4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
<6>
 その日は、カミュが聖域に向かってすぐの日であった。
 師が居ない事、そしてそれをお互いに一人で過ごす事にも慣れた彼らは、いつものように師を見送り、そしていつものように、それぞれ別の事を始めた。
 訓練メニューをこなしに行く、と一言残して雪原に消えた氷河の後ろ姿をろくに見送る事なく、アイザックは先日手に入れてきた物資の整理を始めた。こうすれば、氷河が戻ってくる頃に今度はアイザックが訓練の為に雪原に出て、すれ違いとなる。
 以前なら、一緒にメニューをこなしていたであろうが、アイザックはそうしなかった。

 あれ以来、氷河とアイザックの関係は、僅かに、そして決定的に変化した。
 仲が悪くなった、というわけではない。しかし、ただ無意味に一緒に居るような時間は殆ど無くなり、それぞれ個人の時間が増えた。
 そもそも同じ修行地で同じ修行をこなす候補生同士には、聖闘士の修行という極限状態の生活を共に送るということから、吊り橋効果のようなものがもたらす、一種異様なほどの強い絆が生まれる。アイザックと氷河の間のそれも例外ではない。
 同じ釜の飯を食い、共に死地をかいくぐった戦友同士の絆。魂に刻まれるほどに強いその絆が、今回の事で変化した。
 もうあと数歩で聖衣を得るまでになるだろう実力を身につけた、すなわちもう滅多な事では死と隣り合わせにはならぬ程度の強靭さを得た彼らは、改めてお互いの考え、思想、望みを知り、それがあまりに違う事に気づいたのである。極限状態で真っ赤に熱された頭に、氷塊を突っ込まれたような衝撃が、そこにはあった。
 特にアイザックにとって、その衝撃は重かった。肉親に、ただ一人の個人に執着するというごく人間的な氷河の有様は、地上を守り、正義を貫き、全を愛し個を捨てることこそ至上という聖闘士のあり方を目指すアイザックの理想に真っ向から反するものだった。

 だがアイザックは、氷河を見守った。

 そうさせたのは、思想の違いは争いの原点にはなり得ぬはずだと教えた師カミュの言葉であり、そして氷河を大切なおとうと弟子と思い共に過ごした数年間であった。実際に過ごした日々が、思想の違い、価値観の違い、お互いの理想を否定するはずの望みを持つ相手を見守るに留めた。
 戦時中、暗闇で僅かな食料を分け合い、言葉を掛け合い励ましあって生き延びた兵士が実は敵同士で、灯がついてからそれを知ったとき、無言でその場を離れた、というような様子にも、それは似ていた。
 そして彼らの師であるカミュもまた、それを放置した。ある程度の実力を着けた彼らに必要なのは既に肉体的な鍛錬よりも、精神的な成長であると判断したからである。ただ子犬の兄弟のように雪原を転げ回り、お互いに噛む力加減を学ぶ時期は終わった。それぞれがひとり瞑想し、己の中に生まれた宇宙──小宇宙がどういうものなのか正しく把握し制御する、それこそが必要だと判断したカミュも、また彼らを見守ることにしたのだ。
 それは、正しい判断のはずだった。誰に聞かせても頷くような、理想的かつ模範的な判断だった。カミュは教師として希有な資質を持つ聖闘士で、いつだって弟子たちがよりよく成長できるよう、細心の注意を払い、常に心を砕いてきた。弟子たちもそんな師を尊敬し、誠意に誠意を返すために、精一杯努力してきた。

 だからこの後起こった事は、不幸な事故、悲劇、──あるいは、運命。そうとしか言いようのない事であった。






 氷河は、いつも訓練を行なう場所ではなく、以前から少しずつ情報を集め、やっと特定したその場所に来ていた。
(……マーマ)

