Doctor Gradus ad Parnassum(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)
<MARIN>
魔鈴は、弟を捜す為に聖闘士を目指した。
弟と別れることになったのは、突然の天災によるものだ。
日本から家族で旅行にやってきた魔鈴たちは、のちに教科書にも載る大地震に見舞われた。両親が建物の下敷きになり、そしてそれに泣き叫ぶ間もなく、呆然としている弟を抱えて走った事を、魔鈴はよく覚えている。しかし、両親の事が大好きだったはずなのに、なぜあのときああまで冷静に動けたのか。あれが、情を超えた生存の為の本能というものなのだろうか。
だがそれから数時間も経たない内に、魔鈴は弟と逸れた。あっという間の出来事で、何がどうなって、なぜ、いつ逸れてしまったのかは未だにわからない。
魔鈴は、弟を捜した。瓦礫の下敷きになっている死体や、泣き叫び、憤り、助けを求める人々の間を駆け抜けて、魔鈴はひたすら弟を捜した。
何日経ったのかは、わからない。魔鈴はひたすら弟を捜し続け、そして「おなかがすいたな」と初めて弟を捜す事以外を考えたとき、崩れてきた瓦礫の下敷きになった。
もうだめかな、と何となく、他人事のように思った。お腹が空いた、とも思った。
ガソリンのにおいと、コンクリートの粉塵の、埃っぽいにおい。不快だなあと思っていると、不意に、その間から、甘く鮮烈なにおいが鼻を掠めた。
(お花のにおい)
魔鈴は、ふわりと香ったそれに、暢気にもうっとりした。意識が朦朧としていたせいもおおいにあるだろう。
そして差し込んだのは、光。──黄金の光だった。
「おや、やはり生きてる」
高い声だった。男か女かはわからなかったが、子供の声だという事はわかる。だがこの場所で、“落ち着いた子供の声”というものがいかにあり得ないものであるか知っている魔鈴は、呆然とした。
花の匂いが濃くなった。そしてどこからか伸びてきた、何かちくちくする紐のようなものが魔鈴の手足や胴に絡み付き、瓦礫の下から引きずり出した。いや、引きずり出しただけでなく、立たせた。顔を上げると、逆光で見えない人影が目の前に居た。
「弟を捜してる」
魔鈴は、まず言った。頭の中にそれしかなかったからだ。
「しらないよ」
突き放した答え。しかしその声色は酷薄なわけではなく、むしろ柔らかくさえある。ただ淡々と事実を言っただけ、のようだった。
そしてその簡潔な答え方で、根拠はないが、魔鈴は目の前の人物が少年であるらしいという事を知る。そして彼は、ふいと魔鈴から顔を逸らした。左を向いて見えた横顔、目の下にほくろがひとつ。
「ああ、中途半端に目覚めてるの見つけたんだが」
誰も居ないが、ひとりごとではなかった。彼は、どこかにいる誰かに話しかけた。
「やっぱり戦地とか災害地だと、出てくるな、こういうのは。……いや、完全じゃない、中途半端だが、ちょっと鍛えればすぐという感じだと思う。……うん、ああ、そういう感じじゃないが、やたら冷静だ」
少年は、ちらり、と魔鈴を見たようだった。
「じゃあ、本人が行くと言えば連れて行くよ」
その後の彼との会話に関して、魔鈴が覚えている事はあまり多くない。
だが、このままここで過ごしていても、弟を見つける前に魔鈴がへばってしまうだろう事、魔鈴の年齢で一人で今まで生き残れただけでも奇跡である事、だから弟が生きている可能性は低いだろう事、いまから救助隊に縋れば魔鈴の身柄は保障され日本に帰されるだろうが、弟を捜す手だてはおそらくなくなってしまうだろうこと。──そして、聖闘士というものになることができれば、弟を自力で捜す力が得られるだろうということを、彼は話した。
その口調はやはり淡々と事実を述べるだけで、勧誘とか、脅しとか、そういうものではなかった、という事だけは、魔鈴は確信している。一応誘いをかけているというのに「おそらく」とか「だろう」とわざわざ付け足したからだ。本当に誘いたいなら、そんな不安を煽るような事は言うまい。
「本人が行くと言えば」と彼は言ったので、おそらく、魔鈴は無理強いしてでも欲しい人材というわけではなかったのだろう。
──弟を捜す。
そのことだけをひたすら延々と考え続けた数日間以来、魔鈴の頭は不思議に冴え渡っていた。がらりと崩れる瓦礫はゆっくりと降ってくるように見えたので、避けるのは容易かった。足下など顧みない大人の脚に蹴られないように、するりするりと歩いていけた。
この年齢の少女では、あり得ない所業。たかだか数歳違うだけの弟を抱えて何百メートルも走って逃げることができたその現象が、ZONE、小宇宙の入り口であったことを知るのは、後何年も経ってからのことになる。
ともかく、魔鈴は、冷静に冴え渡った思考──情を超えた生物としての原始的生存本能、それに導かれて、思う通りに生きられる最も確率の高い道、聖闘士になる道を選んだのであった。
聖域にやってきた魔鈴がまず受けたのは、とんでもない理不尽であった。
聖闘士というものがなんなのかすらよく分かっていなかった魔鈴は、それがアテナという女神を守る戦士の集団である事や、そしてそれになる人種はギリシャを第一とした欧州系統が主で、アジア系、特に日本人は下に見られる傾向がおおいにあることなど、まるで知らなかった。
お前と同じ候補生だと言われて引き合わされたのは、様々な少年少女だった。誰と比べても魔鈴は小さく、華奢で、だから最初は皆年上なのだと思っていた。しかし驚くべき事に、皆魔鈴と大体同じ年頃であった。
日本人種が蔑まれているということについては、この体格の違いが最大の理由だろう。欧米人は基本的に大きく、更に男ともなれば、十代前半で既に大人のように見える者もいる。
しかし、日本人であるとか、そういった事以前に、魔鈴には大きなハンデがあった。
魔鈴と同時期に集められた子供たちは、教皇の意向で、元々特殊な能力の片鱗──具体的に言えば、心が読めるとか、動物を操れるとか──そういうものを持っていることが殆どだった。
