4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
<3>
 氷河がくじで引き当てた修業先は、なんと東シベリアだった。

 もはや運命としかいえない結果を示すくじの紙を握り締め、氷河は背筋を震わせた。兄弟たちが恐怖で震え上がる中、氷河のそれは完全に武者震いであった。

 東シベリア、と言っても、範囲は広い。連邦管区の一つである極東連邦管区で定義するにしても9区画あり、ロシア全体の約三分の一程度の面積となる。その代わり、総人口は全体の4.9%であるが。
 そして、氷河が向かったのは、マガダン州。面積の4分の3を森林ツンドラが占め、コリマ山脈が走り、オホーツク海に面する、ロシア連邦のオーブラスチ(地方行政区分の呼称)である。

 比較的後の方で出発した氷河は、グラード財団の飛行機に乗り、全部で約16時間程度かけて、その地に飛んだ。パスポートなど一切作る事の無い、非常に胡散臭い旅立ち。しかし幼い氷河はそんな事に思い至る事すらなく、ただひたすら母が眠る地への帰還に胸が一杯だった。
 そして、懐かしい極寒の地を踏んだ氷河を迎えたのは、何やら人相の悪い、黒ずくめの男たちだった。
 飛行機が着陸したのは正規の空港ではなく、大平原のど真ん中で、大きなソリが用意されていた。にやにやと笑ってそこに氷河を乗せようとする彼らに、氷河が僅かに顔を顰めた、その時。

──ゴウ!

 と、突風が吹いた、と、氷河は感じた。そしてそれは、おそらく一般人が感じる事の出来る範囲でいうなら、正しいのだろう。……聖闘士の所業は、時に一般人の目には自然災害としか映らない場合もある。
 だが、咄嗟に閉じた目を氷河が開けたとき、その目前にあったのは、雪でも風でもなかった。

(──赤い)

 他に何もない真っ白な雪原の中で、真っ赤な髪が、目の前で翻っていた。

「暗黒聖闘士だな」
 低い声が、雪原に静かに響く。その声で、氷河は、目の前の赤い長い髪の持ち主が、青年であることを知る。もしかしたら、少年かもしれない。
「そのソリに乗せている子たちも、解放させてもらう」
 赤い髪に阻まれて、氷河には、何も見えない。
 男たちがぎゃあぎゃあと喚いていたような気はするが、不思議な事に、赤い髪の彼の声はまるで頭の中に直接響いているかのようなのに、他の音はすっかり雪に吸い込まれてしまっているようだった。
 彼は、言った。

「お前たちは、氷漬けだ」

 ──真っ白な平原に、真っ赤な髪が翻るのを、見た。



 それから先は、よくわからない。
 氷河は彼に掴み上げられてあのソリに乗せられ、いつの間にか、暖かい家の中に居た。
 その家は小さい赤ん坊のいる家で、赤い髪の彼はその一家に氷河と、そしてソリに同乗していた他の子供たちを一緒に預けると、いつの間にかいなくなってしまっていた。
「まあ、まあ、まあ、かわいそうに」
 失敬な話だが、ナターシャを見慣れた氷河からすれば幾分か以上太めの女性は、氷河たちを手厚く世話した。風呂に入れ、暖かい食事を振る舞い、何か不満は無いかと細かく聞いた。
 城戸の施設よりも良い待遇に氷河は何一つ不満は無かったが、ソリに同乗していた他の子供たちは、そうではなかったらしい。ソリに乗っていた時から一言も話さなかった彼らは、一様に、何かにひどく怯えていた。

 彼らは多分、誰かに何かひどいことをされたのだ、という事だけ、氷河はぼんやり理解した。
 彼らはいくつだろうか、どこから来たのだろうか。何か声をかけた方がいいだろうか。
 ふと星矢たちの顔を思い出しながら、氷河は踞る彼らに声をかけてみた。だが彼らはびくびくと震えるばかりで、氷河の顔を見ようとはしない。見かねた女性が、気の毒そうな顔で彼らを別室にやってしまった。
 ありがとうね、ヒョーガ、と言われて、女性から頭を撫でられた。

 だが次の日、厳めしい顔をした警察官たちがぞろぞろとやってきて、そして子供たちは、同じくやってきた救急車でもって、遠くの、大きな病院に連れて行かれてしまった。
 精神的にも肉体的にも彼らが限界なのはあきらかであったので、当然の処置であろう。だがそのおかげで、それっきり、氷河はとうとう、彼らの顔も名前も知らないままになった。