 ──この下に、母が居る。

 そう思うと、どくんと身体が脈打ち、体温が上昇する。指先が震えそうになるのを、深呼吸して抑える。
 あの日から5年、一日たりとも忘れる事の無かった目的。母が沈んだ船の場所を、氷河は5年かけて、やっと正確に掴んだ。
 それは時折やってくる色々な船の乗組員、海の知識が豊富な人々に少しずつ聞いて回って集めた情報を整理した結果であり、また、厳しい訓練の僅かな合間に、自ら海や航海術、船舶の知識を学んだ成果でもあった。
 氷河が個人的にヤコフの一家に頼んでそれらの情報を集めている事を、カミュも、アイザックも知っているだろう。事情を話せばヤコフの一家は氷河にとても同情し、惜しみない協力を買って出てくれたし、カミュもそれを咎める事は無かった。

 ──アイザックにそれが知れた時はああして殴られたものの、カミュから一言あったようで、氷河がしようとしている事に反対する事は無くなった。むしろ、あの辺りは本当に潮流が複雑なので、しっかりと実力をつけてから実行するように、と事あるごとに注意してくるようになった。

(アイザック……)
 死線を共に潜った兄弟子の事を思い浮かべ、氷河は僅かに目を伏せる。
 アイザックは、氷河に協力的になった──ように見える。しかし氷河は、この事に関して、生来の素直さでもって受け止めることが出来ないでいた。
 アイザックは、聖闘士として、模範的な心根を持った少年だ。母を忘れられずに居る自分とは正反対に、地上の全てという、とても大きなものを抱えて闘おうとしている少年。
 そんな彼に母に会う事を応援されるのは、有り難い事のはずだ。しかし氷河はどうしても、それを素直に受け止めることが出来ない。
 アイザックがあからさまに氷河を避ける事は無いが、ただくだらない事、なんで笑っているのかわからないような事で笑いあったり、無意味に一緒に居る事が無くなった。つまり、生活や訓練といった面での必要最低限のことでしか、氷河はアイザックと言葉を交わしていないのだ。

 ──さっさと目的を果たして、どこかに行ってしまえ。
 母へ会いに行く事について話題にされる度、そう言われているような気がして、氷河は胸がちくちくと痛む。
(無理も無い──のだろうな)
 聖闘士になる為の力を私的に使う事がどれほどけしからぬ事か、氷河は相変わらず実感が薄いものの、そうされている、という事はわかっている。そして自分と違い、聖闘士として模範的な心根を持つアイザックが、それを許せないと思っているだろう事も。
 先程、訓練に行く、と言ってアイザックと別れたとき、アイザックは小さく了解の返事をしただけで、氷河の方を振り返らなかった。
 だから、アイザックは知らないだろう。氷河が少しの間、彼の背を見送っていた事を。
 邪険にされているわけではない。──しかし。
(アイザックにとって、俺はもう、親しいおとうと弟子ではない)
 自分のしている事を思えば、それはきっと当然なのだろう。だからそのことを自分が寂しいと思うのは、自分勝手な事だ。何故と言って、氷河はアイザックを振り向かせる為に何かする事なく、母の居る場所へ向かって走ったのだから。

(俺はもう、聖闘士になろうとする資格はない)
 もしこのまま候補生として修行を続けたとしても、キグナスの聖衣を得るのはきっとアイザックで、自分ではない。自分より数段上の実力を持ち、そして自分とは比べ物にならぬ程、聖闘士として模範的な心根を持つアイザック。
 氷河は、足下の分厚い氷の地面を見つめる。ここに来た頃はただ氷のような大地と思っていたそれが、実は信じられないほど分厚い氷塊で、その下に海が広がっている事を、氷河は知っている。そして今、自分はそれを割り砕く力を得たのだという事を。
(──マーマに、会ったら)

 ここを、去ろう。

 氷河は静かに目を閉じ、空を仰ぐ。
 すう、と、冷たい大気を吸い、小宇宙を燃やす。ここに来た頃はただ凍えないようにと身を強ばらせるだけだった氷の世界を、氷河の小宇宙が支配し始める。
 過ぎる時間が、ゆっくりと遅くなる。ZONE──超感覚の世界の中に、氷河は居た。これ以上なく固く握り締めた拳が、ゆっくりと振り上げられる。
 カッと開いたアイスブルーの目には、分厚い氷の厚さが、はっきりとわかった。

──ドオオオオオン!!

