4.The Snow is Dancing(雪は踊る)
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「お前のおとうと弟子が来るようだぜ、クラーケン」
どこかからかうように、試すようにかけられた声に、少年は右側から振り返った。
左目を失った事から、右側をよく使う事が癖になって、一年が過ぎようとしている。ぐずぐずに潰れた眼球は、優れたヒーリングをもってしても再生する事は叶わなかった。頭蓋の眼窩部分ごと肉を巻き込んで傷ついた左目には、まだ子供っぽさを僅かに残す顔には不釣り合いな、大きな傷が残っている。
「白鳥座キグナスの青銅聖闘士、氷河。お前のおとうと弟子、そうだろう? 確か」
「ああ」
特にリアクションを起こす事なく、少年は平静な返事をした。声をかけた男が、少年の纏うものと同じ輝きを発する兜の下で、片眉を上げる。
「何だ、反応が薄いな。もっと動揺するかと思ったのに」
「相変わらず悪趣味だな、カーサ」
「褒め言葉を有り難く受け取っておくぜ」
吊り上がった口元から、ひひ、と、意地が悪そうだがどこか剽軽な笑いが漏れる。
彼が被っている兜は、顔の殆ど、しかも中央部分をすっぽり隠すデザインで表情は読みにくいはずだったが、彼自身の性格なのだろう、ひょろりと細い身体全体が抑揚のある表情を現している。
リュムナデス──ひとの心の中から最も重要な存在の声や姿形を再現し、心の隙をついて殺すという水の魔物。それと全く同じ能力を持つ彼のことを、同じく海の魔物、クラーケンと呼ばれるようになった少年──アイザックは、不思議と嫌いではない。
あの頃、聖闘士を目指していたあの頃なら、きっと蛇蝎のように嫌悪していただろう、とアイザックは苦笑半分で自覚している。
「しかしまあ、えらい変わり様だ。ここに来た時の反応が嘘みてえ」
「褒め言葉だな。有り難く受け取っておく」
にやりと笑ってアイザックが返せば、ヒュウ、とやたら上手い口笛とともに、カーサが異様に細い肩を竦める。そもそも、ついこの間、師であったカミュが死んだと報告した時も、彼の反応は拍子抜けするほど薄かったな、と思い返しながら。
カーサ、彼はアイザックより七つは年上で、ここでは年長者の部類に入るが、身体的には最も小柄だった。身長はアイザックよりも低く、170センチに届いていないのは兎も角として、戦士とはとても思えないほど、そもそも健康面でどうかというほど細いのだ。その上猫背で、更には膝や足首の関節が奇妙に曲がっているせいで、立ち姿はどこか安定しない。少なくとも、戦士の有り様では全くない。どこか街の暗い裏路地が似合うような風体であった。
そんな風にちっとも強そうに見えないが、決して弱くない──いやむしろ、戦いともなれば最も恐ろしい能力を発揮する彼を、アイザックは軽んじた事はない。
それは、ここに来た頃彼に心を読まれ、かつての師とおとうと弟子の姿を再現されて度肝を抜かれた日から、ずっとそうだ。
「むしろ、おまえが化けてみせるのが予行演習になったんじゃないのか」
「なるほど、それは考えられる」
何かに遮られているようにくぐもった、笑みの浮かんだ声。
見れば、透明な膜の向こうで、アイザックと同年くらいか少し上くらいの少年二人がこちらを見ていた。二人とも、アイザックやカーサと同じ輝きを放つ甲冑を纏っている。
ひとりは、かっちりと隙のない、どこかストイックな印象を受ける固いデザイン。甲冑の下から、柔らかい茶色の長髪が伸びている。
対してもう一人は、非対称的で装飾的なデザインが特徴的な甲冑で、頭につけているのは兜というよりもサークレットといったほうが近い。その橙色の輝きと、そしてその下で揺らぐ鮮やかな珊瑚色の髪は一層派手だ。驚くべき事に染めているわけではないようで、眉や睫毛までみごとなコーラル・ピンクである。かのカミュの赤毛より、彼の頭髪は強烈なインパクトがあった。