 そしてなぜか氷河だけが、暖かい家に残された。
 健康で、何かに怯えもしていない氷河は、ただ毎日暖かい食事をして、日課のバーレッスンをこなし、そして何もしないのも何なので、その家の赤ん坊の遊び相手をした。
 まだ言葉もろくに話せず、はいはいをするような小さな子供と触れ合うのは初めての事だったが、年長者は歳下の面倒を見るものだ、と学んだ氷河は、三日後にはおむつも替えられるようになり、女性を喜ばせた。彼女曰く、亭主よりも甲斐性がある、らしい。
 赤ん坊の名前は、ヤコフといった。

「あの赤い髪の人は、誰ですか」
 今の状況が把握できていないながらも落ち着いた氷河は、ヤコフを膝に乗せて遊ばせながら、彼の母に聞いた。母国語、と言っていいはずのロシア語であるが、なんだかぎこちないような気がして不思議だった。

「聖闘士ですか」

 そう聞くと、彼女は、言ってもいいのかしら、と、もう言ったも同然の事を言ってから、言った。──そうですよ、と。






「どうすべきだと思う」

 氷河がヤコフらの家で聖闘士との初邂逅に胸躍らせている頃、マガダンよりも北東、チュクチ自治管区の更に最北端に近い小屋の中、癖のある短い銀髪の青年と、まっすぐな赤い髪の少年が向き合っていた。

「どうするもこうするも、さっさと施設に送っちまえ」
「ロシアは、特にこっち、東はろくな施設が無い」
「他所の国で探せばいいだろ」
「……慣れ親しんだ土地から、大きく離すのはどうかと」
「じゃあ、あの夫婦に頼めよ。けっこう金持ってそうだし、懐いてんだろ」
「ヤコフが生まれたばかりの家だ。それでなくても、善意に甘えて何度も面倒をかけている」

 氷河が降り立ち、そして自覚なく保護されたマガダンは、ソビエト連邦時代の1932年に流刑者の強制収容所として建設された都市である。スターリンの時代には、流刑者はまずインディギルカ号などの護送船でマガダンに送られ、強制労働に従事するべくここからシベリアの各地へ送られていった。
 そんな背景は、20世紀の今では、殆ど表には出ていないように見える。
 しかし裏では、具体的に言えば暗黒聖闘士たちに取っては、未だそのことは永久凍土のごとく根付いた、いやむしろ地盤そのものなのだ。強制収容所時代は、脱走した収容者が暗黒聖闘士になることがあり、その慣習が今も続いてきており──そして、今日終わった。彼らの手によって。

 これまでも何度か尻尾を捕まえては来たが、その度にその尻尾を切られ、本拠地を見つけられずに居た。
 その都度保護した、候補生という名目の人身売買被害者である子供たちの一時預かりのボランティアに協力してくれているのが、ヤコフの両親であるあの夫婦だ。奥方の父は、元聖闘士資格持ちの雑兵である。引退後はここの鉱山で見事そこそこのヤマを当てて、子供を作り、大往生。聖闘士というろくでもないものと関わったわりに、幸せな一生を送った珍しい人物である。

「ああめんどくせえ。いっそ日本に送り返すか」
 寒さを凌ぐ為の強い酒をあおりながら、本当に面倒臭そうに、銀髪の青年──デスマスクが言う。その言葉に、赤い髪の少年──カミュが顔を顰めた。
「あんな仕打ちをした所に、また送り返すのか!」
「あのなあ、うちにはタダ飯食らいのガキを養う余裕なんかねえんだっつの。お前が個人的にお前の金で育てるってんなら別にいいけど、お前の歳じゃな。ていうか稼げるんならこっち寄越せ、とっとと育って扶養者になってくれ」
「……聖域はそんなに貧乏なのか」
「そうだよ。苦労してるんですよオニイサンたちは、お前ら被扶養者と違って」
 ふん、と鼻を鳴らして椅子にふんぞり返ったデスマスクに何も言い返せず、カミュは俯いた。