「……や……」
 やった、と、目の前に空いた大穴の淵で、氷河は泣き笑いのような表情で呟いた。数メートルもの深さの穴を覘けば、衝撃に揺れる真っ暗な海面が見える。
 ──師・カミュの指導を受けて、5年。
 グラード財団の施設で理不尽に大人に殴られても、厳しい氷の大地での辛い訓練を貸されても、氷河は弱音を吐かなかった。泣かなかった。
 だがしかし、今。決して融けない氷のようだった母譲りのアイスブルーの目から、じわりと熱いものが溢れる。
「や……やっと」

 ──やっと、マーマに会う事が出来る。

 そう呟いたと同時に、氷河はもはや衝動的な勢いで、暗い海に飛び込んでいた。



「──氷河!」
 それから、どれほど経ったろうか。
 訓練にしては氷河の帰りが遅いと気づいたアイザックがもしやと思った予感は、当たっていた。
 ドオン、という僅かな地響きとともに氷河の小宇宙が爆発するのを感じた場所は、いつも訓練を行なう氷原から、随分離れた場所であった。
(──やはり、潜ったか)
 氷の地に開いた巨大な穴を目前に、アイザックは眉を顰めた。潜ったであろう時間を考えると、上がってくるのがあまりにも遅すぎる。
(ま……まさか、潮流に巻き込まれたか!)
 この辺りで沈んだという氷河と彼の母が乗っていた船は、何泊もかけて別大陸に向かうに相応しい規模の船だった。そんな船が沈むほどの複雑な潮流はここらでも有名で、犠牲になった氷河の母が有名な元プリマであったことから尚更有名になった。だから子供の氷河が場所を特定するのも思ったより難しくはなかったし、一般人とあまり交流を持とうとしないアイザックの耳にも、その潮流の恐ろしさについての話が入ってきていたのだ。

「くっ……あれほど以前に注意しておいたのに……」
 ぎり、と歯を食いしばると、アイザックは体勢を整える。
「……待っていろ、氷河! 今助けに行くぞ!」



 ──アイザックは、泳ぎが得意だ。
 この環境でカミュが課す訓練の中には、当然ながら寒中水泳もある。カミュとて海の恐ろしさは重々知っているので、それほど難しい海流のところでは行なわれなかったし、必ずカミュが側についての訓練だったが。
 すべてにおいてアイザックがやや勝る傾向があるとはいえ、アイザックと氷河の実力は、ごく近いレベルである、と言っていいだろう。しかしこの水練となると、二人には大きく差が現れた。

 実際、このように氷の海に飛び込んでいけるだけ、氷河もかなりのものではある。しかしアイザックは、比べ物にならないほどに海中での動きが滑らかだった。氷河の動きは海に対して慎重を期した上でのものであったが、アイザックはどこか、陸の上の延長のような様子で、海の中を動く事が出来たのだ。

 それが何故かは、わからない。
 アイザックはここに来る前殆ど泳いだ事がなかったので、とんでもないことではあるが、海で泳ぐのはこの氷の海が初めてだった。普通なら、と聖闘士の訓練で口にするのはもはや馬鹿馬鹿しいが、さあ泳げと言われた時、アイザックは不思議と恐ろしさを感じなかった。
 どきどきとは、した。しかしそれは恐怖から来るものではなく、おもしろそうなものに対してのわくわくとしたもの、いわばジェットコースターに乗る前の子供が持つ心地に近いものだった。

 才能だろう、とカミュは言った。産まれもってのものだろう、と。実際、そうとしか言えない。アイザックには、海を理解する事が出来た。多くの生き物は、雄大すぎて流されるままでしかいられない海の中で、どう動けばいいか感覚で理解することが出来た。
 そしてそんなアイザックが危険だと本能で感じているのが、この潮流だった。理解できても、実際に攻略するのは困難を極める。感覚的なものなので他人に口で説明する事は出来ないが、とにかく、雄大な海の中でも、触れてはならない危険な場所、とアイザックが見なしているのが、ここであった。──よりにもよって。
(や……やはり思った以上に潮流の勢いが強い!)
 うっかり巻き込まれたらとんでもない方向へ流されてしまうぞ、と、アイザックは気を引き締めた。

