4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
<2>
幼い子供にとって、母親は常に世界の中心であるものだ。
そして特にその傾向の強かった氷河ではあったがしかし、いくら彼女が光政という男を全肯定していても、自分はどうしてもそうなれはしなかった。以前はその事に関してナターシャに負い目を感じていたものだが、実際に光政に会って、その負い目が必要ないものであった、とはっきりと氷河は断じた。
城戸光政は、氷河を認知しなかった。
氷河がナターシャに感化されてまだ見ぬ父に憧憬を感じていれば、氷河はこのとき、母の死に続いてひどいショックを受けることになっていただろう。
だが光政と、彼が自分にした仕打ちについて、氷河は今も、そして当時も、特にどうとも思ってはいなかった。ただ、ああ、己の思っていたのは正解だった、としみじみと感じ、納得したのを覚えている。
ただ、もしナターシャとともに自分がここに来ていたら、光政はどういう対応をしていたのだろう、とは、ぼんやりと思った。その時は、二人を身内として引き取っただろうか。それともナターシャだけを引き取り、氷河を捨てただろうか。
しかし、ナターシャは確かに光政を非常に愛し慕っていたが、氷河と光政どちらを取るかとなれば当然氷河と言うだろう、とけろりと氷河に思わせるぐらいには、ナターシャは氷河に愛情を注いでいた。
いくら彼女が光政を好きでも、己を害したとあれば、ナターシャは光政を見限る。氷河には、その位の自信があった。
だから氷河を認めなかった時点で、光政は、あの美しいナターシャに嫌われたという事になるのだ、と氷河は考え、フンと小さく鼻を鳴らした。
連れて来られた氷河を見下ろした光政の目は、暗く光る黒い目であった。氷河のアイスブルーの目も、明るいブロンドも、白い肌も、全てナターシャ譲りのものである。これで光政がもっとわかりやすく氷河に似ていればまだ氷河も思うことがあったのかもしれないが、若く美しく、妖精や姫を可憐に演じたナターシャと並べば親子、下手をすれば祖父と孫くらい差がありそうな年齢の日本人を、父、と認識するのは難しかった。
結局氷河は、グラード財団経営の施設に送られることになった。
その事についても、氷河はただ妥当な処置だなと思っただけだった。
むしろ着の身着のままで放り出されなかっただけマシだろう、と思ったぐらいだ。子供を産ませた女とその子供を、海を隔てた外国に何年も放っておくような男なのだから、そんな鬼畜のような所業も平気でしかねない、と思うぐらいには、氷河の光政への評価はひんやりと地に落ちていた。
──光政の部屋から出る時、ドア越しに、その施設にいる子供たちが皆、己と同じように、認知されない彼の子供なのだという事を、彼の秘書が話しているのを耳で拾ったそのとき、その評価は確固たるものになった。
氷河は、当時も、今も、己の父であると言う男の事を、憎んではいない。ただ愚かで、非情で、理解できない、しようとも思わない存在だと思う。その凍り付いた評価が溶ける事は、この先も永遠にないだろう。
氷河が預けられたグラード財団の施設は、大きな5階建ての建物だった。そして内部にある階段や踊り場もそれに見合って広々としており、その3階の踊り場に、氷河は夕飯前の夕方、必ず訪れた。
氷河少年は無言で、踊り場の手すりに軽く左手を置いた。そしてまず、姿勢を意識する。
地面についた踵から頭のてっぺんまで、天からピンと吊られた糸が通っているようなイメージ。それが完成すると、自然と己の意識にもまた、上にまっすぐに突き抜けるような感覚が訪れる。心地よい緊張感。
脚は、第一ポジション。左右の爪先は、それぞれ外側に向け、まっすぐ180度。開いた右手は軽く肘を曲げ、空気を抱くようなラインをもたせる、アン・バー。そのポーズが完璧に安定したら、十秒そのまま保つ。
