4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
<5>
アイザックは、孤児であった。
なぜ両親が居ないのかは、わからない。気がついた時には、転院三つ目の施設に居た。一番初めに居たという施設はこの時点で既に無くなっていたので、アイザックが自分のルーツを知る事は、これから先も難しいだろう。
──生まれたときから、ひとりだった。
自分の生まれについてそんな把握をしているアイザックは、とてもしっかりした子供だった。肉体的な成長も早く、力があり、そして頭が良かった。施設でも常に、そして自然にリーダーのような役目をしていたし、大人たちから仕事を任される事も多かった。
読み書きの勉強をさせられるようになると、アイザックの能力の高さは更に注目されるようになる。知能指数を計られ、保護者を捜すよりしかるべき施設で学ばせた方が良いのでは、などという話が出はじめた頃、それが小宇宙に目覚めているが故の事である、と気付いた聖域が、アイザックをスカウトしに来たのである。
それまで、アイザックは、空虚であった、と己で自覚している。
親を知らず、物心つく前から一人であったアイザックは、ただ目的なく生きていた。年端もゆかぬ子供なのだから当然といえば当然、しかし、単に運であろうが施設を点々とし、またその忙しない暮らしのせいかどうかはわからないが、己の親がどこの誰なのかを気にする事も特になく、ただ日々を淡々と送るという過ごし方は、アイザック少年に年齢不相応な漠然とした虚無感、物足りなさを感じさせるのに十分だった。
そしてそれが解消されたのが、聖域からの使者が発したひとこと。
──正義を守り、邪悪と闘う戦士とならぬか。
その言葉を聞いた瞬間、アイザックは、まるで目の前の霧が全て晴れたような気がしたのだ。
それを成す為にこそ己は生まれて来たのだ、これこそが己の運命というものなのだと断言すらできるほどの、強い衝撃。当然の如く、涙も流れた。
その言葉は確かに、アイザックの中に眠っていた何かを開放する鍵だった。そしてアイザックは、興奮のままに、世俗を捨て、聖闘士候補生になる道を選んだのである。
そうしてアイザックが聖闘士候補生になったのは、他の候補生の多くがそうであるように、6歳になった位の頃であった。赤ん坊ではなくなり、はっきりとした、しかし同時にあやふやで手探りな、幼い自我が芽生え始める頃。
その時点でアイザックは小宇宙に目覚めており、しかもある程度のコントロールまで出来、サイコキネシスやテレパスも多少使えていた。
その類い稀な才能は、最初、黄金聖闘士候補生である“黄金の器”なのではないかとすら怪しまれた。しかし既に黄金聖闘士は全員揃っていたため、アイザックは結局、水瓶座の星の生まれだという事もあって、希有かつ需要の高い凍気使いの候補生として、水瓶座アクエリアスの黄金聖闘士・カミュのもとに預けられる事となった。
目指す聖衣は、白鳥座キグナス。
“黄金の器”ではと疑われたほどの彼に宛てがうには役不足に思われる最下位の青銅聖衣であるが、アリエスが修復師としてのスキルを受け継ぐ為に、なるべく早く弟子を取る、という実例もある。
だからアイザックにかけられた期待は、公式にはキグナスであるが、本音はどちらかというとアクエリアスの後継、でなくてもカミュの補佐、最低でも凍気使いとして一人前以上の人材にという期待、といったほうが正しいだろう。──アイザック本人は、知らない事だったが。
師となったカミュは、師匠と呼ぶには若すぎる、少年と言ってもいいような年齢であったが、アイザックはカミュを掛値なしに尊敬していた。
それは黄金聖闘士たる、生物として人類全体の頂点に立っていると本能レベルで理解させる小宇宙によるものが最初であったが、日々を共に暮らすうち、カミュの厳しさや、しかし誰にでも親切で優しいところや、そして何よりもこの雄大な氷の大地を愛する姿が、“正義を守り、邪悪と闘う戦士”である聖闘士としてこの上なく素晴らしいものである、とアイザックに思わせたのだ。
カミュにも肉親が居ないと聞いた時、その思いは一層強まった。
自分の師が、人に対してどこか一線を引いている事に、アイザックは早い段階で気付いていた。しかし聖闘士が聖職者の多くと同じく、全てを守り愛する為に個を愛さぬ存在であると学んだとき、カミュのあり方こそが模範であるとアイザックは確信したのである。
「……早いもので、あれから三年。すっかり逞しくなったな、氷河」
今や実力は己と五分と五分ではないか、と、割れた氷の岬に立ったアイザックは、隣で崖っぷちに危なげなく腰掛ける氷河と海を眺めつつ言った。
アイザックより一年と少し遅れて候補生になった氷河は、かつてリタイアした多くの候補生と違い、ここに来た事から小宇宙に目覚めていたという事もあるだろう、アイザックに大きな遅れを取る事なく、順調に小宇宙を成長させていた。
最初にここに来たときの氷河はどこか人見知りの気の多い頼りなげな少年であったが、この氷の大地で厳しい訓練に絶え続け、今ではアイザックのよき友人、対等の同志となっていた。
「そんなことはない。まだまだおまえの足下にも及ばないさ、アイザック」
彼の血の半分を占める日本人に多いというこの謙虚さも、アイザックには好ましく映った。氷河はあまり口数が多くないが、その分不平不満を漏らす事も少ない。
かつて泣き喚きながら去っていった候補生たちを哀れとは思えど侮蔑しているわけではないが、どれだけ時間がかかろうとも泣き言を言わず、黙々とつらい訓練をこなす氷河の姿を、アイザックは高く評価し、そして唯一己と同じくここに来たときから小宇宙に目覚めていた彼に、強い親近感と付き合いやすさを感じていた。
