第12章・Kind im Einschlummern(眠りに入る子供)
<19>
──宝瓶宮前。
流星のごとき勢いで天に登りきった巨大な小宇宙を察知し、瞬が「紫龍!」と友の名を叫ぶ。しかしそれで何かが変わるわけもなく、ただ圧倒的なほどに満天の星空のどれかに紛れてしまった輝きを、少年らは呆然と見上げた。
「……二人とも。紫龍の死を悲しんでいるヒマはないようだぞ……」
はっと振り向いた氷河が、少年らしからぬ低い声で促す。
その重苦しい声に、膝をつき、涙を浮かべて空を見上げていた瞬、そして呆気にとられたような顔をして同じ所を見上げていた星矢は、「えっ?」などと、戦場らしからぬぽかんとした声と表情で振り返った。
──この場においてまだそんな表情を浮かべてしまう事こそが、彼らがまだ戦場というものをきちんとした現実感を持って把握して切れていない証拠でもあったが、それを指導するような人間はここにはいない。そんな基本的な事を指摘できる人間の同行すらないまま、この幼い新兵たちは戦場に送り込まれてきているのだ。
「うっ……!」
──こんなにも強大な小宇宙に気づかず、背を向けて膝をついていたとは。
階段の上に立っている金色の人影から放たれている小宇宙は、星矢と瞬の心臓を跳ね上がらせ、冷や汗をかかせるに十分すぎるほどの存在感を放っていた。
しかし、真っ赤な髮を白いマントと黄金の聖衣の上に流した彼は、今まで退治した黄金聖闘士とは、少し違った風情の人物だった。
今までの黄金聖闘士たちと対峙した際、少年らが感じたのは、天と地ほども差異のある小宇宙がもたらす、恐怖と焦燥感。例えるならば、肉食の猛獣の前に放り出された草食動物の心地だ。
だが赤い髪の彼の彼が放つ存在感は、そういったものとは違っていた。静かで、涼やかとすらいえる佇まいがもたらすそれは、巨大な建造物や圧倒的な大自然を前にした時に感じる圧迫感と、どこか似ている気がした。
「あ……あれが、宝瓶宮のカミュ……」
──氷河の師であり、天秤宮において、氷河を氷の棺に閉じ込めた男。
他の黄金聖闘士に比べれば、氷河の口から漏れる話もあり、少年らが得ている情報の多い人物であろう。
そして実際に対峙したアクエリアスのカミュという男は、氷河の話から、師、というイメージが大きかったせいだろうか。女性と見紛うことはないものの、中性的な要素が目立つ面差しもあり、星矢と瞬が思っていたよりも、若すぎるように感じられた。
しかし、星矢と瞬がじろじろと彼を観察しているにも関わらず、彼本人はといえば、まるで彼らに目を向けようとはしなかった。──彼が見ているのは、最初から一人きり。
「星矢、瞬、先に行ってくれ」
厳かさすら感じるような声で、氷河が言った。彼もまた、星矢と瞬に目線を向ける事はない。高みから見下ろしてくるカミュの目線を、まっすぐに、そして真っ正面からじっと見返していた。
そのただならぬ様子に、氷河、と星矢が声をかけるが、氷河はやはり微動だにしなかった。
「……ここは、師のカミュとオレだけにしてもらいたい! 誰にもジャマをされたくない……たとえお前たちにもだ……!」
「氷河……」
星矢も、瞬も、己の師の教えを受けられた事の幸運を誇りとし、師をこの上なく尊敬している。あらゆる意味で超える事など思いもつかないようなその存在は、親を持たない彼らだからこそ余計に大きい。
そんな人間と、戦場にて、敵同士として殺しあわねばならぬということ。星矢と瞬にはもはや想像すらつかぬその現状を、しかし氷河は今、目を僅かもそらす事なく、真っ向から受け止めているように見えた。──事実、そうなのだろう。
師弟はじっとお互いの目を見つめ、そしてふと、カミュが口を開いた。
「……氷河……、わたしはな……」
静かな声だった。憂うようでもなく、憤激するようでもなく、ただ目の前の現実を淡々と受け止めた声。カミュはそんな声で何かを言おうとして、しかし続ける事なく、すっと目を閉じた。
「いや……もはや何も言うまい……」
言葉すら、カミュは飲み込んだ。もう既に何もかもわかりきっているというのに、わざわざ言葉を紡ぐのは無粋だと思ったのだろう。元々、上手く言葉を紡げる質とも遠い男だ。