ゆるやかに見えるポーズだが、立ち方は人間が普段動くにあたってあり得ない立ち方。形が柔らかいだけで、全く動きはしない。最初からそう彫られた石像のように。左手で捉えた手摺──バーは、実は支えではない。不動の為のただの基準点でしかないのだ。
大道芸の一種、パントマイムのいちジャンルとして、石像のようにまったく動かない芸、というものが確立している。
ただ直立するだけでも、石像のように動かないというのは、生き物にとってはひどく難しい。なのに、このような不自然なポーズを十秒とはいえ全く動かず保つのが、どれだけ難易度が高いものか。
しかしクラシック・バレエにおいて、これは基本中の基本と言えるプリエのバー・レッスンの最初のいちポーズであり、氷河もいま、完璧にそれをこなした。そしてきっかり十秒後、次のポーズに移る。
アン・バーから、更に肘を曲げるアン・ナバンを経て、二番。顔は掌を覗き込むように俯くが、見ているわけではない。目線もまた、ポーズの一部なのだ。これで、また十秒。
踊り場は、大きな窓からの、早々と沈む冬の夕陽が放つ強いオレンジ色で満ち満ちていた。そしてその光が作る真っ黒な影が、氷河が動く度に形を変える。十秒の間、氷河は全く動かないが、ゆっくりと沈む太陽と同じく、その影だけがじりじりと長さを変えていた。
次に腕を柔らかくゆっくりと伸ばし、一番ポジションのドゥミ・プリエに入る。そして流れるように手をアン・バーに移動しながらプリエ。人間工学的に尻が突き出るのが自然だが、完璧に外を向いた爪先と、それと連動した膝により、氷河の腰は垂直に下がっている。そして再度膝を伸ばし、伸ばしきったと同時に、腕はアン・バーの位置に。──完璧。
何十というポーズをきっかり十秒ずつこなし終わったその時、氷河は初めて、ふう、と自然な息をついた。
──わぁっ、
途端、いきなり降ってきた歓声と細やかな音の拍手に、氷河は青い目を見開いた。
「すっごいな! なあ、あれ、すごい!」
「うん、とても綺麗だった」
濃い茶色の髪の、何やら生傷を多くこしらえたやんちゃそうな少年の興奮気味な言葉に、黒髪を肩まで伸ばした、幾分年長であろう少年が、凛とした声で受け答える。歳のわりに落ち着いていそうな少年だが、その拍手には熱が籠っていた。
そして、階段の一番上にいる彼らよりに段下に座っている、他の子供たちより一回り以上小さな身体をした亜麻色の髪の子は、ほっぺたを赤くして、こくこくと激しく頷き同意を示しながら、一番激しい拍手を贈っていた。
「うん、すごく、すごくきれいだったよ! ねえ、あれ、踊りかなあ。それともにいさんみたいな、ぶじゅつ?」
いまいち舌が回っていない幼げな発音で、その子が言う。どう見ても女の子にしか見えないが、この施設は男児しかいないので、驚くべき事だが男の子なのだろう。
「武術ではないだろう」
そしてそれに応えたのは、隣に腰掛けた、一番年嵩そうな黒髪の少年。しっかり、はっきりとした口調は大人びており、そして彼が贈る拍手は、きちんと掌の窪みに空気を溜めて音を大きくした、大人がするような重たい拍手だった。
「多分、舞踊だ」
「ぶようって?」
「踊りだ。母さんがやってただろう、日本舞踊」
そうだっけ、と、傾げた頭にあわせて、亜麻色の髪がさらさらと流れる。すると、同じくさらさらとした、こちらは黒い髪を持った少年が頷く。
「俺も踊りだと思うな。なあ、そうだろう?」
「おい紫龍、聞いたってわかんねえだろ、ガイジンなんだから」
「踊りだ」
「うぉう!?」
返ってきた答えに、茶色の髪の少年が、珍妙な声を上げる。だが驚いているのは彼だけでなく、全員が目を丸くしていた。
以前からその傾向はあったものの、母が死んでから、氷河はどこかぼんやりした風な、せっかく覚えた日本語が完全に無駄になるぐらい、とても無口な子供になっていた。
氷河の現在の性格を形成したのは、母との別れであり、そして他の子供たちは知らなかった実父との非情な対面であり、また城戸の屋敷での生活にある。