彼らの名は、バイアンと、イオという。それぞれ、ポセイドンの乗る戦車を引く事で知られる海馬シーホース、6体の魔物が合わさったキメラと化した乙女スキュラを身に纏う。
「おまえら、またそ(・)っ(・)ち(・)で遊んでるのかね」
呆れたようにカーサが言うと、バイアンが首を竦めた。茶色の長髪が、海水の中で揺れる。
「だって、こっちのほうが居心地がいいからさ」
笑いながらそう答えたイオが、くるん、と滑らかに宙返りを披露した。スキュラ──鱗衣(スケイル)を纏えばこのように海中での呼吸や会話、また陸の上よりも自在な動きが可能になる。彼らは殊更それを愛していて、暇さえあれば海底神殿の外に出て、魚の群れと一緒に泳いだり、鮫を追いかけたり、イルカと遊んだり、鯨の歌を聴きながら昼寝をしていたりする。
「まあ、気持ちは分かるがね──」
兜の下に枝のような指を突っ込んで、カーサは頭を掻いた。
そう、気持ちは分かるのだ。海を司る神の戦士である彼らは、人間の身体を持って生まれては居るが、もっと根源的なところで、陸の生き物ではない。
アイザックもまた、ここに来て──そしてクラーケンとまみえて、それを自覚した。自分は海と相性が良いのではなく、海で生きるべき者だったのだと、どうしようもなく、魂の底から理解した。
「戦いも近いのにあんまり遊んでると、海龍にまた怒られるぞ」
いちおう年長者らしく、カーサが言う。
アイザックは、目の前の、既に日常と化した光景を見遣った。海の底、結界による不思議な膜で確保された空間、ポセイドンの海底神殿。決して人が踏み入る事の出来ないその領域と、人の身でありながら海中で生きる自分たち。
その一人であり、海の住人としてアイザックより十年以上先輩のイオは、相変わらず海の中に身を置いたまま、生来の生意気そうな表情で、つんと上を向いて笑って言った。
「ふん、あんなオッサンなんて怖いもんか」
「ほう」
ぞくり、とするほど滑らかなバスが響き、イオとバイアンが飛び上がった。──とはいっても海中での事なので、まるでタツノオトシゴが跳ねるように、ふわん、と跳ねただけであったが。
「やば……」
「逃がすか、このクソ餓鬼ども!」
海の生き物そのものの素早い動きで水を蹴ったバイアンとイオであったが、怒鳴った男の腕の動きの方が断然速かった。
目にも留まらぬ速さで突き出された両腕が飛沫を上げて結界に突き刺さり、シーホースとスキュラの輝きを掴む。そしてそのまま、結界の中に引きずり出した。
「ぎゃっ」
「ぐぇっ」
不思議と全く濡れていない二人が、べしゃりと石畳の上に放り出される。海の中で軽やかな身のこなしを見せていた二人であったが、今はまさに陸に上がった魚よろしく、石畳の上でべちゃりと倒れている。
(掴み獲り……)
その様を見て、アイザックはしみじみとそう感じた。海を逃げようとする二人を陸から突っ込んだ腕で見事に引きずり出した海龍の様は、川で泳いでいる鮭を一撃で岸に叩き出す熊そのものだった。
オッサンに続いて熊に例えられたとは知らないだろう彼は、仁王立ちで、無様に倒れた少年ら二人を見下ろしている。
彼こそが、海龍シードラゴン。海の底に落ちてきたアイザックを保護した男だった。アイザックは今、実質、この男の下で働いている。
「遊んでないで働け餓鬼ども! あと次にオッサンと言ったら戦いの前に俺が殺す」
彼の肩書きは海将軍(ジェネラル)筆頭であり、その態度も言動も、相当の威厳がある。しかしそれはどちらかというと、海賊の親分に近いようなそれだった。
「ごめんなさいお父さん」
「殺さないでお父さん」
「誰がお父さんだ」
苦虫を噛み潰したような声で海龍が言うと、少年二人はげらげらと笑った。毎度同じように叱られ、そして毎度同じように全く反省していない彼らの脳天に青筋を増やしたシードラゴンの鉄拳が直撃し、馬鹿笑いが消える。これも毎度のパターンだ。
「父親のようなものでしょう、実際」