しかし魔鈴には、そういう、特別な才能は何もなかった。体格は日本人女子として平均的なもの、つまり周りと比べれば随分と小さく、そして特別な教育を受けたわけでも、何らかの特殊な訓練を受けていたわけでもなかった。もちろん、超能力らしいものとて一切使えた事はない。
そんな風に、生まれつきの才能に恵まれず、そして女であった魔鈴がまずせねばならなかった事は、いかにして見つからぬよう隠れるか、という事だった。大人で、欧米人の頑強な肉体を持ち、自分より何段も上の実力を持つ男たちに立ち向かった所で勝てるわけはない。しかし隠れる事が出来れば、誰にも邪魔されずに鍛錬を積むこともできる。だから魔鈴は、まず誰からも見つからないよう隠れきる事に、かなり長いこと執心した。
しかしそれが、結果的に魔鈴を確実に強くした。黙してじっと耐える事は瞑想にも近く、結果的に“智”の小宇宙の鍛錬になり、彼女の小宇宙の絶対量を地道かつ確実に増やしたし、見つからない為に気配を消す事は後々小宇宙に目覚めた際のコントロール技術をかなり滑らかなものにした。そして年単位で命を掛けたかくれんぼを行なった魔鈴が何より学んだのは、あらゆる方向に気を配り、どんな些細な事にもすぐさま反応し、見逃さないということ。自分以外の全ての目を逃れる為に、魔鈴は野生動物よりも気配に敏感になった。
動物と人間の違いは何かと考えたとき、その大きなひとつに、多様で繊細な情緒というものがあるだろう。奥深い情緒を持つからこそ、人間は文化や文明を作り上げてきた。
しかし弟と逸れてからの魔鈴は、そういった面において、どちらかというと動物の方に近かった。感情よりもまず生き残る為に必要なものを、確率の高いほうを素早く選び抜く原始的な能力、魔鈴が働かせているのは、常にそういうものだった。生と死の狭間に置かれた少女の精神は、そうして研ぎ澄まされて行く。
与えられた仮面も、最初は顔からずれて邪魔なばかりであったが、そのうちさほどずれなくなった。まだ小さく丸い顔に、大人用の無骨な仮面はまるでサイズが合っていないにもかかわらず、である。
弟を捜す為に開花した火事場の馬鹿力、ZONE現象、小宇宙への入り口は、そんな過酷な状況に鍛えられ、確実に開花していったのである。
そんなある日、魔鈴は、岩陰で食事を取っていた。
普通に配給の列に並んだところで、まず同じく並んでいる候補生に因縁をふっかけられるし、それを無視して順番が来るまで待ったとしても、今度は配膳をしている雑兵に無視され、食事を貰えない事だってある。
だから魔鈴は、気配を消し、配給される前の食事を盗む事を覚えた。見つかればもちろんこっぴどく折檻されるが、まっとうに並んでも折檻されるのだから同じことだ、と魔鈴はやはり冷静に判断したのである。そしてきっちり一人分だけ確保した食料を、誰にも見つからない岩陰で、出来るだけ身体を揺らさないように気をつけながら、もぐもぐと食べる。
普段魔鈴は、ひとところにじっとしている事は殆ど無い。体力が続く限り、彼女は聖域中を動き回った。それは体力づくりの為であったし、じっと人目につかないところで踞る事は簡単だが、それでは己を鍛えることにならないからだ。視線に晒され、それから逃げてこそ、訓練になる。
しかしそうとわかっていても、食べる時と寝る時でさえ気が抜けないのは、辛い。今の魔鈴にとってそれは心の問題ではなく実質的な身体の問題で、非常に切実だった。腹を空かして必死に食べている時、そして疲れきって眠っているとき襲われたらひとたまりもないという事は自覚していた。
だから魔鈴は、食べる時と寝る時は、念入りに隠れ場所を選別した。暗く、陰った、誰も来ないような物陰に身を潜める。しかし目敏い者はやはりいて、これまで何度か危ない目にあってきた。
そのとき魔鈴が食事の為に選んだ場所は、とっておきの隠れ場所のひとつだった。
十二宮── 魔鈴にはもはや想像もつかないが、聖闘士として至高の存在である黄金聖闘士が住まい守護するその麓。正面には一番下の白羊宮に続く白い入場門(プロピレア)があるが、その脇に入ったところに、壊れた巨柱や岩がごろごろししている場所がある。
こんな場所だが十二宮の入り口近くでもあるので、滅多に人は寄って来ない。それに瓦礫のような岩がごろごろしているのは、生きる事に必死になり過ぎて、弟を捜すという目的を忘れないでいさせてくれた。
魔鈴は既に数度ここを隠れ場所として使っているが、一度も見つかった事はない。しかし、それでも、気は抜いていなかった、そのはずだった。
「──!」
ばっ、と魔鈴は振り返り、上を見た。視線を感じたからである。
最初ほど顔から落ちなくなったものの、仮面はまだ魔鈴の顔に完全には張り付いておらず、仮面越しでは殆ど視界が確保できない。しかし、危機を感じたからであろう、魔鈴の意識が針のように細まる。スコープを覘いたように、魔鈴は一直線に見上げた先を、鮮明に視認した。
緑色に、金を散らしたような目。
魔鈴の意識にまず飛び込んで来たのは、そんな色彩だった。外国の獣なら、あんな目をしているのもいるかもしれない、そんな目だった。緑の目の持ち主は少年で、干し草のような風合いの金髪をしていた。
だがそのことよりも、魔鈴は、その目があまりにも高い所にある事に唖然として、口からパンを落としそうになった。
魔鈴は、一目散に逃げた。緑の目の少年は随分高いところに居たので、魔鈴を追うのはどのみち無理だっただろう。しかしそれでも、魔鈴は全力で逃げた。
恥ずかしかったのだ。
あんなに高いところに人が居るとは、魔鈴は思ってもみなかった。
隠れた魔鈴が見つかるとき、それは魔鈴をすぐ殴りつけることが出来るような、ごく近い位置だった。だから魔鈴は、より陰った、より見つかりにくい場所を探して、地べたを這いずった。見下ろし、蔑んでくる目から逃げる為に。
だが今、あまりにも高いところからのあの目線に、魔鈴は急に恥ずかしくなった。
(みられた)
無様に地面を這いずって、こそこそとものを食べるところを、あんなに高いところから見られてしまった!
