Doctor Gradus ad Parnassum(グラドゥス・アド・パルナッスム博士)
<AIORIA>
 ──“逆賊の弟”。
 ひとたび十二宮を降りれば、獅子座レオの黄金聖闘士と言われるよりも、アイオリアと名前を呼ばれるよりも、そう呼ばれる事の方が圧倒的に多かった。

 逆賊の弟とみなされたアイオリアへの待遇は、柔らかく言って、散々なものだった。
 娯楽が少なく、そして根本的な所で劣悪な生活環境で暮らす聖域の人々が常に求めているのは、鬱憤晴らしの対象である。魚の群れが常に全員からいじめられる一匹を作るように、彼らはストレスのはけ口をもはや本能的なレベルで求めていた。そして魚群の中の生け贄は突かれ放題突かれてすぐにボロボロになり、また次の生け贄が作り出される。
 しかし、アイオリアは黄金聖闘士だった。腕力を振るえば、そこいらで陰口を叩く連中をねじ伏せるのにわけはない。だがそうしてしまえばアイオリアが陰口通りの人間であると認める事になり、黄金聖闘士たる者が雑兵に対して腕づくで黙らせるという方法をとることは、何よりもアイオリアの立場を更に貶めることになる。
 結果、アイオリアは聖域中の人間から白い目で見られる事に、じっと耐え続ける事を余儀なくされた。まだ十にもならない少年、しかも稀なほどまっすぐな性格のアイオリアにとっては、相当の精神的ストレスであった。獅子座レオの黄金聖闘士として正式に認められたのと逆賊の弟の烙印が押されたのが同時であると言うのが、また最高に皮肉である。
 至高の存在である黄金聖闘士でありながら逆賊の弟であり、同時に見た目まだまだあどけない少年であるアイオリアに石を投げるという行為は、さまざまな意味で人々の暗いストレスを解消した。それだけ彼らは病んでおり、そして聖域は荒んでいた。
 だからアイオリアは、有り体に言ってつまり──引き蘢った。
 もちろん、そんな彼を、全ての者が見捨てていたわけではない。ミロとアルデバランは殆ど毎日扉の前で何か言っていたし、シャカやカミュも頻繁に様子を見にきていた。デスマスクとアフロディーテは「いいかげんにしとけよ」と言ったような気がする。シュラが思い切り扉を蹴った音がしたのでさすがにカッとなり出て行くと、彼の宮の女官であり、皆が一番懐いているルイザという女性が焼いた、おなじみのケーキがまるごと置いてあった。後で聞けば、ルイザは既に女官を辞めていたらしい。突然の事だったので、別れを言えなかったのはアイオリアだけではなかったが。
 だがそれでも、アイオリアは外に出なかった。届けられる配給の食料を、数日に一度、思い出したように口に入れる事で生き延びていた。

 随分長い間、アイオリアは、獅子宮の離宮から一歩も出なかった。その間何を考えていたのか、アイオリアは覚えていない。いや、何も考えずに居た、というのが最も事実に近い表現だろう。兄が逆賊であること、そしてシュラの手によって粛清された、殺されたこと、要するに兄にもう二度と会えないという事を、アイオリアは一瞬たりとも意識に入れたくなかった。

 そんなある日、明確な理由なく、アイオリアは、薄暗い部屋からふらりと外へ出た。自虐的になるにも、ただ踞るだけという方法に飽きたというのもあるかもしれない。外といっても獅子宮の離宮から出るわけではなかったが、しかし、中庭を通り、断崖絶壁の廊下の窓から外を眺めた。
 獅子宮は下から数えた方が早い位置にある宮だが、それでも、そこから見下ろす景色は十分に高い。アイオリアは、穴のような窓から、すぐ下を見下ろした。空を見上げる事も、遠くを見る事もせず、ただごつごつした岩の群れを眺めていると、ここから飛び降りたらどうなるだろうかといった自虐的な方向の想像が働き、暗い心が安らぐような気がした。実際アイオリアがここから飛び降りても、大怪我をするだけで死なないかもしれないが。
 岩場をじっと凝視するアイオリアは、まだ未熟な“黄金の器”の癖で、自覚なく小宇宙を高め、高まった視力でもって岩場を見る。
 そして、空想の中で己の身体を傷つけるであろう岩をもっと詳細に観察しようとしたその目で、アイオリアは、ひとつの小さな姿を見つけた。

 ──それは、子供だった。

 姿を姿と認めれば、それがアイオリアよりふた周りは小さな身体を持っており、明るい茶色の髪をしている事がわかる。訓練生の身分を表す革製のプロテクターが髪の隙間からちらりと見え、そして後ろ頭にある紐の結び目が、子供の性別を教えた。女性聖闘士は顔を隠す仮面の装着を義務付けられ、その義務は候補生になった瞬間から発生する。しかし小宇宙を発現出来るようになって初めてぴったりと顔に張り付くという特別な仮面なので、候補生たちはそれを紐で括り付ける。未熟者の証としての紐。
 少女は大きな岩場の隙間に挟まるようにして身を隠し、更によく観察すると、何かをもそもそ食べている。
 しかしその姿に気付いているのは、間違いなくアイオリアだけだった。
 集中し、黄金の小宇宙を使って高めた視力でもってしても、アイオリアがその姿を姿であると見極めるまで、結構な時間がかかった。それはアイオリアが全くもって本調子でないということを差し引いたとしても、かなりの事である。それほど見事に、彼女は身を隠しきっていた。よくそこまで完全な死角を見つけたものだというような場所に、幼い訓練生とは思えぬ程完全に気配を消して踞っている。しかも、何かものを食べながら。食事をする時というのは、動物が最も無防備になる時のひとつだ。だが彼女は、その本能的な性質を押さえつけ、口に何か入れながらにして、やはり完全に気配を立つ事を為していた。
 その姿に、アイオリアは、久々に“興味”というものを覚えた。
 それは、滅多にお目にかかれない珍しい動物を見つけたような、そんな興奮だった。
 アイオリアは、静かにものを食べている、小さな姿をじっと見つめた。何を食べているのかはわからないが、口に入れたものを咀嚼するとき、上半身が僅かに動くのが、わけもなく何故か面白く感じた。
 もっとよく見たい、そんな思いの為にアイオリアが更に小宇宙を高めた時、少女が勢い良く振り返った。
 元々サイズが合っていないのか、それともあまりにも勢いよく振り向いたせいか、仮面は顔からずれていた。茶色い前髪と、そしてずれた銀色の仮面の間に──鳶色の瞳が、片方だけ見えた。
「あっ」
 女性聖闘士は、素顔を見られてはならない。それは候補生であっても例外ではなく、だからアイオリアは一瞬狼狽え、声まで上げた。そしてアイオリアが僅かに声を上げた瞬間、既に少女は身を翻して走り出し、まさに“あっという間”に遠くへ走り去ってしまったのだった。