 海を自在に泳ぐには、ただ己の身体を上手くコントロール出来れば良いと言うわけでは決して無い。陸での大気の代わりに、海では水がある。そして陸地で常に風が吹いているように、海では常に波が揺れている。そして波に逆らう事は、風に逆らうのとは比べ物にならぬ程に困難を極める。
 つまり、海の中、しかもこのように複雑な潮流の海の中を泳ごうとするというのは、荒れ狂う嵐の中で紙飛行機を飛ばすような行為に等しい。実際、海獣や魚たちも、ここらの危険さを理解しているのだろう。こんなにも広々とした空間であるにも関わらず、その姿は一匹も見えない。
 シベリアの氷海とはいえ、生き物が全く居ない暗い海は、一般的な感覚でもって、気が狂いそうだと思う程度には不気味だった。

 しかしアイザックは、絶妙に波を読み、慎重に海を泳ぐ。あまり深い所まで泳いで行ってはならない、とカミュからきつく言われている事もあるが、ここまで深い所を泳ぐのはアイザックも初めてだ。
 それに、先程も思ったように、予想よりも潮流の勢いが強い。少しでも気を抜けば、あっという間に流されてしまいそうだ。
 ──しかし、
(思ったよりは)
 泳げるな、と、アイザックは少し拍子抜けだった。
 いやそれよりもむしろ、こんな状況でなければ、面白い、と思っていたかもしれない。確かに複雑な波で構成された海は、一瞬たりとも気が抜けない。しかし、不思議と恐ろしくはない。むしろこの緊張感を保ち、難しい波を読み切り攻略して行くのは、どこか気分を高揚させた。

 ──呼び込まれているような。

 ぼんやりとそう感じたその時、アイザックはハッと目を見開いた。暗い海の底に見える、巨大な船影。
 あれが、氷河の母親が眠る船か、とアイザックはどこかしみじみとした。何年もの間氷河から聞いていた事ではあるが、実際にその事実を目の当たりにすると、何やら奇妙な心地すらする。
 しっかりした作りの船は、使用されている素材も頑丈なようだ。氷点下の温度の海というのもあるだろうが、沈没してから約5年余り、ロープや帆などもおそらく当時のまま残っている。
 そしてその、マストの先から両船側への支索綱、波に漂う太いロープ網の合間に、きらりと光る白い輝き。

(──氷河!)

 この複雑な潮流の中、ひとりの少年をこんなにも早く見つけられたのは、かなりの確率の幸運。そして、何が何でもこの船に辿り着こうとした、それこそ岩にかじり付くような氷河の意思がなせるものだろう。
(こ……こいつ)
 海の中にも関わらず、アイザックは思わずぱかりと口を開けそうになる。
 氷河は気を失ったまま、船の横静索シュラウドにしがみついている。それは、彼がこの潮流にのまれた時、海上に上がろうとせず、必死にこの船だけを目指したという行動の結果をありありと示すものだった。
(そ……そんなに)

 そんなに、幼い頃死に別れた母親に会いたかったのか。

 アイザックにはやはり理解しがたいその願いであったがしかし、今、その願いの強さを実際に目の当たりにして、アイザックは気圧された。
 理解は出来ずとも、このような姿を見せられれば、否応なくその強さを感じてしまう。──そしてそれは、理解できずとも認めてしまう、問答無用の説得力にも変ずる。
 事実今、アイザックの胸には、よく分からない衝撃と感動のようなものが胸にせり上がってきていた。
(──氷河よ、その熱い想いを正義の為に向けたなら!)
 お前はとてつもなく強い聖闘士になれるのに、と、アイザックは唇を噛み締める。
 自分が聖闘士として、地上の正義に向ける想いは、氷河が母に向ける思いよりも強いだろうか。──否、と言うほど、アイザックの思いも軽くはない。しかし、是、と即答することは決して出来なかった。

 半ば呆然としていたアイザックであったが、ゆらりと不穏に動いた波と、それに揺れる氷河の金髪にハッとして、慌てて氷河の安否を確かめる。
 氷河の身体に絡んだロープを慎重に解きながら、小宇宙がきちんと感じられることにホッとする。そして、どうも溺れたというよりは、強い潮流の衝撃で気絶しているといったほうが良い状態のようだ。つまり水はあまり飲んでいないようなので、素早く海上に出れば十分助かるだろう。
 もちろん普通の人間ならとっくに溺れきっている状態だが、氷河は聖闘士候補生だ。アイザックとて、海に入ってから今現在まで、ゆうに10分は経過しているが、まだ余裕がある。