魔鈴は、恥ずかしかった。は(・)ず(・)か(・)し(・)い(・)、つまり、動物にはあり得ない感情。それは、魔鈴が弟と生き別れ、この聖域にやってきてから初めて味わった、人間らしい強い情緒であった。
もともと、一度見つかってしまった場所には、一週間は行かない事にしている。
しかしそれを差し引いても、魔鈴は再度あの場所に行こうとはしなかった。もう一度あの緑の目を見たいという気持ちも確かにあったが、それ以上に、地べたからあの場所を見上げるのがどうしても嫌だった。それは恥とともに浮き上がってきた自尊心、プライドというものであるが、魔鈴にこのとき自覚はない。
その後、もやもやとした気分を抱えながら、魔鈴はいつも通り過ごした。隠れ、食べ物を盗み、息を殺して眠る。生きる為に、強くなる為に必要な生活。しかし、ついこの間までは当たり前だと思っていたその暮らしが、魔鈴には惨めに思えてきてならなかった。あの高い緑の目を思い出す度に、こそこそと隠れ、音を出さないようにものを食べる己の姿は、ひどく汚く惨めなのではないか、そう感じた。
胸にじわじわと沸き上がるそんな気分に、仮面の下の眉を顰めて耐えながら、魔鈴は干し肉を頬張る。己の身を隠す高い草が音を立てないように気をつけながら。
「!」
びくり、と肩を跳ねさせて、魔鈴は一目散に駆け出した。聖域全体を世界から隠しているという結界の森、こちらも滅多に人が来ない、そちらに向かって。
(──なんで、ここに!)
フードの下から魔鈴を見ていたのは、あの緑の目だった。
あんなに高いところに居た少年が、なぜこんな地べたに居るのか。魔鈴は、全速力で走った。
少年は、追いかけて来ない。たまたま自分を見つけたのだろうか、いやそれはない。いくらまだまだ未熟者とて、本気で隠れている魔鈴を“たまたま”見かける、などという事はないはずだ。
(……探された?)
なぜ? と、魔鈴は頭の中に山ほどの疑問符を浮かべた。
食料を盗んでいるのがばれて、それを咎めに来たのだろうか。それとも、地べたを這いずる自分を笑いに来たのか、殴りに来たのか? それとも、それとも──
口にぱんぱんにものを詰め、全速力で走ったせいか──もしくはもっと他の理由のせいか、魔鈴の心臓は、今までにないほど激しい音を立てていた。息が、苦しい。
その明確な答えを導きだす事は出来なかったが、あの少年が魔鈴をわざわざ探しているらしい事はあきらかになった。
魔鈴がじっと息を潜めてものを食べていると、彼は時々現れる。最初の数度は彼の存在に気付いた途端に一目散に逃げていたが、何度目かで、魔鈴も余裕が出てくる。そして最近内側から透けて見えるようになってきた仮面越しの視界の向こうで、緑の目が少し細まり、柔らかく笑ったのを見たのである。
なぜ彼が魔鈴を探しているのかは、わからない。
だが少なくとも、魔鈴を罰しに来たわけでも、殴りに来たわけでもない。彼はただ魔鈴の姿を確認すると、嬉しそうに笑う。この聖域に来てからというもの、魔鈴に向けられる表情は笑顔とは全く正反対のものか、もしくは嘲笑だったので、魔鈴は奇妙な心地になった。
彼は、誰なのだろう。
魔鈴は、一日経つごとに、そして少年が己を見つける度に、そう思うようになった。何かに疑問を持つ事、何かを知りたいと思う事も、ひどく久しぶりであるような気がした。
しかし、少年に直に尋ねるほど、魔鈴も警戒心が緩んでいなかった。何だか最近は色々な気持ちが起こってきているが、まだまだ魔鈴の精神は獣じみていて、神経がピリピリと尖っていた。
だから魔鈴は、盗み聞くことにした。とても遠くからではあるが、彼が雑兵たちに話しかけられているのを何度も見たことがあるので、それなりに名の知れた存在であるのは確かだ。ならば、彼の事が雑兵たちの話題に上る事もあるかもしれない、そう思ったからだった。
しかしそれをするには、今までのようにひたすらに人の気配から逃げるのではなく、人に近付きつつ、その上で気付かれないようにせねばならなかった。それはとても難しい事で、魔鈴は何度か見つかって、罵られ、殴られた。
どうすればいいか、彼女は必死に考えた。遠ければ、物陰に隠れているだけでもそれなりに隠れられる。しかし近寄ってしまえば、立っていても小さい魔鈴は、高い目線からならすぐに見つけられてしまう。
(高いところ、)
魔鈴は、ハッとした。日本に居る頃は、展望台や観覧車、そういうものに登ったことがあるというのに、なぜ気付かなかったのか、と魔鈴は己がいかに聖域に染(・)ま(・)っ(・)て(・)いたかを自覚して、くらりとした。そして、あの高い緑の目を思い出す。全てのものを見渡せるような、雲すら漂う高い場所にあった、緑の目。
魔鈴は時間を見計らい、思い切って、雑兵たちがよく集まる広場近くにある、緑の茂った木に登ってみた。きっと日本に居た頃は一人でなど登れなかっただろう、しかし割とするすると登ることが出来、魔鈴は少し嬉しかった。
数刻経つと、いつも通り、訓練を終えた雑兵たちががやがやと集まってくる。魔鈴は木の上で、いつもより更に気配を経ち、じっと息を殺して、その様を見下ろし、眺めた。
おそらく、二時間は経っただろう。
結局、雑兵たちの誰一人として、魔鈴に気付くことはなかった。
薄暗くなって彼らが残らず去っていったとき、魔鈴の全身から、ドッと汗が噴き出した。
ドッドッドッドッ、と、心臓が痛いほど鳴っている。はぁ──、と、長く、震える息を吐き出した。ガチガチと歯が鳴るのを堪える。
もし見つけられてリンチでも始まれば、生きていられる保障すらなかった。しかし魔鈴は、くそ度胸を出してこの木に登り、そして誰にも見つからないままやり過ごし、そして彼らの会話を全て聞くことが出来た。中には木の真下に居て喋っている者も居たが、全く魔鈴には気付かなかった。
「くっ」
高い木の上。誰も居ない広場を全て見渡し、魔鈴は笑った。その小さな声を拾った者は誰も居らず、魔鈴は、その事が凄まじく愉快だった。
油断はしていないつもりだったが、高いところに隠れるようになってからというもの、魔鈴はほぼ100パーセント見つからないようになった。