「我が師カミュよ。オレはあなたに礼を言わなくてはなりません!」
じっとカミュの目を見つめ、氷河は言った。宣言するように。──誓いの言葉だ。
風に流れるようなカミュの声とは違い、氷河の声は、頑としていた。普段どちらかというと控えめに話す事が多い氷河だからこそ、その口調は揺るぎなく聞こえた。
氷河は、つらい修行の成果とその末に身につけた実力を認められ、白鳥座キグナスを正式に賜った、正真正銘の青銅聖闘士だ。
しかし、キグナスの聖衣を纏う資格は、その時点では保留とされた。これは、氷河自身の希望でもあった。だからこそ日本への任務を受け、必要にかられるまで氷河はキグナスの聖衣がどこにあるのかもよくよく知らぬままであったし、任務がなければ、一生纏わずとも良いと思っていた。
それは、氷河が聖闘士になろうとした目的が、聖闘士になる事そのものではなかった、という事もある。沈没した船とともに沈んだ母親の遺体を引き上げる為、その為の力を得る為に聖闘士を目指した氷河は、他の候補生のように、聖衣に対してがむしゃらな切望をそれほど抱いてはいなかった。
それだけでなく、もうひとつ。兄弟子・アイザックの存在がある。
彼が行方不明となった事について、氷河は消える事のない負い目を深く感じている。アイザックは間違いなく氷河より実力ある候補生で、それはあのまま修行を続けたとしても覆る事はなかった、と氷河は思っている。──アイザックが消えた今、その真実は証明できはしないが。
ともかく、候補生たちが血反吐を吐き、死ぬよりつらい訓練の果てにやっと手に入れる事が叶う聖衣を、いわば不戦勝、繰り上げ当選、しかも己が原因で相手が行方不明になった事によってという、不完全燃焼な形でキグナスを纏う事に、氷河は非常に抵抗があった。
そしてそんな心持ちで聖衣を纏うのも良くない、とカミュも判断した。聖闘士としての資格を得、カミュの弟子の監督責任が軽くなり、東シベリアを離れてからは、氷河はあの氷の大地で、母の墓守のような暮らしを淡々と送ってきた。
──それが許されていたのは、カミュが己を守っていたからだ。
こうして戦場に立ち、そしてミロとのあの戦いを経た今、氷河はそれを心の底から実感していた。
氷河がこの戦場にやってきた直接の原因は、カミュが母の船を沈めたからである。黄金聖闘士の力でもって、複雑怪奇な潮流の果て、取り返しのつかない海底へ追いやられてしまったあの船にたどり着く事は、どんな奇跡が起こっても実現し得ないだろう。
──氷河は、母の遺体を引き上げる為に聖闘士になった。だから、そのカミュの仕打ちはまさに、ただただその日を過ごすのみの氷河の暮らしに終止符を打つものだった。
だがしかし、氷河もまた、今までと同じ淡々とした暮らしを過ごしながらも、迷っていた。氷河の今の実力であれば、あの船から母の遺体を引き上げることは可能であったのに、氷河はそうしなかった。
聖闘士を目指した動機。それを達成したその時、氷河が聖闘士でいる理由は無くなるからだ。
母の為という、ごく私的な動機で聖闘士を目指した氷河。だがしかし、カミュに導かれ、そして正義の為に、平和の為に、と、氷河とは正反対の理由で聖闘士を目指していたアイザックの姿から、氷河は迷うようになっていた。
だから氷河は、母の遺体を引き揚げる事もせず、かといって聖衣を纏おうとする事もなく、ただぐずぐずとその日を暮らしていた。
だが、母を引き揚げる事が事実上不可能となり、こうして戦場に引っぱり出されてきた今、氷河にはもう選択の余地はない。
氷河はもう、母の姿を目にする事は出来ない。しかし氷河は今、不思議と、安らかな気持ちですらあった。
思えば、母の遺体を引き揚げる事に躍起になっていたのは、母の死をきちんと受け止め切れない激情が成せるものであった、と氷河は既に自覚している。その死因から、遺体がまるで損傷していない、まるで生きているような状態のままであった、というのも、母の死を受け入れるのに時間がかかった一因であるだろう。
──分からず屋め。お前にはカミュの気持ちがわからんのか!