「どちらにしろ、オレたちは師カミュに指導を受けられて幸福だぞ氷河」
「うむ」
二人とも、まだ10歳そこそこの年齢にしてはかなり大人びた、というよりは、古めかしい、厳めしい口をきく。
アイザックは施設に居た頃、あまり大人びた口をきくと反感を買う為、あえて子供っぽい言葉遣いを心がけたりしていた頃もあった。ここシベリアに来てから一切そういう気遣いをしなくても良くなった事、おそらくこれから先もそんな必要はないだろう事にも、アイザックは開放感を覚えていた。
ちなみに、こういう具合の言い回しは聖闘士特有、というよりは聖域特有のものでもある。
閉鎖された社会である聖域では、言葉の使い方が長年あまり変化していない。それ故まるで叙事伝や古代劇のような重々しい言い回しが普通に用いられ、殆ど聖域で育ったカミュも例外ではない。よってアイザックも氷河も、おそらく一般社会でならやや奇異に聞こえるだろうこの聖域の方言ともいうべき言葉遣いが、すっかり移ってしまっていたのだった。
──とはいっても、まだまだ少年である彼らがそんな言葉を使うのは、端から見ればどこか滑稽で、有り体に言えば何かの“ごっこ”のようで、微笑ましくしか見えないのだが──閑話休題。
「オレの知っている限り、師カミュほど清く正しく、真の強さを持った男は見たことがない。……オレも、カミュ先生のような聖闘士になりたい」
「同感だ」
厳かなほど重々しく熱っぽい宣言に、氷河が同じくらい重々しく頷く。その反応に満足したアイザックは、厳めしい口調とは裏腹に、少年らしい満面の笑みを見せた。
「しかしアイザックよ、最近気になることがある。……このところ、聖域からの招集がやたら多くなったし、師カミュも何か考え込んでいる事が多くなったと思わないか?」
それは、氷河の気のせいではなかった。
黄金聖闘士であるカミュはずっとここシベリアに身を置いているわけにはいかず、最低でも月の三分の一は聖域に出向き、立場に合った仕事や任務をこなしている。だが最近、その義務以上の、わざわざの招集が多くなって来たのだ。
そしてその招集から戻った後、カミュはじっとひとりで考え込んでいる事が多い。
「うむ、それはおそらく教皇の問題だろう」
誰よりも尊敬する師匠の仕事の話だからか、アイザックはやたら厳重な口調で言った。
「教皇の……?」
「今聖域では、教皇に対する疑惑が高まりつつあるというのだ」
直接の原因などはアイザックもよく知らないが、現在、聖闘士たちの中でも現教皇に疑いを持つ者がかなり出て来ているらしい、と聞いていた。
正義を守る為、地上を守るための聖闘士、というものを何よりも崇高なものとして捉えているアイザックは、教皇をあまり敬っては居ない。詳しい情報は知らぬとはいえ、やや苛烈で極端、なおかつ幼さからくる潔癖さと頑さから、そうして疑いを持たれているということ自体がけしからぬ事、火のない所に煙は立たぬものだ、と思っているのだ。
ちなみに、アイザックのこういった情報のソースは、時折伝達や候補生の育成具合を視察に来る使者──雑兵の中でも、聖衣こそないものの聖闘士資格を持っている者たちから得たものだ。アイザックは彼らの事を、地上の正義を守る同志、その先輩として敬っており、訪れる度によく話を聞いているのだ。
アイザックにはそんなつもりはないが、聖域では下っ端としてあまり良い目を見ていない彼らなので、きらきらした目で話をせがむ幼い少年には、ついつい口が軽くなるのである。教皇への不信が広がっていることも、本当は聖域ではおおっぴらに口にも出せないような情報だ。
対して氷河は、そういった情報には疎い。ある種どこよりも厳しい修行地と言われ、聖闘士の総本山である聖域、そこからやってくる使者たちが、氷河はあまり得意ではないのだ。元々おとなしめのマイペースな性格である少年は、凄惨な経験を経て厳しい目をした、軍人めいた彼らに、漠然とした苦手意識がある。
だが氷河は、最初に世話になったヤコフらの一家や、時々街に出た時に会う一般の人々とは、わりとよく話している。特に、短い間とはいえ、おむつを替えたりミルクをあげたりしたヤコフには目をかけているようだ。
この辺り、アイザックは逆である。
親が居らず、気付いた時には小宇宙に目覚めていたが故にカミュや聖域の者たちに強い親しみを覚えると同時に、施設に居た時と同じように、両親という存在自体をよく分からないものとして感じ、そして一般の普通の人々の価値観があまり理解できずにいるアイザックは、両親から愛され育っているヤコフや、闘う事もなく暮らす街の人々に、苦手意識を感じている。
「このままでいくと、いつか聖域に内乱が起こるのではないか、という噂だ」
どこか軽蔑するように、アイザックは言った。
「聖域に、内乱が……」
「だが今のオレたちは、そんな事より一日も早く一人前の聖闘士になる事を考えるべきだ」
アイザックは、潔癖に言った。事実アイザックは聖域の様子をドロドロした汚らわしいものとして感じており、それに巻き込まれるなどまっぴらだと考えていた。
「そして、この素晴らしい地上の平和を守る為に闘うんだ。なあ氷河」
永久氷壁の山々を眺めながら、アイザックは陶酔するように言う。何万年も融けた事のない永久の強さは、カミュに言われるまでもなく、アイザックの憧れであった。それに比べて、小さな個人同士の争いなど、なんと矮小で下らない事だろう、とアイザックは思う。
──そして、そんなアイザックを、氷河が、どこか伺うような目で、密かに見つめているのに、アイザックは気付かなかった。
──更に、約1年。
アイザックと氷河は、共に12歳になっていた。