 確かにデスマスクの言う通り、カミュはまだ14歳だ。
 聖闘士、しかも黄金聖闘士である彼であれば実際に働く事は造作も無いが、年齢詐称をするならまともな所では働けないし、そもそも黄金聖闘士に、個人的にちまちま小金を稼ぐ暇など無い。
 貧乏な上に暇なし、それだけでなく、その苦しい状況を教皇の側近としてやりくりしているデスマスクらに、カミュが頭を上げられるはずが無かった。

「だが、しかしな、あの子は他と違って気もしっかりしているし」
「しっかりしてるんならなおさらどっかやっても大丈夫だろうよ。だいたいお前は、もうガキひとり受け持ってんだろうが!」
 アイザックのことだ。ガラの悪そうな客と入れ違いになった彼は、ランニングの課題を与えられ、今頃雪原をせっせと走っているのだろう。

「というわけで、ウチではもうこれ以上ガキは飼えません! 元いた所に戻してこい!」
「ちゃ、ちゃんと世話はする!」
「……何ごっこだ、おまえら」
 バタン、と突然ドアを開け放って小屋に入ってきたのは、膝下まであるロングのダウンジャケットにスポーツ用の遮光サングラスをかけ、肩に黄金の大きな箱を背負った、かなり短い黒髪の青年──シュラである。
「寒い! 閉めろ馬鹿山羊!」と、デスマスクが喚く。

「やはりおまえらのどっちかが行けばよかったんだ」
「何が」
 山羊座の聖衣を収納したパンドラボックスを下ろし、ドカ、と空いた椅子に腰掛けたシュラは、着込んだジャケットをばさりと開けた。
 デスマスクが「あーあ」と声を出し、カミュが顔を顰める。黒っぽい服でもすぐわかるくらい、そこが血まみれだったからだ。無論、返り血である。
 このザマだから死体からこのジャケットを剥ぎ取って着込んで来たと言うが、一般人に見られたら、問答無用で即通報されるナリだ。

「奴らの息の根を止めるのより、その後始末をするのにかなり時間を食った」
 鉱山の強制労働者の気持ちがわかった、と、シュラはサングラスをとって肩を回した。
 どうやら彼は、あの山奥の暗黒聖闘士の本拠地で、延々と凍った大地を掘り返しては証拠を隠滅していたらしい。
「いや、証拠隠滅は自然死でも凍死でもやんなきゃだろ。あージャンケン勝ってよかった」
「それはそうだが、そこら中血まみれで、雪に血が目立つ事この上ない。赤が景色から消えるまで馬鹿みたいに手間を食った」
「あーそういう事」
「俺も何か考えんといかんな。……カミュ、どうした」
 顔を顰めて黙り込み、しかしどこかぼんやりしたようなカミュに、シュラが声をかける。カミュははっと顔を上げた。

「……いや。何でもない」
「あーそうだ聞いてくれよ。コイツ、あのガキ面倒見るとか言いだしやがって、金出すの誰だと思ってんだって話だよ」
 器用に椅子を傾けて船を漕ぎながら、デスマスクが言う。
「あの、グラード財団からの子供か? ブロンドの、ヒョーガ、とかいう」
「そうそうそれそれ。ただでさえ凍気使いは才能第一だっつーのに、なんでわざわざ小宇宙にも目覚めてねえガキ養わなきゃ──」
「あの子は、もう小宇宙に目覚めている」

 デスマスクの言葉を遮って言ったカミュのその発言に、二人の年長者が軽く目を見開く。

「……聞いてねえぞ」
「私も、昨日様子を見に行って気付いたのだ。今日それを言おうと思って、もう身元確認もしてある」
 そう言って、カミュは隣の部屋から、長い紙の束、印字済みのFAX用感熱紙を抱えて持ってきた。

「ヒョウガ・キド。認知されていないが、グラード財団総帥・城戸光政の実子だ」
「……あの親父、孤児だけでなく自分の子供にまでこの仕打ちか」
 シュラが、ただでさえ鋭い目を顰める。孤児として扱われているので彼は知らないが、実際は全員が城戸光政の実子である、と知ったら、彼はどういうリアクションをとっただろうか。