ミロに叱咤されたあの時、氷河はカミュがいつも氷河を見守り続けてきてくれた事を、この上なく、深く感じ、理解した。
──カミュは、待っていてくれたのだ。
彼は、弟子である氷河を常に見守っていてくれた。氷河の意思を尊重し、助け、促し、より良いようにいつも取りはからってくれた。
だからカミュは、ただぐずぐずとその日を暮らすのみの氷河に何も言わなかったし、星矢たちと行動をとっても、何も言わなかった。ただ氷河のする事を見守るだけだった。
しかしカミュもまた、迷っていたのだろう、と氷河は思う。
氷河を資格として任命し、聖域に対する謀反ととれる沙織らとは無関係だという事をアピールする事によって、氷河の静かな暮らしを守ろうとしたカミュ。しかし、その後氷河の母の船を沈め、戦場に出ざるを得ない状況に追いやったカミュ。だがいざ戦場に出てみれば、氷の棺まで用いて氷河を戦いから離脱させようとしたカミュ。
行動だけ見れば、矛盾だらけのそれ。しかしその行動の共通点は、常に氷河を思っての事であるということを、氷河はいま、痛いほど、泣きたくなるほど理解していた。
カミュのとった行動は、父や兄のような深い愛情と、聖闘士の師としての愛情がせめぎあった末の行動の数々に他ならない。
氷河を刺客として任命したのは、謀反人と見なされ、聖闘士となる道も、母の墓守としての暮らしもどちらも選べなくなってしまう事を防ぐ為。船を沈めたのは、氷河を追いつめる為ではなく、友の力になってやりたいものの、母と決別し聖衣を纏う事に踏み切れない氷河の背中を押すもの。そして氷の棺に閉じ込めたのは、戦場に出たのはあくまで友の為であり、聖闘士になる事そのものを覚悟したというわけではない氷河が、いつかはどんな道も選べるようにせんが為だ。
「東シベリアにて、聖闘士として数々のことを教えられた礼は、とても言葉では言い尽くせません……」
カミュを師に持てた事を、氷河は何よりも誇らしく、そしてかけがえのない幸運であると感じていた。他の事など、全てが霞むほどに。
氷河は、父に捨てられた。しかしカミュは、氷河に対し、肉親として与えるべき情も、師として導かんが為の愛も、全てを惜しみなく与えてくれた。
そして更には、兄弟たちがその身を削ってまで己を助け、支えようとしてくれ、また敵として闘ったミロもまた、己の背を押してくれた。
──この途方もない幸運の前で、実父に捨てられた程度の事が何だというのだろう!
そして、そう思うからこそ今、氷河は彼に示したかった。カミュが導き、助けてくれた果て、今度こそ己の意思のみで選んだ道がどんなものなのか。
「だから言葉ではなく、聖闘士としての行動で示したい!」
氷河は、決めたのだ。母の幻影を求めてぐずぐずと迷う事をやめ、氷河は今自分の意思でこの戦場にいるのだという事を。中途半端な気持ちでなく、聖闘士として、白鳥座キグナスの聖衣を纏う青銅聖闘士としてここにいるのだということを、氷河は彼に示したかった。
「それは」
──覚悟を決めろ
そうだ、既に覚悟は決まっている。
「貴方から授かったもの、全てをぶつけ」
──俺はお前を殺さず行かせることを選んだが、それは慈悲も同情でもない。むしろ、お前にとってもっと辛い試練を課すことになったと思う。師と闘う、というな
そしてその覚悟を貫き通す為、胸が壊れるほどに痛いその試練を、氷河は乗り越えようとしている。
「──カミュ、貴方を倒す事だ……!」
「……よかろう」
カミュの小宇宙が高まってゆく。通常熱を持つのが普通であるが、凍気使いの至高、水と氷の魔術師と謳われたカミュの小宇宙は、大雪原が放つ雄大な冷気にも似ていた。
カミュもまた、覚悟を決めていた。
氷河がミロとの戦いでもってそうであったように、カミュまた、親友と弟子の戦いによって、己のとるべき行動に覚悟を決めていた。
家族というものを知らないカミュにとって、氷河とアイザックは、我が子のようであり、弟のようでもある、かけがえのない存在だった。そしてそんな存在が同時に、よりにもよって聖闘士としての弟子である事に、常に悩んできた。
──出来るならば、普通の少年として、戦いとは慣れた所で平和に暮らさせてやれれば。
そんな思いがあった事は、否定できない。だからこそ、戦士になる事に躊躇いを見せる氷河を、カミュは黙って見守ってきた。聖闘士の師としては甘すぎるその行為は、カミュが氷河に息子や弟に対するような愛情を深く抱いて居たからに他ならない。
だが氷河は今、選んだのだ。彼はカミュの息子でもなく、弟でもなく、弟子である事を選んだ。
「ならば私も全てをもってお前に応え、今度こそ確実に葬ってやろう!」
──カミュは、戦士としてお前を迎え撃つだろう
永久氷壁、第四紀洪積世から融けたことの無いあの巨大な存在にも似た師の姿を、氷河は真正面から見上げる。この上ない敬意をもって、しかし乗り越えてみせると挑む、戦士の目で。