その毎日に近い恒例行事を無言で見守り、そして眉のない目を半目にして涼やかに呟いたのは、あきらかにインド系と分かる肌色の青年だった。細身だが海龍ほど背が高く、背に輪のような飾りのある、英雄クリュサオルの鱗衣を纏うクリシュナは、鱗衣とはまた違う輝きを持つ黄金の槍を肩に軽く預けている。
「俺はまだ28だ! こんなでかい、しかも阿呆を子供に持った覚えはない!」
「年齢の問題じゃありませんよ。彼らがここに来たのは物心つくかつかないかの頃なんですから、あなたが育てたといって間違いないかと思いますが?」
つまりあんたが育てた結果ああなのだ、と続ける事も出来たが、賢者クリシュナは続けなかった。自分まで鉄拳を食らうのはごめんだ。
「ああそうだ、16か17で歯も生え揃っとらんガキを育てるはめになって、俺の青春はまさに海の底に藻くずと消えたわ」
「その犠牲のおかげで、俺たちの歯はもちろん毛も立派に生え揃ったわけだ」
「わかってくれてるようで何よりだ」
忌々しげな顔をして、海龍は少年らの尻を軽く蹴飛ばした。
「いいから仕事をしろ! またサボるようならホオジロザメの口の中に頭から突っ込んで、尻の穴からもう一回生まれ直させてやるから覚悟しろクソガキ」
「やめて下さい、サメが気の毒です」
たいへんに下品な海龍の脅しに、クリシュナが淡々と突っ込む。
海龍、彼もまた、アイザックと同じく、もとは聖闘士に関わる者であった、と、既に本人から聞いている。詳しい事を教えてもらったわけではないが、海龍の実力から見て、彼は候補生どころの立場ではなかっただろう、とは薄々感じているが、別に追求しようとは思わない。海の住人たちには、その程度の情報で十分だった。感覚で納得できればそれでよし、丸ごとそのままを受け入れる──それが海の、自分たちの生き方だった。
そして海龍もまた海の住人であり、その感覚を持っている。もしかしたら、アイザックたちよりも、大きく、広く、深く。その器の大きさがあるからこそアイザックたち海将軍や下っ端の雑兵海闘士たちも彼を筆頭と認めているし、イオやバイアンも、幼い頃から共に居るという事を差し引いても、彼を父か兄のように慕っているのだろう。
そしてその感覚を、アイザックは既に理解できる。たったひとりのおとうと弟子を助ける為に、命を投げ出してそれを成したアイザックには。
「まだまだこれからっすよ海龍ー。聖闘士滅ぼして青春取り戻しましょうよ、ね」
「実にやる気の出る言葉をどうも」
へらりと調子良く言ったカーサに、海龍は刺々しく言い捨てる。
「まあ、そうだなあ、じゃあさっさと終わらせて、また今まで通りまったり過ごそう」
「その通りだ。ほら持ち場に帰れ」
思い切り延びをしたバイアンを、クリシュナがやんわりと追い立てる。
イオはまた結界を超えて海に入ると、おもいきり海底を蹴って、何十メートルも上まで一気に泳いで行ってしまった。歩いていくのが面倒なので、結界を外回りに泳いで南太平洋の柱まで行く気なのだろう。スキュラだけあって海の生き物に懐かれやすい彼の後ろを、魚やらイルカやらがおもしろがって追いかけていくのを、アイザックは遠く見送った。
「さて──、……いいのか、アイザック」
「今更だ、海龍」
カーサが隣の南氷洋に戻っていき、ひとり残った海龍が言った言葉に、アイザックは苦笑気味に返した。
なんだかんだ言って、この男は部下に対して過保護だ。こんな調子で、世界征服など出来るものなのだろうか。
「俺は、クラーケンだ。アテナの聖闘士が戦いを挑んでくるなら、迎え撃つ。それだけだ」
ここに来て、お前こそがクラーケンの海闘士、海将軍なのだと言われ、アイザックはもちろん戸惑った。過去、聖戦と称するハーデス軍との戦いよりは戦争をした回数が少ないとはいえ、ポセイドンは決してアテナの味方ではない。
海将軍は生まれながらにしてその適性が備わっているのだと聞きはしたが、海将軍としての自分を認める事は、敵軍に寝返るという事になる。
しかし、アイザックはその時、はっと気づいたのだ。
──俺は、女神の為に闘おうとしていたのだろうか?