「母親は、元ロシアバレエ団のナターシャ・トゥマニシヴィリ」
「……もしかして、プリマの?」
 そうだ、と答えが返ってくると、質問を投げかけた妙に博識な銀髪の男は、ヒュウ、と軽薄な口笛を鳴らした。シュラが首を傾げる。
「有名なのか?」
「色んな意味でな。最年少でバレエ界一の難関、ロシアバレエの頂点に立ち、そして人気絶頂、30にもならない歳でいきなり引退。お姫さまだの妖精だのが得意な、清楚可憐な美人だぜ。シュラくん好みなんじゃない?」
「バレリーナって痩せ過ぎじゃないか?」
「まあそういうモンだからな。やっぱ女はおっぱいだよなあ」
「胸というか、全体的に多少肉付きがいい方が」
「続けていいだろうか」
 一気に下賎な方向へ脱線した十代後半の年長者二人を、まだ若干潔癖さの残る14歳の少年がじと目で睨む。
 シュラはするりと目を逸らし、デスマスクは悪びれず「何だよ、ノリ悪いな」と唇を尖らせ、頭の後ろで手を組んだ。

 カミュは一度息をついてから、再度紙に目線を戻す。
「氷河が6歳になると、今まで一切音沙汰の無かった城戸光政から召喚がかかり、ヒョウガは母親である彼女とともに日本に向かった」
「うーわ、明らかに頭数狙い。金持ちジジイの愛人になった末に、気の毒なこった」
「……結局、彼女は日本行きの船が事故に遇って、死亡する」
 印字された文章をカミュが重々しく読み上げる。シュラは無言、デスマスクは唇を尖らせて、「気の毒なこった」ともう一度言った。
「ここからそう遠くない、というか、すぐそこの沖合だ。ヒョウガは運良く救助が間に合って助かり無傷だったが、目の前で船は沈没。母親は助からなかったし、潮流の問題で引き上げも困難なため遺体も上がっていない」
「それが原因か」
「おそらくは」
 シュラの問いに、カミュは静かに頷いた。

 後天的な小宇宙の目覚めの多くは、大きなショック、戦争体験や大事故の遭遇など、生死の危険を伴うような衝撃体験がきっかけになる事が多い。
 かつての聖域はそれを修行の名目で人工的に候補生にふっかけて目覚めを促すという、まさに生きるか死ぬかの非効率的な方法をとってきた。他に方法を知らなかったのだから、仕方が無い、とも言えるが。

「しかし、まあ、小宇宙に目覚めているのならいいだろう、……というか、むしろぜひ候補生として欲しいといっていいんじゃないのか? 小宇宙に目覚めさせるのが一番時間を食うのだから」
 シュラがそう言ったので、カミュがその通りと頷く。デスマスクが、んー、と唸った。
「まあ、そうだけどな。うん、候補生は決定だ。だがカミュ、わざわざおまえんとこで」
「ヒョウガは、この場所に戻ってきた」
 またもカミュは、デスマスクの言葉を遮った。
 言葉を遮られたからか、それともカミュの発言の意味が不明瞭だったからか、デスマスクが不可思議そうに目元を顰める。赤い目が表情豊かに、左右非対称に歪んだ。

「聞いているだろう。グラード財団は彼らにクジを引かせ、それで送る先を決めた」
「ああ」
「子供は百人。それぞれが全く違う送り先ではないにしても、何十という送り先があったはずだ。だがヒョウガは、母が眠るこの地に帰ってきた。──これは、偶然ではない」

 凍気使いは、基本的な小宇宙の闘法とはまた違う戦い方をする戦士である。原子を砕くのではなく、動きを止めて凍結させるという特殊なやり方。
 その特性故に、ただ小宇宙に目覚めるだけでは、凍気使いにはなれない。よって、その資質は超能力、特にサイコキネシスに大きく関係しており、“仁”の力がものをいう。

「何十という確率から、しかもあるかないかもわからない目的地を引き当てる。これは偶然ではないだろう」
「……確かにな」
 この世に、偶然というものは無い。運命とは天命ではなく、意思が引き寄せる因果なのだ。意思とはつまり小宇宙であり、それが強ければ強いほど大きな結果をもたらす。時に、奇跡と言えるほどの。
 デスマスクは数秒じっと考えていたが、やがて、「よし」と、行儀悪く立てた膝を叩いた。
「いいだろ。──水瓶座アクエリアス・カミュ。ヒョウガ・キドの後見となり、白鳥座キグナスの聖闘士候補生として監督する事を依頼する」
「いいのか」
「“了解”だ、アクエリアス」
「……了解」
 仕事なのだからきちんとしろ、という意味の勧告。軽くため息をつきながら注意したシュラに、カミュは背筋をびしりと伸ばし、素直に従った。
「凍気使いは貴重だからな。聖衣を得られなかったとしても、使い道は多い。しっかり育てろよ」
「了解した」
 真剣な表情で頷くカミュに苦笑しつつ、年長者二人は席を立った。