 唖然としたあと、アイオリアは、残念な心地になった。
 思い出すのは、仮面の隙間から覘いた鳶色の目。小宇宙に目覚めていないだろう彼女に、アイオリアの顔が判別できたかどうかは怪しいところだ。しかしあの目は確実にまっすぐアイオリアを射抜き、ちょうど光を反射したのか、きらりと光ったようにも見えた。
 だから次の日も、アイオリアはまたあの少女が居ないかと窓から顔を出してみた。しかしその日も、そして更に何日経ってもやはり少女は現われず、アイオリアは少し悩んでから、少なくとも数ヶ月ぶりに離宮を飛び出し、そして確実に年単位ぶりに、十二宮の階段を下りたのだった。



 それから連日、アイオリアは、少女を捜して回った。
 突然外に出るようになったアイオリアに、アルデバランやミロ等の友人たちは驚きつつも喜び、そしてシュラやデスマスクたちはどこかホッとしたような表情を浮かべたように思う。しかしどこかこそこそと行動する彼を気遣って、必要以上に声をかけようとはしなかった。
 アイオリアがこそこそと行動していたのは、友人たちが案じているように、逆賊の弟として人々に良い反応をされず不快な思いをするからだ。──少なくとも、最初はそうだった。
 何も考えずに外に飛び出した初日、少女を捜してきょろきょろとしていたアイオリアは案の定気分の悪い視線の嵐に見舞われ、仕舞いにはいかにも暇そうな雑兵に嫌味を言われ、因縁をふっかけられそうになった。
 アイオリアは大声で怒鳴り、人々が怯んだ隙にその場から駆け出した。暴力を振るえば“黄金の器”であるアイオリアが彼らに負けることはないのだが、そうしない事が、アイオリアの最後のプライドだった。
 仕方なく、アイオリアはフードのついたマントを奥から引っぱり出し、なおかつ人の目に触れない場所を、しかも気配を断って歩いた。
 そんな行動をとることによって、アイオリアは己の置かれた立場を改めて実感し、そして仕方のない事なのだと諦めを抱いた。逆賊の弟という立場、そして獅子座レオの黄金聖闘士という立場、そのどちらもを持て余し、アイオリアはこそこそと聖域を歩いた。
 そうする事が、最初はとてつもなく惨めだった。……少女を見つけるまでは。

 下に降りるようになって何日目か、アイオリアはやっとあの少女の姿を見つけた。
 聖域の外、外界に出る為の結界の森、その周辺の繁みに、彼女は居た。背の高い草の間に踞って、彼女はやはり、何かをもぐもぐ食べていた。
 以前よりも近い距離、そして横からの位置だったので、アイオリアは、彼女が少しだけ仮面を持ち上げて食事をしている様──つまり口元が見えた。彼女は小さな口いっぱいに干し肉らしきものを頬張り、もぐもぐとそれを噛んでいた。
 彼女を見つけた瞬間、アイオリアの胸に、“嬉しさ”という、とても久しぶりの感情が灯った。自分しか知らない珍しいもの、再びそれを見つけた喜び。それが、見てはいけない女性聖闘士候補生の素顔の欠片なのか、それとも彼女自身なのか、それはアイオリアが自覚どころか考えもつかない事であったが。
 しかし彼女はやはりすぐにアイオリアに気付き、ほっぺたを干し肉でぱんぱんに膨らませたまま、森の方へダッと駆け出した。
 アイオリアは、彼女を追いかけなかった。逃げるという事は、追いかけて欲しくないという事だからだと思ったからだ。野生の動物を無粋に面白半分で追いかけないように、アイオリアは彼女を追いかけなかった。
 ただ、明日も彼女を捜してみよう、と心に決めた。

 それから毎日、アイオリアは少女を捜す事を日課にするようになった。
 見つけられる日もあれば、見つけられない日もある。見つけることが出来た日はとても嬉しかったし、見つけられなかった日はがっかりした。もっと自分の気配の消し方や目が良くなれば効率も上がるのではないかと思い、ミロ達と久々に組み手をしてみたりもしてみた。
 こんな風に、少女を捜すようになってから、アイオリアの生活におよそなかったメリハリというものが出てきたのだった。そして、こそこそと身を隠して歩く事も、少女がいつも必ずそうしなければ見つからないだろう場所で見つかる事もあって、全くではないが、最初ほど気にならなくなってきた。少なくとも、アイオリアが堂々と表を歩き、獅子座レオの黄金聖闘士として皆に構われるような立場だったら、きっとあの少女を見つける事は叶わない、それは確かだった。

 少女を見つけるとき、彼女は八割がた以上、何かを食べていた。
 身体はがりがりと言っていいぐらい細く、またあの見事な身の隠しっぷりからして、天敵から逃れ、必死に生きる小動物を彷彿とさせた。その様を、いつしかアイオリアは健気だと思うようになった。子供のアイオリアよりも更にふた周りは小さく、半分くらいなのではないかというほど細い身体で、彼女は生きようとしている。
 相変わらず彼女はアイオリアの姿に気付くと一目散に逃げてしまうのだが、アイオリアはそれでもよかった。彼女が生きていることを探し出すのが、アイオリアはとても楽しく、嬉しかった。

