4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
<4>
おまえの先生の所へ行くよ、と言われたのは、氷河が日本からここにやって来て、十日も経った頃だった。
おまえを正式にお弟子に迎えると連絡が来たんだ、と言われたその時、氷河はきょとんとし、そしてホッとした。
というのも、ここに来てすぐ修行が始まると思っていたので、ここ十日、何不自由無い生活をさせられてはいたが、そのぶん氷河は不安だったのだ。このまま聖闘士になれないのではないかと。
だから聖闘士になる為の訓練がいよいよ始まるのだという安心感と期待、そして自分は聖闘士になる気満々でここに来たし、またグラード財団も死んでも聖衣を得ろといっていたというのに、先方は氷河を本当に弟子に取る事すら未定であったのか、という事に対する拍子抜けた驚きであった。
そして二日後、ヤコフの父が操るソリに乗って、氷河はそこにやって来た。
季節は、春。
ロシアの中でも東シベリアは、広大な土地と反比例して人口が少ない。それほど自然の脅威が厳しい土地なのだ。
そしてヤコフらが住むのは、東シベリアの中でも最も北東にあるチュクチ自治管区にある、コホーテク村。そして、氷河が聖闘士候補生として過ごすことになると言う所は、そこからそう遠くない所にぽつんとあった。
チュクチ自治管区は、ロシア全体で見ても冬の寒さは極めて厳しく、夏は短い。秋から春にかけては、流氷の影響を受ける。見渡す限りの凍てつく地面、そして北側には中央シベリア高地につながるコルィマ山脈やチュクチ山脈があり、また北極海の一部である東シベリア海に面した所であった。
延々と、人の気配どころか家一軒すら見えない所を、犬が引くソリに乗って進んだ先。春の流氷が漂う海に面した崖のような氷の大地の際に、彼は立っていた。
(赤い……)
地平線まで続く氷の世界の中、彼の赤い髪はひどく目立った。
家の影すらない大自然の中、ぽつんと一人、何の荷物も持たない軽装の人間が立っているという不自然さも目立つ原因ではあったが、しかしそれ以上に、彼の赤い髪は目に鮮やかで、遠くからでもすぐ、あの時の赤い髪の人だ、と氷河はわかった。
氷河を連れて来たヤコフの父は、「こんにちは、先生」と、にこやかに、そして慣れた様子で挨拶をした。
彼は、若かった。
もちろん氷河より一回り以上は年上だろうが、おそらく20歳にもなっていないのではなかろうか。年齢だけでいえば、彼もまた未成年の子供といわれるような年齢だ。そんな彼が、妻も子供も居るような男に「先生」などと呼ばれるのは違和感がある──そのはずだ。
しかし、確かに年齢は若いけれど、人間として、いや生き物として、彼はヤコフの父よりも上の所にいるのだということを、氷河は感じた。それは本能的な感性が捉えた真実であり、また小宇宙に目覚めているが故の正しい把握だった。
彼はヤコフの父と一言二言交わした後、氷河を見た。
どきり、とする。
彼のその目は、髪ほど赤くはない。赤っぽいが、茶色と言っていいような程度だ。一般的であるはずの色をしたその目はしかし、髪以上の圧力を氷河に感じさせた。
それは目こそが小宇宙を最も感じさせる身体器官であるからこその感想なのだが、氷河はまだそれを知らない。
「じゃあ先生、おれはこれで」
「ああ、ありがとう」
「氷河、しっかりな。がんばって聖闘士になるんだぞ」
「はい、どうもありがとうございました」
善良な男は、うんとひとつ頷いて、慣れた手綱捌きで犬を操り、元来た道を引き返して行く。
薄い色の影が割とすぐ雪景色に紛れてしまったその時、まったく景色に溶け込まない赤い髪をした彼は、言った。
「……今度聖闘士になる為に日本から来た氷河というのは、おまえか……」
「はい」
氷河は、こくりと頷く。見た目の年齢より落ち着いて低い声は、彼を「先生」と呼ぶ事を納得させる重さがあった。
「……上着を脱げ」
数秒じっと氷河を見ていた彼は、いきなりそう言った。
「程度を見る。上着を脱げ、セーターも」