(こんな所で死んだら、聖域へ出掛けている師カミュが悲しむぞ……)
 ぐったりとした氷河を抱え、慎重に上昇を始めたアイザックは、心の中から強く氷河に呼びかけた。きちんと習得できていないが、小宇宙によるテレパスである。氷河の小宇宙はまだ消えていないので、小宇宙で語りかければ、意識のどこかで感じ取る事は出来る。多くの病人に対してそうであるように、意識に語りかける事は、回復への大きな手がかりとなる。
(さあ帰ろう、母親にはこの次に必ず会える)
 だがアイザックは今、救助の為の処置としてではなく、ただ氷河に話しかけていた。
(も……もうすぐ海上だ……)
 氷に開いた巨大な穴、そこから差し込む陽光が、きらきらと光っている。小さな氷や泡の粒が、ダイヤモンドダストのように舞う中を、アイザックは泳ぐ。泳ぎながら、話しかける。
(死ぬんじゃないぞ、氷河……!)
 それは、氷河の強い思いを目の当たりにした事による感動からであり、また、最近自ら押しのけていた、大事なおとうと弟子に対する思いからだった。

 ──死にかけている“家族”に対する、純粋な、そして必死な呼びかけ。

 アイザックがそれを発した瞬間、ゆらり、と波が揺らいだ。
(うっ……!?)

──ゴゴォオッ!!

 凄まじい勢いの潮流が、突如二人を襲った。
(な……何だ、この潮流は!)
 複雑で、そして強い波である事はわかっていた。しかしそれにしても突然過ぎる流れに、アイザックは戸惑う。きらきら光る太陽の光が遠ざかり、暗い深海へと引きずられて行く。
 パニックを起こしてもおかしくない状況であったがしかし、常にクールであれ、という師の教えを忠実に守ったアイザックは、焦りを感じながらも冷静な判断をする事に務めた。
 内臓を押し潰すような水圧に耐えながら、巨大な波の隙間を読む。動きの違う波の隙間に滑り込めば、違う方向に向かうことが出来る、いつものようにそうしようとした。

(ぐぐ……、だ……駄目だ)
 おそらく、一人なら何とかなるだろう。しかし二人分の体積と、そしてその体積がもたらす水の抵抗を考えると、この流れから抜け出すのは不可能だった。
 ──しかし、氷河をおっ放り出すわけにも行かない。
(う……うう……)
 脱力して流れるままであるせいで、潮流の水圧がそのままかかっている氷河の身体は凄まじく重い。
 しかし、少しでも身体を動かすことが出来れば、流れの隙間に滑り込むことが出来るかもしれない。その状況で、アイザックはもがいた。普通に考えれば絶望するしか無いその状況で、限界を超えて奇跡を起こそうとした。
 小宇宙を、燃やした。その時だった。

──ゴオッ!!

 またも突然の、突風のような波が、アイザックと氷河の身体を木の葉のように舞わせる。
 そして──

──ガシィッ!!

 軋んだような衝撃は、氷からだろうか。それとも、アイザックの頭蓋からだろうか。
 海中でなければ、盛大に叫んでいる──いや、直ぐさま気を失っているだろう。しかしアイザックはそうせず、むしろ自分の頭に氷塊がぶつかったという事実から、頭上に突起が突き出た氷塊がある事に気づき、それを掴んだ。