小宇宙は肉体に大きな作用をもたらす為、聖闘士は成長が早い者が多く、最終的に大柄な体格を誇る事が多いが、二人も例外ではなかった。彼らの肉体はいくら成長期といえども目覚ましい成長を遂げ、更に、格闘技を治めた者特有の、しかもその中でも特に研ぎ澄まされた眼光を見せるようになったせいで、実際より4、5歳程度は年上に見えた。
修行を初めて4年となった氷河は、既にある程度小宇宙の闘法を身につけていた。圧倒的に経験が足りぬのは仕方が無いが、落ち着いてやれば、一般世界の有段者程度なら話にもならぬ位には腕が立つ。
そして厳しい修行で極めた武道は、少年の精神を、実際の年齢以上に大人にしていた。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、相変わらず氷河は口数が少ない。そのせいで考えている事がよく分からないと評されがちであるが、実は、周りをよく観察してもいる。だからこそ成長も早く、一年先輩であるアイザックにも、大きな遅れを見せてはいない。もちろん本気で勝負すれば勝ち目はないだろうが、同じ修行メニューをこなせる位の実力はある。
──そのアイザックのことで、氷河は最近、思っていることがある。
アイザックのことを、氷河は、とても素晴らしい友人で、兄弟子だと思っている。
彼は真面目で、才能に恵まれ、そしてそれに甘えぬ努力家で、面倒見が良く、頭がいい。実際には同い年であるが、兄弟子と言う立場と、そしてアイザック個人の人柄によって、アイザックは氷河にとって、兄に近いような感覚の少年だった。
カミュは手の届かぬ高い所にいる絶対的な存在、しかし必ず見守っていてくれる師匠として敬愛しているが、アイザックは頑張れば手が届かぬでもない程度の先を行きながら、時々振り返って実際に手を貸してくれる事もある、そんな風な存在だった。
だから氷河は二人に恥じぬようにしたいと常々心がけているのであるが、その点に置いて、氷河は最近、不安を覚えている。
「氷河よ、この北氷洋で神話の時代から恐れられている、クラーケンの伝説を知っているか」
訓練メニューの後、いつものように崖っぷちで海を眺めていた時、アイザックは言った。
──北氷洋の怪物、クラーケン。
ギリシアを中心とした様々な神話や怪物の知識──聖闘士にとっては神話やお伽噺ではなく、実際の歴史や生物学の知識であるが──については、聖闘士になる為の基本科目であるので、氷河もその名は知っている。
クラーケンは曖昧な伝承が多いのだが、アイザックの生まれた北欧で、特にその記述が多い怪物である。
しかもその伝承は古代だけが舞台でなく、中世から近世にかけて、ノルウェー近海やアイスランド沖に実際に出現したという記録や証言も残っている。19世紀、アフリカ南部・アンゴラ沖に現れた海の怪物もクラーケンでなかったか、と言われているくらいだ。
目撃証言が非常に多い代わりにバリエーションが多すぎて実際の姿が特定できないクラーケンであるが、共通しているのは、巨大である事と、そして航海している船の前に突然その巨体を現し、船ごと全てを飲み込んでしまう、というところだ。
その姿を見て行き延びた者は一人もない。その為このように姿も不定形な伝承しか残っていない──いや、その正体は巨大な軟体動物だ、海獣だ、いや航海技術の未熟な時代の人々が作り上げた偶像だ、はたまた嵐の前には無理せず帰港しろという教訓話だと様々な解釈が為されているが、とにかくクラーケンは、今この現代でもその伝説が船人たちに恐れられている存在だ。
「だがクラーケンは、罪もない人間の乗った船は決して襲わなかったというぞ……!」
興奮気味に、アイザックは言った。確かにそれは、とくに神話として語られる場合のクラーケンによく見られる特性である。
「いわばクラーケンは、邪悪な人間のみをこの海で葬ってきたのだ。悪に対しては完璧なまでの非情さをもって、な……」
厳かに、祝詞でも唱えるかのように呟くアイザックを、氷河は真正面からではなく横目で、無言のまま見遣る。
「師カミュにも教わった……敵を前にしたら、常にクールでいろと」
確かにそれは、カミュが彼らに教えるものに常に付随して回る心得だ。そしてそれは、凍気使いになるにあたっての実際的なテクニックとしても、そして戦士としての心得としても非常に有効である事も、二人とも深く納得を得た上で、それを守ろうとしていた。
「オレは、クラーケンの非情さと強大さを身につける」
アイザックは、宣言した。聖なる言葉を唱えるように。──神に誓うように。
「悪に対しては微塵も容赦しない! 常にクールに殺すだけだ! ──それが地上の平和の為であり、その為に闘うのが聖闘士なのだからな!」
殺す、という言葉に、氷河は少しびくりとした。
ここシベリアに来て数年、氷河は、アイザックという少年について色々と把握するようになっていた。
アイザックは真面目で、才能に恵まれ、そしてそれに甘えぬ努力家で、面倒見が良く、頭がいい。素晴らしい友人で兄弟子でもある彼は、しかし同時に、極端で、苛烈で、潔癖だった。
顕著なのが、例えば、師カミュに対する気心。氷河とてカミュには強い敬愛を抱いているが、アイザックがカミュに向けるそれは、敬愛や憧れというには厳しすぎた。崇拝といっても過言ではないかもしれない。
そしてその根拠が、アイザックが抱く、聖闘士としての理想であった。肉親を持たず、氷の大地を愛するカミュは、アイザックが考えるその有り様に、ぴったりとマッチした聖闘士だった。
年を経て行くごとに、アイザックは、聖闘士とは何か、どうあるべきか、と事あるごとに口にするようになった。思想を持つようになった、ともいえるだろう。
そして、思想を持った若さは、必ず熱を放つ。アイザックが抱くそれは年々はっきりと突き詰められてゆき、そして過激で極端になって行った。
そんなアイザックを見る度に、氷河は、アイザックがどんどん遠くに行ってしまうような疎外感と、そして、後ろめたい気持ちを感じた。