この極寒の地で、着込んでいるものを脱げというのはもはや暴力を与えるに等しい。身体に害を成す、いや、命に関わる、という意味で。
しかし氷河は、あっさりと素直に、裏地が毛皮になった分厚いコートに手をかける。そして言われた通りにそれを脱ぎ、続いてその下に着ているセーターも脱いで、足下に丸めて置いた。
それは、師となるのであろう目の前の彼が、彼が命じるように、袖すらないシャツとズボンのみしか身に纏っていないからだった。どちらも厚手だが、それは防寒の為ではなく、単に丈夫さを追求した故の生地だ。
彼と同じく袖のない肌着のシャツと黒いズボン姿になった氷河は、黙って立つ。赤い髪の彼は、またじっと氷河を見下ろしてから、言った。
「寒いか」
「はい」
「つらいか」
「いいえ」
それは、強がりではなかった。海には流氷が流れているのが見えるし、それに相応しく外気は冷たく肌を刺す。確かに寒い、しかし、氷河は辛くはなかった。
(……ふむ)
そんな氷河の様子を見て、赤い髪の青年──カミュは、氷河の小宇宙が確かに目覚めている事を確信する。正しく寒さを感じていながら震えず平然としていられるのは、彼が小宇宙によって身体を正しく強化できているからだ。
「寒いのに、何故素直に服を脱いだ?」
「……先生も、着てない」
どうやら氷河はかなり素直な性格をしているようだ、とカミュは思った。
この環境で服を脱げという命令は、なかなか聞けない。アイザックもここに来た時に同じことを言ったが、彼は躊躇った。ここは東シベリアの北端、服を脱げば死ぬ、という認識を、当然の常識として持っていたからだ。
だが氷河は、すぐに上着を脱いだ。それは先入観を持ちにくい、かなり素直な性格だということである。そしてそれは、聖闘士になる訓練を受けるにあたって、なかなかに有利な事だ。小宇宙という、人類の殆どにとって失われた力は、一般社会の常識が根深ければ根深いほど身につけるのが難しくなるからだ。
小宇宙に目覚めており、無自覚ながら正しく使いこなしており、健康で発育も良い身体を持ち、性格も素直。
(素質がある)
カミュは、そう断じた。
「私はカミュだ。これから、おまえの師になる」
「カミュせんせい」
「うむ」
カミュもまた、頷いた。そして、更に聞く。素質の次に確認すべき事を。
「……おまえは、何の為に強くなりたいのだ?」
強くなりたいからか、と言うと、氷河は首を振った。そして、ぎゅっと拳を握り締め、そして下唇を噛んでから、意を決したようにカミュを見上げ、言った。
「こ……ここからそうとおくない東シベリアの海に、一年前、マーマの乗った船が遭難したんです」
それは、事前にカミュも知っている情報だ。海面も氷に閉ざされてしまい、氷河の母が乗ったまま沈んだ船は、人の力では引き上げられないようになってしまったのだ、ということも。
「だ……だから」
──ぼくの力で、マーマを引き上げてやる為に……
極寒の地にシャツ一枚で立っても震えなかった少年は、その決意を口にしたその時、初めて震えた。
母ナターシャが海に沈んだあの日からずっと胸に抱いて来た決意だが、それをこうして口にし、誰かに話すのは、全くもって初めての事だった。そして、これまで絶対の決意として一人抱いていたそれを人に話す事により、更にそれが絶対のものとして形を持って確立したのを、氷河は感じた。口に出す事によって現実味が確かになる、日本で言う言霊の現象。
「そのために、聖闘士になるというのか……」
「は……はい」
カミュも、薄々察してはいた。氷河がただ強くなりたいと思って聖闘士を目指したのなら、膨大な確率からわざわざここ東シベリアを引き当てるという奇跡には繋がらないだろう。彼の母がこの海に沈み死んだのだという事が、彼をここに引き寄せたのかというカミュの仮定は、正しかったのだ。
「死ぬな……」
「エ?」
「そういう甘い考えがある限り、聖闘士になったとしてもいずれ死ぬという事だ」
シュラやデスマスクには甘いと言われているカミュであるが、そのくらいのことはきちんと認識していた。
聖闘士とは、地上の平和の為に命を掛けて闘う戦士である。よって、伴侶や子を持つ事は基本的にあってはならないとされている。
