひねれば水もお湯も出るということがいかにものすごいことなのか、星矢は嫌というほど思い知った。
 星矢の仕事としてまず与えられたのは、水汲みだった。
 少し離れた所にある井戸から綺麗な水を汲み、天秤棒の両端につけた桶に汲んで、バランスを取りながら運ぶ。これが随分難しく、まず某の両端にあるせいで梃子の原理が働き余計重たいそれを担ぐ力と、そして水を零さないように歩くバランス間隔が求められる。最初の何日かは、何往復もしてまともに運べたのは一杯かそこらであった。
 しかし、さすが子どもだけあって、順応性や学習能力は高い。星矢はだんだんとそれがこなせるようになった。そして、井戸というのは人が集まる場所だが、質が悪い雑兵や石の悪い候補生に喧嘩をふっかけられるのを避けるため、自主的に早起きをし、人が集まる前に多くの水を汲んでしまうようになる。
 そしてそんな彼を見た魔鈴は、ある日彼の前にしゃがみ込み、手を出して、ぼそりと言った。
「拳」
 向けられた掌とともに言われた言葉の意味を、星矢はしばらく理解できなかった。魔鈴の掌は、姉とは随分違い、肉刺や胼胝が何度も出来ては潰れた痕が沢山あり、ごつごつしている。
 拳をここに打ってみろ、という意味だと察した星矢は、恐る恐る、彼女の掌に軽く拳を突き立てた。
「本気でやりな」
 その声が地を這うようだったので、星矢はびくりとした。そして「女の人の手を思い切り殴るなんて」という言葉が、自己防衛本能によって引っ込む。今その言葉を口に出したら、こっちの方が思い切り殴られるという事を察したからだ。
 そして、これまでの成果を見せる機会かもしれない、と思い直した星矢は、思い切って魔鈴の掌に拳を打ち込んだ。
「……本気でやれって──」
「ほ、本気だよ!」
 星矢は、やや冷や汗を流しながら言った。嘘ではない。星矢は本気で拳を打ち込んだ。
「……先は長いね」
 はぁ〜あ、と、魔鈴は盛大な溜め息を仮面の向こうでついて立ち上がり、家の中に引っ込む。
 くそお、と星矢は悔しげに唸る。──しゃがみ、足の裏を地面につけただけで姿勢を保たせていた魔鈴の身体は、掌に星矢の拳を受けても、1ミリたりとも揺れなかった。

 魔鈴の寝床、この先何年も星矢の寝床にもなった場所は、小さいながらも一軒家だった。他の者が合同の宿舎で暮らしていることを知った時は、さすが白銀聖闘士は違うんだな、と思ったのだが、それは日本人の魔鈴がかつて宿舎を追い出され、朽ち果てた小屋を自力で直して住んでいるからだ、と聞いた時は、唖然とした。
 出会い頭からとんでもない力を見せられたとはいえ、それとはまた別に、若い女性である魔鈴が師匠にも保護者にもなるという事に、心のどこかで若干の不安があったのだろう。──しかし、直された小屋がそこそこ立派なので、結局他の者たちよりも魔鈴の方が豪華な寝床を持っている、という現状に、星矢はこの師匠をかなり頼もしいひとなのだと認識した。そしてそれは、正しい。
 保護者、頼れる人、として星矢が思い浮かべるのは、まず姉・星華である。3つ年上の姉は、星矢に優しく、そしていつだって味方でいてくれた、心の拠り所だった。
 魔鈴は、姉とは違う。彼女は姉のように笑顔どころか全ての表情が読めず、そして厳しい修行をどんどん課してくるし、優しい言葉だってかけない。そして半泣きでひいひいやっている星矢の横で、自分より何十倍も凄まじい修行をこなし、食料や水を確保し、寝床を整え、因縁をつけてくる大男を殴り倒して息ひとつ荒げない。
 星矢は反骨精神も強いが、一度懐けば素直になる質だ。魔鈴のそういう実質的な頼もしさが、星矢にとってはいつの間にか心の拠り所になり、いくらもしないうちに、星矢は魔鈴に懐いた。魔鈴は間違いなく、星矢にとって“世話になっている人”、更に言えば“尊敬する人”という組み分けの存在になったのだった。



 そして一年が経った頃、ほぼ毎日のように掌に星矢の拳を受けてきた魔鈴は、突然、「修行のカリキュラムを変える」と言い出した。そろそろおまえも力がついてきたから、と。