地上の為に、罪なきものの為に、滅私こそ聖闘士の有り様である──と言うアイザックの言葉は確かに正しいのだろう。
──だが、憧れはなかった。
(アイザックよ……)
自分が何の為に聖闘士の力を身につけたいのか、それを知ったら、彼はきっと怒るだろう、と氷河は後ろめたさを感じつつ思う。
熱の籠った、煌めく目で聖闘士としての理想を、思想を説く兄弟子を、氷河はいつも一歩離れた所から見ていた。
確かに、正しいと思う。聖闘士とは、そういうものが至上なのだろう。──しかし。
例えば、聖人伝を聞いた時の信者と、そうでない者の反応にも、それは似ていた。信者は聖人らの行なった奇跡と殉教に、己も是非そうありたいと涙する。そうでない者は、圧倒され、尊敬もするが、しかし己がそうなりたいとは思わない。
それは、何故か。
──氷河には、母がいたからだ。そしていま、兄弟がいる。それを全て切り捨てるのが正義だとは、良い事だとは、氷河はどうしても思えなかった。私情を断ち、地上の平和の為に尽くす事が尊い事である、というのは、わかる。──わかるのだが。
全てを守ろうとする事は、正しい事だと思う、己を滅してそれを成そうとする事を、尊く、素晴らしい事だと思う。だが氷河は、アイザックの語るそういう聖闘士になりたいとは、やはりどうしても思えないのだ。
氷河は、母を愛している。弟たちを、兄を、カミュを、そしてアイザックを、特別に思っている。アイザックのいう滅私の姿とは、そういう“特別”があっては成せぬ事だ。家族を持たず、伴侶を作らず、子を生さず、ひたすらに世界の為に私を滅する聖人、至高の戦士、世界の為に闘い、殉教の道を行く聖闘士たち。
尊いと思う。素晴らしいと思う。だがしかし、遠い。そして、遠すぎて想像がつかない。実感がない。親しみが湧かない。
家族を持たず、伴侶を持たず、子供を持たず、ただひとり。それを至高とする姿は、素晴らしい。──そう、まるで、人間とは思えぬ程に。
アイザックは、氷の海を眺めている。氷河も、同じように眺める。
(……マーマ)
海を眺める度に、この海の底に母がいるのだと、氷河はいつも思いを馳せる。──アイザックは、この冷たい海の果てに、何を見るのだろう。
彼は、クラーケンのようになると言った。古代よりその存在を知らしめながらも、人間たちに未だその形容すらはっきりとわからぬ怪物、クラーケン。
(……どのような姿をしているのだろう)
巨大な軟体動物だ、海獣だ、いや航海技術の未熟な時代の人々が作り上げた偶像だ、はたまた嵐の前には無理せず帰港しろという教訓話だと様々に言われる怪物。その本当の姿がどんなものか、氷河にはまったく想像がつかなかった。
──アイザックは、海を眺めている。
アイザックの遠い目線の先に何があるのか、氷河にはわからない。クラーケンだろうか。それとも、至高の聖闘士であろうか。
どちらにしても、氷河には、その姿を掴む事は一向に出来なかった。
──それから、さほども経たぬ日の事だった。
「……どうした、アイザック」
相変わらず頻度の多い聖域の呼び出しから帰ってきたカミュは、部屋の中、椅子に座って机に突っ伏すアイザックに驚き、目を丸くした。
アイザックは常にきびきびとしていて、“ぼうっとしている”ということが殆どない少年だった。そのあたり氷河は逆で、彼曰く「踊っているように」降る雪を飽きもせず眺めているだけの事も珍しくない。
そんな氷河に軽く文句をたれつつ、きびきびと動き回ってしかるべき用事をこなす頼もしい少年、それがアイザックだ。だから彼がこんな風になっているというのは、確実に何かがあったという事だ。分かり易いといえば分かり易い。
「……カミュ先生」
何か口をきく時は必ず相手の目をまっすぐに見るアイザックは、突っ伏したまま、腕の中でくぐもった声で言った。
「何だ」
「どうして氷河を弟子にしたんですか」
震えた声に、そしてその内容に、カミュは眉を顰めた。
「どういうことだ」
「氷河がどうして聖闘士になろうとしているのか、知っていますか」
「……知っている。母親の為だ」
カミュなりに慎重な声色で答えると、ガバ、と、アイザックが勢いよく顔を上げ、立ち上がった。座っていた椅子が、派手な音を立てて後ろに倒れる。
泣いていたのかどうかはわからないが、アイザックの目元は赤く、そして、複雑すぎて壮絶になった表情をしていた。
その表情に、カミュは正直面食らう。
親しい人間だからこそ、そのような、追いつめられた末の困惑の極地のような表情はカミュをぎょっとさせ、そして大きな心配を呼び起こした。
アイザックは理知的でしっかりした少年だが、そのぶん苛烈で極端な所もある。だから氷河とぶつかることもそのうちあるだろう、とカミュは思っていた。ここ数年、あまりにも彼らが仲良くやっているので忘れかけていた事であるが、年々、聖闘士になることに対しての意識が熱っぽくなるアイザックを見ていれば、その時が近い事は察知しているつもりだった。
──だがまさか、こんな顔をさせるほどとは。
「どうしてですか」
声が、というよりは見るからに唇を震わせながら、アイザックは言った。
「……俺は、氷河を、」
少し、間が空いた。
「……倒そう、と、しました」
本当は、殺そうとした、と言おうとした。しかしその言葉が喉まで上がってきた時、アイザックの舌が凍ったのだ。殺す、その言葉がどれほど重いものか、少年は今思い知る。
その代わり、アイザックは、唇を噛み締めた。血が滴りそうなほど。
「な……」
今度こそ本気で驚いて、カミュはぽかんと口を開けた。しかし、既にカミュを見る事なく、俯いたアイザックは、独り言のように続ける。