それは、敬虔な聖職者が夫や妻、子を持たぬのと同じ理由だ。
すなわち、全を愛する為に個を愛さぬこと。個を愛する事は不平等であり、神の愛に反する事、とされている。両手で世界を抱きしめることが出来るとしても、その片手に家族や恋人を固く握り締めているのでは、それは叶わない。世界の全てを愛するには、その手のひらを全て開き、腕いっぱいを使わなければならないのだ。そこに、個人的なものが入る余地はないのだと。
だから聖闘士の多くは孤児から取り立てられ、そうでない場合は家族との縁を切らされる。地上の全てを救う為に、己の家族に気を取られていてはならぬからだ。
ただ、──カミュには、家族は居ない。
彼が個人的に守りたいものがあるとすれば、己を受け入れ救ってくれた聖域と、そして全てを包み込むこのシベリアの大自然。つまり、地上の一部だった。その点で、カミュは聖闘士としてとても模範的な存在であるともいえる。
だがその分、カミュには、氷河のような子供の気持ちは、理解は出来ても実感はあまり湧かない。まるで母の腹の中に居た時の事のような、薄れて消えた記憶の果ての残骸には、氷河が母に抱くような肉親に対する気持ちは残っていなかった。
親友であるミロは、カミュとは正反対に、多くの家族が居る中から黄金の器として取り立てられたので、氷河の気持ちがよく分かるかもしれない。実際、カミュも、ミロの家族に対するあり方から、一般的な“肉親の情”というものをなんとなく学んだ。
だから、そういう肉親の情を、カミュは否定するつもりはない。
……それに、そういうものに憧れ、乞うていた時期もあったという事を、彼はぼんやりと覚えていたからだ。
「見ろ! 氷河よ」
海に背を向けて、カミュは白い山々の連なりを指差した。
「あれらの氷山は永久氷壁といって、何万年も融けた事のない、永久の強さを持っているのだ。太陽の光にさえも融かされる事なく、この地上に存在し続けて来たのだ!」
大地の隆起、山のように見えるあれらは、実は殆どが氷である。第四紀洪積世から融けたことの無いあの巨大な存在は、カミュにとって絶対の存在であった。己がどれほど小宇宙を燃やそうと、全てを凍り付かそうとしても、まるで歯の立たない大自然の姿。
「氷河よ、もしおまえが聖闘士を目指すのなら、あの永久氷壁のような強さを持て!」
だから、カミュは、そう言った。己が最も強いと思う存在、永遠に変わらぬのではと思う巨大な存在をこそ見習えと、師として最初に教えた。
「良いか、どんな強敵を前にしても、常にクールでいろ!」
あの山々のように、吹雪が来ようと雪崩が起ころうと頑として崩れぬあの雄大な姿のように。
「このシベリアの永久氷壁に、真の強さを学ぶのだ、氷河!」
「は……はい」
呑まれるような絶景とカミュの言葉に圧されつつも、小さな少年は頷いた。
そしてそのまま、氷河はカミュに連れられてしばらく歩き、何もない──本当に何もない、草すら生えない氷原の真ん中に連れて来られた。
真っ白な視界に、目がチカチカする。雪表面や雲の乱反射などによるホワイトアウトの錯覚が雪原と雲を地続きに見せ、太陽の場所が判別できなくなり、天地の識別が曖昧になってゆき、更には雪が足音さえも完全に吸い込んで、無音が耳鳴りを起こさせる。
この平衡感覚や距離感、音の感覚を著しく奪う特異な環境も、この地が聖闘士の修行地として相応しいとされる大きな要因である。ただただ真っ白な世界の中、氷河は前を歩くカミュの赤い髪だけを頼りに、ふらふらと足を進めてゆく。
「アイザック!」
カミュが、突然大きな声で言った。
なぜか不思議とあまり雪に吸い込まれずに綺麗に響いた彼の声にはっと氷河が顔を上げると、何十メートルか先に、濃い色の、カミュや氷河と同じく袖のないシャツを着て、何やら身体を動かしている影があった。この真っ白な世界の中で突然現われたそんな姿は、遭難者ならまず幻覚だと思うだろう。
呼ばれた人物が、大きく手を振っているのが辛うじてわかる。どうも肌も髪も薄い色をしているらしく、シャツが濃い色でなければ、色彩が雪に同化してよくわからなかったかもしれない。