 そんなある日、アイオリアは、珍しくも何も食べていない彼女を見つけた。
 彼女はいつも以上に気配を殺し、食事配給の列から50メートルは離れた位置に身を隠している。あまりにも気配を殺す事に専念しているからだろう、アイオリアが自分を見つけている事に、彼女は初めて気付かなかった。
 あまりに集中している様に、アイオリアは彼女の邪魔にならぬよう、自分も出来うる限り気配を殺した。そうしてしばらく、彼女の横顔を眺める。やはりサイズがあっていないらしい銀色の仮面の下には、まだ丸くていとけない顎のライン。さあっと風が吹き抜け、彼女の丸い小さな耳が見えた──と思った瞬間だった。
 音がなかった、と、アイオリアはその時の驚きを、今でも鮮烈に思い出すことが出来る。
 風が起きた、と思ったのは、彼女があまりにも自然に駆け抜けたからだった。大気の流れを読み、彼女は不自然な風が起こらない動き方で駆けた。その様は、まるで風を切って地面すれすれを滑空する鳥のようだった。
 子供にしても小柄な身体でもってしてのその動きは、誰の目にも留まらなかった。彼女はそのまま一直線に駆け抜け、そして配給の食料を素早くと、そのまま誰にも気付かれる事なく地面を駆け抜ける。
 アイオリアは、思わず駆け出していた。いつ駆け出したのか、覚えていない。アイオリアは、初めて彼女を追いかける。
 高い木をすばやく駆け上った彼女は、猿のようにというには滑らかで鋭すぎた。地面を駆け抜ける様も、枝に停まる様も、空気を切って飛ぶ鳥のようだった。
 アイオリアは彼女に負けぬ早さで地面を駆け、そしてとうとう少女が居る木の下に立った。彼女は手に入れた食料を抱え、枝の上に腰掛け、いつも通りの仕草でもぐもぐ頬張っている。だがその姿を、こんなに近くで見るのは初めての事だった。
 また、アイオリアが彼女を見上げるというのも、初めての事だった。一番最初、アイオリアは高い獅子宮から岩陰の彼女を見下ろしたし、その後彼女を見つけた時も、おおかた似たような状況だったからだ。しかし、なぜか──高い木の枝に悠々と腰掛ける彼女の姿が、一番彼女にような気がした。
 アイオリアは声をかける事もなく、半ば呆然とも言える様子で、彼女を見上げた。

「何」

 あまりにも突然、そしてあまりにも短い言葉だったので、空耳かと思った。
 しかし、それが、いつも何かを頬張って咀嚼しているばかりの口から発された声である事に気付いたアイオリアは、目を見開いて、思わず背筋を伸ばした。
 少女の声は少女らしく高く、そして随分と片言だった。明るい茶色の髪をしているので全くわからなかったのだが、どうも彼女はギリシア語が満足に出来ない、つまり外国人であるらしい。
 返事をしないアイオリアを見下ろした少女は、すぐにふいと顔を上げて、手に持ったサンドイッチのようなものを頬張った。その様に、折角声をかけられたのを不意にしたくない、とアイオリアは慌てた。
「なあ、そこで何してるんだ!?」
「声でかい」
 やはり片言だが、あきらかにむっとした声だった。しかし、悪い事をした、とアイオリアが思うより早く、少女は自分が座る枝の横を、仮面で覆われた顎で示した。顔とサイズが合っていない、そして小宇宙によってまだぴったりと張り付いていない、紐で括りつけられた仮面が、その拍子に僅かに空気で浮く。
「登れるだろ。しずかに」
 静かに、と発するに相応しい、静かな声だった。少女らしく高いのに何やら有無を言わせぬ迫力のあるその声に、アイオリアはこくこくと頷いて、出来うる限り静かに木に登った。そして少女が指し示した通り、立派な枝振りのそこに腰を下ろす。少女とアイオリアの間には、少女もう一人分くらいの間がある。
「食べるから、待って」
「……わかった」
 そう言った彼女に、アイオリアは「食べながら話せばいいだろう」という言葉を飲み込んだ。彼女の顔を覆う銀色の仮面と、それを括りつけている紐が目に入ったからである。あの仮面をしていて、食べるのと話すのを同時に行なうのは確かに難しいだろう。
 そのかわり、アイオリアは、少女をよく見た。間近で見ると、少女は本当に小さかった。少なくとも、アイオリアが片腕で抱えられるだろう位には小さい。
 それなりに意識はしているのだろうか、少女はアイオリアから少し顔を背け、食事を頬張っている。しかしリスよろしく口の中に目一杯詰め込むのでどうしても仮面が浮き、日に焼けていないせいで腕や足より随分白い頬がちらちら見えた。
 もぐもぐもぐもぐ、ごくん。
「……きみはいつも何か食べている」
 少女が最後の欠片を飲み込んでしまったのを見届けると、アイオリアは意を決して話しかけてみる。その内容は、いつも思っていたそのことだった。
「ばか言うな、あんたがその時にくるだけだ。食べられない日だってあるくらいだ」
「なんだって?」
 ばか言うな、となかなか口が悪いものの、少女の口調はやはり淡々としていて、気分を悪くしたというわけではなさそうだった。しかしアイオリアはそのことよりも、「食べられない日もある」ということに反応した。
「どういうことだ? 食事の配給は決まった時間に決まった量だけあるはずだろう? そうだ、あんな風に盗むみたいにしなくったって、ちゃんと列に並べば──」
「フン」
 少女は、鼻で嗤った。僅かに仮面が浮く。
「日本人にやる飯はない」
「──なんだって」
「日本人が聖闘士になんてなれっこない。だから日本人にやる飯はここにはないんだとさ」
「馬鹿な事を!」
 少女は小柄だ。日本人だというのなら、その体格が生まれもってのものだとしても納得できる。しかしがりがりと言っていいほどに肉の薄い身体の理由を知り、アイオリアは顔を顰め、「静かに」という彼女の忠告も忘れて怒鳴った。
「聖闘士になるのに、生まれた国なんか関係ない! 日本人でもギリシア人でも、良い小宇宙を現すことが出来れば聖闘士になれる!」
「…………」
「俺は──俺はここで生まれたからギリシア人ということになる。そして聖闘士になったが、俺の友達の聖闘士で他の国から来た奴だっているし、老師は中国の人だ」
「……老師?」
 少女が首を傾げたので、アイオリアは、偉大な先輩聖闘士は中国に住んでいて、教皇と肩を並べるほどのとても強い聖闘士である事、そして友人たちは、ヨーロッパ圏からブラジル、チベットなど、とても遠い所で生まれた者も居る事などを、力強く語った。
 少女は黙ってそれを聞き、アイオリアが話し終わっても、まだ黙っていた。肉の薄い、細い足がぶらぶらと揺れる。そして、仮面越しで表情はわからないが、しかし彼女は、真正面から初めてアイオリアの方を向いた。
 彼女はまたしばらくそのまま黙っていたが、ふいに言った。
「……あんたは、聖闘士なんだろ」
 やはり静かな声は、しかし、ほんの僅かに震えていたような気がした。彼女の問いに、アイオリアは頷く。
「そうだ」
「アイオリアっていうんだろ」
 言い当てられて、アイオリアは驚いた。緑色の目が、くるりと丸くなる。
「そうだ。知ってるのか?」
「三日前、あんた五人組の雑兵に因縁ふっかけられてただろ。そいつらが呼んでたから」
「……見てたのか?」
 全然気付かなかった、と、アイオリアは半ば呆然と呟いた。取り込み中ではあったが、声が聞こえるほど近くに居た候補生の彼女の存在に全く気付かないとは。そしてあの時の会話を聞かれていた事に、アイオリアはそろそろ慣れてきた事とはいえ、気が重くなった。
「獅子座レオの黄金聖闘士、アイオリア──だろ。射手座サジタリアスのアイオロスの──」
「逆賊の弟」
 言われる前に、自分で言う。自衛の為の咄嗟の行動であったが、アイオリアは、それが失敗した事を胸の痛みで知る。自分の口で兄を逆賊と言ったその言葉が、アイオリアの胸を深く刺した。
「聞いたんだろ」
「聞いた」
 こくり、と少女は頷いた。
「それで、逆賊って何」
 かつてのように、高所からじっと地面を眺めて深く俯き始めていたアイオリアは、少女のその声に、思わず顔を上げた。緑の目は今日一番の見開きっぷりで、真ん丸になっている。
 銀色の仮面が、まっすぐにアイオリアを見ていた。きっとその下の目は、鳶色。聖域の中で、おそらくアイオリアしか知らない色を思い出し、アイオリアは少し顔が赤くなったのを感じた。
「何って──」
「だって、わたし、あんたの兄さん見たことないから」
 少女が聖域に来たのは、ちょうど一年ほど前だという。それならばアイオロスのことを知らなくても当たり前だ。あのとき以来“アイオロス”の名前は当然のように禁句となり、代わりに“逆賊”という蔑称が使われるようになった。そしてアイオリアもまたその弟として扱われている。
「……見たことなくても、聞いただろ」
「アテナを殺しかけたとか、聖衣盗んで逃げたとか、教皇にたてついたとか」
「聞いてるじゃないか」
「ホントなの」
 淡々とした声に聞かれ、アイオリアは思わずかっとなった。

