4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
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「氷河、これは?」

 華奢な脚が、しかし強靭に鍛えねば出来ないだろう、無理な方向にひねって重ねた姿勢を作っている。
 しかしナターシャはそんな姿勢に不自然さを微塵と醸し出さず、まっすぐに立っていた。不安定な立ち方で、しかし普通に立つよりもまっすぐに、まるで上から糸でぴんと吊られているかのように見事に立つ様は、清々しい緊張感に溢れ、幻想的な芸術性があり、美しかった。

 幼い氷河は、そんな母を見あげながら言った。
「さんばん」
「そう、よくできました。じゃあ、こうすると?」
 重ねあわせた脚、前にあるほうの右足が、一歩前に出される。
「よんばん」
「そう」
 よく覚えているわね、と、ナターシャはにっこりと微笑む。それは妖精の女王のように美しく、そしてそんな母に褒められたのが嬉しくて、氷河もまたにっこりと笑う。

 母ナターシャは、バレリーナであった。

 と、己の母を語る大きな要素として、氷河は認識している。
 彼女が現役のプロバレリーナであった頃の事を氷河は知らないが、伝統に厳しく格式高いロシアバレエ団が誇るプリマであった、と、時折彼女を尋ねる、彼女の知り合いらしい誰もが氷河に熱く語って行った。
 愛らしい妖精や可憐な姫役を当たり役としていたナターシャに、日本の大富豪──城戸光政が惚れ込み、パトロンとなり、そして氷河が生まれたのだと。

 ナターシャは氷河を身籠った事でバレリーナを引退し、今までの稼ぎと、そして知り合いが経営するバレエ教室の講師をやりながら、ロシアにて、母と幼い息子一人の生活を始めた。
 この母子家庭の生活に光政の援助があったのかどうか、氷河はこの先ずっとわからないままだ。しかしとりあえず、ものすごい贅沢をした記憶もないが、生活に困っているという感覚は特になかったように思う。むしろ、どちらかといえば、ゆったりと優雅な生活であったように氷河は記憶している。

「いつかお父様のところへ、日本へ行きましょうね、氷河」

 事あるごとに、ナターシャはそう言った。
 そして息子に氷河という日本の名を付けただけでなく、物心つく前から日本語を学ばせた。いつ、愛する男から、日本へ来いと言われてもいいように。

「日本に行っても、氷河に、沢山お友達が出来ますように」

 氷河はそんなナターシャのやり方に逆らった事など、一度もなかった。
 それは彼女が氷河という名を呼ぶ度に、そして氷河の日本語の語彙が増える度に、まるで世界に初めて春が来たかのような、嬉しそうな、そして最高に愛おしそうな顔で笑うものだから、まさかそれを撥ね付ける事などできはしなかった。

 しかし自分の父親なのだという男の事を、氷河はどうしても、好きになれはしなかった。
 ナターシャが何年も待ち続け、それはそれは素晴らしい方なのだと、うっとりと、絵本の中のお姫さまが王子様を夢見るように語る様を殆ど毎日見ていれば、心の底から憎たらしいとは思いにくい。
 だがそれと同時に、飛行機も船も発達したこの世の中、ただの一度も氷河の顔を見に来た事がなく、そしてこんなにも彼の事を待ちこがれているナターシャにも会いに来た事が無い父親の事を、氷河は、どうしてもまるきり良い風には感じられなかった。

 だから日本語の勉強は完全にナターシャのためにやっていると言って良かったが、彼女自身が氷河に教えるバレエのレッスンは、母とやる遊びの延長でもあり、とても楽しく感じていた。

 クラシック・バレエは、細かなポーズにまでいちいち正式名称があり、その組み合わせによって振り付けが為されている。まず基本は5つの足の位置ポジションPositionsポジション Des Piedsピエからはじまり、少し脚の曲げ方や腕の角度が違うだけで違うポーズとして扱われる。
 だからクラシックバレエを踊るダンサーは、器械体操の選手と同等、いや時にそれ以上の精密な動きを求められる。レッスンの際、脚の角度が3度下がった、ジャンプが5センチ低いなどという講師からの叱咤は普通、そんな世界だ。

 またクラシックバレエのポーズは人体の骨格や筋肉に反したもの、少なくとも普通の生活をしていればまず取らないようなポーズが多く、まずかなりのレベルの身体の柔らかさと、またその動きをしても壊さない強靭でしなやかな肉体、そして同時に筋肉を着け過ぎてもいけない、という、厳しいというよりはむしろ無茶と言ってもいいような資質を求められる。
 だからこそ、クラシック・バレエのダンサーとして成功するのは、奇跡と言っても過言ではない。
 まず身体的に恵まれていなければならないし、登竜門として有名なローザンヌやヴァルナ、ジャクソンなどのバレエコンクールは何十倍もの倍率であり、また実際にプロとしてバレエ団に入ろうとすれば、更に何百倍もの凄まじい倍率に勝ち残らなければならない。更には、本人がいくら完璧に踊れていても、何代前の誰が肥満体型だったので将来肥満体型になる可能性あり、不合格、なんてこともあるのだ。