「来い、氷河────!!」
カミュは、立ち塞がった。
息子とも弟とも思ってきた少年の前に、今、彼は徹底して師として立っている。
己の全てを受け継ぎ、そして其れでもって乗り越えてみせよと、頑として立ち塞がってみせた。
──氷河、お前を戦士と認めた故に。
《……つくづくも、勝手な男だ》
そう評す対象と同じ黒髪を持つ男は、玉座の肘掛けで頬杖をつきながら言った。独り言のような呟きであったが、テレパスに乗せている時点でそうではない。
「シュラのことですか」
《他に誰がいる。──あれは最もわたしに忠実なようでいて、実のところ一番勝手だった》
既に過去形。シュラの小宇宙が完全に消え、彼の守護する磨羯宮が主の永遠の不在を現してから数分も経っていないというのに、彼の言葉に戸惑いはない。
「そういう所が気に入っていたんでしょうに」
こちらも動揺のない、ぞっとするほど平静な落ち着きのアフロディーテが片眉を上げて苦笑すると、フン、とサガは顎を上げた。
確かに、シュラがサガのいう事を諾々とこなすだけの男だったなら、彼はサガの“聖剣”足り得なかった。サガが己の示した道に外れるような事をすれば、直ぐさまサガの首を刎ねるだろう、どこまでも厳しい聖剣。そしてその、馴れ合いとは真逆の厳しさと緊張感があったからこそ、サガはここまで来る事が出来た。
「その黒髪と、赤い目。嫉妬してしまいますよ」
潔く、厳しく、濁りや迷いのない黒髪。そして、お前の言葉こそ正しい、俺も同じ考えだと肯定し力を貸す事を決めた赤い目があったからこそ、サガはここまで来れたのだ。
その様を最も側で見ていたアフロディーテは、フッと目を細めて星空を見た。黒髪の彼が消えた空を。
《何を言う。お前はわたしと同じくらい美しいよ》
ブッ、とアフロディーテが噴き出した。
《さしずめ、天と地の狭間で輝きを誇る美の戦士──》
「ちょ、止めて下さい腹がよじれる」
つぼに入ってしまったらしく、ひい、と変な音を喉から上げたアフロディーテは、その絶世の美貌を歪め、涙すら浮かべながら、聖衣の上から腹を押さえてよろめいた。超然としているようでいて、変な所で笑い上戸なところも彼らの共通点なのだが、彼ら自身に自覚はない。
《そういうわけだ。おまえがいなくなったらわたしが一番美しい者となる。そうならぬよう励め》
「白雪姫の継母じゃないんだから」
というか、それは激励なんですか? と、まだ収まらぬ笑いとともにアフロディーテは言った。
「……勝手、ですか。勝手というならカミュでしょう、あれほど我が道を行っているものもない」
《あれか。あれはもう勝手にすればよい》
サガは、もはや投げやりに言った。
《我々の存在に薄らと気づきながら、奴は何もしなかった》
アフロディーテとシュラに挟まれ、宝瓶宮を守護する彼は、物理的距離に於いて、サガたちの秘密に最も近かった。年月の殆どをシベリアで過ごすようになってからはその条件も希薄となったが、それを差し引いたとしても、カミュは聖域中からどんどん怪しまれる自らの上層部に興味のかけらも見せようとしなかった。
カミュは、生まれ持った力を持て余し、己で己に畏れ戦く恐慌状態でもって聖域にやってきた。黄金聖闘士として珍しくないそのきっかけは、更に珍しくない事に、己を受け入れてくれた聖域に対する愛着に発展した。
それは、端から見れば、女神の聖闘士としてこれ以上なく模範的にも見えるだろう。しかしその実、カミュはそうではないのだ。彼の口から「女神の為に」というような言葉が出た事は儀礼的な挨拶以外では一度もないし、態度にも見受けられない。
与えられた任務は、そつなくこなす。しかしそれは、ただ単に命令だから、すなわち仕事だからである。正義のため、女神の為、そういうものは、カミュにはない。
ならばカミュにとって、聖闘士であるという事はどういうことなのか。
「引き取ってくれた家がしていた仕事。その稼業を義理と感謝を込めて手伝う──ただそんな感じなのでしょうね、カミュは」
だから、その背景で蠢くものに興味は示さない。親の仕事を手伝う子供が、「大人の仕事に自分は手を出すべきではない」として黙々と作業をこなすように。
アフロディーテが的確にそう分析すると、サガは軽く苦々しげに言った。
《……使いやすいのはいいが、もう少し疑問を持つべきとも思うがな》
「我が侭ですね、相変わらず」
そしてそれは、変な所で、彼らの保護者であった頃の意識が根強くあるからこそのその発言なのだろう。何も知らされない、知らぬままの彼らを駒として扱いつつも、諾々と従うままの彼らに心のどこかで苛立ちを感じ、そして従ってくれる彼らをどこかで愛おしくも感じている。
矛盾。大きなそれを抱えながら、サガは13年間、こうして玉座に座している。