 一年間の、単調で辛い基礎練習が認められたか、と星矢は表情を輝かせ、そして幾分緊張しながら、魔鈴が言葉を発するのを待った。
「じゃあ、とりあえずかかっておいで」
「えっ」
「殴ろうが蹴ろうが組みかかろうが、何でもいい。わたしをぶちのめす気でやるんだ」
 そら来い、と魔鈴は顎をしゃくる。しかし彼女の前に立った星矢は、戸惑った顔をした。
「で、できないよ」
「は?」
 ぶるぶると、星矢はわりとはっきりと首を振った。
「……だって魔鈴さん、女の人だ」
「……………………何だって?」
 星矢が言った事の意味がすぐに理解できず、魔鈴は、随分と間を置いてから言った。英語であるならば“pardon?”、更に補足するならつまり、今のクソふざけた発言、もう一回言ってみろ。
 しかし星矢は、馬鹿正直にもう一度言った。
「女の人に殴り掛かったりなんか、出来ない」
「ブッ殺すよ」
 底冷えするような声を出してしまってから、つい口に出た、と魔鈴は次の瞬間思った。星矢は青ざめて戦いている。
 魔鈴は久々に昇りそうになった血を体全体にゆっくりと行き渡らせてから、呼吸を整え、低めの温度の声で言った。
「……ぼうや。一年も経って気付いてやれなかったんなら悪かったね。……習い事がやりたいなら場所を間違えてるよ。さっさと出てけ」
「魔鈴さん!」
「魔鈴さん、じゃないよこの馬鹿。おまえは何になりたいの。聖闘士だろ」
 普通、即ち外界で武道を習うなら、まずは一人での型の訓練などから、などで普通だろう。しかし聖闘士になろうとする者にとって、そんなやり方はあまり相応しくない。スポーツか精神鍛錬の一環として身につける武道ならいいが、聖闘士が身につけねばならないのは、厳密には武道ではなく、敵の殺し方──すなわち、肉弾戦での戦争の仕方である。武器を使う事は禁じられているので勘違いしがちだが、相手が殺せるのならば、何でもいいのだ。その手段が、拳であろうと、蹴りであろうと、超能力であろうと。
 それに、小宇宙による様々な超能力が使用出来るようになればマシンガンでさえ意味はなくなるのだから、武器の使用の禁止という規律も、小宇宙が使えるならば、根本的に何の意味もなくなってしまう。実際、青銅聖闘士は刃物を持った大勢を倒すことが出来、車を追い越して駆けることが出来る。白銀聖闘士なら銃火器を持った敵と渡り合い、戦闘機の音速が普通だ。黄金聖闘士など大量殺戮兵器とも渡り合えると言われている。聖闘士の戦いのレベルとは、そういうものなのだ。
 だからまずはかかってこい、と魔鈴は言ったのだ。そしてもちろん、そこで「女の人だから」などという返しは、もはや冗談にもならない。百歩、いや千歩、一万歩譲って、魔鈴が男であれば星矢の発言もありだったかもしれない。しかし、日本人だからという理由で他から殆ど構われる事なく、魔鈴にマンツーマンで訓練を受けておきながらこの反応はどういうことだ。それとも何か、この子どもは自分のことを女と見ていなかったのか。それはそれで別にいいが、いや、それならば「魔鈴さんは女の人だから」なんて言わないだろう。意味が分からない。
 魔鈴は聖域に来て始めて、頭を掻きむしりたくなるという衝動に陥る。そして目の前のガキの頭をねじりむしりたい、という衝動を堪えた。そして正しい位置に付けなおしてやりたい。やろうと思えば本気で出来るのだと、たった今わからせてやろうか。
「……もう一度言うよ。わたしを殺す気でおいで」
「いやだ!」
「ふざけんじゃないよ」
 魔鈴から漂う凄まじいプレッシャー、一人前の聖闘士の洗練された小宇宙が、まだ十も超えない少年に襲い掛かる。星矢は真っ青で膝も震えきっているが、しかしはじめのように腰を抜かしたりはしなかった。
「いいかい、わたしを殺す気でかかってくるか、それとも尻尾巻いて逃げるか、ふたつにひとつだ。ひとつだけだ。どっちか選ぶんだ」