少しペースを早めて歩くカミュの後ろを早足でついて行くと、見えにくかった姿がはっきりとしてくる。そこに居たのは、砂っぽい色の金髪に灰色混じりの青い目をした少年だった。雪焼けが真っ黒になるのではなく所々赤くなっており、おそらく北欧系のコーカソイドであろう。
真っ白な世界にぽつんと一人立っていたはずの少年はしかし危なげなく立ち、しっかりとこちらを見据えている。強い目線には少年らしい好奇心が宿っており、口元には、人当たりの良さそうな笑みが浮かんでいた。
カミュは自分のすぐ右を歩いている氷河の後頭部にポンと軽く手を添えて、言った。
「アイザックよ、今度お前と一緒に聖闘士の訓練を受けることになった、氷河だ」
「はい、カミュ先生」
まだまだ高いボーイ・ソプラノ。しかしアイザックの声は、全ての音を吸い込む雪に負けず、とてもしっかりしていた。
「オレの名はアイザックだ、よろしくな、氷河」
「よ……よろしく……」
迷いなくすぐ前まで歩み寄り、はきはきと挨拶をして来たアイザックに、無口で大人しい性格の氷河は少し面食らいつつ、同じくらいの背丈のアイザックを、顎を引いた上目遣いで見た。
そんな人見知りのような氷河の反応を全く気にしていないような様子で、アイザックは笑みを浮かべたままだ。
「この東シベリアに来る奴は、訓練が辛くてすぐに居なくなっちゃうんだ」
凍気使いは貴重である。よってカミュが滞在するここ東シベリアには今まで割と数多くの候補生が送られたが、小宇宙が目覚めていない段階からのこの地での暮らしは思った以上に厳しいもので、アイザック以外の誰も彼もがすぐに脱落してしまった。
そして、最初から小宇宙に目覚めていたアイザックだけが残ったということから、結局凍気使いの適性基準は生まれもってのは才能こそにあるのだという結論が為され、今に至るのである。
「一年近くカミュ先生と二人きりの訓練で、寂しい思いをしていた所さ。二、三日で行方不明にならないように頼むぜ、氷河」
はきはきとした声は若干早口で、しかし全くもって澱みがない。どちらかというとゆっくり話すタイプの氷河は少し面食らったが、いやな感じは全くしなかった。
「ね、カミュ先生」
「うむ」
あ、笑った、とカミュの顔を見て氷河が思った時には、カミュもアイザックも、声を出して朗らかに笑っていた。ハハハ、と、柔らかい声が雪に吸い込まれながら響く。
(ぼくは、ここで、聖闘士になる)
二人を前に、氷河は拳を握り締める。
そして、このシベリアに帰って来てから、初めて笑みを浮かべたのだった。
ここでの暮らしと訓練は、どちらもとても厳しいものだった。前者はこの東シベリアの大自然が、そして後者は師であるカミュが。しかしそのどちらもが、大きな力に包まれながらの事で、恐ろしいながらも安心もした。
──ビッ、ビッ、ビッ!
「うっ、うう……!」
十にもならない子供のものとは思えない拳を、氷河は必死に避け続ける。
──ガシッ!
しかしやはり避け切れず、アイザックの蹴りをまともに受けた氷河は仰向けに倒れた。凍り付いた大地の上に薄く積もる雪が、そこら中に飛び散る。
ホワイトアウトによって平衡感覚の狂いを起こしている所に受けた衝撃は、軽い脳震盪のような症状を引き起こす。くらくらしてすぐに立ち上がれずに居る氷河に、アイザックは手を差し伸べた。
「大丈夫か、氷河。そら、オレの手につかまれ」
「う……うん」
手を引かれてしっかりと上体を起こせば、何とか立ち眩みは起こさずに居られる。ありがとうアイザック、と礼を言えば、兄弟子はにこりといつもの笑みを浮かべた。
「おまえがここに来てはや一年あまりになるが、結構いい小宇宙を持ってるぞ」
正式な聖闘士、しかも黄金聖闘士であるカミュは、ずっとこのシベリアの修行地に身を置いているわけにはいかない。だいたい月の三分の一程度はギリシアにある聖域に行ってしまうのだが、その間、氷河はアイザックと二人きりの生活と訓練を余儀なくされた。
普通の暮らしを送る事は出来ない極寒の地で、アイザックは、同い年とはいえ実によい先輩で、面倒見のいい兄弟子であった。