「心配為さらずとも、カミュに自我がないわけではないですよ。先程も言いましたが、彼ほど我が道を行っているものもない。ただ、彼の関心が我々ばかりに向いていないだけ」
《わかっている。だから勝手にすればよいと言っている》
「拗ねないで下さい」
《誰が。──ああ、勝手にすればよい。その結果が我々にとって都合がよければ、何も言う事はない。多分、カミュも我々に対してそう思っているのだろう》
「そうですね。……そういう所は、確かにクールだ」
カミュとて、確かに他と比べればその程度は薄かったものの、聖域中から疑惑を向けられる教皇らに全くもって関心がなかったわけではない。そかしそれが決定的かつ極端になったのは、──彼の弟子であるアイザック、彼が行方不明になってからだ。
アイザックが行方不明となった時のカミュの様といったら、もはや見れたものではなかった。凍傷になるのも構わず毎日氷の海へ飛び込み、半狂乱で子供の姿を探す様は、模範的聖闘士などと言う評価は冗談意外の何ものでもなかった。
その様子を見かねて親友であるミロが駆けつけ、残ったもう一人の弟子、氷河の存在もあって、カミュは落ち着きを取り戻した。そしてカミュはそれ以来、氷河の育成に全力を捧げ、教皇の有り様に見向きもしなくなった。
「シュラが何か言ったとも聞いておりますが」
《あれが?》
「彼はなんだかんだで面倒見がいいですからね。今回もカミュが降りるのを止めませんでしたし、我が道を行けとでもアドバイスしたんじゃないですか」
貴方に対してそうだったようにね、とは、わざわざ言わずともわかっている。
シュラという男はどこまでも厳しいが、しかしその厳しさが側にあるということは、この上ない心強さと緊張感をもたらしてくれることを、サガは誰よりもよく知っている。だからこそ、サガは苦々しそうに顔を歪め、勝手な奴らめ、とただ小さく悪態をついた。
シュラは、誰かが泣いているとき、ただずっとその者の側に居た。くだらないことで泣くなと拳骨をくれるでもなく、適当な慰めの言葉を寄越すでもなく、ただ、時々少し困ったような顔をして、彼らが泣き止むまで、じっと側に居た。
そう、彼はあからさまに、誰かに力を貸しはしない。ただじっと側にいて、その者がする事を見守るのだ。しかしその者が望めば、──己の道を往きたい、これこそはという正義があるのだと示せば、厳しい顔のまま、その手の聖剣を惜しみなく貸してくれる。
ただ黙って何もかもを見守りながら傍らに立ち、己の正義を持つ者こそに与えられるという聖剣、それを貸し与えてくれるシュラは、その名に恥じず、まさしく正義の守護神たる男だった。
そして彼は、逝った。誰かの正義を守り、そして己の正義を貫いて。
《シュラは、死んだ。しかし、わたしの正義が失われたわけではない》
我が道を、我が正義を貫けと、聖剣は常に言った。
視界の端に見える黒髪、赤い目でもってそれを見つめ、サガは誓う。側で笑う死神が死しても、傍らに佇む聖剣が失われても、己の正義は揺るぎはしないのだと。その証しこそが、この赤い目と黒髪なのだと。
《──舐めるなよ、女神》
そしてその笑みは、壮絶なまでに美しかった。
《──さて、》
僅かな無言の間の後、二人は別々の場所で、しかし同じ所を見た。その目線の先は、宝瓶宮。
「……カミュも、用事を終わらせたようですね」
《フン──何よりな事だ》
本当に勝手な奴め、とサガは静かに言ってから、それきりカミュの事は話題にしなかった。
「では、そろそろ私の出番だ」
ざわり、と、双魚宮を、いや聖域全体を覆う薔薇がざわめく。
《……任せた。殿の宮、魚座ピスケスのアフロディーテよ》
「御意、我が教皇」
サガとのテレパスが途切れた瞬間、アフロディーテが小宇宙を高める。
彼の小宇宙の高まりに伴い、その小宇宙を宿す薔薇たちもまた、彼の手足と同じく自在に動く。みるみるうちに、血を思わせる禍々しいまでの赤い魔宮薔薇が、双魚宮から恐るべきスピードで伸びてゆき、教皇宮までの階段を覆いきった。
そしていま、アフロディーテが見下ろす先には、小さな人影が二つ。天馬星座ペガサス星矢、アンドロメダ瞬。宝瓶宮からの小宇宙が途絶えた時には足を止めた彼らであったが、すぐに階段を駆け上り始めている。
既に顔が目視できるまでの距離まで来ている彼らの声が、薔薇の方向とともにアフロディーテの耳に届く。
──星矢、双魚宮に着いたら、星矢はまっすぐに教皇の間を目指してくれ!
──瞬?
──ぼくがここまで頑張って来れたのも、ひとつは双魚宮の黄金聖闘士を倒す目的があったからなんだ!
(ほお?)
少年らの会話に秀麗な眉を片方上げたアフロディーテは、数倍の量に咲き誇っている薔薇を、両手にそれぞれ一輪ずつ、おもむろに摘み取った。
──ビッ、ビッ!