(くうう……、だ、だいぶ流されたな…… これでは元の穴に戻るのは不可能だ……)
 この辺りの氷を割って海上へ出るしかない、と判断したアイザックは、氷塊と氷塊が作る波の死角、流れが死んでいる影に素早く潜り込んで氷河を抱え直すと、頭上の氷に拳をぶつけ始める。
 いまのアイザックの状態からすると、それは異常なほどに冷静な思考だった。
 それは、氷点下の海の中でアイザックの痛覚が随分鈍っていた事によるものであった。アイザック自身は、今の衝撃を、視界がチカチカするような大きな衝撃を受けた、程度にしか捉えておらず、またそれも、細かく舞う泡の粒と混ざってしまっていた。
 元々小宇宙を発揮して潜ってきたのであるが、今までに無い極限状態となったこの現状で、アイザックの意識は極端に狭められていた。ZONEの果ての小宇宙がもたらしたこれ以上無い集中力は、“氷河を助けなければ”──それ一点のみに集約されていた。
(くっ……)
 氷塊の影から影へ、場所を変えながら頭上の氷の分厚さを確認するアイザックであったが、ここだという場所は見つからなかった。
 絶望するに足りすぎる状況、アイザックは必死に気を奮い立たせ、それ以上移動するのをやめ、小宇宙を燃やした。

(も……もしこの氷が10メートル以上の厚さだったらもう終わりだ……)
 そうして自分を追いつめ、更に小宇宙を燃やす。しかし、何度拳を繰り出しても、少しずつ氷を削るばかりで、びくともしない。
(う……、う……!)
 陽の光を完全に遮る厚い氷、思うように力の入らない拳。陽の差さない、呼吸を許さない、氷点下の凍える世界がもたらす絶望。しかしその焦りが、窮地が、アイザックの小宇宙に爆発を起こした。

「……うおお────ッ!!」

 ごぼ、という泡の音とともに、水中だとはとても思えない規模で、アイザックの雄叫びが響いた。

──バコォオン!!

 崩れた氷塊の、雪崩のような濁流の隙間から、きらきらとした強い陽の光が、半分になった──半分である、とアイザックはそのとき初めて気づいた──アイザックの視界に降りる。
(や……やった……、う……く……)
 きらきらと輝く光に、気が抜けそうになる。しかしアイザックは、最後の力を振り絞った。

「い……行け、氷河────ッ!」
 抱えていた氷河を、海面に向かって投げる。
 それは10メートル超の氷を海中から砕くのと同じ位の奇跡であったが、アイザックはやり遂げた。──やり遂げた事を、確かめることが出来ないまま。
(う……)
 ずる、と、氷塊の突起から、アイザックの手が離れる。
 小宇宙を燃やし尽くしたアイザックの身体には、もう力のかけらも入らなかったのである。



 意識は、朦朧としていた。
 小宇宙を限界まで燃焼した上、アイザックは自覚が無いが、その源である血液を大量に失っていたのだから、奇跡が起こる隙などなく、当然なるべくしてなった結果だった。
 きらきらと輝く陽の光は──ダイヤモンドダストのように舞う泡は、もう見えない。ただ流され引きずられるまま、少年の体は、真っ暗な深海へ沈んでいく。
 先程まで極限まで鋭敏になっていた思考は、まるで寝ぼけたように緩慢だった。だんだんと暗くなって行く視界と比例して、意識が薄れて行く。

 アイザックがまだ正気なら、あれほど激しかった波がすっかり静かになっている事に気づいただろう。しかしもはやゆっくりと眠りに落ちるような状態のアイザックは、ただ無抵抗なまま、静かに沈んでいく。
(あ……)
 完全に意識がブラックアウトする寸前、アイザックは、意識の端、視界の端に、それを捉えた。

 それは、不気味な影であった。
 しかし、陽の光よりも明るい、神秘的な輝きにも見えた。

(あれは、)

 判断する事の難しい、正体不明のそれ。
 しかしアイザックには、それが何なのか、なぜかはっきりとわかった。
 陽の光とはまた全く違う明るさの、橙色の輝きを纏ったそれは、平べったく、湾曲した菱形から細い尾を伸ばした、海鷂魚に似た姿。

(クラーケン……)

 古代よりその存在を知らしめながらも、人間たちに未だその形容すらはっきりとわからぬ怪物。
 それが今、アイザックの目の前に、はっきりと姿を現していた。






 アイザックが行方不明となった事は、氷河とカミュに、絶大な爪痕を残すこととなった。

 聖域から戻ったカミュは、まず瀕死の氷河の有様に驚愕し、またその状況からアイザックがどうして居ないのかという事を察して、真っ青になった。
 結果から言うと、カミュはその日から日に何十回も氷の海に潜り、それを何十日も続けることとなる。