「聖闘士は、──聖闘士というものは、そんなことではいけないものです。家族が居てはいけないし、伴侶や子供が居てもいけない。世界の平和と正義以外に大事なものなど、あってはいけないんだ。それを母親の為に聖闘士に、聖闘士の力を得ようなんて──…… それは、正しくないことです。悪い事です。聖闘士の力は正義を守る為に使うもので、そんな事の為に、ただそんな私的な事だけの為になんて」
「……アイザック」
「そんな軟弱者に、聖闘士になる資格など──…… だからいっそこの場でとどめを刺してやろうと、それが正しい事だと」
「アイザック」
静かな声で名を呼ばれ、半ば錯乱状態にも見える様子で独り言を紡いでいたアイザックは、はっと顔を上げた。
目の前にいるカミュは、アイザックの目をまっすぐ見ている。カミュがそのまままっすぐにアイザックの目を見続けると、アイザックは少しずつ、完全にとは行かないまでも、いくらか落ち着いた様子をみせる。
アイザックの発言に本気で肝を冷やしたものの、カミュは氷河の小宇宙がきちんと感じられる事を確認し、すっかり落ち着きを取り戻していた。
弟子たちははっきりと気付いていない事だが、カミュは、戦いの末訪れる結末を“倒す”とか“勝利する”と表現するが、“殺す”と言った事はない。
それは、不殺の心得を信条とするカミュだからこそであったがしかし、彼はその不殺の心得を、これまで、弟子たちに教えた事もなかった。
カミュの親友であるミロは、不殺を既に誓いとして掲げ、公言している。もし彼が弟子を取ったなら、その誓いを弟子にも教えるかもしれない。しかしカミュは、そうではなかった。
カミュは、ミロのように、不殺を“誓って”いるわけではない。あくまで心得である。
つまり、基本的には殺さぬが、場合によってはやむなし、としているのだ。普段の生活の細々としたレベルから常にきっぱりとしており、不殺の誓いを厳重に貫くミロを側で見ているだけに、カミュ自身、己の有り様を中途半端で日和見だと感じている。
不殺を理想としながらも、殺さねば道理が通らぬ事も確かに存在する、という矛盾の狭間で、カミュは未だ揺れていた。それに、年長の彼らなどと比べれば数は少ないものの、カミュは既に数人の人間を冥府に送っている。数の問題ではないのかもしれないが、ミロのように、ただのひとりも殺していないわけではないものを、今更不殺を掲げるのも何か違うような気がしていた。
そんな風に迷い、揺れ、結論を出していないからこそ、カミュは弟子たちに、そのことを教えなかった。歳若い身で弟子を取ったカミュは、己が他人に何か教え導くにはまだまだ若すぎる事を自覚しており、だからこそ、きちんと結論が出ていない事については教えないように心がけていた。結論のない問題を幼い者に提示するのが、何だか無責任であるように感じたからかもしれない。
それはカミュの誠実さと真面目さからくる真摯な配慮であり、確かに立派な心構えではある。クール、冷静さを信条とし、石橋を叩いて渡る性格のカミュだからこそ、彼は弟子たちに対し、絶対的な師匠たらんと努力した。
しかし、どうせ己が若いというなら、無理をして高みの存在を気取らず、いっそのこと弟子と一緒になってひとつの問題を考えてみることも、もしかしたら決して悪い事ではないのかもしれない、と、カミュはいま、新たに思い直した。
──カミュは、若い。それだけでも日々新しい事の連続であるというのに、己より更に若い弟子たちとの日々は、更に新鮮な発見と驚きをもたらす、とカミュはつくづく感じた。
「……氷河が何の為に聖闘士になろうとしているのかという事については、氷河がここに来た時に聞いている」
カミュは、ゆっくりと話しだした。
「そして、そのとき既に言ってある。そんな甘い考えではいつか死ぬと」
それは氷河本人も言っていた事だったので、アイザックは小さく頷いた。
「……なら、どうして」
先程までのようには震えていない、しかし戸惑った声で、アイザックは訊いた。
「どうして、それを改めさせようとしないのですか」
「……死んでいるからだ」
はっきりとした答えが返ってきたので、アイザックは、俯き始めていた顔を上げる。カミュは少し窓の外──氷の海がある方を見てから、言った。
「氷河がいくら母親に縋ろうと、その母はもう死んでいるのだ」
悼辞でも読み上げるかのような様子であった。事実、似たようなものだろう。
「氷河が力をつけようと、聖闘士になろうと、そして沈んだ船を引き上げようと、母親が生き返るわけではない。氷河も、それはわかっているだろう。ただその遺体をきちんと墓に治めたい、それだけなのだよ、アイザック」
「……それ、だけ?」
「そう、それだけだ」
カミュは、頷いた。
「死んでしまっては、──もう、生き返りはしないのだ」
口に出してみれば、当たり前すぎて滑稽なほどの事実。しかし、それがどれほど重い言葉であるか、カミュはよくわかっている。不殺を誓う親友に憧れ、出来ればそうありたいと願い、しかしどうしても感じる矛盾に迷い続けているカミュには。
「確かに、氷河は母の事を強く想っている。そのために辛い訓練に耐え、聖闘士になろうとしている。あのぶんなら、遺体を引き上げることもそのうち叶うだろう。……なら、その先は?」
「……え?」
思ってもみない問いかけだったのか、アイザックの目や口は、丸く見開かれていた。その表情は、いつもと違い、年相応の幼さがある。カミュはつい、フ、と小さく微笑んだ。
「氷河は、母の遺体を引き上げる為に聖闘士の力を欲している。ならばその目的が達成されたとき、氷河はどうするのだろうな?」
「……候補生を辞める、でしょうか」
「そうかもしれないな」
肯定して頷くと、アイザックは眉を顰め、歯を食いしばって俯く。納得できないのだろう。
「だが、そうでないかもしれない」
「え……?」