 青い顔のまま黙り込む星矢を魔鈴はしばらくじっと睨んでいたが、たっぷり一分プレッシャーを与え続けてもそのままの星矢に、内心いらいらしながら、絞り出すように言った。
「……日が沈むまで待ってやる。それまでに決めな」
 そう言い渡して踵を返した魔鈴は、このとき、決めていた。やると言えば良し、そうでなければ夜陰に紛れ、結界の森から外界へ叩き出してくれる、と。気配を悟られずに隠密行動をとるのは魔鈴の十八番だし、星矢を気絶させて抱える事など更に朝飯前だ。結界の隙間から捨ててくれば、小宇宙に目覚めていない星矢が、この地図に載っていない本物の秘境に戻ってくる事など不可能である。
 一年間も手間をかけさせられた事が無駄になるのは癪だが、仕方があるまい。

 だが星矢は、魔鈴の思う通りには全くならなかった。

 日が沈み、紫色の空に星が光る頃、さあどうするのだと問えば、星矢はやはり声を張り上げて、はっきりと言った。
「どっちもいやだ」
 いっそ殺してやろうか、と本気で魔鈴は思った。仮面の下のこめかみに青筋が浮かんだ事を知る者は、誰も居なかったけれども。
 そしてそれと同時に、魔鈴の頭にある考えが浮かぶ。先程の選択肢で決められないと言うならば、そう、強制的に決まるようにしてやろうではないか。生きるか死ぬか、聖闘士らしく──と。
「……いいだろう」
 のちに魔鈴自身認めるが、このとき彼女は、星矢に対する苛つきのあまり、間違いなくやけくそだった。キレていた、と言い換えてもいい。どうにでもなれ、そういう気分だった。
「腹筋千回だ」
 ぼそり、と言った魔鈴に、星矢はぱっと顔を上げた。
「腹筋千回──」
「──ありがとう、魔鈴さん!」
 満面の笑みで、星矢は言った。その明るい表情は姉を慕う時のそれ──つまり甘えを見せる時のそれであった。その表情を見て、仮面の下の魔鈴の青筋が増えた事など星矢は全く知る事なく、今にも魔鈴に抱きつき縋らんばかりの、輝くような表情を向けている。
「オレ、頑張るよ!」
 星矢は勇んででそう言ったが、魔鈴はそれを聞きもせず、既に踵を返していた。そして寝床の小屋の裏手に入ると、聖域中から、そして時には外界から拾い集めてきた、修繕用の資材のひとつを掴む。壁際に転がしていたそれは鉄パイプ、というよりは鉄骨に近く、長さは2メートルを超え,重さは軽く5、60キログラムくらいはありそうだったが、魔鈴はそれを片手で掴むと、肩に担ぎすらせず持って歩き出した。
「ついてきな」
 魔鈴の所業に呆然としていた星矢は、振り返りもせず言った彼女の後ろを、慌てて追いかける。そしてその後ろ姿を眺めて、にこにこした。
 己の我が侭を聞き、妥協案を示してくれた女性師匠。いまの星矢は、魔鈴をそう認識していた。そして具体的にも、腹筋千回というのは確かに星矢にとって過酷だったが、ただ回数が増えただけという意味で、この一年間の基礎修行の延長でもあり、星矢にとって結果の予想できる現実的な試練、そう映ったのだった。

 ──しかし、それは全くの間違いであった。



「うわああ────ん!!」
 子どもが泣く声が、波の音に紛れて響く。その声はひどくしゃくり上げており、ひぃ、ひぃ、という哀れな息づかいには、恐怖が深く染み渡っている。しかし、それを聞く者は一人しか居らず、そしてその人物──魔鈴は、凍てつくような声で言った。
「あと363回」
 彼女に言われた通り腹筋をこなす星矢は、ぶるぶると激しく震えながら、夜の海風よりも何倍も冷たいその声を、頭の端で絶望しながら聞いた。
 魔鈴が星矢に課したのは確かに腹筋千回、それ自体は星矢自身、ものすごく頑張れば出来そう、その程度のものだったが、そのやりかたは、星矢の予想を遥かに上回るものであった。
 聖域の端、森の反対側には、海に続く断崖絶壁の岩場がある。上手く結界を抜ければスニオン岬あたりに出ることが出来るらしいが、試した者は聞いた事はない。
 そしてその崖に星矢を連れてきた魔鈴は、崖の壁面に鉄の棒を突き立て──もちろん素手でである──そして恐怖に引きつる星矢の首根っこを掴むと、有無を言わさずその棒に星矢の両足をぞんざいに括りつけ、泣き叫ぶ星矢に言ったのだ。「はい、そこで腹筋千回」、と。