それからというもの、魔鈴は聖域中の高い場所を探し始める。屋根の上、高い丘の上の岩陰、そして木の上。身体能力の上昇に連れてどんどんその高さは上がってゆく。
だがそんな場所での訓練はさすがにし辛いときがあり、そして逃げ回る事も修行のうちである事は確かだったので、いつも木の上に居るわけではない。しかし、木の上ならば、ゆっくりと食事と睡眠を取ることが出来た。それが結界の森の木々などであればなおさらで、そして誰にも邪魔されない食事と睡眠が取れるようになった魔鈴は、心の余裕を持てるようになった。
今までの、生きるか死ぬかの状況も、確実に魔鈴を鍛えてくれていた。しかしそれが、毎日である。肉体的にも、そして自覚はなかったが精神的にも、魔鈴は本当にぎりぎりだったのだ。寝ている時でさえ暴力に対して気が抜けないことに比べれば、太い枝の上から落ちないように眠る事などそれこそ既に朝飯前であったし、ゆっくりと食べ、そして十分に眠る事が出来るようになってから、魔鈴も確実な修練を積めるようになった。
更に、寝食以外に魔鈴が高所に登る時は、情報収集の時だ。
最初は、あの少年の事を知りたかったから。しかし色々な話を聞き、色々な光景を存分に眺めることが出来るようになって、魔鈴は情報を得る事がいかに有益か思い知った。
人々の名前、素性、そして実力、施設の名前、様々な行動の予定。他様々な情報は危機回避におおいに役立ち、また訓練帰りの候補生を上から眺めれば、魔鈴が参加できない集団訓練のカリキュラムを丸ごと知ることが出来た。おまけに、上から見ているので型や動きがとても分かり易い。
そして肝心の、あの少年の事。
あの高い山──十二宮に住んでいるからにはただの子供ではないとは思っていたが、どうやら彼は、あの黄金聖闘士であるらしい。黄金聖闘士、この聖域において最も高い立場の者ならば当然大人であろうと思っていただけに、その驚きは大きかった。更に驚くべき事に、他の黄金聖闘士も、殆どが十代前半だという。
十二宮は、パルナッソス山への階梯のメタファーとかけて、そう例えられる事もあるという。
──聖闘士の至高、獅子座レオの黄金聖闘士・アイオリア。それが彼の名前だった。
ひとつ気がかりだったのは、高いところに隠れるようになって以来、誰にも見つからなくなったはいいが、少年──アイオリアにもあまり見つからなくなってしまったことだ。
黄金聖闘士の彼に見つからないとなればそれは相当な事で、間違いなく喜んでいいはずの事である。最近は、仮面も随分ずり落ちなくなってきた。
しかし魔鈴は、もやもやとした。
あの雲さえ漂う高さにあった緑の目、その目がたかだか木の上に居る魔鈴を見つけられない事に、魔鈴はどうしようもなくやり切れない気持ちになったのだ。まさか気付いてもらう為にわざと気配を悟らせるなどといった無様な──魔鈴はその様を想像した時、ひどく無様だと感じていた──ことは一切しなかったが、魔鈴が潜む木の下をアイオリアがきょろきょろしながら通り過ぎた時、魔鈴はとても苛々した。
ある日などは、魔鈴が居る木の真下で、彼は雑兵に絡まれていた。
「逆賊の弟が!」
そう言って、無駄に図体のでかい雑兵は、少年を膝で小突いた。他の二人の雑兵も、何も言い返さないアイオリアを見下ろして、にやにやとしていた。
アイオリアが俯き、歯を食いしばっているのがわかる。
(──俯くな!)
魔鈴は、今にもそう叫んでやりたかった。あんなに高いところに居た彼が、たかが雑兵ごときに見下ろされ、しかも地べたを見つめて俯くなど!
(顔を上げろ)
魔鈴は、ひたすらそう願った。
(ここに居るのに!)
己を探していたのではないのかと、魔鈴は強く念じた。あんたは獅子座レオの黄金聖闘士、パルナッソスの高みである十二宮、その獅子宮を守る誇り高い戦士なのではないのか、そんなあんたが木の上の候補生ごときを見つけられなくてどうするのだ、と。
だが思い虚しく、アイオリアは俯いたまま、ダッと駆け出していってしまった。
雑兵たちが、げらげらと笑っている。アイオリアが一度も顔を上げなかった事に、魔鈴はひどくがっかりした。
以来、魔鈴は、願をかけた。
(今度、高いところに居るのを見つけられたら)
──話しかけてみよう。
そう、心に決めてみた。やはりもちろん自分から気付いてもらえるような真似はしないし、更に、心で念じていたらいらない時にうっかり小宇宙とやらが発動して気付かれてしまうかも、そうなったらフェアではない、という配慮までして、魔鈴は今までより一層気配を殺して身を隠した。
そうした結果、以前のように魔鈴が地面の上に居る時にアイオリアが魔鈴を見つける時はそこそこあるのだが、高いところに登ってしまうと、やはりさっぱり見つけられない。アイオリアが近くまで来た事に気付くと、魔鈴は徹底して気配を殺す。そして自分に気付かぬままアイオリアが行ってしまうと、がっかりした小さな息を漏らすのだった。
だが、そんな日もそう長くは続かなかった。
ある日。
雨が降った翌日、アイオリアが近付いてくるのを察した魔鈴は、木の上でじっと息を潜めて気配を殺した。アイオリアは惜しいところまで近付いてくるのだが、やはりきょろきょろとするばかりで、上に居る魔鈴に気付かない。
魔鈴は、思考することさえやめて、じっと彼の気配が変わるのを待った。雨水を含んだ葉は魔鈴の身体を濡らしているが、魔鈴はまるで木の一部になったように、ただ静かに、細く呼吸をする。ぴとん、と雨の名残の雫が落ちた。
その時、アイオリアが上を見た。それでも心臓の音を高鳴らせなかった自分に、魔鈴は一人満足する。
しかし、アイオリアはまだ魔鈴に気付かなかった。それは彼が、魔鈴の居るところよりもっと上を、じっと見ているからだった。
不思議に思った魔鈴は、アイオリアの視線を追いかける。そして、驚きに目を見張った。そこにあったのは────
「あ」
短く声が漏れたのと、緑の目がきらりと反射したのは、同時だった。
その途端、魔鈴は枝から飛び降りた。勢いよく飛び出したので、葉に溜まった雨水が盛大に飛び散り、冷たい雫が魔鈴を濡らす。しかし、仮面の下の頬は熱い。
(気付いた!)
どくどくと脈打つ心臓を感じながら、魔鈴は、走った。
(わたしよりも、気付いた!)