しかしアイザックは氷河に対して一度も偉そうにしたことはなく、常に氷河を気にかけてくれ、親切で優しかった。
それはいかにも兄分の風情であった一輝や、同い年だが自分より穏やかで落ち着いて話す紫龍とは、また全く違う様子でもあった。そして氷河は、新しく出来たこの兄貴分ともいえる友人と、とても良い仲を築いている。
「カミュ先生の指導に従っていれば、オレたちは必ず聖闘士になれる……苦しくてもくじけるなよ、氷河」
「う……うん、わかっている、アイザック」
相変わらず全く噛まない、澱みのない話し方をするアイザックに、氷河はわたわたと返事をする。そして何とか立ち上がり、もう一本組み手を始めようとした、その時だった。
「あっ! カミュ先生!」
「えっ」
声を上げてぶんぶん手を振りはじめた氷河に、アイザックも振り返る。
するとホワイトアウトの大雪原の随分遠く、確かに赤い色がポツンと見えた。
「おかえりなさい、カミュ先生」
「おかえりなさい」
「うむ」
足下に駆け寄って来た小さな弟子二人の出迎えに、カミュは薄く微笑んで頷いた。
「聖域はどうでしたか?」
「やはり暑い。こちらに帰ってくるとホッとするな」
三人連れ立って歩きながら、カミュは両手に下げた荷物をそれぞれ二人に持たせた。訓練を途中で中断した代わりである。
「中身はお前達のだからな」
「えっ」
「二人とも、また背が伸びただろう? 聖域に行ったついでに、友人からお下がりを色々貰って来た」
「わあ! ありがとうございます!」
「あ、ありがとうございます!」
すぐに礼を言ったアイザックを見てハッとするようにして、氷河も礼を言う。その様子を見て、良い関係を築けているようだ、とカミュは緩く笑んだ。
厳しい環境で暮らし、そして既に小宇宙に目覚めている上に厳しい聖闘士の修行をこなしているが故の非常にしっかりした性格、そしてカミュとずっと二人きりで暮らしているからだろう、聖闘士特有のやや古めかしい言葉遣いをするアイザックは、一見あまり子供らしくない少年だ。
彼は常に氷河を気にかけ、そして氷河も、あの素直な性格から、アイザックのいう事を正しく聞いて、カミュが居ない時もしっかりとメニューをこなし、この厳しい地での生活に慣れて行っている。
アイザックも弟分が出来た事が嬉しいのか、時々少しばかり目上ぶったような態度をとることもあったりなどして、そんな可愛らしさが、彼を年相応の少年であるとカミュに改めて気付かせた。
「だが向こうは暖かいから、冬物が心許なくてな。コートなどはこちらについてから買って来た」
「この白いのですか?」
袋から少し見える厚手の生地を指して言うアイザックに、カミュは頷いた。
「先生は、白が好きだね」
自分の袋にも入っている白を見て、氷河が言った。
「──そうかな」
「だって、今先生が着ているのも白だし、中に着てるのも白い」
カミュが着ているのは、ロシア軍払い下げ品である軍用ジャケットである。非常に厚手で防寒性が高く、そして冬期迷彩として──色は真っ白であった。
雪に紛れる為の装備として作られたそれをカミュは愛用しており、そして弟子たちに与える衣類も、どちらかというと白っぽいものが多かった。この環境で子供に着せる服は、一般的に、出来るだけ目立つ濃い色のものを与えるのが普通だ。しかし、カミュはそうではなかった。
小宇宙に目覚めている彼らを見つけるのは色があってもなくても容易な事で、よって、カミュは自分が愛する雪景色に出来る限り紛れるようなものを、弟子たちに与えた。要するに、完全にカミュの趣味である。
「でも、服が白くても、カミュ先生は髪が赤いから、すぐわかります」
何気なく発された、氷河の言葉。ぴくり、と、傍目ではわからない程度で、カミュの肩が跳ねた。
カミュは、白か、それに近い色ばかりを纏い、弟子たちにもそういった色ばかり与える。そして、逆に殆どカミュが与えないのが、赤だった。
──カミュは、生まれ故郷であるフランスにて、おそらくこの赤い髪のせいで、思い出したくもない目にあった。
だからカミュは、赤が嫌いだ。何故嫌いなのかなど知らないし、知りたくもない。とにかく、ただ、嫌いなのだ。