その疑問を、アイザックはみずから否定した。
アイザックが守りたかったのは、地上──いや、世界の平和と正義である。地上の全てが上手く行き、愚かしい争いのない世界。雄大な自然が侵される事のない世界、それを得られるのであれば、女神アテナに必ずしも仕える必要はないのではないか。
そう問いかけたのが海龍、いま目の前に居るこの男だった。しかし同時に、彼はポセイドンに仕える事も強要しなかった。だからアイザックは、自分でも驚くほど素直に、そして自由に考えることが出来た。己はこれからどうすべきだろうかと。
その問いによって、狭かった世界が、ぱっと開けたような気持ちだった。いや、そのことによって、自分の世界が狭かったのだという事を、アイザックはそのとき初めて自覚した。
果てある、海の底。しかしそれは、手が届くのか届かないのか分からない空よりも、母なるという言葉が相応しく身近で、そして人の身には途方もなく雄大な世界だった。
──アイザックは、海を愛した。
その感情が、衝動が、神による洗脳に似た何かではないのかと、疑わなかったわけではない。それについては自分たちを現在取りまとめている彼がしつこいぐらい疑ってかかっていたし、その結果、既に洗脳説は理論的に否定できている。
厳密に言えば、海闘士たちは、ポセイドンに忠誠を誓っているというよりも、海に心酔し、愛しているだけだと言った方が正しい。
それは海に住む精霊、ニンフらと同じようなあり方で、どこか気まぐれで自由なポセイドンのあり方にも沿ったものだった。彼らはただ海を愛していて、その延長として、海を司るポセイドンを敬愛することが多い、それだけだ。その上その程度には個人差があり、それが希薄だからといってそれを咎めたりもしない。
そのあり方が、アイザックにはとてもしっくりきた。地上の正義を守ると言う目的を掲げると同時に、女神に対する絶対服従を求められる聖闘士と違い、海闘士のあり方はまず海ありきだ。
ならば、迷う事はない。
アイザックは、クラーケンを身に纏う戦士となった。
姿の分からぬ怪物といわれるクラーケンは今、アイザックの身に確かに纏われ、陽の光とは違う、橙色の輝きを放っている。このクラーケンを纏う限り、自分の意思が揺らぐ事はないだろう、とアイザックはかたく確信している。
あの日アイザックを救ったのも、そしてそもそも海に引きずり込んだのもこのクラーケンである、と、アイザックは既に知っている。
あの頃のアイザックにはまったくもって自覚の無い事ではあったが、クラーケンの海将軍として生まれた彼が小宇宙を発して海の深い所に潜った時、海底に居たクラーケン──厳密にはクラーケンの鱗衣が、それに反応したのだ。
種明かしをすると、氷河の母の船が沈んだ海域は、海底神殿・北氷洋の柱の結界に近く、それ故にあのような複雑な潮流が発生していた。──神域を守る為に。
その要であるクラーケンの鱗衣が、その主たる者の小宇宙に反応した。アイザックが海に潜った時に感じた“呼び込まれているような”感覚はクラーケンによるものであり、また、陸に上がろうとしたアイザックを不自然な潮流が襲ったのもまた、やっと相見えた主を逃さんとするクラーケンによるものだった。
更に、氷河の母が乗った船が沈んだのも、クラーケンによるもの──と、証拠があるわけではないので断定は出来ないが、決して否定は出来ない。
巨大な軟体動物だ、海獣だ、いや航海技術の未熟な時代の人々が作り上げた偶像だ、はたまた嵐の前には無理せず帰港しろという教訓話だと様々に言われる怪物・クラーケンであるが、アイザックはいま、その真実の姿をはっきりと知っている。
氷河の母の船に限らず、クラーケンのせいで沈んだとされる船は、北氷洋の柱の結界に踏み込んでしまったが故であったのだ。海闘士の中でもクラーケンは警戒が強く、装着者が居ない状態でもその傾向が強い。
だから今、アイザックという主を得たクラーケンは、無闇に暴れる事は無い。よってあの、氷河の母の眠る船がある海域の潮流も、以前ほど危険なものではないはずだ。今でも氷河が母と会う事を諦めていないのかどうかは知らないが、今の海なら、あの頃の氷河でも船まで辿り着く事は出来るだろう。
氷河はきっと、己のせいでアイザックが海の塵となったと思い、己を責めたに違いない。もしかしなくとも、今でも責めているだろう。しかしもし、クラーケンが母の死の原因だったかもしれぬと知れば、どうだろうか。己を憎い敵と見なし、その拳を向けるだろうか。
(俺たちは、初めから敵だった)
あっけないほどすんなりと、すとん、と胸に落ちてきたそれを、アイザックは受け入れた。
カミュを師として敬愛した事を、氷河を大事なおとうと弟子と思って過ごした日々を、間違いだったとは思わない。だがそれはそれである、というだけだ。
普通なら、薄情極まる感覚かもしれない。しかし陸の、街の、一般の人々を生理的なレベルでどうしても苦手としてきたアイザックにとって、海の精霊やニンフたちと通ずるその感覚は、とても自然なものだった。