アイザックが、訝しげな表情で顔を上げる。カミュは、苦笑を浮かべた。
「おまえの言うように、聖闘士とは地上の平和の為に闘う者だ」
「……はい」
「だが、日々で出会う一人一人を無視すべき、という事ではない。闘う術を持たぬ、罪なき人々が目の前で困っていた時、お前はどうする? 地上の平和においては微々たる事と無視するか?」
「そんな……事は」
「ひとりの人間として、親切さや優しさは間違いなく美徳だ、アイザック」
こういうことを恥ずかしげなくストレートに口に出して教えることが出来る点もまた、カミュが持つ大きな美徳であろう。こういったことは、教訓話などのオブラートに包んで回りくどく話すよりも、飾らずにはっきりと言いきる方が子供の胸に深く刻まれる事もある。
実際、素直すぎる所のある氷河はカミュのこういうところと非常に相性が良いし、賢い分、ややヒネた所のあるアイザックも、あまりにもストレートに言いきられるので、思わずハイと言ってしまう事が殆どだ。
堂々としていながらにして静かで素直な善良さは、カミュが持つ、教育者や育成者としての希有な資質だった。
「世界の為に、とか、正義だ、平和だ、というスケールの大きい話とはまた別の次元でな。小事にかまけて大局を見失うのも愚かだが、私はおまえに、そういう日々の細かい事も決して忘れて欲しくはない。日頃から他人に親切に出来ぬものが、世界を救ったとして自己満足にしか見えぬと私は思う」
「は……い」
氷河と違い、聖闘士に関わりのない普通の人々に苦手意識があり、関わりを避ける傾向があるアイザックは、きまり悪そうに返事をした。
その様子を苦笑して見つつ、カミュはひとつ、ゆっくりと瞬きをした。
「……私はあの時、氷河に代わって、氷河の母を引き上げてやろうかとも言ったのだ」
「え?」
「私は黄金聖闘士だ。沈没船をサルベージするくらい、重い荷物に立ち往生している老婆を助けるのとさほど変わりない」
とんでもない事を軽く言ったカミュだが、それは事実なのだろう。黄金聖闘士とはそういうものだ、とわかっていたはずのアイザックであったが、思わずポカンと口を開けたまま固まった。
「だが、氷河は拒否した。自分の手でやると、そのためにはどんなことにも耐えると」
アイザックは、黙って聞いている。
「この時氷河が私に助けを求めていれば、全ては丸く収まったはずだ。氷河は母に会うことが出来、墓を建て、親は居なくとも、普通の子供として生きていっただろう。しかし氷河はそうしなかった。それは、母の遺体を引き上げる為という目的以外で、氷河が力を欲しているからなのだろう」
──それが具体的にどういう想いなのか、本人にもよくわかってはいないようであるが。
「だから私は、氷河を候補生として受け入れた。目先の目標──と言うと氷河や氷河の母に失礼かもしれぬが、それを成したとき、氷河がなぜわざわざ命がけの苦労をして力を手に入れようとしたのかも見えてくるだろう。そしてそれは、決して悪いものではないはずだ」
むしろ、初めから世界の為に、地上の為にと気張って聖闘士を目指している者よりも、柔軟で強靭かもしれぬとさえ思っている──とカミュが言うと、アイザックはがんとショックを受けたような、泣きそうにも見える顔をした。──己がここ数年で培ってきたアイデンティティを崩しかねない発言なのだから、当然である。
「……オレには──わかりません」
ほとほと困惑した、迷子になったような声で、少年は言った。
「もう死んでる母親の為に、なんで命を賭けるんだ?」
母の形見だというロザリオを肌身離さず身につけ、故人に想いを馳せる氷河を、アイザックは側で見てきた。肉親はいつまでも恋しく思うものだと、アイザックも知識の上では知っている。だから共感は出来ずとも、よくわからないがそういうものなのだろう、と納得していた。
しかし、既に死んでさえいる母の為に命を賭けるなどという行為は、アイザックにとって、意味不明すぎて不気味ですらあった。全くもって想像がつかない、未知の価値観。
──だが、この地球においては、アイザックのほうが少数派なのだという事くらい、アイザックとてわかっている。
「オレは、父親も母親も、親戚の一人だっていない。気がついたらひとりだった。だからわからないのか? ──オレが」
街の人々は、皆、家族や、恋人同士で暮らしている。走り回る子供には、帰る家がある。あの街にある孤児院は、小さなものがひとつだけ。塀の上、子猫を連れて歩く親猫。
震え始めた唇を動かして、アイザックは、うわごとのように呟く。
「──オレが、おかしいの?」
「アイザック」
ずっと近い所から呼ぶ声に顔を上げると、すぐ横に、いつの間にかカミュが立っていた。
いつも通り穏やかな表情、しかしその目には、ほんの僅かに悲しげにも、諦めているようにも見える、小さな苦笑が浮かんでいた。──その表情に、アイザックは、理屈ではない親近感を覚える。
そうだ、自分がカミュを慕っているのは、カミュが聖闘士としてどうこうという事からではない。いやそれも確かに大きいのだが、そうなり始めたきっかけはもっと原始的な感情からであった、とアイザックは思い出した。
「私もそうだ、アイザック。正直な所、肉親に向ける情がどのようなものなのか、どれほど強いものなのか──私にもよく分からん。私にも、肉親は居ないからな」
「カミュ──」
どっ、と、くらくらするほど重たい安心感が、アイザックの頭上から落ちてきた。思わず目の端が熱くなってきてしまい、アイザックは慌ててカミュから目を逸らす。
「……実は、蠍座スコーピオンのミロは、大家族でな」
「えっ……」
カミュと同じ黄金聖闘士であり、そして親友と呼べるほど特に親しくしているという幼馴染みのミロのことは、アイザックも知っている。片手で数えるほどだがここに顔を見せた事もあるし、多少口をきいた事もある。