「苺みたいだから、すぐわかる」
無意識に、しかし深く落ちていた思考が、少年のあっけらかんとした声で引き戻された。
「………………は?」
返事をするまでにひどく時間がかかった上、出た声は随分間抜けなものだった。しかし驚いたのはカミュだけではなかったらしく、アイザックも、「何だよ、苺って」と首を傾げている。
「確かに苺は赤いけど、ここで赤っていえば、ボルシチだろ。でなきゃ唐辛子だ」
「でも、カミュ先生が雪の中にいるとさ」
何も言えなくなっているカミュの足下で、小さな少年が言葉を交わす。そして、氷河は、言った。何やら嬉しそうに、にこにこと。
「白いクリームケーキの上の、苺みたいだ」
──衝撃であった、といえよう。
足下では、「バッカ、おまえ、先生をケーキって、苺って、」と何やら慌てふためいていながらも、喉から空気が漏れるのを──笑いを堪えている。おそらく、白いクリームがたっぷり乗ったケーキの上に座っているカミュの姿でも想像したのだろう。
かくいうカミュ自身も、そんな間抜けな自分自身を思わず想像し、そして、唖然とした。
──カミュは、赤が嫌いだ。何故かはわからないが、大嫌いだ。
赤い色を厭い、その色を持つ己の髪を疎ましく思って来た。その感情が恐れであった事を、カミュはいま、初めて自覚する。得体の知れない天井のシミを怖がるように、カミュは赤い色と、それにまつわるのだろう記憶の果ての出来事を恐れていた。
(赤は、血の色だ)
だが、クリームの上の苺の色でもある。
「クッ」
再度、クリームの山の上に居る己を想像してしまい、カミュは噴き出した。
それは、夜中に身動きが取れなくなるほど恐れていた天井のシミが単なる雨漏りの跡で、しかもよく見ると間抜けな顔のようにも見えてくる事に気付いた時のように、あっけなく、そして多大な安心、また、こんなくだらないものを己はあれほど畏れていたのかという、自分だけが知る気恥ずかしさをカミュにもたらした。
「ク、は、はっはっはっは」
「先生?」
突然声を出して笑い始めたカミュに、アイザックは驚いた顔をし、氷河はぽかんとしている。
「苺、クリームの上の苺、……クハ、はっはっは」
大口を開け、空まで仰いで、カミュは笑った。カミュが微笑む事は珍しくないし、声を出して笑う事もある。しかしこうも抱腹絶倒しているような師を見たのは初めての弟子たちは、ただその姿を見つめている。特にアイザックは、共に過ごした年月が多い分、あり得ないものを見るかのような顔をしていた。
「はっはっ、……ああ、氷河、確かにそうだ。苺は赤い」
「? はい」
氷河は不思議そうに首を傾げたが、カミュの機嫌がこの上なく良い事が嬉しいのだろう、笑顔である。
「ボルシチも赤いです」
「血も赤いな」
笑いながら、言ってみた。すると弟子たちは顔を合わせて、にっと笑った。新しい遊びを見つけたように。
「トマトも赤いです!」
「唐辛子も赤いです!」
「あっはっはっはっ」
交互に思いつく赤いものを叫びながら、子供たちが家路を急ぐ。カミュは笑いながら、子供の後ろをゆっくりと歩いた。雪の中で跳ね回る、子供たちの真っ赤な頬を見ながら。
突然吹いた雪風が、白い服の下に隠れた赤い髪を、白い景色の中に靡かせた。
「氷河、それ、何だ?」
汗を拭いている氷河に、アイザックは尋ねた。
最初の頃こそ生活と訓練を終えると疲れ果ててすぐに眠ってしまっていたのだが、子供とは順応力が高いもので──もちろん小宇宙に目覚めているという事も大きいが──、氷河はこうして、訓練の後、椅子の背を使って、あのバーレッスンをやるようになっていた。
カミュも、氷河が日課としてそれをやるのを止めたりはしなかった。洗練されたポーズと動きに彼は感心し、彼の母が極めたバレエという舞踊に一目置いた。
そしてプロのバレエダンサーになるのがいかに難しいかということを独自に知り、聖闘士になる事への門の狭さと重ねあわせた。
それに、ぴんと張りつめた緊張感の中、1センチもずれを許さないポーズをとるのはうってつけの精神統一になり、それは肉体的な訓練とは別に、小宇宙を洗練させる事に大いに繋がっている、ということに、カミュは気付いた。