 恐ろしさのあまり星矢は一度もまともに下を見ていないが、おそらく高さは50メートルはあるだろう。十階建てのビルよりも更に高いそこから落ちれば、かなり高い確率で命の保障はない。
 そして星矢は泣き震えながら、638回目の動作を行なう。もはや腹筋からは感覚が消えかけているが、それでも何とか上体を僅かに起こした。──そして、途端、ぎし、と揺れる鉄骨。更には星矢の足を括りつけている紐が、度重なる刺激によって解けかけているのを、星矢は見てしまった。
 遥か下に広がる海と岩場からは意図的に目を逸らしているものの、縋りたい場所には目が行ってしまうものだ。ぎしりと大きく揺れた鉄棒がもたらす浮遊感は星矢に絶望的な恐怖を与え、それだけでも相当だというのに、己を辛うじて生に結びつけている紐が危なげに緩んでいるのを、星矢ははっきりと目にしてしまった
 その途端、星矢の中で何かの箍がぷつんと外れた。
「うわああ────ん!!」
 ひぃひぃと泣きながらも何とかこなしていた星矢は、とうとう絶叫した。気が触れるのではないか、と思うほどの叫びに滲んだ恐怖は濃く、聞いた者をも恐怖に陥れるであろう。しかし魔鈴は相変わらず淡々と、そして仮面の下から出しているにも関わらず、波音と星矢の絶叫の隙間をすり抜けるような、不思議に通る声で言う。
「泣いてもしかたないわよ」
 崖っぷちにしゃがんだ魔鈴は、泣き叫ぶ星矢をひえびえと見る。
 星矢の絶叫は、彼女の同情心を煽るどころか、むしろその逆であった。逆さ吊りで頭に血が昇りやすいこの状態、できるだけ頭を高く上げてこなさねばどんどん身体が辛くなるという事は、星矢自身、まさに身にしみてわかっている事だろう。そしてこの状態で更に頭に血が上り、更に体力も大幅に消費する「泣き叫ぶ」という反応に至った星矢。それは甘えに他ならない、と魔鈴は見抜いていた。この少年は、まだ魔鈴が助けてくれると思っているのだ。
 ──そんなことでは、絶対に聖闘士になどなれない。全く誰も助けてくれず、そしてまともな師匠もいない中、自身への厳しさだけで聖闘士になった魔鈴は、そう確信していた。
「そこで腹筋千回やるまでは誰も引き上げちゃくれないってのを、この1年で知ったはずよ」
 甘ったれるな。そう重く滲ませて、魔鈴は更に冷淡に言う。
「あとたったの362回!」
 その回数は、星矢がいつもこなしている数字に近い。この数字に「いつもやっている回数と同じようなものだ」と希望を見出し、そして解けかけている紐を見て「早くこなさねば」と焦るならばまだよし、しかし星矢は、「まだそんなにあるのか」「助けてもらわねば」と思っているのだろう。
 なら、もう、知るものか。
 魔鈴は心の中ではっきりとそう吐き捨てて、泣き叫ぶ星矢を、死にかけた敵を見る時と同じ目で見遣っている。
 聖闘士になる修行において常に目指さねばならないのは、“己の限界を超える事”、それに尽きる。それはすなわちZONE現象を起こし、眠れる能力を開花させ、そしてその力を常に安定して発揮できるよう、小宇宙に目覚めること。
 それを最も阻む最大の敵が、“甘え”である。
 頑張らなくても、誰かが助けてくれる。その根性が成長を阻み、ひいては小宇宙への目覚めから遠ざからせるのだ。
 腹筋千回、この課題そのものがこなせるかどうかについて、厳密には、魔鈴はさほどこだわっていない──というよりは、こなせて当然だと思っている。その事自体は、星矢が「ものすごく頑張れば出来そう」、そう感じた通り、星矢の限界を超えるようなものではないからだ。
 普通は死ぬところを死なないのが聖闘士だと、聖域では薄暗い冗談めいてそう言われる。この聖域では、歩けるようになった次に目指さねばならぬ事だと。そして、そうしなければ死ぬ、と続けるのは、さほど冗談でもなんでもない。