「うっ!」
「危ない!」
凄まじいスピードで一直線に飛んだ薔薇は、少年らが声を上げた時には、既にその足下に突き刺さっていた。
──突き刺さっていた、のである。
投げたのは、正真正銘、生花の薔薇だ。しかしその嫋やかなはずの茎部分は、長年染み渡った小宇宙によって普通より遥かに頑丈な聖域の石の地面に、深々と突き刺さっていた。
その異様な現象によって、少年らはアフロディーテが既に目視可能な距離にいる事にやっと気づいたらしい。──アフロディーテ自身、小宇宙の絶対量が少なく、つまり“智”についてさほど特化していない。その上、聖域中に巡らせた薔薇に込められた彼自身の小宇宙によって、その肉体から発される小宇宙は掴まれ難いところがある。
「……星矢、さっきも言ったように、あの男はぼくが倒す。絶対に手を出さないでくれ」
階段の上を睨みつけたままの春画、彼らしからぬ重々しい様子で言う。
その様子を半分伏せた目で見下ろしながら、アフロディーテは、その一輪をぷちりと摘み上げ、そのまま口に銜えた。
「あの男は、アンドロメダ島でぼくを聖闘士に育ててくれた先生を倒した男なのだ」
「なに!?」
「先生の仇は、ぼくの力で必ず取る……」
「瞬!」
星矢は、驚きと困惑を露に、友人の名を呼んだ。
それは、瞬の声が、容姿のせいだけでなく、少女のようとすら言われるほどにやさしげで穏やかな彼が言ったとは思えぬほど憎しみに溢れていたからだ。
しかし戸惑っている場合ではない、と、星矢は気を取り直し、階段の上に立つ人影を改めて見、──そして、再度戸惑うことになった。
「あいつが魚座ピスケスのアフロディーテ……? しかし」
本当にあれが男かよ、と言った星矢の声は、呆気にとられたようにも聞こえた。
階段の上に立つのは、確かに黄金の聖衣を纏った人影。しかしその顔は、戦場の最中でさえぽかんとしてしまうほどに美しかった。いや、ここが戦場でなく、そして彼が黄金聖衣を纏っていなければ、天使か薔薇の妖精の幻かと思う方がもはや普通だという位に。
一輪の薔薇を自然に銜え、美貌のピスケスは冷やかに星矢と瞬を見下ろしている。
「星矢、さあ! 早く教皇の間まで一気に突き進んでくれ!」
そう言った瞬は、やはり段上の麗人を睨んだままだ。常に仲間の具合に気を使いながらここまで来た瞬にかつてない様子に、星矢は思わず黙って彼を見る。
「……ぼくは、こういう言い方は好きではないけど……」
しかし、やはり瞬は瞬であった。星矢の不安を感じ取ったのか、少年はやさしげな風に聞こえるよう気を使った色を見せつつ、しかし激情をたっぷりと含んだ声で、言った。
「男だったら、とか、男のくせに、とかいう言い方は好きじゃないんだけど」
口を開かなければ所見でまず少女と間違えられる容姿を差し引いても、瞬は性格的に男っぽいとは言いがたい。蔑視するという意味でなく女性を特別扱いしてしまう星矢と違って、瞬は男女に分け隔てがなく、しかしその姿勢は、女っぽいというよりは中性的、ユニセックスな雰囲気が濃かった。天使には性別がないのだと聞かされたとき、星矢は瞬を見て、何となく納得したような気がした事がある。
「あの男を倒すのに誰かの力を借りたとしたら、ぼく自身男じゃなくなる気がするんだ……」
初めて見る友の姿を、星矢は黙って見つめた。
星矢の方を見ないその横顔は、性別のない、ただどこまでもやさしげな天使のそれとは違っている。まっすぐに一点を睨み続けるその瞳には、燃える何かが宿っている。
「ぼくは、男だからね。恩を受けた人の仇は、ぼく自身の力で打ちたいんだ……」
今まで見てきた瞬のあり方からして考えられないようなそれ、しかし今、彼は確かに言った。つまりあの男を殺すのだと、師の仇を討つ為に復讐するのだと、瞬はさらりと、静かに言いきった。
「さあ星矢、先に教皇の間へ行ってくれ! あとから必ず行くよ……」
「瞬……」
いつものような柔らかな微笑と、静かな声。
しかしそれだけに、瞬の言葉の苛烈さはどうしようもなく目立った。そして星矢は、この友が天使のような微笑みを浮かべ、誰にも分け隔てなくやさしいばかりの少年ではないのだという事を目の当たりにし、ただ彼の名を静かに呼ぶ事しか出来ない。
しかし、氷河とカミュの間に誰も入り込めない神聖なものを感じたように、瞬のその落ち着き払った様子から、彼の意思が既にどうやっても覆せないものであるという事を悟った星矢は、それきり彼の意図を問うのを止めた。
「……よおーし、じゃあ先に行ってくる!」
瞬には瞬の戦いがある。そう割り切った星矢は、己の戦いに専念する事に割り切り、威勢のいい声を上げた。
「なあに、お前が来るまでに教皇はオレが片付けてるかもしれないぜ!」
「うん!」
特攻するかの如く、少年たちが階段を駆け上る。その表情は緊張感に溢れているが、アフロディーテはと言えば、ただ冷淡に其れを見遣るのみだ。それにまた少年たちの心拍数が上がるものの、星矢と瞬は、息を合わせたフェイントをしかける。
「──ちょっと通らせて貰うぜ!」
二人で挟み撃ちにする、と見せかけて、星矢が跳んだ。おそらく限界まで跳躍したのだろうその高さは、天を駆けるペガサスに相応しく、常人では為し得ない高さ。しかしアフロディーテはやや伏せた冷静な目でそれを追いかけ、口に銜えた薔薇を、厨の星矢に向かって飛ばした。
「うっ!」
先程地面に刺さった薔薇もそうだが、アフロディーテが己の薔薇を投げるのに、大きな臂力はまるで必要としない。何百世代も前の苗からアフロディーテの小宇宙を湛えた薔薇は、アフロディーテがちょっとした意思を込めるだけで自在に動く。だから綿毛を飛ばすより僅かな吐息でも、銜えた薔薇は弾丸のごとくまっすぐに星矢を襲う。
凄まじい速度で飛んできた薔薇に怯みつつも、しかし一輪のみのそれを見切れぬ程ではなかった星矢は、空中で何とか其れをたたき落とす。
「あばよ、ピスケスの黄金聖闘士!」
畳み掛けて攻撃するでもなく、ただじっと星矢を追いかけるアフロディーテの目線に、絵の中の人物や人形の視線を感じるような不気味さを感じながらも、無事に着地した星矢は、捨て台詞を残して駆けてゆく。
背を向けて遠ざかる星矢、しかしアフロディーテはやはりじっと其れを見送るだけだ。
──カシャン!