「──知るもんか!」

 本心からの叫びだった。
 アイオリアがレオの試練から戻ってきたとき、兄は既に居なかった。赤子のアテナを殺そうとした彼は、聖域の結界の外で山羊座カプリコーンのシュラに粛清され、死んだという。遺体はなかった。だから、出発前に見せられた彼の自作の墓標の下は、今も空っぽのままだ。
 しかし、アテナの為なら命も惜しまぬその覚悟の証しだと、そういって己自身の墓標まで彫った兄が逆賊であったとは、アイオリアはどうしても信じられない。
 生まれる前から“黄金の器”であることを認められていたというアイオロスは、生まれてすぐに十二宮に召喚されて育ったという。アイオリアが“黄金の器”として十二宮に召喚されたもの早かったが、さすがに生まれる前から、というのではない。当時はそれが差異であるとすら思わなかったが、今となっては何か決定的なものであったのかもしれない、とアイオリアは感じている。
 兄と同じく年長組であったサガは、下々の人たちに積極的に手を差し伸べる事から、“神のような男”と呼ばれていた。しかしアイオリアは、別の意味では、その名は兄にこそ相応しかったのではないか、と思っている。
 何故と言って──あの時。自分の墓を、晴れやかな顔で、自慢げに見せる兄に、アイオリアは確かに怯んだのだ。お前もアテナの為に死ぬのだ、頑張ろうなと言われたあのとき、ぞくり、と背中に走る悪寒が確かにあった。それは、最も近しい人、唯一の肉親、家族、兄である彼が、他の誰よりも遠い存在に感じられた決定的な瞬間だった。
 それは、物心つくまでは外界で育ったと言う仲間がいたせいだろうか。接した機会は多くはないが、デスマスクを筆頭にして、外界で育った期間が長い“黄金の器”は、女神の存在を、そして聖闘士になるという運命を好意的に受け止めていない場合もあった。シュラとて、聖闘士になる事に関しては自分から進んで受け止めていたが、デスマスクと一番につき合っているだけあって、神の存在に関しては専ら否定的であった。今では、周りの目を考えて、子供の頃のように大声でそれを言う事もないが。
 だがアイオロスは、彼らとは正反対の価値観をもつ存在だった。誰よりも生粋の十二宮育ちであるアイオロスは、女神の存在を、そして聖闘士になるというその運命を、呼吸をしたり、心臓が脈打ったり、太陽が昇る事と全く同じレベルで受け入れていた。
 そして、生まれたときから、この十二宮に居るという事。それは、この十二宮の頂上であるアテナ神殿に突如星空から降臨した赤子と、殆ど同じ境遇で育つという事でもある。
 だからアイオリアは、アイオロスこそ神のような男と言う呼び名が相応しいのではないか、と思ったのだ。己の命を葬る墓、そんなものを満面の笑みで見せてきた兄は、肉親であるアイオリアにすら、遠い世界の人に見えた。
 そしてそれは、アイオロスもきっと感じていた事なのではないだろうか、とアイオリアは思っている。アイオロスは、十二宮の下に降りる事はあまりなかった。そして、逆に頻繁に下に降り、力ない人々に懸命に救いの手を差し伸べるサガを、何か不思議なものを見るような目で、雲すら漂う人馬宮から眺めていた。その様は、地上の人間たちを天から眺める神のようだった。
 そして彼は、同じ“黄金の器”であるアイオリアたちのことは大いに面倒を見たが、サガのように、見知らぬ人々に対して自分から積極的に手を差し伸べる事はなかった。
 だからこそ、そんな兄が逆賊だとは、アイオリアはどうしても信じられない。
 しかし、それに頑として言い返せるだけのものもなかった。まず教皇がそう認めているし、実際にアイオロスを討伐したというシュラもそれを証言している。また、既に聖域全体がアイオロスを逆賊として扱っている。
 だから、兄が本当に逆賊だったのかどうか、アイオリアはどちらとも言い切れない。そして、言い切れない事に強い苛立ちを感じていた。