 そして、その行為はいくらカミュが黄金聖闘士と言えど、堪えるものだった。狂乱していると言っていい状態で、壊死を起こしかけた身体にも構わず海に潜り続けるカミュを羽交い締めにして止め、またヒーリングを施したのは、聖域からやってきたミロだった。
 カミュのその様を見て、彼のことを、アイザックが評したように、聖闘士の模範と言う者は居るだろうか。
 ただ居なくなった子供を捜して広大な海を探しまわる彼の様は、聖闘士ではなく、ただ子を求める親そのものであったのだから。

 そして氷河は、その頃の事を、あまり鮮明には覚えていない。いや、衝撃が大きすぎて、現実をよく理解できなかったというほうが正しいだろう。

 己を助ける為に、アイザックが消えた。

 その事実は、氷河に絶望をもたらした。この状況で唯一うまくいったことがあるとすれば、遅れて現実を直視した氷河に対し、カミュが正気を取り戻した事であろうか。
 カミュが受けたショックもまた狂乱を起こすほどに絶大であったが、目の前に居る生き残った弟子の精神まで壊すまい、と直ぐさま動くことが出来たカミュは、自らクールが信条と公言する彼らの師匠として、やはり非常に優秀であると言わざるを得ない。
 彼はもしかしたら、聖闘士の模範ではないのかもしれない。しかし、子供を、弟子を導く師としては、間違いなく鑑と言っていい人物だったのだ。

 ──俺が、アイザックを殺した!

 氷河は、泣いた。
 泣き、叫び、己の全身の肉を掻きむしらん程に喚いて絶望した。
 自分が兄弟子を殺したのだと。
 私欲の為に聖闘士の力を得、また決してそれを諦めようとしなかった自分。アイザックはそれを許容し、そしてあろうことか助ける為に命を落とした。

 氷河は己を嫌悪し、なぜ自分が死ななかったのかと天に叫んだ。氷の海に飛び込んだ時、氷河は半ば死ぬつもりだったと言っていい。母に再び会うのだと誓った幼い日から、氷河はただそれだけを目標に生きていた。死者に再び会う、それを目的にした生が果たして前向きな生き方なのかどうか、判断する事は難しい。
 しかしそれは、命を賭けた、願いだった。5年をかけて、それを成した。その結果、自分がどうなっても構わなかった。

 ──だがその結果、あの素晴らしい兄弟子を失うことになるなどと、誰が思うだろう。
 しかも、アイザックはそれを心から応援していたわけではない。一度は殴り掛かるまでに激昂し、しかし氷河の意思を尊重し、そっと見守っていてくれた。そして優しい兄弟子は、へまをした自分の尻拭いをする為に、そのかけがえのない命を落としたのだ!

 俺がアイザックを殺したのだと叫びながら、吹雪の中、凍えるのも厭わず走り、海に飛び込もうとする氷河を、カミュは必死に引き止めた。
 そして殴り、怒鳴りつけ、諭し、抱きしめ、共に泣いた。
 カミュもまた、指導者でありながら、危険な時に彼らの側に居なかった自分を責めた。
 それはカミュのせいではないと氷河が言い、そしてその一言から、二人はこれから先を生きて行く道を一歩踏み出す。
 カミュは氷河を責める事なく、また氷河もカミュを責める事は無かった。ただ、かけがえのない家族が居なくなってしまった事に、抱き合って泣いた。そして、彼を奪った厳しい氷の大地に、氷の海に、やり場のない、やるせない激情を抱いた。
 聖闘士として、守るべき、愛すべき、雄大な自然に対する憎しみ。
 ちっぽけな人の身で、途方もなく雄大な大自然に対し憤りを向けるのは、ただただ虚しいばかりの行為であった。

 それは、聖闘士のあり方ではなかった。
 個人的なものを持たず、地上を、世界の全てを愛し闘うべき聖闘士の姿ではなかった。
 それはただ、お互いをこの上なく愛する家族の姿、それだけだった。

 居なくなった家族を悼む二人の上に、ダイヤモンドダストが降る。
 ──雪が、踊る。
 小さな結晶が、二人の熱い涙の上で、音無く溶けた。
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BY 餡子郎
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