しかし背後から飛んできた鎖を、アフロディーテは右腕で難なく受け止める。星矢から目線を外したアフロディーテは、鎖の先にいる少年を、きろりと見遣る。
水色とも若草色ともつかぬ柔らかな、しかし朝露の溢れる早朝のような鋭さを湛えた視線。ぞっとするまでに整いきった美貌が持つ人ならざるもののようなその目に瞬は怯みつつも、しかしぎりぎりと締め付ける鎖と同じように、アフロディーテを真っ向から睨みつける。
「あなたには、星矢がこの双魚宮を抜けるまで動かないでいてもらうよ!」
「……フッ」
吐息のみの笑い。
しかしアフロディーテほどの美貌が行なうそれは、至高の美を持った彫像が命を持った奇跡に感じられるほどでもあった。だが当の本人はおかまいなしに、そのまま、以外に男っぽい低めの声で続ける。
「この双魚宮を抜けたからといって、教皇の間まで辿り着く事は出来ない」
「なに!?」
「あのペガサスは、途中で息絶える!」
──薔薇の葬列に送られて。
「ここ双魚宮と教皇の間を繋ぐ道は、私の薔薇で一面覆われている」
瞬が困惑したような、訝しげな表情で更にアフロディーテを睨みつける。アフロディーテは其れを全くもって受け流し、相変わらず淡々と言った。
「道を覆った薔薇は、ただの薔薇ではない。魔宮薔薇、デモンローズといって、古代……侵略者を防ぐ為に王宮の庭に植えられた、猛毒のある薔薇なのだ」
正しくは、そんな薔薇があると聞いたアフロディーテが己の小宇宙を用いて作ったものであるので、古代使用された実際の魔宮薔薇と比べると、威力は段違いだ。
「な……なんだって」
「その花粉を吸い、棘にかすっただけで一切の機能が低下し、五感を失い、やがて死に至る。ペガサスはおそらく十歩も進まぬうちにな……」
「せ……星矢ァ────ッ!」
「おっと」
喉の奥で嗤うアフロディーテに青ざめた瞬は、それを知らせるべく友の名を叫ぶ。しかしその目線すらアフロディーテから離した事で僅かに緩んだ鎖が、次の瞬間勢い良く引っ張られた。
ハッとした瞬が鎖の先を見ると、相変わらず淡々とした様子のアフロディーテが、右手に巻き付いた鎖を引いていた。鎖は間違いなく彼の利き手に巻き付き捕えているはずなのに、アフロディーテの仕草はまるでそれを気にしていない。それどころか、まるでアフロディーテの方が鎖を捉えているような風情ですらあった。
「私の相手はきみがするのではなかったのかね、アンドロメダ? ……それに、確か私の事を仇だとか言っていたようだが……」
「そ……そうとも」
キッ、とアフロディーテを睨む瞬の目には、普段の天使のような彼を知るものからすると信じられぬような憎しみが燃え上がっている。驚くべき事に、憎しみの炎で満たされた彼の目には、既に先に行った星矢の安否を気にする動揺さえ既になかった。
「あなたは、ぼくの先生であるアンドロメダ島ケフェオスのダイダロスを殺したはずだ!」
「アンドロメダ島のケフェウス……?」
──ほんとうは、侵略者の一人がアンドロメダを継承した少年である、と聞いたその時から、彼が己に復讐する為に行軍に加わっているのではなかろうか、と、アフロディーテは思い至っていた。
「ああ、そういえば、以前にそんな事があったかな……」
しかしアフロディーテは、あえて、今の今まですっかり忘れていた、というようにそう言う。すると思惑通り、瞬のまなじりが吊り上がり、炎が燃え盛るように小宇宙が乱れていく。単純な事だ、と、アフロディーテがフッと嗤ってすら見せると、更に瞬の小宇宙がぐらぐらと煮え立って行く。
それは、相変わらずただ佇むのみの花の如く平静極まるアフロディーテとは、正反対に。
「確かに、アンドロメダ島ケフェウスのダイダロスは、私が息の根を止めた」
はっきりと、しかし平然と、ただ事実を述べるのみと行った様子で、アフロディーテは言いきった。その様に逆撫でされた瞬が、また更に歯を食いしばる。ぎりぎりと音を立てる口元から、今にも血が溢れ出しそうなほどに。