「……ふぅん」
 全身の毛を逆立てているような勢いのアイオリアを前に、少女はそれでも淡々としたものであった。思わず気が抜けるような相槌を打った彼女は、仮面の顎を持って顔から剥がれぬよう支え、上を見上げた。
「じゃあ、わからないんだ」
「……は……?」
 彼女の言った意味が分からず、アイオリアは訝しげな声を上げた。すると、彼女が続ける。
「弟のあんたでもわからないんなら、本当にわからないのかもね、ってことさ」
「……意味が分からない」
 本当にわからなかった。少女は上を見上げたまま、眉根の部分が幾分濃い茶色になっている太い眉を寄せているアイオリアを見もしない。
「わたしはあいつらの話を聞いたけど、実際にあんたの兄さんが何をしたのか見たわけじゃない。そしてそれは、あいつらだって同じさ」
「おなじ……?」
 アイオリアがますます眉間の皺を深くする。しかし、彼女は相変わらず淡々と言った。
「あいつらは周りから「アイオロスは逆賊だ」って聞いたからそう言ってるだけで、あんたの兄さんが本当に何かやったのか、その目で見たわけじゃないんだろ? だからわたしは、アイオロスの弟のあんたに「ほんとうのところどうなの」って聞いたんだよ。だけど──弟のあんたがわからないんなら、誰もほんとうの事なんか知らないんじゃないのかってことさ」
 アイオリアは、唖然とした。
 人々は皆、アイオロスを逆賊と呼び、自分の事を逆賊の弟と呼ぶ。友人たちは戸惑いながら、しかしアイオリアに非があるわけではないと慰めた。
 だが彼女は、そのどちらでもなかった。まず「ほんとう」を尋ね、そしてわからないと答えれば、「わからないこと」として受け止める。それは、どちらかを──白か黒か、善か悪かをはっきりと断ずる事を必須と考え、それが出来ない事で苛立ち、暗がりに引き蘢っていたアイオリアにとって、まさに青天の霹靂ともいうべき反応だった。
 しかし、それはそれでもやもやとするものである。深く眉を寄せたアイオリアに、彼女は言った。
「知りたいの」
「……わから、ない」
 震える口元から漏れるように出た答えに一番動揺したのは、アイオリア本人だった。
 兄は逆賊だったのか? ほんとうに、皆が言うような男だったのか? それを知る方法が皆無ではない事を、アイオリアは、ほんとうは──知っていたのだ。アイオロスを実際に討伐したと言うシュラを問いつめる事も、教皇に対して異議を唱える事も、十二宮のてっぺんから兄は逆賊ではないと叫ぶ事とて、やろうと思えば、アイオリアは何だって出来る。石にかじり付くようにして究明すれば、欠片でも、真実が究明できるかもしれない。
 だがアイオリアは、何ヶ月も、何年も、何もしないまま引き蘢った。兄が、アイオロスが、ほんとうに逆賊だったら── それを受け入れることが出来るのかどうか、アイオリアにはわからない。そして、それ以前に、あれほど兄を慕っていたと言うのにも関わらず、アイオリアは、絶対に兄は逆賊などではない、と山のてっぺんから叫べるほど、兄に対して確信がないのである。
 わからない、少女の問いにそう答えた瞬間、アイオリアは初めて、兄に対するそういった思いを自覚した。己は、兄を疑っている。他の誰が疑っても、唯一兄を信じなければならないだろう、弟の自分が!
 アイオリアは、ひどいショックを受けた。アイオリアは、素直で、勇気ある仔獅子のようだと言われて育った。獅子座レオに相応しい、気概ある資質。だがこうして谷底に落ちて見えた己の奥底には、薄情さ、自信のなさ、優柔不断さ、臆病さ、卑怯さがぎっしりと埋まっていて、そしてそれは、ショックとともに、ひどい寂しさをアイオリアに自覚させた。
(──にいさん、)
 そうだ、己は、寂しいのだ。
 大好きだった兄が逆賊と言われ、その弟として蔑まれ、そして兄がどこにも居ない事が──おそらく永遠にどこにも居ない事が、どうしようもなく寂しいのだ。
 そう自覚したアイオリアは、ぐしゃりと表情を歪めた。墓の下にさえ居ない兄。せめてその真実はどこにあるのだろう。しかしやはり、それを目の当たりにする勇気が自分にあるだろうか、自信はない。
「……きみは、いつもこうやって隠れてるのか」
 泣きそうになっていたアイオリアだったが、少女がじっと見ている事に気付いて、少し慌てて話を反らした。これ以上この話をしたところで「わからない」としか答えられそうになかったし、生まれて初めて「女の子の前で泣いてはならない」という心が沸き上がったからだ。それに、彼女の事を聞きたいのは本心だった。
「……まあね。修行で殴られるのはしかたないけど、無駄に殴られて大けがしたら、修行も出来ずに死んじまう」
 少女の口から飛び出したのは、そんな厳しい答えだった。アイオリアもひどい扱いだが、間違いなく黄金聖闘士でもあるので、立場的にも実力的にも、抵抗も出来ずに殴られる、などということはない。万がいち大怪我をしても仲間がヒーリングを使ってくれるし、食べるものに困った事もない。ましてや、食事を意図的に、そして理不尽に抜かれる事など。
 つらくはないか、とは聞かなかった。辛くないわけがない。そしてそんな事を無神経に問うほど、アイオリアももう能天気ではなかった。しかし兄が居なくなる前であれば聞いていただろう、と確信できるあたりが少し情けなく、そして今そうしなかった自分を、ほんの少しだけマシだと思った。
「まあ、合同修練に出たって、修練とは言ってるけど、リンチにあうだけだけど」
 だから、合同の修練には出ていないのだ、と彼女は言った。「じゃあ修行はどうしてるんだ」、とアイオリアが訝しげに聞けば、彼女はやはり淡々と、しかし幾分真剣身が増した様子で答える。
「他の候補生は──特に今、白銀聖闘士候補っていわれてる奴らは、元々生まれつき、色んな力を持ってる奴らだ」
 それは、アイオリアも最近知った。無駄な経費や人材の消費を失くす為、教皇は、生まれつき何らかの特殊能力の片鱗をのぞかせる子供を集め、基礎修行をやらせている。近いうちに試験がされ、それに合格すれば、正式に白銀聖闘士候補とされるはずだ。
「でもわたしはそんな力は何もない。……それ以前にまだ全然腕力がないし、チビだし、小宇宙だって何だかよく分からないから──だから、まず殴られても大丈夫な身体と、殴り返せる力を身につけなくちゃいけない。修練に出るのはそれからだ。でも」
「でも?」
「堂々とは出来ない。邪魔されるから。……だからそれよりも最初に、誰にも見つからないように隠れられる練習をしたんだ。誰にも邪魔されずに、体力づくりとか、そういう基礎練習が出来るようにしなきゃ。……わたしには、何もないから」
 彼女は、もう一度、噛み締めるように、食いしばるように、そう言った。
「だから、最初から、しっかりやらなきゃ。まず誰にも邪魔されないように隠れて、体力を作って、身体を作って、修練に出るのはそれからだ。じゃないときっと死んじまう」
 アイオリアはまたも、目から鱗が剥がれるショックと、そして心が抉られる痛みを味わった。
 聖闘士候補生が聖衣を得る際には、誰であろうと、定められた試練を乗り越え、その資格を得なくてはならない。
 そしてそれは黄金聖闘士候補、“黄金の器”と呼ばれる者たちも例外ではない。ただし、その方法が異なる。ひとつの聖衣に対し数人の候補生が存在する白銀以下は、それを奪い合うようにして試合が組まれ、その勝利者が聖衣を得る権利を得、なおかつ聖衣そのものに認められて初めて正式な聖闘士となるが、はじめからただ一人しか用意されない候補生であり、また聖衣にははじめから認められているといってもいい状態の“黄金の器”たちに与えられる試練は、己の限界を超えるような趣向のものが多い。
 だがそれは、金の揺りかごの中で大事に甘やかされているということでは、決してない。他人を超えるには八割の力でも足りることがあるが、己の限界を超えるには、十割以上の力量を発揮しなければならない。人間の身でありながら神と戦う戦士の最高峰として、最善を尽くすのではなく、それ以上を発揮する事を常に求められる、それが黄金聖闘士であるからだ。