「でも、聖闘士は──」
「俗世、すなわち肉親とは縁を切るべし──というのが昔からの風潮だな、確かに。ミロも候補生になった時はその覚悟をして聖域に来た。家族の方も納得済みでな。だが教皇が」
「教皇……」
疑惑を抱かれ、内乱すら起こされようとしているという、現教皇。
疑われるという事はそれなりの事をしているのだろう、と、深い事も知らぬまま断じていた雲の上の人物の名前が出てきた事に、アイザックは呆気にとられたまま、鸚鵡返しの相槌を打つ。
「くだらぬと申された」
「く、くだらぬ……」
アイザックは、絶句した。
「肉親のひとりやふたりで心構えがどうこうと細々抜かすほうが陰湿で軟弱だ、と、な。むしろ今まで育ててもらった分孝行しろ、とまで。おかげでミロは姉君たちの結婚式は全て出ているし、堂々と交流が復活したお陰で私もミロの友人、同僚として紹介され、食事を御馳走になった事も数知れず」
アイザックは、呆然としている。まさか黄金聖闘士たる者が、そんな、普通の家族付き合いなどをしていようとは。
「そして弟子を取っているという事が知れると、お前達に、とミロの甥っ子姪っ子のお古で服や小物を沢山譲ってもらった。お前達のものの殆どは、ミロの家から貰ったものだ」
「ええ!?」
カミュが服や小物、食べ物を持って帰ってくる時、ミロ“たち”からだ、と言われる事は確かに少なくなかった。
だが聖闘士に家族は居ないものだと思い込みきっていたアイザックは、それを“ミロ経由で手に入れてもらった”のだとばかり思っていたので、まさか彼の家族、すなわちミロ“たち”に譲ってもらったのだ、という意味だとは夢にも思わなかったのだ。
ちなみに、まだ二十歳にもならぬ身で二人もの子供の面倒を見ているというカミュを、彼らは大層立派な若者だと感動したらしい。自分たちのお下がりだけでなく、他から集まったものも優先的に譲ってくれるし、貰い物だ、と言いながら、明らかに新しく購入したであろうものを寄越してくれる事すらあった。
「正直な所やりくりが厳しいので、非常に助かっている」
心底驚いているアイザックを前に、少し冗談めいた様子で、カミュは首を竦めてみせた。
「……アイザック」
気を取り直して、カミュは、真面目な、しかし優しげな口調で語り始めた。
「理解しにくい事というのは、確かに受け入れがたいものだ。だが頭ごなしに否定してはならない」
「理解するべく努力しろ……ということですか?」
毒気を抜かれたせいか随分冷静になったアイザックは、しっかりとした口調で質問する。
「違う」
相変わらず、カミュははっきりと受け答える。曖昧な返事をせぬ師匠に、アイザックはやはり好感を抱いた。
「確かに、その努力は決して放棄してはならぬ事だ。だが、どうしても理解しがたい事もあるだろう。私とて、長年ミロと付き合っているが、家族を持っている気持ち、というのは具体的によく分からない所もある」
「……はい」
そうか、カミュにもわからないのか……と、アイザックは口に出さずに、奇妙な心地でただ頷いた。
「理解しがたい事というのは、苛々するものだ。こんなにわからないのだから、向こうのほうが間違っているのだ、と切り捨ててしまいたい気持ちになってしまうこともある」
アイザックは、神妙に頷いた──というよりは、ただ俯いた。カミュの言う通り過ぎて、落ち込むというより、何だか気が重くなってきたのだ。
「しかし、だからといって、悪いものだと決めつけてはいけない。人々は昔から、己の理解できぬものを悪と決めつけ、害そう、廃そうとする性質がある。思想や宗教による戦争がそれの最たるものだ」
聖戦にて神を殺す役目を負った彼は、言った。
「もちろん本当にけしからん事なら止めねばならないし、自分たちの身を守る為にやむなく闘わねばならない時もあるだろう。しかし、己が理解できぬからといって、それが即、悪だと決めつけるのは傲慢意外の何ものでもないと私は思っている。……我々は、全智全能の神ではないのだ」
「でも、」
ならばどうすればいいのか、と、納得いかぬような、しかしどこか縋るような目で己を見上げてくる、まだまだ自分より随分背の低い少年に、カミュは微笑んだ。
「……アイザック。おまえは、氷河が好きか?」
「え……」
突拍子もない質問、に思える。
しかしその答えを考えた時、アイザックは、それこそが迷いの出口である事に気付いた。はっとした顔を見せた賢い一番弟子に、カミュは尚深く微笑む。
「……オレは」
アイザックは、視線を泳がせた。戸惑っているような様子の彼を、カミュは急かす事なく、ただ見遣る。
(オレは……)
氷河の目的を知った時、アイザックは大層ショックを受けた。
だから先程の別れ際、アイザックは言った。氷河の母と船が沈んでいるという海域は複雑な潮流がよく起こり、候補生程度の実力では、巻き込まれれば死ぬ、気をつけろ、と。
──それは、勝手にして死んじまえ、という気持ちの籠った言葉だった。
同志だと思っていた。己と同じだと思っていた。しかし彼は、己には──親が居ない己には到底理解できないような理由で、聖闘士を目指していた。
氷河が亡き母を慕っているという事は普段から知っていたが、所詮は己と同じ孤児なのだと── なのに、裏切られた、と思った。
いやしかしそれは、親が居る事についての嫉妬だとか、そういうことからくるものではない。想像すら出来ぬ事を、嫉妬しようもない。
アイザックが憤りを感じたのは、同志であるはずの氷河が、己と同じものを見ていなかったのだという事に対するものだ。
だがカミュは、理解できぬ事も受け入れろ、と言った。納得いかなくとも、それが悪い事であると決めつけるのは傲慢だと。しかしそれがどうしても想像の及ばぬ、受け入れがたいものである時はどうすればいいのか?