 生きるか死ぬかが、聖闘士の基本。差し出された選択示さえ選べぬ甘ったれだというのなら、では聖闘士らしく、強制的に生きるか死ぬかの状況においてやろうではないか、と魔鈴は決めたのである。
 だからこの試練で星矢が己の限界を越えようとしないならば、甘えから離れられず死ぬならば、それはもう星矢に聖闘士としての資質がなかったという事なのだ、と魔鈴はもうはっきりと見きりをつけている。
 しかしそんな魔鈴の思惑を察する余裕など微塵もなく、星矢は泣き叫び続けている。ああ〜、と、喉が破けるような絶叫が響く。逆さ吊りで、そして泣いて頭に血が昇っているせいだろう、その声もより不明瞭になりつつある。
「お……おちる……落ちて死ぬう〜〜〜!!」
 だから助けてくれ、と叫ぶ子どもを、魔鈴は冷やかに見遣る。
「死ねば…………」
 淡々とした、そして徹底的に付き離した声。死刑勧告と同等のそれに星矢がもはや虚無感にも似た絶望を感じたその時、紐が解けた。

「うわああああああ────!!」

 内臓が口から飛び出すような浮遊感の中、星矢は落ちて行く。
 遠くなって行く叫びは、ざあん、という、海への落下音とともに、あっけなく消えた。

 それを聞き届けた魔鈴は、すい、と立ち上がると、全く危なげない軽々とした身のこなしで崖を降りる。
 崖下は、ごつごつとした岩場。フジツボがびっしりと付着したそれらは、転んで打ち付けただけでもそれなりに大怪我をするだろう。50メートル上から叩き付けられれば、間違いなく死ぬ。
 しかし魔鈴は、その岩の間にぷかりと浮かぶ、小さな背中を発見した。
 軽く飛び上がって近くの岩の上に立った魔鈴は、その首根っこを掴み上げる。前の面がぐちゃぐちゃになって死んでいる、その可能性は非常に高かったが、しかし魔鈴の動作に躊躇いはない。彼女は既に、星矢が生きるか死ぬかで結局死んでしまう事を覚悟していたからだ。星矢自身は、全く覚悟がなかったが。
「……まだ生きてる…………」
 掴み上げた子どもは、おそらくフジツボに擦った傷やら、海面に打ち付けたせいだろう骨折をこしらえてはいたが、命に別状はなく生きていた。
 意外としぶといわねこいつ、と、最後まで甘ったれた態度を改善しないまま結局生き残った強運の持ち主に、魔鈴は半ば呆れた目を向ける。そしてその目を、もうすっかり深い夜の空に向けた。
 紀元前から続く結界に囲まれた聖域の空は、美しい。月はより大きく、星はもはや闇より多いのではないかと思う程よく見えて明るい。今日の空も、そんな見事な空だった。
 誰にも頼らず、甘えず、ひたすらに己へ厳しくする事で聖闘士になった魔鈴は、心の中に、ひとつの考えを持っている。それは生きるか死ぬかの中で生き延びてきた彼女が見出した、小さな信仰のようなものだった。
 いつも死と隣り合わせの聖闘士。その誰もが、自己の守護星を持つ。
 それは魔鈴自身が考え出した事ではなく、聖域全体で、ぼんやりと言われている事だった。しかし、実際に聖闘士になった魔鈴は、誰に言わずとも、それを本気で信じている。
 甘えに走った事はないが、もう死ぬ、今度こそ死ぬ、と思った事は、魔鈴も一度や二度ではない。しかしそれを乗り越えて、彼女は生き延びてきた。そしてそれは彼女の実力ではなく、単に運だ。運も実力の内とは言うが、その運を味方にする事、つまり自分の力の及ばないところを天佑によって補う事こそが、守護星を持つ、という事なのではないか、と魔鈴は実際に感じている。そして彼女の守護星は、鷲座イーグル。だからこそ彼女は己を守る聖衣に敬意を示し、大事にする。これが己を守ってくれているのだと感謝を捧げることが出来てこそそれを身に纏う資格があるのだと、彼女は信仰の儀礼にも通じる気持ちでそう思っている。
 また、今回彼女が星矢に修行の切り換えを提案したのも、この事に多少関連する。
 ──星矢が目指す聖衣が、決まったのだ。
 聖衣の全数は、天に輝く星座と同じ88だと言われている。しかしその全てが揃った事はこの長い歴史の中でもほぼなく、そして現在、失われている聖衣も多いと聞く。そんな中、空位の聖衣が出現すること自体、そもそも幸運なのだ。