 そして、獅子座レオの黄金黒聖衣、それを得る為にアイオリアに与えられた試練は、定められた期限内に聖域を出発し、地球を一周して戻ってくる事だった。
 当時、アイオリアは七歳。そして当時の彼がどんな少年だったかといえば、誰に聞いても、「子供らしい子供だった」と答えるだろう。
 なぜかというと、アイオリアには、兄がいた。
 七つ年上の兄アイオロスは、弟ではあるが同じ“黄金の器”であるアイオリアに対し厳しかったが、同時に愛してもくれた。容赦なく拳骨を落とす拳は、頭を撫でるあたたかい掌でもあった。
 甘えていた、と、アイオリアは当時も今も自覚している。だからこそアイオリアは、大いに泣き、大いに笑い、遠慮なく我が侭を言い、それを叱られて頬を膨らませるような、子供らしい子供であったのだから。
 そして、子供らしい子供だったアイオリアは、単調な行為を嫌う飽きっぽい子供の例に漏れず、基礎訓練が嫌いだった。
 どの年長者の口からも、基礎こそが大事なのだからしっかりやれ、と言われたが、アイオリアはそうしなかった。持久走や筋力トレーニングを嫌い、組み手や小宇宙での技の訓練を好んだ。同等の練習相手に不自由しがちな“黄金の器”であるにもかかわらず、同年代の“黄金の器”がたくさんいたという環境もあるだろう。アルデバラン、ミロ、カミュ、頻度は少ないがシャカ、ムウ。彼らはアイオリアと同等の力量を持ち、普通の子供ではないアイオリアが普通の子供のように振る舞っても、同じく普通の子供のように反応してくれる存在だった。
 そんな環境を、シオンもなんだかんだで見ていたのだろう。童虎老師という同年の仲間がいる事を考えると、実は同じような経験があったとも考えられる。
 ともかくそんな風だったので、アイオリアは、己の弱点を直視しない癖があった。甘えがあったからこそのその弱点を、アイオリアは現在、肉親の仇のように──いや、そのものとして捉えている。その悪癖によって、己は兄を失ったのだと、彼は今でもそう思っているのだ。
 そして、結局の所己が無力であったからだ、と自虐的な結論に達していた。それがやはり、己の弱さや、起こった辛いことから逃げる悪い癖が出ているだけなのだという事にも気付かずに。
 だがアイオリアは今、知った。

 ──己は、恵まれ、甘やかされていた。

 少女と話せば話すほど、アイオリアはその事を、胸が壊れるほどに思い知った。
 彼女には、仲間は居ない。それどころか、彼女の周りは彼女を理不尽な理由で迫害する者ばかりだ。しかしそんな境遇で、彼女は目先小手先の力を求めたりせず、ほんとうの基本からの力をつけることを選んだ。草の影で耐え忍び、誰とも話さずものを食べ、己を害する者たちの声を正しく聞き分け、地道に、そして確実な努力を続ける。それは目が覚めるような冷静さと賢さであり、そして得難い強さだった。
「ときどきは、見つかって、殴られたりするけど」
 彼女は足をぶらぶらさせながら、言った。
「でも、最近は滅多に見つからない」
「そうだろう。最初に見かけたときより、身のこなしが格段によくなってた」
 彼女が見せた鳥の滑空のような疾走を思い出し、アイオリアはうんうんと頷いた。しかし彼女は、「それもあるかもしれないけど」とそれを遮る。
「……見つからなくなったのは、高いところに隠れるようになってからだ」
「高いところ……」
 今二人が居る木の枝は、大人3人ぶんくらいの高さがある。
「最初は、地べたの、暗いところが一番見つからないと思って、そんなところにばかり隠れてた」
 でも、すぐに見つかって、引きずり出されるんだ、と、彼女は淡々と言う。しかし淡々としてはいても、最初に話しかけられたときより、少女の口調は随分と滑らかになっている。そして、口数も随分多くなっていた。だがアイオリアはそれに気付かないまま、話し続ける彼女を見る。
「すぐ見つかっちまうのは、皆、下ばかり見てるからだ」
「……どういう意味?」
「そのままだよ。見てみなよ」
 少女は、足をぶらぶらさせたまま、言葉通りに下を見た。
 雑兵の装備を纏った男、候補生たち、それ以外の、さまざまな人々。見てみろ、と言われれば、確かに──と、アイオリアは、もう何度目になろうか、彼女の正しい着眼点に感心した。
 地面を歩く人々、彼らの殆どは俯きがちで、疲れたように、下を見て歩いている。──彼女のいう通りに。
「だから、地べたに隠れてると、ほんのちょっと指を動かしただけでも見つかっちまうけど──……」
 少女は、上を見た。木の背は高く、この高さまで登っても、まだ上があった。てっぺんの若い葉から透けて差し込む光は柔らかく、暖かく、そして明るい。銀色の仮面にそれが反射して、鈍く輝いた。
「高いところに隠れてると、足をぶらぶらさせてても、こうして話してても、あんまり見つからないのさ。……みんな、上なんか見てないから」
 にやり、と彼女が笑った気がした。
 もちろん、それはアイオリアの想像でしかない。彼女が顔を上げても、銀色の仮面は、最初の頃のようにずれたりしなかった。
 女聖闘士の仮面は、小宇宙を通すと、顔にぴたりと張り付き、括りつける紐が不要になる。彼女はまだ未熟だが、その仮面は既に彼女の顔にぴったりと張り付きつつある。
 彼女は、自分には何もないと言った。特別な力も、守ってくれるものも、何もないと。だからこそ地道に努力せねばと言った彼女の血を吐くような思い、それが少しずつ実っている事を、彼女の顔をしっかりと隠す仮面が証明していた。
「でもアンタは気付いたね」
 彼女は上を向くのをやめ、アイオリアの方を向いた。どきり、とアイオリアの胸が鳴る。
 あの仮面の下の目が鳶色をしているという事を、アイオリアは知っている。あの目は今、仮面の下で、まっすぐな光を宿しているだろうか。そう考えると、アイオリアはどきどきした。
「わたしがどんなに高いところに隠れても、あんたはわたしを見つけた。……やっぱり」
「……やっぱり?」
 彼女は、答えなかった。その代わり、もう一度上を見る。
 そしてアイオリアも、その目線に導かれ、同じように上を見た。
 この高い木のてっぺんは、若い黄緑色の葉。そしてそこから透ける陽の光は金色に柔らかく輝いていて暖かい。──そして葉の間から見える色は、涙が出るほど鮮やかな青!
 すぅ、と、アイオリアは息を吸い込んだ。木の中に居るからだろうか、高いところだからだろうか、吸い込んだ空気はやけに鮮烈で美味かった。身体の中が浄化されていくような気さえする。風が吹くと、目の端の粘膜がひやりと冷えた。最高に気持ちがいい。
「……いい天気だ」
 アイオリアは、思わず呟いた。
 兄が居なくなってから、毎日がどんな天気だったかなど、アイオリアは欠片も思い出せない。