嬉しかった。気付いてもらえた事ではなく、アイオリアが上を向いた事が嬉しかった。しかも彼の目線は、魔鈴が潜む木の上などではない、もっと上にあった。
全速力で駆け抜けて見上げた空には、七色の大きな虹がかかっている。
(次に、見つかったら)
話しかけてみよう。魔鈴はそう決めて、仮面の下で、笑った。
更に数日後、昼食を手際良くかっぱらった魔鈴は、すばやく木の上に登る。誰にも気付かれていない事は確信していた。──アイオリア以外は。
驚くべき事に、今回、アイオリアは初めて魔鈴を追いかけてきた。その足はあまりに早く、彼が走ってくるのを見下ろす魔鈴は驚いた。
アイオリアは今、魔鈴が座る枝の真下で、緑の目を見開いてこちらを見上げている。
ひとくち目を頬張ってから、心で決めていた通り、魔鈴は彼に言った。
「──何」
短い一言は、きっとぶっきらぼうに聞こえただろう。
しかし殆ど人と話す事のない魔鈴は、まだまだギリシア語が不得意だった。これでも、随分上手になった方だ。
「なあ、そこで何してるんだ!?」
「声でかい」
アイオリアがあまりに声を張り上げるのに驚いて、先程よりも更にぶっきらぼうな声になってしまった。それに少し焦るようにして、魔鈴は己の隣を顎で指し示す。
「登れるだろ。しずかに」
そう言うと、アイオリアは、魔鈴のように少しも葉を揺らさずとは行かないが、しかし魔鈴よりもずっと素早く力強く、魔鈴の隣まで登ってきた。近くで見る彼の緑の目は、やはり金粉を散らしたような輝きがある。
落ち着こう、と魔鈴は改めて意識した。そうしなければならないほど、魔鈴は珍しくも軽く興奮している。
「食べるから、待って」
「……わかった」
魔鈴がそう頼むと、アイオリアは快く、と言うよりも、何だか勝手がよく分からないから、と言う感じで頷いた。そして、何が面白いのやら、魔鈴をじっと見ている。
「……きみはいつも何か食べている」
食べ終わった途端、アイオリアはそう言ってきた。
「ばか言うな、あんたがその時にくるだけだ。食べられない日だってあるくらいだ」
顔を隠しながらものを食べるのは、なかなか神経を使う。だから高い場所に隠れる事を覚える前、魔鈴は移動しながら食べる事も考えた。しかし、顔を隠し、食べ、そして同時に移動しながら人の目を気にするなどという芸当は、食べた気にならないどころか余計に疲れるし、目的の為には進んで苦行をこなす事に抵抗のない魔鈴でも、さすがに辟易した。だからものを食べている時ばかりは徹底して物陰に隠れてじっとしていたわけだが、そうしているとアイオリアに見つかった、というわけである。
しかしアイオリアが反応したのは、そこではなかった。
食べられない日もある、その原因を魔鈴が話すと、アイオリアは激昂と言っていいぐらいの反応を見せた。
そして魔鈴は、ここに来て初めて「日本人だから」という理不尽な理由で辛くあたられた時、冷えきった思考の遠い端っこで、こんな風に感じた事を思い出す。すぐに消し去ったはずのその感情が今、目の前の少年の中で燃え盛っていた。
「聖闘士になるのに、生まれた国なんか関係ない! 日本人でもギリシア人でも、良い小宇宙を現すことが出来れば聖闘士になれる!」
アイオリアは、いかに自分以外の黄金聖闘士たちの故郷が多種多様か、力一杯語ってみせた。彼の口から飛び出すのは、魔鈴が雑兵や候補生たちの会話から拾い上げた様々な情報と一致していて、魔鈴は嬉しくなる。ただ、“老師”という天秤座の黄金聖闘士の事は知らなかったので尋ねると、アイオリアは彼がとても偉大な──なんと教皇の同期だという──黄金聖闘士であるということ、中国の人である事などを教えてくれた。
魔鈴は、足をぶらぶらさせた。少し前までは、とても出来なかった動作。遠い地面にアイオリアと魔鈴の影が落ちているが、葉の影と一緒くたになっていて、一目ではよく分からないだろう。
魔鈴は、にやつきそうになるのを堪えた。そうだったら、と考えた事はあるが、まさか本当にそうだとは。
アイオリアがどんな目に遭いながらこの聖域で暮らしているのか、魔鈴も既に少しは知っている。だからこそアイオリアは魔鈴に見下すような目を向けて来ないのだと思っていたが、しかし、アイオリアの怒りは、彼自身の境遇とは全く別のところで沸き上がっていた。そのくらい、魔鈴にだって見ればわかる。
「……あんたは、聖闘士なんだろ」
声が震えていないだろうか。魔鈴はそう思いながら、言った。つまりアイオリアは、単純に、魔鈴の境遇に対して異議を唱えているのだ。これだけ聖域に人がいて、そんな事を言ったのはアイオリアが初めてだという事を、彼は知っているだろうか。
「そうだ」
「アイオリアっていうんだろ」
知られているとは思わなかったのか、緑の目が、くるりと丸まる。
「そうだ。知ってるのか?」
「三日前、あんた五人組の雑兵に因縁ふっかけられてただろ。そいつらが呼んでたから」
「……見てたのか?」
そうだ、見ていた。三日前だけでなく、その前も、その前だって。
「獅子座レオの黄金聖闘士、アイオリア──だろ。射手座サジタリアスのアイオロスの──」
「逆賊の弟」
ただ弟と言おうとしただけなのに、アイオリアは先に自分でそう言った。そして、唇を噛み締めて、俯く。
(……また、下を見る)
魔鈴もまた、仮面の下で眉を顰めた。そんな事をしたって、いい事など何もないのに。
「聞いたんだろ」
「聞いた」
しかしそんな事を言ってもきっと通じないだろうと思い、魔鈴はただ、聞かれた事に頷く。そして、前から思っていた事を聞いた。
「それで、逆賊って何」
するとアイオリアは、眼窩から緑の目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いた。その驚きっぷりに魔鈴がきょとんとしていると、アイオリアは何故か頬を赤らめ、戸惑ったように言った。
「何って──」
「だって、わたし、あんたの兄さん見たことないから」
魔鈴は、淡々と言った。
「……見たことなくても、聞いただろ」
「アテナを殺しかけたとか、聖衣盗んで逃げたとか、教皇にたてついたとか」
「聞いてるじゃないか」
「ホントなの」
それは、ただ素直な疑問だった。
「──知るもんか!」
しかしアイオリアはそう叫び、再び深く俯いてしまった。
「……ふぅん」
魔鈴はそれに眉を顰めたが、誰にだって触れられたくないことはある。申し訳ない事を聞いたかもしれない。後で謝るべきであれば謝ろう。
仮面の顎を持って顔から剥がれぬよう支え、魔鈴はアイオリアとは逆に、上を見上げた。
「じゃあ、わからないんだ」
そう言うと、アイオリアは、意味がわからない、と戸惑った声を出した。
しかし、魔鈴にしてみれば、なぜここでこの反応が返ってくるかのほうが意味がわからない。
魔鈴が聖域に来た頃、既にアイオロスは居なかったので、魔鈴は彼の事を直接知らない。彼は誰かの口から話題に上るだけの人で、しかも、その中でアイオロスを直接知っている者は皆無に近かった。どうもアイオロスは、あの天を貫くような十二宮の上から滅多に降りて来ぬ人であったらしい。