「あーまたガキが増えんのか」
「そうだな。しかし、そんな金あったか?」
「ねえよ!」
 やけくそ気味な返答とともに、ぶはあ、と、煙草の煙と白くなった息が一斉に吐き出され、まるで蒸気機関のように盛大なものになった。
「老師んとこは老師が持ってくれっからいいんだけどな、あのヒト自分でもう一人子供育ててるし」
「確か、女の子だったな。アフロディーテが行ったところも、グラード財団のから一人追加だろう」
「アンドロメダな。でもまあダイダロスはやりくり上手いし融通も利くから」
「今回のグラード財団騒動のぶんだけでも、あと、聖域、アルジェリア、タンザニア、フィンランド、カナダ、リベリア、あとはどこだったか」
「……ああ……」
「……仕送りが大変だな」
 それは候補生育成の為の必要経費ではあるのだが、実際足りないそれを稼いでくるのは自分たちなので、仕送りの感覚のほうが強い。

 二人は、遠い目をした。
 何で自分たちがこんな事を、と愚痴を言う気ももう無い。もはや最初の数年で言い尽くしたからだ。ただ、またか、と思うだけである。
 これが貧乏というものだ、と二人は既に十分過ぎるほど悟りきっており、無い金を稼ぐという行為は、既にルーチンワークの感覚ですらある。

 それに、人間とは状況に順応するもので、あまりにも金がないおかげで、金がなくても色々楽しむ方法を、彼らは必然的に身につけた。例えば、痩せ過ぎていない全体的に肉付きのいい、出来ればおっぱいの大きい娘と色々して遊ぶとか。
 二人は今年、18歳だ。複雑ながらも一生で最も単純な年頃、つまり、そういうことをしていれば、割とそれなりに気は紛れる年齢だった。もちろん、金を払わずそういう事をする為に色々と努力をしたが、まあそれは貧乏でなくても男なら誰でもする努力だろう。
 それに、女の引っかけ方と金の稼ぎ方をしっかり覚えると、自然と、男としての自信が精神的な余裕に繋がる。努力の甲斐あって、二人は幸いにも、金がない事に対しては割と不満を感じていない。稼ぎ方は覚えたのだから、時期がくれば己の為の金を稼ぐ事も出来るだろう、と二人は割と楽観的に考えていた。

「それはそうとあいつ、大丈夫か」

 雪を踏み固めた道を歩きながら、シュラが言った。「なにが」と、デスマスクは前を見たまま答える。
「カミュは、聖闘士がどういうものなのか、きちんと理解していない」
「まあ、そうだな」
「ただ子供の面倒を見るのと、聖闘士にする為に鍛えるのは違うのだということを、あいつはまだ全くわかっていない。……無理も無い事なのかもしれないが」
 先程カミュにまるで犬猫を拾った子供にするように言ったのは殆ど悪ふざけだが、実はちょっとした皮肉でもある。

 黄金聖闘士候補生、通称“黄金の器”は、殆どの場合、先天的に目覚めている小宇宙が制御し切れず暴走し、一般社会で問題になっている所を招集されてくるのが殆どだ。
 カミュもその例に漏れず、フランスから連れて来られた。

 持て余した小宇宙の制御法を教えてもらい、そして思い切り力を振るっても構わない、聖域という場所。
 だから、白銀以下の候補生と違って、黄金聖闘士は、聖域に連れて来られた事を心地よく感じ、感謝すらしていることも珍しくない。よって、聖闘士になる事にも抵抗がないのだ。デスマスクのように、不本意に連れて来られる“黄金の器”は珍しい。
 だが、だからこそ、そういう典型的な黄金聖闘士は、聖闘士というものがどれほど重い生き方なのか、子供であればあるほど理解できていない場合が多い。むしろ、血反吐を吐き、死ぬ思いをして、泣きながら、辛さの極地の果てに聖闘士になる白銀以下のほうが、そのあたりはしっかり叩き込まれている。