 だが魔鈴と、懸命に空に飛び立とうとする仔鷲と初めて話した日、それは目が覚めるような快晴であったことを、アイオリアは以後、決して忘れた事はない。



 この日、アイオリアは甘えを捨てる事を誓った。
 それは言葉や何らかの証しなど一切立てていない、アイオリアの心の中だけの誓いであったが、それは非常に忠実に、十分に、いや時にやりすぎなほど守られた。
 筋肉トレーニングや小宇宙燃焼の訓練、そして小宇宙の煉度を上げる為の瞑想。そういった基礎訓練、大嫌いだったそれを、彼は誰よりも多くこなすようになった。
 そして、それらを行なう上で彼が選んだ具体的な方法は、走る事だった。
 体力づくり、そして単調な動作を延々と繰り返す忍耐力、無心になって瞑想に近い状態になりながらも的確に体力配分を考える、冷静な精神力。そしてもちろん、その身には顔を隠すフードやマントなどはない。彼は一歩駆けるごとに陰口を叩かれながら、しかし無言で、黙々と走り続けた。
 最初の頃は、ひたすら早く谷から這い上がりたくて、必死だったように思う、とアイオリアは回想する。地道に一歩一歩登らねばならないのだ、とちゃんと理解はしたつもりだったが、しかしやはり三つ子の魂百までという事なのだろう、生来の気質として、アイオリアは短気だった。早く大きくなりたくて食べ過ぎたり、今すぐ鍛え上げた身体が欲しくて筋トレをやりすぎ身体を壊したり、そういったことを何度も経験した。
 そんな時、アイオリアは魔鈴を見た。
 既に黄金聖闘士として認められており、一応聖衣も正式に賜っているアイオリアと違い、彼女は普通の、しかも期待がされていない、そして皆から煙たがられている──理不尽な事ではあるが──候補生だ。
 そして、何も持っていない、という彼女の申告は、残念な事に本当だった。彼女の中に、はっとするような才能は、ひとつもなかった。生まれつき体格に恵まれているわけでもなく、何らかの特殊技能を持つわけでもない。だが彼女は、誰よりも努力し、誰よりも真剣に基礎訓練を続けた。
 魔鈴の動きに、飛び抜けたところはない。だが彼女は、それを自覚しているからこそ、何よりも正確さを追求した。
 体力がない。力がない。だからこそ、急所を正確に狙い短期で勝てるように、魔鈴は技を磨いていった。
 彼女の歩みは、遅い。だが確実で、正確で、根気強かった。そしてそんな彼女の姿を見て、アイオリアは焦って走る足をハッと整える。心臓の音、呼吸のリズム、己の状態を冷静に確認し、確実な道を、正確な、相応しい早さを見極める。
 ──いつの間にか、魔鈴は、アイオリアにとって、そういう存在になった。
 呼吸をする。心臓が脈打つ。太陽が昇る。魔鈴が居る。
 当たり前の事かもしれない。しかしそれがなければ、今日の天気がどんな風だかを確かめる事すら出来ないのだと悟ったある日、アイオリアは、深く感謝し、そして感動した。
 呼吸ができる。心臓が脈打っている。今日も太陽が昇った。魔鈴が居てくれる。
 それが当たり前の事ではないのだと悟ったとき、アイオリアは感謝し、感動したのだ。そして、恵まれている事の幸福感に、静かに笑んだ。甘やかされていた事に気付きもしなかった頃と比べると、目を見張るほどの変化だった。

 獅子の子は、一人前になる為に、一度谷底に落とされるという。そこから這い上がった者だけが、一人前の獅子になれるのだと。
 獅子座レオの黄金聖衣を賜る為に課された試練は、走る事だった。大変でなかったとはいわないが、己の限界を超えるような試練ではなかった。とアイオリアは既に認めている。
 だから、アイオリアは、走った。
 もう、兄はどこにも居ない。墓の下にさえ居ない。だからアイオリアがいくら走っても、どれだけ崖を登っても、「まだまだだ」と叱る拳も、「よくやった」と頭を撫でてくれる手も現われはしない。
 だが、アイオリアは、走り続けた。誰も認めてくれなくても、ひたすらに走った。
 頂上の見えない谷を登り続ける行為は、アイオリアを確実に強くした。歳を重ねるごとに体躯は順調に大きくなり、彼は太い手足や厚い胸を持つ、立派な偉丈夫に成長し、そしてそれよりもその精神が、大きく成長した。
 アイオリアは、静かな男になった。少なくとも、おしゃべり、とは言い難いだろう。元々言葉で想いを伝えるのが苦手なほうではあったが、彼は必要以上の事を話さず、しかし必要な事は、わかってもらえるまで根気強く話した。そしていつでも何にも恥じる様子なく堂々としているが、威張り散らしたり、小さな事に反発する事は一切しなかった。
 子供らしくはしゃぎ回り、かわいらしい我が侭を言っていた男の子は、そういう大人の男になったのだった。