しかし、だからこそ、皆の言う事はどうも嘘くさいのではないか、と魔鈴は思っていた。アイオリアが居たあの高み、おそらく獅子宮は、とんでもなく高い所にあった。しかしアイオロスの人馬宮は、それよりも更に高い所にあるのだという。そんなところに居る人、しかもそこから滅多に降りて来ないような人の事を、こんな、地べたを這いずって生きているような人々が、そんなにもっともらしく語れるものだろうか。
だから魔鈴は、アイオリアに尋ねたのだ。雲すら漂うパルナッソスの高みで暮らし、そして彼の弟だと言う彼に。そしてその彼がわからないというのならば、もう真実などそれこそ神にしかわからないのだろう、と魔鈴は判断したのだ。
しかしアイオリアは、唖然とした表情で、魔鈴を見ていた。何をそんなに驚いているのだろう、と魔鈴は内心首を傾げる。兄の事なのだから、弟のアイオリアが一番本当のことを知っているはずなのに、と。
アイオリアは眉を顰め、そして再び俯きそうになった。その前に、魔鈴は尋ねてみる。
「知りたいの」
彼は、真実を知りたいのだろうか。まあ、そうであっても当然だ。慕っていた兄がこうも犯罪者扱いされているのであれば、真実を知りたいと思うのは当然の事だ。むしろ、今までアイオリアが何の行動も起こしていない事の方が不思議な位である。魔鈴は彼をじっと見つめ、答えが反って来るのを待った。
しかし、アイオリアは、数刻の無言の後、わからない、と、蚊の鳴くような声で言っただけだった。
そして更に黙り込んでから、アイオリアは、ぼそりと言う。
「……きみは、いつもこうやって隠れてるのか」
「……まあね。修行で殴られるのはしかたないけど、無駄に殴られて大けがしたら、修行も出来ずに死んじまう」
正直に、そのまま答えた。隠すような事でもないし、理不尽だが、どうしようもないことでもある。合同修練に出たところで修練という名のリンチに遭うだけなので、修練にも出ていない事も話した。まあ、修練のある時間に聖域中をうろうろしている事は知っているはずなので、とっくに察されているのかもしれないが。
じゃあ修行はどうしてるんだ、と、アイオリアは訝しげに尋ねる。きっと彼には、修行に付き合ってくれる仲間が居るのだろう。先程話題に出た、多種多様な国で生まれた仲間たちが。
「他の候補生は──特に今、白銀聖闘士候補っていわれてる奴らは、元々生まれつき、色んな力を持ってる奴らだ」
魔鈴は、静かに、そして重々しく話し出す。魔鈴自身、こんなに重たげな声が出たのに自分でびっくりした。
「でもわたしはそんな力は何もない。……それ以前にまだ全然腕力がないし、チビだし、小宇宙だって何だかよく分からないから──だから、まず殴られても大丈夫な身体と、殴り返せる力を身につけなくちゃいけない。修練に出るのはそれからだ。でも」
「でも?」
「堂々とは出来ない。邪魔されるから。……だからそれよりも最初に、誰にも見つからないように隠れられる練習をしたんだ。誰にも邪魔されずに、体力づくりとか、そういう基礎練習が出来るようにしなきゃ。……わたしには、何もないから」
魔鈴は、歯を食いしばる。今まで話し相手が一切居なかったから、こうして自分の思いを言葉にする事も、一度もやった事はない。しかし故郷の概念で言う言霊の力か、口に出すと、その思いが数倍にも強固なものになった気がした。
「だから、最初から、しっかりやらなきゃ。まず誰にも邪魔されないように隠れて、体力を作って、身体を作って、修練に出るのはそれからだ。じゃないときっと死んじまう」
しかしそう言っても、時間は無限ではない。地道にやらねば何もかもが崩れてしまう事も確かだが、ちんたらやっていられないのも確かだった。焦る心を冷えた頭で押さえつけながら、魔鈴はより合理的なやり方を、より確実でロスタイムのない環境を得る事を考えねばならない。最近はこうして隠れ場所も見つかって、随分状況はよくなったけれど。
「ときどきは、見つかって、殴られたりするけど」
足をぶらぶらさせながら、魔鈴は言う。
「でも、最近は滅多に見つからない」
「そうだろう。最初に見かけたときより、身のこなしが格段によくなってた」
黙って話を聞いていたアイオリアが真顔で言ったので、魔鈴は少し照れた。「それもあるかもしれないけど」と慌てて遮った声が、うわずっていない事だけを祈る。
「……見つからなくなったのは、高いところに隠れるようになってからだ」
「高いところ……」
魔鈴は、とっておきの事を話す事にした。アイオリアは、素直に、自分たちの居る場所の高さを確かめている。
「最初は、地べたの、暗いところが一番見つからないと思って、そんなところにばかり隠れてた。でも、すぐに見つかって、引きずり出されるんだ」
出来るだけ淡々と、魔鈴は言う。しかし淡々としてはいても、最初に話しかけられたときより、少女の口調は随分と滑らかになっている。そして、口数も随分多くなっていた。アイオリアは、仮面の下の頬が少し赤いことを知らないまま、話し続ける彼女を見る。
「すぐ見つかっちまうのは、皆、下ばかり見てるからだ」
「……どういう意味?」
「そのままだよ。見てみなよ」
足をぶらぶらさせたまま、魔鈴は、言葉通りに下を見る。するとアイオリアも、やはり素直に下を見た。今度は俯いたのではない、ただ景色を見渡す為に。
俯いて、歩く人々。彼らが全く魔鈴たちに気付かない事に、アイオリアは呆然としているようだった。その反応に、魔鈴は満足する。とっておきの事を教えてやれた、その満足感!
「だから、地べたに隠れてると、ほんのちょっと指を動かしただけでも見つかっちまうけど──……」
魔鈴は、上を見た。あの日アイオリアが虹を見上げた時のように、天空を見上げた。木の背は高く、この高さまで登っても、まだ上がある。てっぺんの若い葉から透けて差し込む光は柔らかく、暖かく、そして明るい。緑色に散る金の輝きはアイオリアの目の色にも似ている事に、彼は気付いているだろうか。
「高いところに隠れてると、足をぶらぶらさせてても、こうして話してても、あんまり見つからないのさ。……みんな、上なんか見てないから」
にやり、と笑った事は、アイオリアにはわからないだろうけれど。
「でもアンタは気付いたね」
魔鈴は上を見るのをやめ、横に居るアイオリアを見た。金を散らした緑の目は、やはりさっきの光によく似ている。
「わたしがどんなに高いところに隠れても、あんたはわたしを見つけた。……やっぱり」
「……やっぱり?」
魔鈴は、答えなかった。とっておきの事は教えたけれど、この事は、ずっと自分の胸に秘めておいた方が、嬉しい気持ちになると思ったからだ。大事なものは、誰かに見せびらかしたいタイプのものと、ずっと誰にも見せずに締まっておきたいものと、2種類あるような気がする。
魔鈴は答えない代わりに、もう一度上を見る。
そしてアイオリアも、その目線に導かれ、同じように上を見た。
この高い木のてっぺんは、若い黄緑色の葉。そしてそこから透ける陽の光は金色に柔らかく輝いていて暖かい。──そして葉の間から見える色は、涙が出るほど鮮やかな青!