──ダイダロスがアフロディーテに倒されたと瞬が知ったのは、いざ聖域に向かおうとする前夜、日本にやってきた姉弟子のジュネからだ。
それは、情報が早い、といえるだろう。
アフロディーテがダイダロスを排したのは、瞬たちがデスクィーン島の暗黒聖闘士と富士で闘っている最中の事だ。
ケフェウスのダイダロスは、同期の琴座ライラのオルフェと同じく、黄金に肉薄する強さ、そして誠実で面倒見のよい性格から、多くの者たちから慕われていた。しかし同時に、実際の行動としては中庸を保っているとはいえ、その潔癖なまでの正義感から聖域に疑問を持つ一派でもあった彼は、アンドロメダに赴任してからというもの、聖域、教皇からの招集に一度も応じる事がなかった。
そして弟子の瞬が教皇に抗う一番槍として閧の声を上げたその時、アフロディーテはサガ、教皇の命で彼の元に赴いた。
──どちらにつくのか、と。
ムウしかり、実力や人望のある聖闘士が城戸沙織側につくのは何より思わしくない。だからこそ、アフロディーテが派遣された。ダイダロスが、弟子ではなく、教皇側につく事を否と言ったその時の為に。
そしてダイダロスの答えに伴って、アフロディーテは彼を排した。聖衣の状態が全く万全ではなかった事もあり、その勝負は割とあっけないものであった。──だが、喧嘩馬鹿のかの友人と違って、アンフェアな戦いでの勝利に、アフロディーテに特にそれ以上の感想はない。
あの場に瞬の姉弟子が居たとはアフロディーテは気づかなかったが、彼女は師があっけなく殺されてしまった事を、慌てておとうと弟子に伝えに行ったらしい。おまえたち青銅聖闘士の実力では皆殺しにされてしまう、と、彼女は必死で瞬を止めた。
だがしかし、彼女の行動は、瞬を止めるどころかこの上ない発破をかける結果に終わる。ただ漠然と、平和の為に、友の為に戦いに赴こうとしていたやさしい少年は、生まれて初めてとも言っていい憎しみの炎を燃え上がらせ、何が何でも最後の双魚宮まで辿り着き、仇を殺してみせると心に決めた。
「先生の仇は、必ずぼくが取る……!」
「……なるほど、美しい師弟愛といった所か」
ぎりぎりとアフロディーテを睨み据えながら述べる瞬に、アフロディーテはやはり平然としたまま、鎖に掴まれていない左手に抱えていた魚座のヘッドパーツを悠々と被った。
「だがそのジュネとかいう娘の言う通り、日本で大人しくしていた方が良かったぞ」
フッ、と、メットの影で笑いさえ浮かべたアフロディーテに、瞬の怒りが一気に高まる。
「仇討ちどころか、犬死にをするだけだ」
その瞬間、己が何か叫んだ、ということだけしか、瞬にはわからなかった。
頭に血が昇る、怒りに我を忘れる、という事を、瞬は今初めて理解した。気づいた時には、アンドロメダの鎖のもう片方は、既に宙を飛び、アフロディーテに向かって一直線に攻撃を仕掛けていた。
──ガシッ!
その鎖は、アフロディーテの左手を捕えた──かのように見えた。しかしアフロディーテは閉じているのか伏せているのかといった風な目で、左腕に巻き付いた鎖を冷やかに見遣っている。
「フッ……笑止な!」
両腕を捕われたはずのその姿であったが、実際はそうではない。捕えられているのは──瞬の鎖の方だった。
「こんなチェーンなど、私の前で何の役に立つか!」
──カッ!
「うわぁ────ッ!!」
アフロディーテが猛々しくも吠えた瞬間、瞬は鎖の先から逆流してきた凄まじい力に、全身を引っ張られる。
「さあ……君も魔の薔薇の香気の虜となって、ペガサスの後を追え!」
「うっ……!」
そして無様にも、天を向いて後ろから倒れ臥した少年に、アフロディーテは悠々と、優雅にすら思える確実さで畳み掛ける。
「ロイヤルデモンローズ!」
双魚宮中に咲き誇る、美しい薔薇たち。
その全てが、まるで訓練され尽くした兵のように、一斉に瞬に襲い掛かった。