 シュラとて聖域に来る事自体には全く抵抗がなかった類なので、サガやデスマスク、アフロディーテという存在と、そしてあの出来事が無かったら、いつまでもカミュのようだったかもしれない、という自覚はある。

「あのままだと、あとで痛い目を見るぞ」
「カミュが? ガキどもが?」
「どちらもだ」
「ふん」
 白い煙が、凍える大気に溶けて消える。
「放っとけよ。聖闘士の師匠ってものがどういうもんか、カミュもそのうち分かるだろ。そもそも、あの殺しもできねえ甘ったれに、ガキを折檻するなんて出来ると思うか?」
「無理だな」
 シュラは、きっぱりと言った。

 凍気使いのカミュの戦いは、斬撃というどこまでも直接的な力を振るうシュラの目から見れば、どうしようもなく中途半端だ。
 対称を凍り付かせる凍気使いの戦法とは本来、凍った敵を小宇宙の闘法にて原子から破壊する、という徹底的なものである。
 しかしカミュは敵を凍り付かせた後、あとは何もしない。一般の科学や医療を用いるならもう少し技術が躍進する必要はあるが、しかるべき手順を踏めば蘇生が可能というその状態で、カミュは敵から手を引いてしまう。

 不殺、そのやり方を、今ではカミュの親友のミロもまた、誓いまで立てて貫こうとしている。
 他の聖闘士が、特にシュラやデスマスクが個人的な感想を言うならば、それは甘いの一言に尽きる。戦闘不能にする、という意味では凍結も精神破壊もかなりの効果があるので、今の所は好きにさせているが。

「俺としては、師匠をやるってことで、カミュも聖闘士ってものを理解する、と、いいな? みたいな?」
「……ふむ」
「あんまり仲良しこよしだけしてたら殴りに行くけどな、さすがに。まあ大丈夫だろ、親がなくてもガキは育つんだ」
 幸いというか、凍気使いの候補生として、アイザックも氷河も、カミュに預けられる前から小宇宙に目覚めている。生まれた時から小宇宙に目覚めている“黄金の器”であるカミュには、そういう子供の方が育てやすいだろう。

「それに、あのプリマの息子なら、本当に得るかもしれんしな、キグナス」
「どういう意味だ?」
「ナターシャ・トゥマニシヴィリの一番の当たり役を知ってるか?」
 首を傾げたシュラに、無駄に博識な蟹座の男は、煙草をくわえてにやりと笑いながら振り返る。

「──『白鳥の湖』の、オデットだ」






 二人が出て行ってから、カミュは新しい生徒を迎える予定を頭の中で組み立てる。アイザックにも、弟分ができることを話さなければならない。
 アイザックもまた、既に小宇宙に目覚めているが故に、凍気使いの聖闘士候補生として取り立てられた子供だ。小宇宙に覚醒したお陰で一般の子供とは比べるまでもなく身体は丈夫で精神年齢が高くしっかりしているが、まだまだ十にもならない子供である。

(──子供)

 氷河の事が書いてある用紙、その父母の名がある欄を見ながら、カミュはふと考える。
 己が誰から生まれたのか、聖域に招集されるまでどこに居たのか、カミュは知らない。……覚えていないのだ。
 フランスから連れて来られた、という事は聞いているのだが、例えばそれは、自分が生まれた産院の名前を教えられるような、確かに自分の誕生に関する事なのに全く実感のない情報だった。

 そしてそのことを、カミュは悲しんでもいないし、詳しく知りたいとも思わない。むしろ覚えていなくて良かったと思っている。
 そう、正確には、──カミュはその記憶を、思い出したくない。なぜ思い出したくないのかも思い出したくない、カミュが把握しているのはそれだけだ。

 カミュは聖域に招集された頃、小宇宙、すなわち凍気のコントロールが全く出来ていなかった。感情の乱れですぐに小宇宙が乱れ、黄金の器たる強大な小宇宙が、周囲に多大な影響を及ぼしてしまう。
 それは先天的に小宇宙に目覚めている“黄金の器”と呼ばれる黄金聖闘士候補生としてはとてもよくあることだったが、しかしあの十二宮でも、暴走したカミュの凍気は皆を困らせた。だが、あの十二宮で“困らせた”のだから、一般社会では大災害にもなるだろうことは、想像に容易い。