幼くして母と非常にショッキングな成り行きで死に別れ、馴染みの無い異国の屋敷に引き取られた氷河がそういう性格になってしまったのは、無理からぬ事と言えよう。
だから孤児となってグラード財団の施設に引き取られた氷河は、周りの子供たちからも大人たちからも、何を考えているのだかよくわからない子、として認識されていた。
美しい女性が多い事で知られるロシア人、しかもロシアバレエのプリマであったナターシャを母に持つ氷河は、彼女の美貌をしっかりと受け継ぎ、大層美しい子供だった。
輝く金髪と同じ色の長い睫毛がアイスブルーの目を縁取り、モンゴロイド的な黄みが全く感じられない白い肌。まるでマイセン磁器でできた妖精の王子様のような風貌は、十中八九女の子と間違えられる瞬とはまた別に、夢のような美しさであった。
日本人の特徴とはかすりもしない人形じみた容姿は、共に引き取られた泥臭い少年たちからいっそ冗談のように浮いていて、様々な意味で、言葉が通じそうにないと思われたのだろう。氷河に話しかけようという子供は、なかなか居なかったのだ。
「お、おまえ、日本語話せたのかよ!」
「習ったから、話せる」
大袈裟なほど驚いている少年に、氷河は淡々と言った。だが、実際、日本語を口にするのは随分と久しぶりで、発音に気をつけたせいで、妙にいちいち区切ってしまい、ゆっくりした言葉になった。
「なんだ、ずっと黙っているから、話せないのかと思ってた。おれは、紫龍。名前は?」
長めの黒髪の少年、紫龍が、穏やかに話しかけてきた。
「……氷河」
「ヒョウガ?」
「“カンジ”だと、氷の河、って書いて」
「え、ガイジンなのに漢字の名前なのか? へんなの!」
多分悪気は無いのだろう、しかし母に貰った名前に対し、大声で「へんなの」と言われた氷河は、少なからずむっとした。
しかし氷河が眉をしかめるより先に、黒髪の、あの大人っぽい少年の拳が飛ぶ。
「い、ってえ!」
「ひとの名前を変などと言うな」
少年の声は、当然だが声変わりを迎えておらず、高い。しかし彼のそれは、まるっきり大人が子供を叱るときの声で、氷河はきょとんとした。
「そうだよ、星矢。ひとの名前をわるく言うのはよくないよ」
怒っているというよりは悲しそうな顔をした亜麻色の髪の少年に言われ、星矢は痛みに涙を滲ませながら、しかしどこかばつの悪そうな様子で言い訳した。
「べ、別にわるく言ったわけじゃねえよ、ただへんだなって言っただけ!」
「……えーと。……変わってる、って言いたかったのか? 星矢」
皆を諌めるように、困ったような顔で紫龍が言う。
「そう! それ!」
「そうか。でもさっきの言い方だと、悪く聞こえてしまう。今度から気をつけような。あと氷河に謝れ」
その様子は、拳を飛ばした少年のようにいかにも大人のようでは無いが、年長者としてしっかりとしたものであった。
「うえーい。氷河ごめんなさい」
「おまえまた棒読み……」
「まあまあまあまあ、一輝」
おそらくしょっちゅうやんちゃをしては謝らせられているのだろう、悪気が無い故に謝罪の意思がかけらも籠っていない声を出した星矢にまたも拳を飛ばそうとする少年──、一輝を、紫龍が苦笑いを浮かべながら諌める。
「氷河、星矢を許してやってくれないか。悪気があったわけじゃないんだ」
「……ん」
一輝の拳を掴んで止めつつ、どこか必死な様子が滲んだ声で言った紫龍に、氷河はこくりと頷いた。星矢に悪気が無いのはわかったし、一輝の拳は冗談抜きで痛そうだったし、何より紫龍が大変そうだったので、すっかり毒気が抜かれていた。
「氷河、ボクね、瞬っていうんだ。よろしくね」
「シュン」
「うん、そう。ええとね、漢字では、こう」
亜麻色の髪の、小さな少年──瞬は、冬の外気との温度差で曇った窓に、小さな指で、一文字の複雑な漢字を書いた。難しげな字を書いてみせた瞬に、氷河は密かに感心する。
「一瞬、の、しゅん、だよ」
「……むずかしい」