 数年が経って、魔鈴の仮面からは紐が取れ、そしてぴったりと隙間なく彼女の顔を覆うようになった。だから彼女を最初に見かけた日以来、アイオリアはあの鳶色を目にした事はない。
 アイオリアも健全な男なので、仮面と素顔の間に髪の毛が挟まった事すらないというのにやたら無防備な素足や胸元、仮面にぴったりと合った尖った顎、そこから滑らかに続く喉に見惚れる事もある。正直言って、よこしまな心を抱いた事もそれなりにある。
 だがアイオリアは、彼女の、地道で、確実で、正確で、そして健気な歩みや羽ばたきを遮りたくなかった。だからアイオリアは、魔鈴に対して、過剰に手助けをしたことはないし、もちろん邪魔をした事もない。お互い頑張ろう、と声をかけ合った事すらなかった。
 唯一、時折、運悪く大勢から暴力を浴びせられ、本人の力ではどうしようもない怪我を負ってしまった時だけ、ヒーリングを施してやった。それとて、その頃アイオリアのヒーリングはお世辞にも上手いとは言えなかったので、たかが知れたものだろう。
 ただ、側に居た。お互いがそこに居る事を時々確認しながら、彼らは黙々と自分のやるべき事をやり、上を目指した。仔獅子が崖を登るように、鷲の雛が羽ばたこうとするように、戦士はパルナッソス山の高みを目指す。

 魔鈴は、努力が実った。
 他の特殊技能に恵まれた白銀聖闘士候補生の中に、基礎能力の高さだけでその身をねじこむことに成功したのである。相手が得意の技を出す前に早く駆け、腕よりも数倍力の強い足で、正確に急所を狙う。その動きに特別なところはひとつもなかったが、やはり正確で、そして無駄がなく、確実だったのである。
 そして、それぞれ特殊技能を持つことで選民意識の強い白銀聖闘士候補生に囲まれ、更に苛烈になったいじめに耐えながら、彼女はとうとう鷲座イーグルの白銀聖闘士になった。
 白銀色に輝くイーグルの白銀聖衣は、武装の為のものでありながら、装飾的なデザインの箇所も多い。それを身につけた魔鈴の姿は誇らしげで、堂々としていて、そして美しい、とアイオリアは思っている。
 白銀聖闘士になってからも、魔鈴の不遇は続いた。白銀聖闘士になって間もない、やっと年齢が二桁になったばかりだというのに、弟子をとらされた。星矢というその少年は、宿舎さえ追い出され、朽ち果てた小屋を自力で直して暮らしている魔鈴にとっては、厄介者そのものと言える。
 しかし、アイオリアが生来の短気なら、魔鈴は筋金入りの負けず嫌いだった。彼女は己自身にそう課した時のように星矢を凄まじいスパルタ教育で鍛え、そして後、とうとう天馬星座ペガサスの青銅聖闘士にすることになる。
 星矢は天真爛漫で、そして強い意思を持つ少年だった。師である魔鈴と同じ部屋で寝起きし、己よりも四六時中一緒に居る星矢に生まれて初めて軽い嫉妬を覚えたりしながら、しかしアイオリアも星矢を好きになった。それに、魔鈴自身には手を貸さなかったが、魔鈴が育てている星矢をアイオリアが時々面倒を見るのはありだろう、と考えてみると、星矢を鍛えるのが俄然楽しくなったりもした。

 星矢から、魔鈴さんとアイオリアは恋人なのか、と生意気な質問をされたことがある。
 どうだろうな、とアイオリアが曖昧な返事を返すと、星矢は納得いかない顔をした。アイオリアがかつてそうだったように、白黒どちらかしかないと思っている少年の表情。
 しかしアイオリアは今、こういうどっちつかずの状態を楽しんでいた。
 イーグルの聖衣を初めて身に纏った魔鈴が、じっと己を見ていた事を、アイオリアは知っている。口に出した事はないが、魔鈴は己よりずっと大きな力を持っているアイオリアの事を目標にしていた。アイオリアが魔鈴を見るとき、魔鈴もまた、じっと彼を見上げていた。そこに行く、という決意の滲む、仮面の下からでも感じられる程の、おそらく鳶色の強い眼差しで。
 もしかしたら彼女は、レオの黄金聖衣を纏った己と、イーグルの白銀聖衣を纏って並び立ちたかったのかもしれない。そんな事を想像すると、アイオリアはにやりとした。
 アイオリアは、必要にかられた時にしかレオの黄金聖衣を身につけない。聖域においては、身分を示す為の行為でもあるだろう、半ば制服のように身に纏う聖闘士の方が普通なので、最高位の黄金聖闘士でありながら、いつも雑兵と同じような訓練服のままのアイオリアは、間違いなく変わり者の部類だ。
 逆賊の弟と言われ、そしてレオを身に纏わないアイオリアに、「やはり己は相応しくないと自覚しているか」と嘲笑う者もいる。しかし、いくら陰口を叩かれても、立派なレオの黄金聖衣を身に纏う事なく、毎日黙々と地道な訓練を欠かさず、そして言い返さないくせに堂々と見返してくるようになったアイオリアから、そっと気まずげに目を逸らすようになった者もいる。そして星矢のように慕う者や、その強さに憧れる幼い者も現われ始めていた。
 だがアイオリアはまだ、己の意思だけで、ただレオの黄金聖衣を纏ってみる気はない。
 未だ己は未熟者だ、と思っているからでもある。しかしもう一つ、それとは別の、心の柔らかく暖かいところで、アイオリアは考えていることがある。
 魔鈴を最初に見かけた日に目にした、彼女の鳶色。アイオリアはそれを、その後一度も見た事はない。何かを頬張る口元も、時が経つに連れてすっかり見えなくなってしまった。
 彼女があの目を、そして片目だけでなく両目を、口元を、そしてまだ一度も見ていない鼻を、頬を、茶色い前髪がかかる額を見せてくれる日を、アイオリアは黙って待っている。

 彼女はいつも、アイオリアの後ろにいた。振り返れば、懸命に羽ばたこうとする姿。それはアイオリアにとっていつも健気に映り、勇気づけられ、美しく、そして愛おしい姿だった。
 そして、もうすっかり悠々と、誰よりも高い場所を飛び回るようになった美しい鷲は、獅子の背中にその背をつけて座り込んでいる。
 彼女は、アイオリアが振り向いて、真正面から抱きしめる日を待っているだろうか。
 しかしアイオリアもまた、根気づよく待つ事ももうお手の物だ。
 だから彼は、背中に彼女の背中を感じながら、ただじっと空を見つめる。それは決して苦ではない。むしろアイオリアは今、それを楽しんでいる。

 彼女が仮面を脱いで振り返るのが先か、アイオリアがレオの聖衣を纏って迎えに行くのが先か。

 ──曖昧なまま、待つ。
 高い崖の上、青空を見つめながらそうするのは、なかなか心地の良いものであった。
アイオロス >>> アイオリア >>> 魔鈴 >>> 星矢1INDEX
BY 餡子郎
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