 カミュは、ふと、窓から外を見た。
 まだ真冬でもないのに、一面の銀世界。カミュがいくら凍気を迸らせようが、ただいつもの風のひとつにしかならない世界。
 それはカミュの力が自然現象レベルであるという事でもあるが、雄大な大自然の中では、黄金聖闘士の力も飲み込まれてしまう、という事でもある。

 それはカミュにとって、とても心地のいい事だった。
 己と同じく強大な力を持つ仲間たちが要る聖域もまた、外社会と比べれば随分と懐の大きい場所だ。しかしそれでもやはり、地中海気候のギリシアということもあり、氷点下の気温はあり得ない事で、雪は降らない。
 その点、ここシベリアでは、年中常に雪が積もって氷柱がぶら下がり、気温はマイナスがついていない事の方が珍しい。つまり、カミュが何かしなくても、最初からそういう状態なのだ。
 それは、普通、人間にとっては過酷な場所。だがそれはカミュにとって、とてもとても居心地のいい事だった。だからカミュはここ東シベリアに派遣されてからというもの、出来うる限り聖域ではなくこちらで過ごしている。

 そんな彼なので、“聖闘士になるのが辛いこと”という意識は、彼の中に一切無い。
 聖闘士になる為に聖域に招集されてから彼は落ち着けるようになったし、時にはっきりとした幸福さえ感じられるようになった。
 小宇宙に目覚めていない者がその目覚めを向かえるまでの大変さは、“下”の候補生たちを見て知っている。だが氷河は既に小宇宙に目覚めているのだから、普通に一般の施設に入れるよりも、聖闘士になった方が幸せになれる。自分のように──と、カミュは何の疑いもなく考えていた。……これが、シュラに、聖闘士というものを全くわかっていない、という事なのだが。

 それはそれとして。
 ともかく、カミュにとってそんな快適な状態の中でひとつだけ、気に入らないことがある。

 ──赤い、髪。

 心理学者だの文学者だのにもし分析させたなら、未だ14歳のカミュがこの極寒の世界に感じる心地よさは、元々父母に求めるべき類のものなのかもしれない。感情を爆発させても動じず、全体で覆ってくれる大きな揺りかご。
 そして実際に、発した凍気は、元々の風吹に飲み込まれて消えてしまう。──だが、赤い髪は、そうではない。

 ──雪に血が目立つ事この上ない

 シュラが言ったその言葉に、カミュはうんざりするほど実感がある。
 アイザックは少し薄い色のブロンドで、雪景色の中に立つと、雪うさぎよろしく色が紛れてしまう。だが真っ赤な髪はむしろ雪の中でどこまでも目立ち、どんなに遠くにいても、赤い点はポツリと目につくのだ。
 そのことが、カミュの心にも、決して白雪に紛れない赤と同じく、ぽつりと、しかしずっと染み付いている。

 だがそれを解消しようにも、カミュはこの赤い髪の何が気に食わないのかわからないし、思い出したくもない。短く刈ればいいのかもしれないが、赤い色にあまり触りたくない上に基本的に無精者なので、目に入る前髪だけぞんざいに短く切って、後は伸ばしっぱなし、というスタイルをとって、もう数年間が経過している。

 カミュはおそらく生まれ故郷であろうフランスで、おそらくこの小宇宙が原因で、おそらく両親かそれに近い人物によい思いをさせず、そしておそらくカミュ自身、よい思いをしなかった。
 また、この赤い髪が、一連のそれらに関わっている。カミュが把握しているのはそれだけで、そしてそれ以上深く把握する気もさらさらなかった。

 ふう、と、カミュがひとつ息をついたとき、小さな、しかし元気そうな足音と気配が小屋に近付いてきた。

「先生!」

 バタン、と大きな音を立てて、薄い金髪の子供が小屋に転がり込んでくる。ここに来て一年ほどになる、アイザックだ。歳の割にしっかりしていそうな顔つきの少年は、きりっとした眉を寄せて、言った。
「カミュ先生! さっき外ですごい怪しい二人組の男が歩いてて、一人は多分血まみれでした! 通報したほうがいいですか!?」
「……あー」
 その二人がうちの経済状態を支えているのだ、とすぐには言いだせず、カミュはただそっと、アイザックの頭を撫でた。
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BY 餡子郎
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