「でも、一文字だからね。紫龍はどっちもむずかしいんだ。ね」
「難しいかな」
話を振られた紫龍は、曇った窓に、さらさらと手慣れた様子で名を書いた。そして、「ね、難しいでしょ」と言った瞬に、氷河は頷いて同意する。
むらさきのドラゴンという意味だというその名は、少年にとって格好良さげな響きであったが、確かにその分難しそうであった。特に二文字目は複雑だ、と氷河は感想を抱く。
「一輝兄さんもね、“き”がむずかしいんだよ」
難しいと言いつつ、瞬はその字を書いてみせた。
「これは、数字の、いち?」
「そうだ」
二文字目の複雑さとは真逆、シンプルの極地ともいえる横一本線を指して言った氷河に、一輝が答えた。
「ひとつ輝く、という意味だ。瞬の、一瞬、という意味にも通じる」
二人は、兄弟だという。──父は皆同じであるのだから、母親が同じ、ということだろう。
見た目や性格など全く似ていないような二人であったが、その名前は同等の意味を持つ、よく似たものであった。
「で、オレはこう!」
威勢良く飛び出した星矢が、でかでかと指で字を書く。
「星の矢、ってかいて、セイヤ!」
「馬鹿。また飛び出してる」
他と比べてややシンプルな文字を自慢げに書いて言った星矢に、一輝が呆れた声を出した。飛び出してる、という言葉の意味がわからず氷河が首を傾げると、一輝は星矢が書いた字の横に、同じような字をさらさらと書いた。
その字は、“矢”。
「お前のだと、“星を失う”になる、と言ったろうが。自分で自分の名前を不吉にしてどうする」
「うぐ……」
「ぶ」
苦虫を噛み潰したような顔をしている星矢の後ろで、氷河は思わず吹き出した。
人形のように表情を変えなかった氷河が吹き出したのに、紫龍と瞬が少し目を丸くしている。
「何だよ、笑うなよ!」
「あ。……星矢、ごめんなさい」
「マ、マネするなよ!」
先程の棒読みの謝罪をそっくりそのまま、しかも真顔で返された星矢は顔を赤くし、他の全員がブッと噴き出した。
「星矢、謝ったんだから、許してあげないと」
「うう、……じゃあお前は書けるのかよ、自分の名前!」
びしっ、と氷河を指さして言った星矢は、「ひとを指差すな」とまた一輝に頭を叩かれた。
そのやり取りを横目に、氷河は、自分の名を、書き慣れない漢字でどうにか書いた。
日本語の文字の上手い・下手が氷河にはよく分からないし、実際、カタカナとひらがな以外、漢字はこの自分の名しか書くことは出来ないし、読めない。
だから自分の文字がお世辞にも上手いものではない事ぐらいはわかっている。氷河としても、字を書いているというよりは、記号か絵を書いている感覚に近い。
「へえ、ちゃんと書けてるじゃないか」
しかし、紫龍は氷河をそう褒めた。一輝にいたっては、「“とめ”も“はね”も完璧だな」、と、感心したように頷いている。バレエのポジションを寸分の狂いなく覚え実現してみせる氷河の字は、全体のバランスこそいびつであったが、そういう細かい所はきちんと守られていたのだ。
「星矢、おまえ、氷河をガイジンだのなんだの言う前に、自分の名前くらいちゃんと書けるようになれ」
「う……、で、でも、氷河はオレより年上だろ!」
「指を指すなと言ってるだろう」
パシーン、と、一輝の掌が、またも星矢の頭を叩く。うう、と呻いて頭を抱える星矢を、氷河はぼんやりと見下ろした。
半分ロシアの血が入っており、しかも光政も日本人としては随分大柄な方であったので、氷河は同年代の日本の子供に比べれば、かなり背が高いほうだ。この中では紫龍より高く、一輝と同じぐらいだろう。そして星矢は、瞬よりは僅かに大きいものの、氷河と比べれば頭ひとつ分近く低い。
そして殆ど無意識に、氷河は手を伸ばしていた。
「あ」
茶色の頭を撫でた氷河に、紫龍が短く声を発する。
星矢は、何をされたのかすぐに把握できずに固まっていたが、自分より大きい掌が頭を何往復かすると、みるみる顔を赤くして頬を膨らませ、その手を乱暴に振り払った。