それは、施設からカミュの元にやってきた時の開放感とも、比べ物にならぬ程だった。これが本当の自分で、ここがその居場所だったのだ、と、水槽で育てられた魚が海に戻されたような、世界と一体化するかのような開放感が、そこにはあった。
「戦いが始まれば、おまえがキグナスと闘うことになるかもしれん。覚悟はいいか」
「だから、今更だ、海龍」
「殺せるか?」
「殺せる」
いつかと違い、躊躇なく、アイザックは言った。──クールに。
「ならいい」
そう短く言って、海龍は兜を深く被り直し、メインブレドウィナの方向にまっすぐ歩いていった。あまり手入れをしていないせいできれいとは言えないが、そのおかげで長い割に男らしい印象のプラチナブロンドが流れる大きな背を、アイザックは黙って見送る。
海龍は、どこかの芸術品が命を得て台座から歩いてきたのか、というくらいに容姿が整った男だ。柔らかに微笑めば馬鹿馬鹿しくも大天使と名乗って疑われない程度には神々しいオーラが出せるだろうが、既にデフォルトになりつつある眉間の縦皺と、二言目には拳が飛んでくる手の早さと、アメリカ海兵隊とやり合えるのではないかという位の口の悪さが、彼をただ無駄に美形な海賊の親分に仕立て上げていた。
残念と言えば残念な有様であるのだが、彼を慕う皆は、そんな彼をなんだかんだで愛している。そして多分、そんな自分が海龍自身もそれなりに好きなのだろう。
時折、本当に時折だが、かしこまった態度をとるべき場もやってくることがある。そして神のようと表現しても過言ではない笑みを浮かべてみせたあとの海龍は、いつもの数倍機嫌が悪い。あの時の海龍に声をかけるくらいなら、ホオジロザメの口に頭を突っ込んで尻から出てくる方がまだマシだ、とイオとバイアンは真顔で語る。
(──カミュ、氷河)
いま改めて思うと、彼らの事を、アイザックはたしかに家族のように思っていたのだ、と確信している。
だがアイザックは今、クラーケンだ。海を害するものから守る怪物、人にはその姿さえはっきりと映らぬ海の怪物・クラーケンとなることに、アイザックはいささかの躊躇も抱いては居ない。
彼らは、愛する家族だった。
だがアイザックは、クラーケンだった。
例えば氷河に言わせれば、それは矛盾であり、葛藤すべき事柄なのだろう。
しかし海の住人となったアイザックは、矛盾があろうとなかろうと、丸ごとを受け入れるのが自然な生き方だった。
(俺は、海闘士だ)
北氷洋の柱を守護するクラーケンの海将軍、アイザック。それが今の己だ。
肉親の為、唯一の家族の為に身を削る氷河のような生き方を、海に生きる者となったアイザックはもはや一切否定しない。
しかし、同意も、同調もしない。
氷河は氷河、アイザックはアイザックの生き方がある。かつてカミュが言った通り、思想はそれぞれであって、わざわざお互いを非難しあうべきではない。
ただひとつ違うのは、カミュはそれによって争うべきではないと言った事だ。確かにお互いをそっとしておけば争う事もないし、それがベストな形だろう。しかし、どうしても譲れぬ事もある。カミュとて、だからこそ氷河と闘い、そして散ったのであろう。だからこそカミュの死を知った時、アイザックはそれを真正面から受け入れた。ならば、
(闘うだけだ)
ひとつしかない目を、アイザックはゆっくりと閉じた。
勝つつもりだ。──氷河を、殺すつもりだ。
願わくば、氷河も己に対してそうであって欲しいと思うが、あの甘ったれの事だ、そう簡単に割り切れないだろう、と考え、アイザックは僅かに笑う。
だが、それならそれで構わない。氷河が己と闘う意思を見せないならば殺すだけだし、闘おうとするならば全力で迎え撃つ。もちろんアイザックは勝ちに行く気だが、もし氷河が勝ったとしても──
(どちらが、勝つか)
楽しみですらある。
それは、かつて己もそうあるべきだろうかと悩んだ氷河の生き方が勝つのか、それとも海の住人、クラーケンとなった己が勝つのかという事に対する期待から来る楽しみでもあり、また、単に懐かしい顔に会える楽しみでもある。
普通なら葛藤するだろう矛盾。しかしそれを、クラーケンたるアイザックは丸ごと受け入れる。
あの日、気を失いながらも船にしがみついていた氷河を見た時の衝撃を思い出す。ひとりの家族に固執するその心を、皮肉ながら、アイザックも今では多少理解できる。だが同時に、自分は氷河と同じ生き方は出来ないということを、それよりも深く理解した。
(氷河)
おまえは俺の、大事なおとうと弟子だった。
だがそれ以上に、俺はクラーケンだ。
だから氷河、おまえが白鳥座キグナスの聖闘士となり、俺に戦いを挑むならば。
(氷河、俺はお前を倒す)
高くそびえる、北氷洋の柱を見上げ。
海将軍・クラーケンのアイザックは、かつての家族である敵が来るのを待った。