 それは、青銅聖衣だった。天馬星座ペガサスの青銅聖衣。
 聖衣としては最下級の青銅聖衣であるが、しかし得るのは決して容易ではない。
 星矢は、全くもって有望な候補生ではない、むしろその逆だが、今回いちおう、正式にペガサスの候補生ということになった。
 だから魔鈴は、試そうと思ったのだ。星矢はこのペガサスを守護星として持つ者なのだろうか、と。
 そしてその結果、最後まで甘えを捨てなかったにもかかわらず、彼は生き延びた。甘えを捨てた努力の鬼である魔鈴個人的にはあまり気に入らない結果だが、信じられないほどの強運、もっと大仰に言えば奇跡の発現によって生き延びたその事実は、それだけ星矢がペガサスの星に愛されているのだ、という事とも取れる。
「……星矢、おまえの星座はあのペガサスだ!」
 魔鈴は、決めた。甘ったれのどうしようもない少年であるが、それほどまでに星に愛されているのならば、もしかしたら。
「ペガサス座がおまえを守ってくれるなら、いつの日か……」






 崖から落ちて数日、星矢はショックのためか、数日目を覚まさなかった。
 死にかける、死ぬかと思うという経験は小宇宙を目覚めさせるのに高い確率で近付く経験でもあるので、魔鈴は起き上がってきた星矢が小宇宙に目覚めている事を期待した。
 しかし星矢はやはり、ことごとく魔鈴の予想を裏切る存在だった。
「やっぱりできない」
 課題はこなせなかったが生きているだけ上等なので修行を始めてやろう、身体が戻ったら組み手をするぞ掛かって来い──という、魔鈴的には慈愛に溢れまくった提案に返された言葉がこれである。魔鈴は盛大に目眩を覚えた。
 あそこまでのめに遭わせた人間に対し、まだ女だからどうこう、とは。小宇宙に目覚める前に頭がおかしくなったのだろうか、と魔鈴は半ば本気で思う。
「無理だよ。女の人に──」
「じゃあ出てけ」
 怒りは覚えていなかった。厳密にいうなら、呆れ果てていた。そして付き合い切れないとも思っていた。更に言えば、一年も師匠として出来うる限りの事をやってやったのに、ここで今更極まる理由でトンチンカンな女扱いをされることに、ショックを受けてもいるのだろう。魔鈴は殆ど呆然としながら、言った。
「あんたがそう言うなら、わたしはおまえの師匠は出来ない」
「魔鈴さ、」
 とてもわかりやすく傷ついたような顔をする星矢を、魔鈴はひっぱたきたくなった。魔鈴が仮面の下でどんな顔をしているのか知ったら、彼はこんな甘ったれた表情はしないだろうか。
「そうさ、わたしは何をどうやったって女だ。そしておまえがそれに拳を振るえないって言うんなら、わたしはおまえの師匠であり続ける事は不可能だ」
「そんな」
「でもおまえがそこまで頑なら仕方ない。一度はおまえの師匠になった最後の責任として、誰か他の奴、男の聖闘士資格保持者に頭下げてやるから、そっちに移りな」
「そんなのいやだ」
「いいかげんにして」
 魔鈴は苛々の極地といったような、震えた声を出した。こんなに沢山選択肢を出してやっているのに、あれもいや、これもいや。どうしろというのだ、と。
「あんたはわたしを否定した」
「魔鈴さん!」
「女であるわたしは戦うに値しない、師匠に値しない、──聖闘士に値しないと」
「そんなこと言ってない!」
「言ったも同然だ」
 ガタン、と音を立てて、魔鈴は椅子から立ち上がった。いつも全く物音をたてた事のない魔鈴が立てた大きな音に、星矢はびくりとする。
「もう知るもんか。勝手にしな」
 魔鈴さん、と呼び止める事も出来なかった。星矢がぱくりと間抜けに口を開けた時には、魔鈴は荒々しく扉を開けて、閉めて、外に出て行ってしまっていた。
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BY 餡子郎
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