「……いい天気だ」
アイオリアが、呟いた。
虹が出ている事に魔鈴よりも先に気がついた彼なら、もうきっと、俯く事はないだろう。
目が覚めるような快晴の空、この色を、魔鈴は胸の焼き付ける。
叶うなら、アイオリアも、この色を覚えているといい、と願いながら。
それ以来、アイオリアと魔鈴は、側に居る事が多くなった。相変わらず魔鈴は全ての者から隠れ回って暮らしていたが、アイオリアに対しては隠れなかったので、会う事も容易い。アイオリアが、十二宮から降りてきさえすれば。
アイオリアもまた、あの日から、下を向く事をやめた。あの顔を隠すフードを取り、マントを脱ぎ捨て、堂々と前を向いて、そして木の上の魔鈴を必ず見つけるようになった。
組み手や小宇宙の鍛錬は、さすがに“上”で仲間たちと行なっているらしい。一度アイオリアが小宇宙を燃焼したところを見せて貰った時、魔鈴は危うく腰を抜かしそうになった。その小宇宙の巨大さは、凄まじさは、彼が人間でなく、もしや雷雲の化身かなにかなのではないかと本気で疑うほどのものだった。
彼が本気で“下”で力を発揮したら、とんでもないことになってしまうだろう。そして十二宮というものは、そんな彼らが存分に力を振るえるように、パルナッソスの高みに例えられるのに相応しいあり方をしているらしい。彼が思い切り殴ってもなかなか壊れないというその宮の偉大さを、魔鈴はまざまざと思い知った。
だから彼は、走った。
呼吸を整え、完璧なフォームを心がけ、精神を統一し、小宇宙を研ぎすませながら、ひたすらに走った。どんなに脇で陰口を叩かれようと、その姿勢が揺らぐ事はもうなかった。芸術品のように美しい姿勢で、彼は堂々と走る。
そして魔鈴もまた、それについて行こうとした。彼がとんでもない高い場所の人だという事は十分すぎるほど知っているけれど、それでも魔鈴は彼に追いつきたかった。
しかしアイオリアと違って、魔鈴は普通の候補生で、しかも落ちこぼれと言われ、蔑まれている存在だ。だから魔鈴は、今まで以上に努力せねばならなかった。
己の限界を超えるのだ、と彼は言った。レオの黄金聖衣を得る為の試練はそれだったが、彼は未だ、自分でそれに納得していないのだと。だからこうして走っているのだと。
だから魔鈴もまた、己の限界を超えようとした。きちんと食べ、休み、そして己が壊れてしまわないように、肉体の限界を正しく把握する。そしてその上で実力以上の力を出す要が、やはり小宇宙だった。精神が肉体を凌駕し、新たな高みを開いて行く。
歩みは、一歩ずつ。その早さは、お世辞にも、軽やかとは言い難い。しかし魔鈴は地道に、しかし確実に、そして微塵もずれのないよう正確に一歩一歩を踏み出しながら、ひたすらに心を研ぎ澄まし、小宇宙を高めて行った。
ふと上を見上げれば、そこにはいつもアイオリアが居た。芸術品のようなフォームで走る後ろ姿を見上げながら、魔鈴は焦らないように、しかし置いて行かれないように、懸命に走った。時折振り返る、金色に輝く緑の目に勇気づけられながら。
そしてその努力が、実った。
魔鈴はひたすらに磨き抜いた基礎能力のみで試験に受かり、何の特殊技能もない身で、白銀候補生のリストにその身をねじ込ませる事に成功した。
根気強い歩みは、彼女の小柄な身体に凝縮された体力と鳥のような速さを与え、そして慎重な精神は、急所を一撃必殺で突く正確さをもたらした。もう彼女の頬と仮面の間には、髪の毛一本入る隙間さえない。
そしてその姿勢は、特殊技能に恵まれるが故に選民意識の強い白銀聖闘士候補たちからの更に苛烈ないじめの中にあっても、全く変わる事はなく。
──そうして更に鍛錬を重ねた魔鈴は、とうとう鷲座イーグルの白銀聖闘士になったのである。凛々しく、しかし装飾も多いイーグルの聖衣を身に纏った時、魔鈴は今まで生きてきて最も誇らしい気持ちになった。
そして、正式に聖衣を賜り、聖闘士として任務を賜ることになった魔鈴の仕事は、主に隠密行動、探索、索敵、探査、調査などだった。
魔鈴の得意分野を、教皇は書面上のデータだけで、正しく読み取っていたのである。もしかしたらアイオリアの進言もあったかもしれないが、そのあたりの事は、魔鈴は知らない。
生まれつきの才能にさほど恵まれず、そして女であった魔鈴が何よりもまずやった、いかにして見つからぬよう隠れるかというスキル。その基礎の基礎は一人前になった後もおおいに生き、だから魔鈴は野生動物よりも気配に敏感で、何より、目がよかった。
それは単純に視力の事でもあるし、観察眼に優れるという事でもある。
動物の中で最も視力に優れるのは鳥類だが、その中でも猛禽類、特に鷲や鷹は人間の約8倍もの視細胞を持ち、凄まじい視力を誇る生き物だ。
鷲は、高い所を旋回しながら、地上に隠れる小動物を見つけ出す。ハゲワシなどは1500メートルの高さから動物の死骸を見つけるし、トビは海岸に落ちている小魚をすぐに発見することができる。人間の目ではぼんやりとしか見えない遠くのものや、拡大鏡を使わねば細部が視認できないごく小さい対象物を、鷲は超高解像度のハイビジョンカメラのような視界でもって、克明に視認することが出来るのだ。よってイーグル・アイという言葉は、“監視人”の意味を持つ。
そしてかつて獣たちの牙から逃れ隠れる側であった少女は、小宇宙に目覚め、そして聖衣を得てからというもの、その立場を返上した。一人前になり、空を羽ばたく事を覚えた雛は、地上の獣たちを高みから監視する孤高の猛禽、鷲座イーグルの白銀聖闘士になったのである。
彼女の目の良さ、勘の良さは既にすっかり有名になり、任務の際もそれを見込んでの内容を任される事が多かったが、彼女にかかって見つからなかった敵は居なかった。それはまさしく、彼女の守護星座、鷲座イーグルに相応しい特性である。