「アイザック。おまえ、氷河の事が好きか?」
カミュは、絶妙のタイミングで、アイザックにもう一度尋ねた。もしかしたら、黄金聖闘士、しかも超能力に長けた凍気使いには、未熟な候補生、しかも現在感情が乱れて思考がだだ漏れなアイザックの思考は、エムパス能力によって大体わかっているのかもしれない。
「……氷河は」
アイザックは、ぐっと拳を握り締めた。
「馬鹿だし、抜けてるし、ボンヤリで世話がかかるし、ものすごいマザコンだし」
どこか幼い罵倒に、カミュは微笑ましげに苦笑した。……否定もしなかったが。
「……でも、泣き言は言わないし」
俯く。唇を噛み締めた。
「どれだけ辛くても、訓練を投げ出したりしない。言われた事はちゃんと守るし」
「そうだな」
確かにそれは、氷河が持つ美徳だ。言葉だけ聞けば、確かに善いものではあれど普通のことに聞こえるがしかし、聖闘士の訓練を泣き言ひとつ言わずにやり遂げるというのは、まさに並大抵の事ではない。アイザックですら、最初の頃はその過酷な訓練に何度か泣きが入ったことがあるというのに。
氷河という少年は、そういう、想像を絶する根性の持ち主で、そしてそれは、アイザックを否応なく納得させ、また敬意を払わざるをえなくさせるものだった。
(……あれは、母親の為の努力だったのか)
それを知った時、アイザックは失望した。氷河のあの素晴らしい努力が、自分と同じ目的の為でなく、亡き母の為のものだったという事に。
──しかし、氷河の努力は確かに本物だ。築き上げた、紛れも無い事実と実力なのだ。
「氷河は……」
アイザックは、噛み締めるように言った。
「馬鹿で抜けてて世話がかかるけど、……根性があって、泣き言を言わない、いいヤツです」
「私もそう思う。好ましい事だ」
カミュは、微笑んで頷いた。
「氷河は……」
アイザックは、顔を上げた。
「……オレの、大事な、おとうと弟子です」
カミュは、深く微笑んだ。温かな沈黙が数秒続いた後、少年の師である彼は、言った。
「では、信じて見守ってやりなさい」
「信じて、見守る……」
それは、カミュがアイザックと氷河に対し、いつも行なっている事だ。手の届かぬ高い所にいる絶対的な存在、しかし自分たちを信じ、必ず成せるのだ、と見守っていてくれる師匠。
「全てを受け入れ、同調する必要はない。お前にはお前の意思があるのだからな。そして、肉親の居ない我々に、家族を想う事がどういうことなのか、想像する事は難しい。だがおとうと弟子を大事に思っているのなら、──友だというのなら」
まっすぐに、カミュは一番弟子の、灰色混じりの青い目を見た。
「その意思を信じ。手助けする事まではなくとも、見守ってやればいい。……結果的に、最後には、違う道を行く事もあるかもしれないが」
カミュは、厳かに言った。アイザックは、神妙に、師の言葉を聞いている。
「その時は、自分の信じる道を往け。──私は、それを見守ろう」
その言葉に、アイザックもまた、師の赤茶の目を見た。黄金の器、神とも闘える強大な小宇宙がたゆたう、大きな器のあたたかな輝きが、そこにあった。
「……はい、カミュ」
少しきまり悪げに、だが落ち着いて、どこか照れくさそうな様子で頷いた弟子に、カミュはこれまで浮かべていた微笑ではなく、はっきりと、にっこりと深い笑顔を浮かべた。
砂っぽい色の金髪の上に、カミュの、少し薄めの手のひらが乗せられる。
「良い子だ」
乾燥しきった凍える風のせいで、子供の髪はぱさついている。しかし、子供らしく柔らかかった。
「ああ、おまえは賢く、優しい良い子だ、アイザック。良い兄弟子をもって、氷河も幸福だ」
アイザックは、俯いたまま、照れくさそうに、しかし嬉しげに笑んだ。
我が師は、いつもはっきりと、ストレートにものを言う。叱る時も、諭す時も、そして、こんな風に褒める時も。──だから、アイザックはこの師が好きなのだ。
氷河は恵まれている、と、カミュは言った。
だがアイザックは、かつて氷河に言ったように、カミュに指導を受けられる事こそが幸福だと、今改めて、深く確信した。
己には、肉親は居ない。どういうものなのか、想像もつかない。
──だが、この師が見守ってくれる幸福があれば、そんなものは気にもならない。
アイザックはいつも通りの快活な笑みを浮かべると、きびきびした様子で、倒れた椅子を起こす。
そして、アイザックに殴られ、きっとここに戻りかねてきまり悪く雪原をうろついているのだろう氷河を迎えに行くべく、扉を開け、白い世界に飛び出した。