「ガ、ガキあつかいするなよな! バーカ!」
「あっ、星矢、まってぇ」
先程の言葉とは矛盾した捨て台詞を吐きながら階段を駆け下りて行った星矢を、瞬が少し遅い足で追いかける。
「……まったく」
その姿を、一輝が、少年らしくないため息をつきながら見送る。
「弟たちのする事だ。大目に見てやれ」
と一輝は言うが、その弟の頭を一番遠慮なしに叩くのも一輝である、とは、紫龍は言わずにおいた。
「おとうと」
「もちろん瞬と俺は血の繋がった兄弟だが、そうでなくとも、同じ所で暮らしているんだ。多分これからしばらくはそうだろうし、似たようなものだろう。年長者は歳下の面倒を見るものだ、氷河」
──兄弟。
氷河は、一輝や瞬だけがそうではないことを知っている。紫龍も、星矢も、そしてこの施設にいるどの子供も、一人の男の血を引いている兄弟だという事を知っている。
──星矢が、瞬が、父を同じくした己の弟である事を、知っている。
「行こうか。そろそろご飯だ」
「……ん」
紫龍は、氷河と同い年らしい。星矢と瞬は、ひとつ下。
ナターシャは、ずっと光政が迎えに来るのを待っていた。あの、遠いロシアで。
「それより先に、氷河、おまえ汗を拭いてこい」
一輝は、氷河よりひとつ上。
「……タオルを持ってない」
「洗面所に行けばあるだろう、何か。……ああ、いい、ついてってやる。早くしないと風邪をひく。汗だくだ。紫龍、星矢と瞬を見ておけ」
「わかった。二人のぶんも用意しておく」
「頼む」
施設の世話係は、時間に遅れると容赦なく食事を抜く。だからこその言葉だ。
「……ありがとう、紫龍」
「いいよ。早く行ってこい」
礼を言った氷河に、紫龍はにこりと笑って言った。すると、一輝が腕を引いてくる。
「行くぞ。早くすれば十分間に合う」
そして氷河は、一輝にぐいぐい腕を引かれ、洗面所に向かった。
一輝はさっさと氷河に服を脱がさせて身体を拭かせ、その間に汗だくになった氷河の服を洗濯機に放り入れ、奥から勝手にタオルと着替えを引っ張り出してきた。何とも手際がいい。
「ありがとう」
「いい。ちゃんとやればちゃんと汗をかく」
氷河が首を傾げると、一輝は言った。
「ラジオ体操でも何でも、きちんと決められた通りにやればやるほど汗をかく、と俺も習った。適当にやると、汗なんかかかない。おまえはとてもきちんとやったから、そうやって汗だくになる」
ヨガしかり、太極拳しかり、ゆっくりとした動きでも、洗練され尽くしたものを正しく行なえば、闇雲に動くよりも実のある運動となり、代謝が高まり汗をかく。
「俺もよく汗だくになるから、こうしてこっそり着替える」
「一輝も、何か、やるのか」
「古武術の型だ」
「こ……?」
「古武術。古い、武術。空手とか、柔道とか、知らないか?」
ああ、と、氷河が頷くと、一輝は続けた。
「死んだ母さんに習った」
ぴくり、と、氷河の肩が震える。
「毎日欠かさずやる、と約束したんだ。だから、やってる。おもしろいし」
氷河は、横に並んで歩く一輝を、じっと見た。
黒い髪、黒い目。黄みがかった、己とは違う、色のある肌。……それは、自分たちの父だと言うあの男によく似た造形だった。
「……おれも、」
少し、声が震えていたかもしれない。
ただ発音が拙いだけ、と思われたかもしれないが。
「マーマに、習った。毎日、するって約束、して」
「そうか」
頷いた彼の目は、あの不気味な輝きなどなかった。ただしっかりと光を反射して、まっすぐに氷河を見ている。
「あれは、なんという踊りなんだ?」
「ちがう。あれは、Positions──」
「何?」
「え、と……、あれは、踊りじゃなくて、基本のかたちを、ひとつずつ、しているだけ。……あれを組み合わせて、振り付けをつくる」
「へえ。じゃあ、本当に武術の型と同じだな」
武術も、組み手の時は型通りの順番には行かないから、と一輝は割と興味深そうに頷いていた。
「おもしろいか?」
そう一輝に問われ、氷河は、すぐに答えることが出来なかった。