カミュは口に出した事はないが、そもそも、アイザックよりも遅れて訓練を始めた氷河は、本来、もっとアイザックと差があってもいいはずであった。
しかし氷河はここに来た時点で、ある程度、小宇宙を正しく肉体に作用させ、強化する術を身につけていた。それはこの、まるでナイフのエッジを渡るような緊張感溢れる一連のレッスンがあってのことだったのか、とカミュは納得し、それを続ける事を許可したのだ。
汗だくになるほどの運動なので、訓練の後にやるのはかなりきついものがある。しかし、毎日やる、という母との約束を守り、そして最初の数ヶ月訓練でへばってさぼった分を取り返す為にも、氷河は再度欠かさずそれを行なうようになった。
「これは、踊りの──基礎(レッスン)だ」
「踊り?」
「マーマに習ったんだ」
母の事を、氷河はよく話す。そしてそれを話す時、彼はとても嬉しそうだ、とアイザックは気付いている。
アイザックは、両親が居ない。
だから、氷河がこうも親の事を嬉しげに話す気持ちは分からなかったが、あまりにも氷河が母とその形見のロザリオを大事にしているので、それを損なうような事は、決して、一切言わなかった。
それに、氷河が話す彼の母の話も、ロザリオも、そして母に教わったという踊りも、アイザックの目には、とてもきらきらしていて、温かで、きれいに感じられた。
──そう、まるで、窓の外から見る家の明かりのように。
「あっ、雪だ」
氷河が、もう真っ暗になった窓の外を見る。雪など珍しくないだろう、とアイザックは首だけをそちらに向けるが、氷河は実際に窓に駆け寄り、窓に当たる雪を見た。
「アイザック、この雪、すごくきれいだ」
「雪なんか、いつもの事だろ」
「違うよ。すごくきれいなんだ」
雪を指差して頬を赤くしている氷河に、どういうことだ、とアイザックが眉を寄せて首を傾げていると、カミュが窓辺に近寄った。
「──ああ、細氷だ」
「さいひょう?」
今度は、氷河が首を傾げる。
するとカミュは窓の近くに手のひらを向け、すい、と温かな家の中央に二人を集め、その手の上にあるものを見せた。
「わあ……」
氷河が、感嘆の声を出す。そして今度ばかりは、アイザックも氷河と同じ反応を示した。
カミュの手の上、正しくは仰向けにした手のひらから十センチほど中空に、小さな、しかしひとつひとつ整って完結した、美しい幾何学模様の氷の結晶が、ふわふわと浮いていたからだ。
「これが、細氷だ。大気中の水蒸気が昇華することにより、このように普通の雪と違って単一の結晶がそのまま降ってくる。……今までも何度か降ったが、おまえたちは訓練に必死だし、疲れてすぐに寝てしまうので、今まで気付かなかったのだな」
その雪の美しさにも感動したが、二人は、カミュが成しているこの現象そのものにも感動していた。
カミュは窓に手を翳したが、窓を開けるという事は一切していない。彼はサイコキネシスという、小宇宙を用いた超能力を使って雪を部屋の中に転移し、しかも、手の上の僅かな箇所にだけ凍気を維持し、僅かな温度の上昇ですぐ溶けて消えてしまう、小さな結晶たちを保持しているのである。
黄金聖闘士であるカミュが『水と氷の魔術師』という異名を取っている事は、二人とも知っている。
大仰なその名に本人は苦笑している所しか見た事は無いが、こうして実際にその所業を見せられれば、彼が魔法使いのような、いや魔法のように見えるほど完璧な小宇宙と凍気のコントロールが可能な、優秀な凍気使いの聖闘士である、というのは、疑いようも無い事実であった。
家の中の温かな空気と、カミュが手の上に維持した凍気の温度差が軽い気流を生み出し、カミュの手の上で結晶たちがくるくると舞っている。
「雪が、踊ってるみたいだ」
カミュの手の上の結晶を見ながら、氷河が言う。ケーキの苺発言といい、氷河はどうも空想力が強いようだ。よく言えば、芸術的センスがある、とも言えるが。母譲りだろうか。
そんな弟子を見ながら、カミュは言った。
「……細氷は、ダイヤモンドダスト、ともいう」