 ナターシャは、そんな世界で、しかも最も伝統的で格式高く厳しいと言われるロシアバレエでプリマに、つまり頂点に立った事のある女性だった。
 そして氷河もまた、そんな母の資質を確実に受け継いでいた。
 母譲りの薄い色の金髪と、アイスブルーの目。ただ突っ立っているだけで天使や妖精の王子様のようと誰もに思わせる容姿、そして幼いながら、無理なポーズをとっても平気、いやむしろ見事にそれを成してみせる恵まれた身体能力。

「氷河は、素直ねえ」

 と、ナターシャから苦笑気味に言われた記憶が、氷河にはある。
 そしてそれは事実で、氷河は言われた事を、特に母から言われた事は、何の反発もせず従い、完璧を求めようとした。そしてその行為に、何の疑問も、そして苦しさも感じなかった。
 それは幼い子供としては自主性の未発達が心配される事でもあったがしかし、そのおかげで、まず皆がその辛さに音を上げてしまう柔軟性も、そして精密極まるポーズの習得も、氷河は努力の自覚すらなく、しかも短時間でやってのけた。

 ナターシャが氷河にやらせるのは、延々と基礎の基礎だった。
 ポーズのひとつひとつを完璧に覚え、精密に再現し、指示されたポーズをすぐとれるようにすること。
 最初はナターシャがとったポーズの名前当てから始まり、実際に氷河にもやらせるようになってからは、だんだん指示のスピードも上がった。ナターシャが振り付けらしい振り付けを与えた事はないが、ただ指示通りのポーズを続けて行なうのは、名前のない舞踏になっていた。

 ナターシャが氷河をバレエダンサーにしようと本気で思っていたがどうかはわからないし、少なくとも最初はほんのお遊びだった事は確かだ。元プロバレエダンサーであった母だからこその、少し特別な遊びでしかなかった。
 だが氷河は彼女の才能を十分すぎるほど受け継いでいるのは事実で、だからだろう、その遊びはいつの間にか、なかなかに本格的な“レッスン”になっていっていた。

 ──そしてそれは、後に、ローザンヌ・コンクールよりも、ロシアバレエの入団テストよりも、他の何と比べても、この世で最も難関であろう道を切り開く鍵となる。






 あの日、ナターシャは、死んだ。

 いよいよ光政から日本へ来いとのお呼びがかかり、日本に向かう途中の船。それが事故に遇ったのだ。
 何年も何年も待って、ようやくの召喚。よりにもよってその道行きでの死は、皮肉意外の何ものでもない、残酷な悲劇だった。

 何よりも息子を優先した彼女と、そして船員たちの迅速で確実な対処によって、幼い氷河は傷ひとつ負う事なく助かり、そして彼女は海に沈んだ。東シベリアの、重く、残酷で、冷たい海に。

 氷河は、呆然としていた。
 母の死はあまりにも非現実的で、幼い氷河はそれをなかなか理解することが出来なかった。救難所でぼうっと遠い海を見つめるだけの妖精のような少年を、人々がまるで人ではないものを見るように、そして痛々しげに、遠巻きに眺めていた。
 船が事故に遇った事は世界中に知らされ、そしてもちろんグラード財団、光政もそれを知った。だから助かった人々を迎えにやってくる船のうちのひとつにグラード財団のそれが混じっていて、氷河はそれに乗って日本へ向かうことになった。──ナターシャを置いて。

 氷河は、ごねた。

 そもそも、氷河自身は日本に行きたくも何ともないのである。ナターシャが光政に会いたいから日本に行く、それだけの話で、氷河は日本に何の憧れもなかったし、はっきり言って、父親であるという光政に何の感情も抱いていなかった。
 母が沈む海、そこから一歩も離れたくないと、氷河は殆ど生まれて初めてとも言える激しさで、日本行きの船に乗るのを拒否した。
 そんな氷河に日本行きを決心させたのは、グラード財団の者だったか、それとも船員だったのか、それはもう氷河は忘れたが、とにかくこの一言。

 ──聖闘士。

 聖闘士になれば、あの冷たい海に沈んでしまった母を引き上げられるのだと、この日氷河は耳にした。それは氷河の心に奥深く根ざされ、そして更に、あれだけ日本に行きたがっていたナターシャの代わりに氷河が日本に行かなくては、という説得によって、氷河は日本に行く事を決意したのである。

 ──必ずこの海に、この地に帰ってくる、そう誓って。


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BY 餡子郎
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