そして、シャイナや他の女聖闘士は、女を捨てたとはいえ最低限の意識だろうか、その仮面にそれぞれのペイントをしている事が多いが、魔鈴は一度としてそういった洒落っ気を出した事が無い。候補生のときから一切変わらない銀色のままの仮面は他の女聖闘士よりも一層無機質で、しかしそれでいてその仮面の下にあるのが、鷲の目──監視人の意味を持つイーグル・アイだということが、人々を畏れさせた。日本人は無表情で何を考えているのかよく分からない、不気味であるとは欧米人がよく言う評価だが、魔鈴に対する周囲の評価は、それが極端に当てはまっていた。何を考えているのかわからない日本人め、と忌々しげに言われる度に、魔鈴は密かに、仮面の下で笑った。蔑称が褒称に転じる事ほど、小気味のいい事はない。
魔鈴はいつも遠くから、そして高い所から、全てを見渡すようになった。シャイナたちにとって、それはとても癪に触る事だった。教皇たちは余計な死者を出さないよう、最初から才能が認められる者たちだけを候補生としたが、それが幼稚な選民意識という形になって候補生たちに表れているのは、否定できない事実であった。
ともかく、才能ではなく努力によって聖衣を得た魔鈴は、無力であった頃よりも更に敵視されがちになった。しかし長い間息を潜め続け、己を殺し、感情を、小宇宙をコントロールする術にすっかり長け、“監視人(イーグル・アイ)”として相応しい精神を持つようになった彼女は、そんな声に一切反応を示さなかった。実際に喧嘩を売られる事もあったが、たった一人で黙々と己を高め、孤独の中で最も基礎的かつ根源とされる“智”の力を鍛え続けてきた彼女は既に白銀聖闘士の中でも上位の実力を誇るようになっており、それを真正面から迎え撃ち、そして猛禽の王の名に恥じない戦いを見せた。
だがアイオリアは、相変わらずのままだった。
魔鈴が初めてイーグルの聖衣を纏った時も、彼は緑の目を細めて嬉しそうにしたものの、だが、それだけだ。
魔鈴がレオの聖衣を纏ったところを見た機会は、少ない。それは彼が未だ己に納得していないから、というストイック極まりない理由からだが、魔鈴はそれが、正直なところもどかしい。
聖衣を得る事は、一人前の証だ。パルナッソス山の高みを極めた,その証。だからイーグルを纏うことが出来たその時、魔鈴は彼の横に並べるのだと思った。もちろん実力的に全く対等とはいわないが、勘違いではなかった。今ではアイオリアと動きを確認する組み手をする事位は出来るようになっているし、アイオリアも、そして周囲も、それを認めているのはあきらかだった。
まだ十代になって間もない頃だというのに、もう正式な聖闘士なのだし、同じ日本人なのだから面倒を見ろ、と、半ば嫌がらせの延長に近い流れで、弟子──星矢の事を任された事に間しても、彼女は持ち前の、鋼鉄の負けず嫌いによって、ちゃんとそれをやり遂げた。
もちろん星矢の努力もあるが、魔鈴は己自身にそうしたのと同じように、一歩一歩を丁寧に歩ませ、そして死ぬような努力を求めたが、しかし絶対に死なないようにきっちりと休ませた。アイオリアもその様を見て、時々星矢を見てくれる。
アイオリアは徹頭徹尾、魔鈴に過剰に手を貸した事はない。運悪くどうしようもない怪我を負ってしまった時はヒーリングを施してくれたりもしたが、その程度だ。お互い頑張ろう、とわざとらしい励ましあいすらした事がないという事実が、魔鈴には誇らしい。きっとアイオリアもそうだろう。
その反動だろうか、構う対象が直接お互いでは無いせいか、アイオリアと魔鈴は、こぞって星矢を叩き上げた。それが星矢にとって幸運か不運かは、まあ、どちらともいえない。ただでさえ厳しい魔鈴の修行に加え、星矢の苦労は二倍どころではないものになったが、聖域で修行する日本人の身としては、破格を更に超えた、ありえない待遇と言えよう。黄金聖闘士と白銀聖闘士、しかもその中でも上位の実力者である二人にこぞって鍛えてもらえるなど、一国の王でも出来る事ではない。
しかしそんな風に過ごしていても、彼は、彼女の隣で、レオの聖衣を纏わない。それが魔鈴には、少しばかりもどかしいのだ。
彼の事を愛しているかと聞かれても、魔鈴には答えられない。
風を切る翼、猛禽の目を手に入れた彼女は、獅子の背中に身を寄せる。大きなその背に己の背中をくっつけても、心音が跳ね上がる事はない。ただ、頭の隅が、ほんの僅かに暖かくなるだけだ。
魔鈴は正面から彼に抱きしめられたことはないし、抱きしめてもらいたいのか、それもよく分からない。ただ、こうして彼の背後に立ち、背中を任せてもらえる事が、本当に誇らしかった。
仮面を取って、正面から抱きしめられる事よりも、魔鈴は彼の背中を守れる事の方が素晴らしい事のような気がするのだ。──少なくとも、今は。
時折、アイオリアが、己の喉に噛み付きそうな目をする事を、魔鈴は知っている。だが彼は、そうしない。彼女の隣でレオを纏わないように、彼は魔鈴の仮面を剥いだりしないし、正面から抱きしめない。ただ大きな背中を向けて、じっと待っている。
──そう、彼は、待っているのだ。
それを感じる度に、魔鈴は笑う。仮面の下で。
聖衣に相応しくない日本人、無能──そんな自分が、この、とんでもなく高みに居る男の背中を預けられ、そしてあろう事か待たせている。これを贅沢と言わずして、何と言おうか!
(もう少し)
アイオリアもまた、背中を向けて微笑んでいる事を、魔鈴は知っている。だからもう少しこのままで、と、無言のままに願うのだ。もしかしたら、魔鈴が仮面を脱いで振り返るよりも、アイオリアがレオを纏って振り向く方が先かもしれないが、それはそれで小気味いい。
崖の上、虹のかかる雲を見下ろしながら、鷲は仮面の下の目を閉じる。
きっとその時は近いから、──だからもう少しこのままで、と。