「きらきらしてるからですか?」
「そうだ」
カミュは、頷いた。
「ダイヤモンドダストは、少なくとも氷点下10℃以下、ごく厳しい寒さの所で、短い間しか発生しない。美しい姿をしているが、厳しい環境の上で、様々な条件が揃わないと生み出されないものでもある」
手のひらの上で絶妙な凍気のコントロールを行ない、そのダイヤモンドダストを維持しているカミュが言う事に、二人は深く納得して、じっと師の言葉を聞いている。
「よく用いられる例えだが、おまえたちが目指すキグナス、白鳥も、優雅に見えるが、水面下では必死に水を掻いている。そしてこのダイヤモンドダストも、美しく見えるが、人の命を奪いかねない極寒の地でしか生まれないものだ」
氷河が、カミュの手の上で舞う結晶のひとつに、そっと指で触れる。キンと指の骨まで染みるような冷たさとともに、完璧な結晶が融けて消えた。
指先をさすっている氷河と、それを見ているアイザックの様子を見ながらカミュは微笑み、すい、と手のひらを翻す。結晶たちは、僅かに涼しい空気になって、暖かい家の中に溶けて消える。
「……さあ、食事にしようか、二人とも」
食事の後、氷河とアイザックが寝静まった頃、カミュはひとり椅子に腰掛け、会話を交わしていた。
《──ミロ。今日は、助かった》
テレパスでそう送れば、どういたしまして、と、親友からの気軽な声が頭の中に返ってくる。
《おまえの家族にも、改めて例を言っておいてくれ》
気にするなよ、どうせ余ってるんだから、というミロの返しに、カミュは微笑む。
今日二人の弟子に渡した衣類は、ミロの家族のお下がりである。
末っ子のミロは兄姉が多く、彼らが着ていたものもあれば、彼らの子供、つまりミロの甥っ子姪っ子がついこの間まで着ていたというものもある。人数が多い分大量で、しかし聖域の子供たちに配るには足りないというそれを、カミュは聖域からの仕送り、もとい弟子育成手当の節約のために譲り受けている。
地中海気候であるギリシャの子供たちが着ていたものなので防寒に関する衣類はさほど充実していないが、それでも、成長の早い子供、しかも激しい訓練を行なう為に破いたり汗でダメにしたりしやすい彼らに着せる服は多い方が良い。
《……ミロ、今度は色を構わず貰ってもいいだろうか》
カミュがそう言うと、ミロの、少し驚いたような思念が感じられた。カミュは小さく笑う。
《赤い服にしようか。……きっと、ケーキに乗った二つの小さな苺みたいに見えるだろう》
なんだそりゃ、とミロが笑う。だが親友が長年抱えて来た何かが解消したらしいことを察したのか、ミロの様子もいつも以上に朗らかだった。
黄色か、緑か、橙か、とカミュが続けると、マーブルチョコレートのケーキみたいだな、とミロが言う。白い簡単なクリームケーキに、色とりどりのマーブルチョコレートを飾って食べるのは、ミロの身辺では一般家庭でのおやつの定番であったらしい。カミュには、馴染みの無い事だが。
だが一般的なものだと言うのなら、今度作ってみてやろうか、とカミュは思いつく。ケーキなど作った事は無いが、滅多に甘いものなど食べられない環境なのだ。喜ばれるかもしれない。
《なあ、ミロ》
カミュは、額に手を当て、肘をテーブルについた。少し沈黙すれば、部屋の奥から、規則正しい小さな寝息が二つ。
《──家族とは、こういうものなのだろうか》
己に両親が居たのかどうか、カミュは知らない。なぜ赤い髪が疎ましかったのか、覚えては居ない。
だからミロや氷河が肉親を大事にするのを、遠い遠いお伽噺でも聞くようにして眺めていたけれど。
《だとしたら、私は幸福だ》
友人はいる。しかし、凍える雪の大地、それだけが、己の全てを受け止める己の眷属なのだと、カミュは思っていた。そしてそれが、幸福な事だとも。
《あたたかいものだ》
凍える大地を、愛している。しかし、彼らは暖かい。暖かかった。血よりも暖かい、小さな命。尊く、愛おしい命。
《私は、幸福だ》
家族を愛する世界の人々の気持ちを理解した今、カミュには、凍えるこの大地だけでなく。
──地上の全てが、愛しいように思えたのだった。