──面白いか。
ただやれと言われたから、やっている。
それだけだと思ったがしかし、そう問われて氷河の頭に浮かんだのは、母にレッスンを受けていたかつての日々。
氷河が完璧なポジションをとる度に、ナターシャが微笑む、あの光景。
「……うん」
そして母が微笑む度に、氷河も笑った。
「おもしろい。……たのしい」
「そうか」
そう言うと、一輝もまた、笑った。あまり子供らしくない、なんだか大人のような笑い方だったが、氷河はどうしてかホッとした。
「おまえ、けっこうよく喋るじゃないか」
「発音、おかしくないか」
「時々違うが、ふつうだ。ちゃんとわかる」
──日本に行っても、氷河に、沢山お友達が出来ますように
そう言って、ナターシャは氷河に日本語を習わせた。
習っている時はそんな事はどうでもよくて、ナターシャが喜ぶからと、ただそれだけでやっていた日本語。
彼女は、知っていたのだろうか。星矢が、一輝が、紫龍が、瞬が、彼らが、──沢山の、氷河のような子供たちが、この日本にいる事を。
「……一輝の、コ、コブジュツ、も、見て、みたい」
「いいぞ。毎日やっているから、好きな時に見に来い」
だがいま、習っていてよかった、と、氷河は心から思った。
そして氷河は、また一輝とともに廊下を小走りに駆け、食堂まで辿り着く。
すると、ちまちまと食べる瞬の隣で星矢が口の周りを食べかすだらけにしながらがっついており、そしてその横で、星矢が飛ばす飯粒をさっと片付けたりしながら、紫龍が黙々と食事を取っていた。
向かいには、手のつけられていない食事のトレイが、ちゃんと二つ。
「遅かったな」
「少し話し込んでしまった。悪い」
「構わない。ちょっと、星矢からデザートを守るのに苦労したけど」
ぎくり、と星矢の肩が跳ねる。一輝がぎろりと星矢を睨んだがしかし、氷河はただ星矢と、そして自分の分のトレイの端に置いてある、赤い色のいちごゼリーを見比べた。
「……あげる」
「えっ」
ひょい、と、ゼリーのカップを差し出してきた氷河に、星矢が顔を上げる。茶色い丸い目は、なんだか子犬に似ていた。
「い、いいの?」
「いい」
そう言って、氷河は自分より小さな星矢の手のひらに、自分のゼリーを置いた。
今度は星矢が、手の中のゼリーと氷河を見比べている。その様子を見て、紫龍が首を傾げた。
「なんだ、好きじゃないのか? これ」
「……ちがう」
大好物というわけでもないが、嫌いではない。むしろ好きな方だ。
「……おとうと、だから」
「へえ」
感心した様子で、紫龍が笑う。黒い目は、あの男と同じ。しかし紫龍の目はすっと涼やかで、柔らかく細まっている。
すると、ゼリーと氷河を見比べていた星矢も、やがて照れくさそうに、しかし屈託なく笑った。
「ありがとな、氷河!」
「ん」
ゼリーをがっつく星矢の頭を撫でたが、今度は振り払われなかった。
光政は、あれほど母が焦がれた父は、己を省みなかった。
興味の無かった父、興味の無かった日本。──だがそこには、氷河と同じ、日本語の、漢字の名を持った兄弟たちがいた。
そのことに、氷河ははじめて、はっきりと笑みを浮かべたのだった。
そして、数ヶ月後。
氷河たちは、自分らがなぜ城戸の屋敷に引き取られたのかというその理由を知ることとなる。
──聖闘士。
世間では架空の存在だといわれているそれに命がけでなれという命令に、子供たちは総じて戸惑った。
──しかし、氷河は違う。
ここに来た時はただ冷やかに、そして星矢たちに、兄弟たちに会ってからはやや穏やかになったアイスブルーの目が、熱を帯びる。
聖闘士になれば、あの冷たい海に沈んでしまった母を引き上げられるのだと、あの日氷河は耳にした。見知らぬ男たちの言葉はその日からずっと氷河の耳に残り、聖闘士という言葉は、いつ如何なる時も氷河の内に在るようになった。
その聖闘士になるべく自分は日本に呼び寄せられたのだと知った時、氷河の目に、強い意思が宿ったのだった。